君のつくる景色
海都が次に案内してくれたのは、川沿いの小さなカフェだった。
外から見るよりもずっと落ち着いた雰囲気の内装。
ガラス窓から差し込む午後の光が、店内の木のテーブルにやわらかく広がっている。
すべてがゆっくりで、どこか懐かしい時間が流れていた。
「ここ……リノベーションしたって言ってたとこ?」
「うん。あえて“少しだけ古い”空気を残したくてね。床材も、昔のものを磨いて再利用してる。
人の記憶ごと、空間に残せたらいいなと思って」
「へえ……すげぇ、温かい感じするな」
史狼は小さく息を吐きながら、目を丸くして店内を見渡した。
椅子もテーブルも、どれひとつとして同じ形じゃない。
それなのに、不思議と、そこに“整っている”感覚があった。
「こういうの……全部、海都さんが決めてんの?」
「うん。クライアントとの打ち合わせはあるけど、最終的には、“この空間がどう記憶に残るか”を考えるかな」
史狼は、ただ「すげぇな……」と、素直に呟いた。
言葉が追いつかない感嘆というものが、本当にあるのだと思った。
海都が選んだ窓際の席に腰を下ろすと、メニューを開く前にふわりと香ばしいコーヒーの香りが鼻をくすぐる。
まるで、もう“美味しさ”まで設計されているかのようだった。
「ここのガトーショコラが美味しいよ。苦くなくて、しっとりしてて……君好みだと思う」
「……なんで分かるんだよ、そういうの」
「昔から、甘いもの好きだったでしょ?」
「そ、そんな覚えてなくていいし……」
照れ隠しの声がひっくり返る。
耳がじわじわと熱を帯びていくのが、もどかしかった。
「ブレンドは軽めのにしておくね。苦味の少ないタイプ、頼んでみる」
「……うん、ありがと」
オーダーを済ませると、ふたりの間に少しだけ静けさが落ちた。
悪い沈黙ではない。ただ、どちらも言葉を選んでいるような間だった。
史狼は、グラスの水を指先でゆっくりなぞるようにしてから、
ふと、海都の横顔に視線を向けた。
その目は、どこか遠くを見つめているように静かだった。
涼しげな眼差し。その奥に映っている景色の中に、自分はいるのだろうか。
そんなことを考えてしまう。
「……なあ、こういう仕事って、やっぱすごく考える?」
「うん。建物は、“使う人”がいて初めて完成するから」
そう言って、海都はテーブルの端をそっと撫でるように見た。
「この街の中に、自分の“点”を打つ。
そこに人が集まって、暮らして、声を交わして……
そうやって、“点”が“線”になっていくと、やっと景色になるんだ」
「……線になったら、何が見える?」
「その人の人生かな。
朝コーヒーを飲む場所。夜、灯りをともす窓。
誰かと待ち合わせた角のベンチ。
そんな断片がひとつずつ、“その人だけの風景”になる」
史狼は、なんだかうまく呼吸ができない気がして、グラスの水を一口飲んだ。
言葉にするには、喉が少し乾いていた。
「……じゃあさ」
「うん?」
「オレも……」
言いかけた言葉は、コーヒーの香りに紛れて、消えていった。
だけどきっと、彼の心には届いていた。
しまった、と思った。聞きたかったけど、まだ聞けない。
“自分も、その風景の中にいられるのか”なんて。
不自然に途切れた言葉に、海都はカップを傾け、静かに微笑む。
「シロ君も、何?」
それだけで、また耳が熱くなる。
全部、見透かされている気がするから、余計に。
「っ……な、何でもねぇ」
「ふふ、そう?」
そのやさしい笑い方が、くすぐったいほど馴染んでいた。
逃げたくなるのに、ずっとここにいたくなる。そんな場所だった。
やがて、ガトーショコラとブレンドが運ばれてきた。
史狼は拗ねたように視線をそらしながら、フォークを取る。
一口。
甘く、やわらかく、ほんのりラムが香る。
口の中でゆっくり溶けるそれは、驚くほど、心に染みた。
「……うま……」
「でしょ? 君、絶対好きだと思った」
「……くそ、なんかもう、全部読まれてる気がする……」
史狼がふてくされたように呟くと、海都は少しだけ黙った。
カップを見つめる横顔が、ふと真剣なものに変わっていた。
「——僕にとって、君のことは特別だからね」
スプーンを持ったまま、史狼の動きが止まった。
その言葉は、何気ないようで、刃のように鋭かった。
——また、“特別”。
でもそれは、どういう意味なのか。
「……そーいうの、あんま簡単に言うなよ……」
それでも、言い返せたのは、少しだけ強くなった証拠かもしれない。
海都は、ただ静かに笑っていた。
午後の光が、ふたりの影をテーブルの上で重ね合わせて、ゆっくり揺らしていた。
音のない会話が、確かにそこにあった。
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