ウルフネスト
都心の喧騒を離れ、静かな川沿いに面したエリア。
街灯の明かりが植栽の影を長く伸ばし、夜の風が心地よく頬を撫でていく。
「……ここ?」
史狼は、建物の前でふらりと立ち止まった。
すっかり回った頬はうっすら赤く、けれど目は好奇心と興奮できらきらしていた。
「うん。“ウルフネスト”って名前の家。今の僕の仕事場兼、住まい。シェアハウス仕様で空き部屋をゲストルームとして使ってるんだ。東京に滞在する間、気兼ねなく過ごしてくれていいよ」
「“うるふねすと” ……? なんか、秘密基地みたいな名前だな……」
それには答えず、海都は鍵を取り出し、無垢材の重厚な扉を押し開ける。
ほのかなアロマと木の香りがふわりと迎え入れた。
「わ……」
史狼は思わず、声を漏らした。
吹き抜けの天井。開放的なのにどこか落ち着くリビング。
打ちっぱなしの壁と木材の調和、あたたかな間接照明——
「なにここ……なんだこの家……」
感嘆とともにソファに倒れ込んだ史狼は、クッションに顔を埋めながらゴロゴロと転がった。
「やば……なにこの家、好き……めっちゃ好き……」
「ふふ、それはよかった」
「え、これほんとに住んでんの? 海都さんマジで? やば……」
「やばいの連呼は語彙が乏しすぎる。もしかして思ったより結構酔ってる? 今、水持ってくるよ」
海都がキッチンから水とハーブティーを持ってくると、史狼はすでにソファの背もたれに埋もれていた。
「ねえ、海都さん」
「うん?」
「イケメンで、家もセンスよくて、料理も知ってて……ずるくない?」
「うん、これは……相当だな」
「酔ってないし! ちょっと心がオープンなだけ……!」
「じゃあ明日も同じこと言える?」
「言え……言えたらいいなぁ……」
「ふふ」
海都は笑いながら、そっと史狼の頭を撫でた。
ふわりとした髪。いつもより素直なその姿は、まるで子犬のようだ。
「それにしても……家の名前、なんか意味ありそう。ウルフ……何だっけ?」
「さあ、どうだろう」
海都はわざと視線をそらした。
その笑みはあくまで自然体で、何ひとつ悟らせる気配を見せない。
「……ま、いいや。でも住みたいって思った。……ここ、すげぇ落ち着く」
「住みたい、か。じゃあ、壱君に許可を取らないとね」
「ん……今度、言ってみる。たぶん、“どこの部屋だ? 誰かと一緒か?”ってあれこれ詰めてくるけど」
「じゃあ、客用じゃなくて、“君のために用意した部屋”ってことにおかないとね」
史狼が一瞬きょとんとして、それから慌ててクッションを被る。
「なっ……! そういう言い方やめろよ……!」
「ふふ、可愛い」
「もー……明日、絶対覚えてないことにしてくれよな……!」
クッションの中からこもった声が聞こえる。
——でもその言葉の端に、海都は“甘え”の響きを感じ取っていた。
そして、彼の胸の奥で、ようやく何かが静かに、確かに灯った。
この“寝ぐら”は、彼のもの。
けれど今、確かに“二人の場所”になろうとしている。
まるで、どこか遠くで、名前のない春が静かに始まるような——そんな夜だった。
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