声が届く夜
夜のウルフネストは、まるで舞台の幕が上がる直前のように、静かだった。
リビングの明かりは落とされ、壁際のランプだけが、柔らかな光を部屋の片隅に灯している。
ソファの上には、ふたり分のマグカップ。
湯気の立つミルクティーの香りが、落ち着いた甘さを空間に滲ませていた。
「……始まる?」
史狼が、そっと問いかける。
「うん。もうすぐ……たしか、配信は21時って言ってた」
海都はスマホを操作しながら頷き、ストリーミングアプリを立ち上げる。
そして、スピーカーに繋いだあと、再生ボタンを押す。
——『こんばんは。星のラジオのお時間です』
軽やかなジングルとともに、穏やかな声が部屋を満たした。
いつもならふたりで言葉を交わすこの場所で、今夜は音にすべてを委ねている。
「……ちょっと緊張するな」
史狼がぼそっと呟いた。
「うん、でも……楽しみにしてて。君が届けたかった声、ちゃんとここにある」
やがて番組は本編に入り、リスナーからの投稿紹介が始まる。
数通の紹介のあと——
——『さて、ここで今夜は、少し特別なメッセージをご紹介させてください』
史狼の肩がピクリと動く。
海都は無言のまま、そっと彼の手を握った。
——『ある古いカセットテープの中に、少女の声が残されていました。
その声は、まるでラジオのように語りかけてきます——』
再生された音声には、かすかなノイズ。
それを超えて届いたのは、あの夜、ふたりで聴いた“少女の声”だった。
『こんばんは。みおの星のラジオのお時間です。えっと……きょうは、なんだかひとりぼっちです。
でも、さみしくないよ。お姉ちゃんがかえってきたら、これ、ぜったい聞いてもらうんだ』
史狼は息を呑んだ。
澪の声だ。
ふわふわとした語り口。
すこし鼻にかかったような、どこか甘えたような音。
——けれどその中には、確かに“まっすぐな想い”があった。
『おねえちゃんへ。けんかして、ごめんね。わたし、あやまりたかったの。
だいすき、ってちゃんと言いたかったの。だから……これ、きいてね。やくそく』
どこかで、音楽のように風が吹いた気がした。
記憶でも、現実でもない“何か”が、静かに流れていった。
涙が、自然にこぼれていた。
史狼はそれを隠そうとせず、ただ前を向いたまま、そっと目元を拭った。
「……届いたな……」
かすれた声に、隣で海都が小さく頷く。
ソファの上、ふたりの距離はぴったりと重なっていた。
澪の声が、彼女の想いが、この世界にきちんと残されていたことが——
今、証明された。
流れてくる最後のメッセージが、ラジオパーソナリティの声に重なっていく。
——『言葉にできなかった気持ちは、時を超えて誰かに届くことがあります。
この声が、誰かの心に触れますように』
スピーカーから音が消えたあとも、ふたりはしばらく黙っていた。
やがて、海都はそっと史狼の肩に頭を預ける。
それがただの慰めなのか、それ以上の意味なのか——確かめられないまま、史狼の胸は強く波打っていた。
言葉はなかった。
けれど、沈黙の奥で、澪の声と同じように“届いてしまうもの”があるのだと、史狼は初めて思った。
澪の声は、世界に届いた。
それと同じように、ふたりの想いも今——確かに重なろうとしていた。




