届かぬ声を抱きしめて
史狼は、一つひとつ、ラベルのないカセットを手に取り、ラジカセに差し込んでは再生した。
再生。停止。再生。停止。
少女たちの遊び声、何気ない日常、録音ミスの無音――。
目をこすり、肩を回し、ため息を吐きながら、何十回目かの再生ボタンを押す。
巻き戻しの音が、頭にじんじん響いた。
(……もう、全部聴いた気がする)
そう思いかけたとき。
次の一本、録音の頭に小さなノイズと、呼吸の音が入っていた。
静かに、慎重に、誰かが話し出す気配がした。
《えーっと、これは○月○日、◯曜日の、"みおの、星のラジオ"のお時間です!》
史狼は、はっと息を飲んだ。
今までの“ごっこ録音”とも違う。
声の調子も、録り方も、少しだけ違っていた。
《リスナーさんからの、おたよりがきてまーす。……って、自分で書いたやつだけどね。ふふ》
茶化すように、でも少しだけ照れているような笑い。
《おねえちゃんへ。もう、ぜったいに口きかない! って言ったけど、やっぱり、きのうのこと、ちょっと言いすぎたなって思ってます”》
《おねえちゃんのバカ!って言ったけど、ほんとはバカじゃないし、かっこいいし、やさしいし、大すきです。——あ、これ、オンエアされちゃうのヤバいな〜!》
少しずつ、史狼の胸が熱くなる。
その声は、まるで手紙のようで、でも、それ以上に“届けたかった言葉”だった。
《……もし、これがだれかに聞かれたら、ちょっとはずかしいけど……でも、いつかおねえちゃんに届いたら、いいなって思って録ってます》
《また、いっしょにあそぼうね。……まいにちじゃなくていいから、きのうみたいに笑ってくれたら、もうそれでいいの》
喉の奥が、きゅっと締まる。
少女の声が、まっすぐ心に届いてくる。
《じゃあ、また“来週”ね。星のラジオ、お相手はみおでした〜……バイバイ》
パチリと止まる再生音。
静寂の中、史狼はラジカセの前で動けなかった。
体の芯が、何かあたたかいものでじんわり包まれていく。
(……これだ)
ようやく見つけた。
少女の“本当の声”。伝えたかった言葉。きっと、これが最後の一本だ。
「……見つかった、よ……」
ぽつりと呟いた声が、夜の静けさに溶けていく。
——あの子のために、この声を、ちゃんと届けなくちゃいけない。
そして、自分も。
伝えられなかった言葉を、ちゃんと、届けに行こう。
テープの中で、少女の笑い声が、まだ余韻のように響いていた。
◇
カチ、カチ……とラジカセが最後の巻き戻し音を立てる中、
史狼の胸の鼓動だけが、やけに大きく響いていた。
そのとき——玄関のドアが開く音がした。
「ただいま」
海都の声。出かける前より、少し疲れた響きが混じっていた。
足音が近づく。
リビングに足を踏み入れた彼は、ソファに座る史狼の姿を見て、少し驚いたように眉を上げた。
「……まだ起きてたの?」
そう言いかけた瞬間——
「海都さん!!」
史狼が勢いよく立ち上がり、たまらず駆け寄った。
そして、ラジカセの横にあったカセットをぎゅっと握りしめたまま、彼の胸元に飛び込むように抱きついた。
「……見つけたんだ。やっと……!」
海都は戸惑ったように、一瞬だけ息をのんだ。
だが、すぐにその背に腕を回す。静かに、あたたかく受け止める。
史狼は、抱きついたまま、少しずつ言葉を絞り出した。
「……あの子が伝えたかった言葉が入ったテープ。あの場所で誰かに見つけてほしくて、ずっと待ってたんだ。……正直、ここから先は難しいかもしれねぇ。届けるのも、見つけるのも……でも、でもさ」
うまく気持ちがまとまらずに言葉が詰まりかける。でも、今のこの気持ちを聞いて欲しかった。
「……テープの中に、ほんとに……まおの気持ちが、全部詰まってて……。まっすぐで、あったかくて……それ聞いたらオレ……」
少しだけ体を離して、うつむいたまま言う。
「——オレ、兄貴とちゃんと向き合ってくる。……話してくる」
その言葉は、どこか決意のようで、でもまだどこか怖がっているようでもあった。
海都は、ゆっくりと頷いた。
「……うん」
静かに、でも力強く肯定してくれる、その一言が。たまらなくうれしかった。
勢いに任せて話し終えた史狼は、ようやく自分が今、どんな体勢でいるのかに気づいた。
「あ……」
思わず、離れようとする。
「ご、ごめん、オレ……なんか……」
けれど、海都の腕が、そっとその背を引き止めた。
「……もう少し、このままでもいい?」
耳元で、囁くような声。
落ち着いたトーンなのに、心の奥にじんわりと火を灯すような熱を落としていく。
それ以上、何も言わなくても伝わる。
優しさにくるまれた、まっすぐな気持ちが、空気を震わせていた。
重ねた腕の中に、互いの呼吸が溶け合っていく。
すぐそばで響く心臓の音が、まるで呼応するようにリズムを刻む。
史狼は目を閉じた。
この距離にたどり着くまで、どれほど遠回りをしただろう。
不器用な言葉も、言いかけて引っ込めた気持ちも、すべてこの温もりの中に溶けていく気がした。
昔のような焦がれるような激しさじゃない。
けれど、確かにここには“情”がある。
もう、誤魔化しようもなかった。
——でも。
この一件が終われば、きっと二人の同居生活も終わる。
理由を失ったら、自分たちはどうなるのか。
“そばにいたい”だけでは、繋ぎとめられない現実があることも、どこかでわかっていた。
その未来が、怖かった。
理由がなくなっても、隣にいてくれる保証なんてどこにもない。
それでも——いまだけは。
触れていたかった。
この一瞬が、終わりではなく、始まりだと信じたくて。
海都の指先が、ごく自然に背中を撫でる。
服越しに伝わるその優しい軌跡が、痛いほど心をほどいていく。
なにも言わなくていい。
でも、きっといつか言葉にしなければならない。
それでも、今はまだ。
「……ありがとな」
ようやく絞り出したその声は、わずかに震えていた。
海都は、静かに頷いてくれる。
その反応が、なによりもあたたかい。
「君がここにいてくれて、よかった」
その言葉の温度が、胸の奥でじんわりと広がっていく。
史狼は、そっと海都のシャツを指先でつかんだ。
無意識の仕草だった。
ただ、離したくなかった。
シャツの皺、その感触さえ、今の彼にとっては確かな“証”だった。
鼓動、呼吸、沈黙。
ふたりの間には、もう何もいらなかった。
言葉にならない想いが、ただそこにあった。
そしてそれは、
——確かに、育ち始めていた。




