雨の夜の再会
六月の終わり、水曜日の夜。
雨は途切れることなく降り続けていた。それは世界を洗い流すほどの強さではなく、ただ存在を主張するように静かに降り続ける雨だった。
大上史狼は古びたホンダのCB400SFに跨り、濡れた路面を滑るように走らせていた。
23歳になった彼の仕事——ゴーストハンターという奇妙な肩書きは、この街ではそれほど珍しくなかった。幽霊や怪異現象を調査し、時には「処理」する。そんな仕事だった。
ヘルメットの上に雨粒が叩きつける音と、エンジンの低い唸り声だけが、彼の耳に届いていた。
白い息が夜の冷たい空気の中に溶けていく。バイクのヘッドライトが照らす雨は、まるで別の宇宙への入り口のように見えた。
「五年ぶりか」
彼は自分自身に言い聞かせるように呟いた。胸の奥がじんわりと熱くなる。それが期待なのか、不安なのか、自分でもわからなかった。
五年前、高校を卒業したばかりの彼は、兄の親友である深水海都に告白しようとして、結局できなかった。
そのまま海都は東京で就職し、史狼はこの街に残った。交流は次第に薄れていき、SNSでの「いいね」だけの関係になっていった。
それが突然、「明日、地元に帰る」というメッセージが来たのだ。
喫茶店「月影」は、駅から少し離れた裏通りにあった。昔ながらの喫茶店で、建物自体が昭和の香りを漂わせている。ここを選んだのは海都だった。「昔よく行ったところだから」というシンプルな理由で。
史狼はバイクを店の前に停め、ヘルメットを脱いだ。黒い髪が少し伸びていて、雨に濡れて額に張り付いている。ライダースジャケットの肩には雨の跡がくっきりと残っていた。
扉を開けると、古い木とコーヒーの香りが混ざり合った匂いが鼻をついた。そこには既に彼がいた。
深水海都。5つ年上の幼馴染。史狼がずっと憧れ、そして好きだった人。
細身のグレーのコートを椅子の背もたれにかけ、白いタートルネックのセーターを着た彼は、窓際の席で静かに本を読んでいた。建築デザイナーになった彼は、以前よりも洗練された雰囲気を纏っていた。
「よぉ」
史狼はわざと気取らない調子で声をかけた。普段通りの、少しぶっきらぼうな調子で。
しかし心臓は早鐘を打っていた。
海都は顔を上げ、それから穏やかな笑顔を浮かべた。
「シロ君、お久しぶり」
その声は五年前と変わらなかった。低くて落ち着いた、どこか遠くの風景を思わせるような声だった。
「ああ。ちょっと遅れた。ごめん」
「気にしないで」
史狼は海都の前の席に座った。テーブルには既に海都のカップがあった。黒いコーヒーから立ち上る湯気が、淡い照明の中で踊っていた。
「何か飲む?」海都が尋ねた。「ここのコーヒーは相変わらず美味しいよ」
「ああ……コーヒーでいいよ」
史狼は苦いものが苦手だった。高校生の頃はいつもココアかメロンソーダを頼んでいた。しかし今日は違う。23歳の大人になった自分を見せたかった。
ウエイターが来て、史狼はブレンドコーヒーを注文した。
「今日のブレンドはエチオピアのイルガチェフェだよ」と海都が言った。
「柑橘系の酸味があって、後味にはチョコレートのようなニュアンスがある。この店では一番飲みやすいかもしれない」
その説明の仕方は、まるでソムリエのようだった。それでいて押し付けがましさはなく、自然な会話の流れの中に溶け込んでいた。
「へえ、詳しいんだな」と史狼は言った。
「趣味程度だよ。東京にはコーヒー専門店が多くて、ついつい通ってしまって」
コーヒーが運ばれてきた。史狼はカップを手に取り、一口飲んだ。
「あ、これ……意外と飲みやすい」
彼は本音の感想を言った。苦みはあるが、海都の言った通り、何か明るい風味と、優しい後味があった。
「でしょう?」
海都は少し楽しそうに微笑んだ。
「……なあ、海都さん。元気にしてた?」
史狼はカップの縁を指先でなぞりながら尋ねた。目は伏せられ、視線はテーブルの一点に釘づけだった。
どこか大人の会話を装ったつもりだったが、声のトーンは高校生の頃のままだった。
海都は一瞬だけ微笑み、湯気の立つカップを両手で包むように持ち直した。
「うん、元気だよ」
海都は頬杖をつきながら、カップの向こうで微笑んだ。
「仕事は……相変わらず忙しいかな。最近は古い建物のリノベをやっててね。ちょっと面白い物件なんだ」
「へえ。なんか、海都さんに似合うな。そういうの」
史狼はそう言いながら、視線を少し逸らした。
「ありがと。なんかね、その建物、昔は病院だったらしいんだけど——今は誰も住んでない。ちょっと、空気が独特というか……なんて言うんだろう」
海都は少し言葉を探すように目を細めた。
「……まあ、気のせいかもしれないけど」
「そういうの、昔から感じるほうだった?」
「いや、全然。でも、最近はちょっと敏感になったのかも。年のせいかな?」
海都は自嘲気味に笑ったあと、ふと史狼の目を見て言った。
「でも、シロ君ならわかるのかもしれないな、そういう“空気”って」
史狼は眉をわずかに上げたが、冗談めかして肩をすくめた。
「ま、職業柄な。こういう話、人に話すと笑われるし、兄貴は未だに渋い顔するけどな」
「ゴーストハンターか……。僕は素敵な仕事だと思うよ。昔から、シロ君は『そういうの』に敏感だったもんね」
海都の言葉には、からかいではなく、純粋な肯定があった。それは昔から変わらない、彼の特徴だった。
「海都さんはいつも……そうやってオレのことを認めてくれるよな」
史狼はコーヒーカップを見つめながら言った。
「当たり前じゃない? 昔から君のことは実の弟みたいに思ってるからね」
その「弟」という言葉は、優しさの鎧をまとったナイフのようだった——懐かしくて、でも痛かった。
雨の音が、二人の間の沈黙を心地よく満たしていた。
「もう一杯飲む?」
海都が尋ねた。
「次はもっと君好みのものを頼もうか。ハチミツを入れてもらうとか」
その提案に、史狼は思わず笑顔になった。
「いや、このままでいい……。けど、ハチミツか。それも悪くないな」
結局、史狼は二杯目も同じコーヒーを頼んだ。ただし、今度は少量のハチミツを入れてもらった。
「やっぱり今も、甘いのが好きなんだね」と海都は優しく言った。
「ああ……。ま、まあな」
大人ぶろうとしていたのを見透かされたようで少し恥ずかしかったが、史狼は不思議と居心地の良さを感じていた。
海都の前では、自分を取り繕う必要がないことに気づいたのだ。それは五年前も、そして今も変わらない。
雨は依然として降り続けていた。店内の古いラジオからはジャズのスタンダードナンバーが流れている。二人の会話は、過去と現在を行き来しながら、ゆっくりと進んでいった。
史狼は時々、海都の横顔を見つめた。五年の時間は彼をより洗練させ、大人にしていた。
しかし、その本質は変わっていない。相変わらず優しく、どこか少し神秘的で、そして史狼の心を惹きつけてやまない人だった。
「また……会える?」
雨の音に紛れるような声だった。
史狼は視線を逸らしながら問いかける。ブーツのつま先で濡れたアスファルトを擦るようにして、落ち着かない仕草を見せた。
少しの沈黙が流れる。
「もちろん」
海都はふっと目を細め、どこか懐かしむように史狼を見つめた。
「今度は東京に来てよ」
海都はそういって微笑んだ。でもその目元にはどこか影のようなものが滲んでいた。
「案内するから」
史狼はようやく海都の方を見た。その目に宿っていた光に、思わず胸の奥がきゅっと締めつけられた。
それが希望と呼べるものなのか、それとも別の何かなのか。彼にはまだわからなかった。ただ、この雨の夜の再会が、何かの始まりであることは確かだった。
二人は店を出て、雨の中に立った。史狼のバイクと、海都が歩いて帰る駅への道は、反対方向だった。
「じゃあな」
「うん、また」
短い別れの言葉を交わし、二人は背を向けた。しかし数歩歩いたところで、史狼は振り返った。雨の中を歩いていく海都の後ろ姿は、街灯に照らされて少し輝いて見えた。
そして史狼は思った。大人になることは、背伸びをすることではなく、自分自身を受け入れることなのかもしれない。それは海都がずっと教えてくれていたことだった。
彼はバイクのエンジンをかけ、雨の夜の中へと走り出した。胸の中には切なさと、同時に何か温かいものが広がっていた。
お読みいただき、ありがとうございました♪
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