七章 八章
七
一旦部屋に戻った水沼だが、どうも旧友のことが心配だった。それで、念のため再度廊下に出てみたが、案の定、鹿野が外に出て離れに向かっているのが見えた。窓を開けて呼び止めようかとも思ったが、ふと電話をもらったことを思い出し、折り返しで電話を掛けた。
「バカ! 夜這いでも掛ける気か!」そう言うと、彼も自分のやってることに気づいたのか? すぐに引き返してきた。
そうして、鹿野が自分の部屋に戻るのを見届けると、自分も部屋に戻り、一旦ベッドにもぐりこんだ。
そのあとのことは特に書くこともないが、ここで、あの「いちりとせ」の歌詞の意味の水沼なりの解釈を書いておく。
あれは、男が女に夜這いを掛ける歌
若しくは女が男に、夜這いしてね、そう誘う歌
一里離れていても
やんこやんこしよう
芯からホケッキョ
は 夢の国
あくまで言葉から受けるニュアンスに過ぎず、「やんこやんこ」が方言でその意味があるのか? は知らなかったが……
――良美ちゃんと鹿野信吾は昔、そういう仲だったのだろう……
八
玄関で靴に履き替えて、私は良美がいるだろう離れに向かった。玄関を出て右に曲がり、脇道を急ぐ。と、浴衣の袂に入れていたスマホが鳴った。電話だ。つい先程、電話した番号――彼からだった。
「もしもし」
「おい、何考えてるんだ!」電話の向こうで彼が怒鳴った。「幼馴染かなんだか知らないが、相手は婚約者のいる若い女性なんだぞ。夜這いでもかける気か!」
「いや、違うんだ。でも――、そうか、そうだな」私は急に自分の行動が恥ずかしくなった。「こんな夜更けに一人で訊ねたら勘違いされかねないか……。いや、忠告ありがとう」
「まったく」彼の声は呆れていた。「どうも気になって廊下に出て窓の外をふと見ると、君が離れに向かっているじゃないか! まったく電話番号交換しといてよかったよ」
母屋の窓の方を見ると、彼と目が合った。暗くてハッキリはしないが表情も呆れているようだった。
「そうだな。わかった、帰るよ、自分の部屋に」私は玄関に引き返し、そのまま自分の部屋に戻った。廊下にいた彼も自分の部屋に戻ったようだった。
眠れなかった。嫌な予感はずっと残っていて、頭の中をぐるぐる回っていた。
――やはり行動を起こすべきかもしれない。
良美に逢いに行って話をするのがベストだが、彼の言う通り夜更けに離れに行くのはまずそうだった。
――だとすれば近藤に会うべきか?
私は部屋を抜け出した。と、スマホが鳴った。メッセージ。送り主は良美だった。
いちりっとせ、わかるでしょ?
――いけない! やはりとんでもないことが起こるのだ。
今、二階にいます。
私は部屋を出ると、階段を走って上った。踊り場で向きを変え、更に続きの階段を上ると、短い廊下に出た。部屋の扉は一つきりだった。そこに近藤がいるのは確かだった。私は扉をノックした。
返事はなかった。一瞬、躊躇したが、ここまで来て引き返すつもりもなかった。扉のレバーを下げると、何の抵抗もなくカチリと扉は開いた。
――密室ではない――
くだらないことを考えてしまう。気を取り直して、
「近藤さん」そう呼びかけてから私はゆっくりと扉を引いた。「ノックはしました。でも返事がなかったので――」
扉のすぐ近く、目の前にブリキのバケツを被った浴衣姿があった。そして奥にもう一人――照明は暗い常夜灯だけの明るさのため、よくは見えなかったが――ダブルベッドに横たわるウェディングドレス姿――顔に鬼の面を付けている。両者ともお揃いのチョーカーを首に巻いている。
「近藤さん、悪い冗談はやめてください!」私は少々怒りを感じ、目の前のバケツに手を掛けた。少々乱暴だが構わずバケツを引っぺがす。
「近藤さん!」そう強く迫った私の目に飛び込んできたのは良美の顔だった。
――え? 良美?
良美が浴衣を着て私の目の前に立っていた。床にバケツが転がっている。
と、その時、部屋の明かりがついた。ダブルベッドのウェディングドレス姿の人物が起き上がり、リモコンで部屋の明かりをつけていた。自分で顔の鬼の面を引きはがし、私の方を見る。近藤だった。
「私は男としては華奢な体格でね。良美は女性にしては背も高いですし。顔を隠して仮面を付けると、こうした薄明りの下では、どっちがどっちか? わからない。そのようですね」近藤は嬉しそうに言った。
「何がしたいんですか?」
「特には何も――」近藤は笑った。「まあ、罰ゲームですよ」
「罰ゲーム? 私が何か悪いことしたとでも」
「いやいや」近藤は立ち上がり、ウェディングドレス姿で真っ直ぐ私に相対した。顔がなければ――近藤という知っている顔がなければ、女性としか思えない美しい姿がそこにあった。「罰を受けてるのは私ですよ。男としては情けないこんな恰好をさせられて――。親からもらった勝男という名前が台無しです。良美に言われた仲直りの条件です。ドレス選び、自分で着たらよくわからないから、私に着ろ、そう言うんです。それが嫌なら婚約解消だと――」
近藤はちらと良美の方を見て「あなたに良美から『二階にいる』そう、メッセージが来たでしょう。たぶん、それであなたがここにくるだろうと――。それであなたにこんな情けない姿を見られてしまう。そういう罰ゲームです」
しかし、近藤はまんざらでもないような顔をしていた。実際、それはよく似合っていた。
――可愛らしい……
確かにそうだった。
「まあ、とにかく」近藤は不意に真顔になって「女装して仮面を付ければ、私は良美と入れ替わることが可能――。そういうトリック。それを今、あなた自身が証明した。そうでしょう? ミステリー作家のあなた自身がそれを証明したんだ!」
私は相変わらず眩暈がしていた。まるで刑事コロンボに論破されている犯人のような気分だった。近藤の言うことはもっともだった。確かに――直前まで、私は目の前の浴衣姿の人物が近藤で、ダブルベッドに横になっているウェディングドレス姿の人物が良美だと思い込んでいた。しかし実際は逆だった――
「お面じゃなくてバケツだと目も髪も完全に隠せるから完璧ですね。まあ、前は見えませんが顎を引けば足元は見えますしね」近藤は実に楽しそうに「とにかく、落ち着いて。ここは夢の国ではなく、現実の世界。何も怖いことは起こりませんよ。少し落ち着いて話をしましょう。大人なんだからわかるでしょ? あの歌の意味」
「え? ええ」
近藤の言葉で少し落ち着きを取り戻した私は、その後、近藤と話をした。それを良美が黙って見ていた。
そして、近藤との話が終わったので、最後良美とちょっとだけ話をして、私は寝室を後にした。そして階段を降り、自分の部屋に向かった。ただ――
ミステリー作家の性なのか、妙な興奮は続いていて、眠れそうになかった。
――とんでもないことは既に起き始めている。そして私はそれに既に巻き込まれている。
それは確信していた。
私の心臓の鼓動は速くなり、恐ろしいほどのアドレナリンが出ているような感じがした。
ふと、先ほど見た近藤の寝室の様子が頭に浮かんできた。部屋中央にダブルベッドと入り口近くに机。そして奥にはクローゼットらしき両開きの扉があった。
――そこにあいつが隠れていたのか?
そういえば、机の上に何かあったような気がしていた。ハッキリは憶えていないが、マスクとサングラスだったかもしれないし、何か箱のようなものだったかもしれない。いやそれとも……。
いや、書いている今、何も憶えてはいない、と書くしかない。机の上には何もなかったのかもしれない。
憶えていないことは書けないし、書かなくていい。