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近くて遠い背中

 その日の午後。

 二日酔いもすっかり引いた頃、史狼と海都は肩を並べてバスに揺られていた。


「緊張してる?」


 ふと、海都が問いかける。


「してねぇよ」と史狼はすぐに返したが、声の端に少しばかりの間が滲んでいた。


「ほんとに?」


「……正直ちょっとはしてる。それに、昨日酔った勢いで“住みたい”とか言ったし……」


 海都は小さく笑って、「素直な人は好かれるよ」と言った。


「は? 何それ」と史狼が眉をひそめると、海都は首をかしげながら続ける。


「気にしてないよ。むしろ、言ってくれて嬉しかった」


 その言葉は、まるで当たり前のように自然で、史狼は返す言葉を見つけられなかった。


 気まずさをごまかすように、彼は窓の外へ視線を向ける。


 午後の光が、淡く街を照らしていた。


 ◇


 バスを降りてからの道すがら、ふたりはゆっくりと歩いた。


 海都の足取りは軽く、道の曲がり角ではさりげなく史狼の歩幅に合わせてくる。


 通り沿いの歩道には新緑が揺れていて、ビルの陰から差し込む光が海都の横顔をふいに照らす。


 背筋を伸ばし、穏やかに微笑むその姿は、通りすがりの視線を集めるには十分すぎた。


 制服姿の女子高生がふたり、すれ違いざまに振り返り、ひそひそと囁く。


「今の人、芸能人……?」


 史狼はそれを聞いて、なぜか少しだけ歩調を速めた。


「……あー、もう。海都さんって、なんでそう目立つんだよ……」


「え? 何か言った?」


「いや、なんでもねぇ」


 自分の反応に、史狼は内心で苦笑する。


 “嫉妬”なんて、認めるわけにはいかなかった。


「そういえば」と海都がふと口を開いた。


「昨日、ちゃんと眠れた?」


「……ああ。なんか、すげぇ熟睡してた。変な夢も見なかったし」


「それならよかった。普段より、だいぶ緊張してたみたいだったから」


「な……」


 史狼は思わず言葉を詰まらせる。気づかれていたとは思わなかった。


「……なんか、全部見透かされてる気がする」


「それはたぶん、君が“見せてくれてる”からだよ」


「……は?」


「君のこと、わりとよく見てるから」


 海都の声は穏やかで、どこまでも淡々としていた。


 だからこそ、史狼の胸の奥に、妙に強く響いた。



 ◇



「次の角を曲がった先が、現場だよ」


 海都の言葉に、史狼は頷きながらその歩幅をそっと合わせた。


 自分が彼に向けるこの感情は、“憧れ”なのか、“信頼”なのか——


 それとも、もっと別のものなのか。


 まだ名前を持たないその思いを、史狼は胸に抱えたまま歩き続けた。


 住宅街の奥にひっそりと建つ三階建ての灰色のビルが現れた。

 看板ひとつない建物は、雨の筋が外壁に残り、時の流れを静かに刻んでいる。


「……ここが?」


 史狼が足を止めて見上げると、海都が頷く。


「“西池台ビル”。昔は病院だったって聞いてる。その後は中小企業向けの貸し賃貸として一部だけ使われてたみたい」


 そう言って、海都はポケットから鍵を取り出す。


 重厚な鉄のドアが軋む音を立てて開いた瞬間、空気が変わった。

 外よりもひんやりとしていて、なにより、音がない。


 蝉の声も、街のざわめきも──この扉の中には、まったく届かない。


「……なんか、変な感じがする」


 史狼の言葉に、海都は静かに応えた。


「君がそう言うなら、やっぱり“ある”んだろうね」


 ふたりはコンクリート打ちっぱなしの廊下を抜け、階段を上がっていく。

 錆びついた手すり。静寂に吸い込まれるような足音。


「異常が集中してるのが、二階の──」


「202号室、って部屋か」


 史狼の言葉に、海都が一瞬驚いたように目を見開いた。


「……言ってなかったよね? その番号」


「……なんとなく。そう聞こえた気がしただけ」


 自分でも理由はわからなかった。ただ、階段を上るたびに、耳の奥に“202”という数字が浮かんでいた。


 二階の廊下は、昼間だというのにどこか薄暗かった。

 蛍光灯が点いているはずなのに、全体がうっすらと靄がかかったように見える。


 古びた案内板には、いくつかのテナント名プレートが外されたままだ。


「ここが、202号室」


 海都が指差したその扉にはプレートがなかった。

 かすれた跡だけが、そこに何かがあったことを物語っている。


 史狼は無意識のうちに一歩近づき、扉に手をかざす。触れてはいない。ただ、空気を読むように。


「……開けていいか?」


「もちろん。鍵は管理者から預かってる」


 鍵が差し込まれ、ゆっくりとノブが回る。

 扉が開いた瞬間、微かに湿った匂いが流れ出てきた。


 埃と紙の匂い、そして──説明できない、“閉じ込められた気配”。


 史狼はその場で足を止め、深く息を吐いた。


「……ここ、“誰か”がいる気がする」


「“いた”じゃなくて?」


「いや、今も。……見てる、というか、待ってるような」


 海都はその言葉に頷き、そっと扉を閉じた。


「ありがとう。僕にはわからないから……助かる」


 その直後、階下から呼びかける声が響いた。


「深水さん!」


 図面を手にしたスタッフらしい男性が、慌ただしく駆け上がってくる。


「すみません、給排水の位置で確認したいことが……」


「わかった、すぐ行く。──ごめん、シロくん。少しだけ待っててくれる?」


「……ああ。平気」


 海都が階段を降りていく背中を、史狼はしばらく見送っていた。


 ほんの数分前まで自分に向けられていた声色が、すっかり変わっている。

 プロフェッショナルとしての海都。すべての所作が自然で、洗練されていて、無駄がなかった。


(……すげぇな)


 それは、昔から変わらない印象だった。


 兄の親友で、優しくて、頭が良くて、なんでもできる人。

 史狼とはまるで違う世界にいるような存在。


 けれど、そう思うたびに、胸の奥がざわついた。


(……今のオレにできることって、なんだ?)


 再び部屋の中に入る。

 そっと手を伸ばし、壁に指先を当ててみた。


 冷たさはない。

 むしろ、誰かがしばらくそこに触れていたような、かすかな温もりが残っている気がした。

 

 打ちっぱなしの壁に、かすれた足跡。

 端に置かれた小さな椅子は、誰かが長く使っていたように、座面がわずかにへこんでいる。


 光の射し込まないその空間に、史狼はひとり、足を止めた。


(……ここ、“誰かがいた”部屋なんだ)


 それは、“いた”というより——

 “想いが残った”といった方が近いのかもしれない。


 強く、何かを伝えたかった気配。

 けれどその声は、史狼に直接何かを語りかけてくることなかった。


 ただ、部屋のどこかに漂うようにして、うまく形になれずにいる“気持ち”だけが残されている感じだ。


(ここで、待ってた……わけじゃない)


(でも——ここに、強い感情が“残った”)


 史狼はブレスレットにそっと指を添えた。

 無意識の癖。自分の輪郭を確かめるように。


 すると、空間の温度がわずかに変わった気がした。


 見上げた天井、歪んだ蛍光灯のカバー。

 その奥に、ふと気配が揺れたように感じた。


「……誰か、いるのか?」


 小さく、問いかける。

 返事はなかった。


 けれどその沈黙が、ただの空虚ではないことだけは、はっきりと伝わってきた。

 

 史狼はそう思った。


 ここは“伝えたかった”誰かがいた部屋。

 けれど、“声”そのものは別の場所に置き去りにされたまま。


 それでも、この空間には、確かに——“想いの名残”があった。

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