五章 六章
五
水沼はシャワーを浴び、浴衣に着替えた。しばらくベッドでぼんやりしていたが、ふと耳を澄ますと、外で微かな物音がした気がした。気になって、部屋のドアを僅かに開けて首を出してみると、鹿野信吾の部屋のドアが僅かに開いており、信吾が首だけ出してきた。
「何か、嫌な予感がするんだ」鹿野信吾が怯えた声で言う「ちょっと物音を聞いた気がしたんでドアを開けてみたんだが」
「まあ、落ち着けよ」水沼は廊下に出ると、鹿野を部屋に押し戻した。「ビールでも取ってくる。勝手知ったる他人の冷蔵庫、ってな」
そして、台所の冷蔵庫から缶ビール二つと、ちょっとしたつまみを持ち出し、鹿野の部屋に行った。
鹿野信吾はやはり何かに怯えているような感じだった。
「あのマスク男を気にしてるのか? あいつは近藤の会社の人間だから、呼ばれただけだろ? 近藤は代表で、あいつは小間使いらしいし」
サングラスとマスクというのは妙な感じだが、特に大の男が怯える話でもないだろう、と水沼は鹿野を諭してみたが、どうにもこうにも、彼の怯えは収まらない感じだった。
仕方なく、話題を変えてみたが、ミステリー作家二人の会話はどうしても「書けない次回作」の話になるのだった。ただ、酒が入っているのもあってか、内容はかなり具体的になっていった。当然、あのトリックの話も出てきた。
そしてそれが再び鹿野信吾の怯えを助長させてしまったようだった。なぜなら、この別荘はそのトリックが使われるはずのミステリー「針金の蝶々」の舞台によく似ているのだから――
ただ、それが彼の怯えを助長させているとしても、それは大したことないはずだった。
彼は旧友の部屋を出ると自分の部屋に戻った。別荘の母屋はひっそりとしていた。
六
私は用意された寝室に入った。備え付けのシャワーを使い、ベッドに用意されていた浴衣に着替えた。
――やはりどうも嫌な予感がする。
何かとんでもないことが起こりそうな気がしていた。
――どうすればいいのだろう?
私は自分を落ちつかせようとベッドの脇をうろうろした。そしてベッドに座って考える。それを何度も繰り返していた。何度も何度も――
小一時間そうしていたが、ふと、ドアの外で物音がした気がして、ドアをそっと開け、首を出してみる。と、彼もドアから顔を出していた。
「何、どうかしたか?」彼が訊く。
「いや、ちょっと物音がしたような気がしたんだ。ちょっと嫌な予感がするんだ。君は何か知らないか?」
「なんで俺が――」彼が肩をすくめる。
「そうか、そうだな」
「まあ、落ち着けよ。なんか変だぞ、お前」
「ああ、わかったよ。ちょっと話をしよう。いいだろう?」
「いいとも、ちょっと待っとけ」彼はそう言うと玄関ホールの方に歩いて行った。
しばらくして戻ってくると彼は缶ビールとちょっとしたつまみを両手に持っていた。
「まあ、ちょっとだけ飲み足そうや」
そう言う彼を部屋に招き入れると、私はベッドに座った。彼はベッド脇の床に直接胡坐をかいた。
「まあ、あのサングラスとマスクのやつはちょっと変だが、そんなに怯えることもないだろう?」彼がビールを飲みながら落ち着いたようにそう言った。
私の妙な不安はあいつのせいだけではないのだが、それを彼に伝えるのもどうかと思い、しばらく沈黙した後、話題を頭の中で探し始めた。それは彼も同じだったようで、再び始まった会話は、お互いをペンネームで呼び合う結果になった。
「坂東先生は本当にミステリー作家を諦めて別に職を見つけたのか?」
「ああ。だがどういう職種かは答えない、悪いけど」
「せっかくデビューできたのに勿体ないんじゃ?」
「そんなにネタは続かないよ。特に本格物は――。ひょっとしたら尾崎先生もよくわかっているんじゃないのか?」
「確かに――」
そうした沈黙のあと……
ふいに同時に同じことを呟いていた。
「あのトリック――。高校の時――」
「そう、二人で高校時分、未完成ながらあるトリックを考えていたはずだ。そっちが考えたやつにこっちが意見して、あーだ、こーだとやっていたっけ?」
「そうだな、習作としてこっちが途中まで書いたような……」
「そうだったな、タイトルは『針金の蝶々』だったっけ?」
ああ、書いている今、ハッキリ思い出した。あの高校時分に書いたあれは確か「針金の蝶々」だった。
「よく憶えてるな。トリックは憶えてる? ちゃんと正確に……」
「いや、そもそも未完成だったろ……。あーだ、こーだやったけど……」
「まあ、そうだな。しかし……」
「この別荘が……か?」
「ああ、状況がな……」
――そしてあの離れのドアノブに……
いや、あれは関係ない……
話を戻そう……
「幼馴染の良美ちゃんにも少し話したんだろ?」
「ああ、そうだが……」
「この別荘は近藤が建てたが、良美ちゃんはフィアンセだからな」
「ああ」
そういえば、良美はプレゼントとか、サプライズとか言っていたが……
「彼女が近藤に頼んで『針金の蝶々』に出てくる別荘を実際に建てさせたのか?」
「まあ、近藤は金持ちだからな」
「窓の外のあの紫の花はライラックか?」
「さあ、どうだろうね」
しばらくの沈黙のあと、
「まあ、あれだな」彼は溜息をついて「学生の時、これは凄いトリックを思いついた、そう思っても、大人になっていざミステリーとして書いてみようとすると、まるで使えない子供騙しにしかならない、そう気づいてしまう。本格ミステリーはあれだな、現実の世界ではなく、夢の国の話、そう思わないか?」
「夢の国?」私は頭がくらくらした。
「昼間に良美ちゃんが階段で――」彼はくすくす笑いながら「いちりっとせ♪、って。最後、夢の国、って――」
――そうかもしれない。
「あれ、良美ちゃんが鬼だったんだな。君と同じ段になって喜んでいたから」
――そうかもしれない。あの時を境に私は夢の国に紛れ込んだのかもしれない。そして、夢の国に引きずり込んだのは、良美――。彼女が鬼なのか?
「ここは夢の国なのさ」彼が可笑しそうに笑って「だったら楽しめばいいんだよ。あまり深刻にならずに」
彼にそう言われても私の嫌な予感は少しも消えなかった。
「昔から伝わる子供の遊びの歌はホラーとか言われてるしな。かごめかごめ、もそうだし、あと――」彼はちょっと間をおいて「通りゃんせ、通りゃんせ♪ ここはどこの細道じゃ♪」そう歌った。
――彼は何か企んでる!
私はそう直観した。
「最後はこうだっけか? 行きはよいよい、帰りは怖い♪ 怖いながらも♪――」
「やめてくれないか!」私は思わず声を上げた。「やめてくれ!」
「わかったよ」彼は少しふてくされたように言った。
彼とのやり取りで少しずつそのトリックを思い出しつつあった。まだまだ断片的だが――。いや、完全に思い出したとしてもそれは未完成だったはずだが……
「君は」しばらくの気まずい沈黙の後、彼が話題を変えた。「近藤と知り合いだったのかい?」
「いや、僕は良美の幼馴染としてパーティーに呼ばれてるんだ。いや、幼馴染と言えるのかな? 何しろちょっと歳は離れているから。とにかく、彼女が幼い頃、まだ小学校に上がる前だと思うが、確かに『いちりっとせ』で遊んだ記憶がある。確か小学校の講堂の入り口の階段だったと思う」
「そうか」
「君は近藤の知り合いだったのか?」私は話題を変えた。良美のことはあまり話したくなかった。
「ああ、大学時代の友人、というか先輩の友人かな?」
「友人というには少し遠い?」私が訊く。
「ああ、歳はこっちが結構上だと思うが、俺はかなり浪人したし……。まあ大学も学部も違うがね」彼は説明を始めた。「近藤は慶応の医学部――まあ、親が金持ちなんである意味道楽息子なんだろうが――免許はとったが結局医者にはならず、卒業後、いろいろベンチャー企業を立ち上げている。最初のやつは失敗して畳んだそうだが、今のやつは割とうまく行ってるらしい。少なくとも将来性を買われて、出資してくれる人は多い。そう自慢していたが、まあ、実際のところ親があの近藤グループ創始者なんで、結局親に援助してもらったというのがホントのとこだろう。それで有り余る金でこんな別荘――まあ、少しチープなところもあるが――この別荘も建てられるんだろうね。庶民の我々からすればまったくうらやましい話さ」
「特にうらやましいとも思わないが」私はそう言った。少し不貞腐れたような口調だったかもしれない。それはそれとして、話を戻す。
「大学も学部も違う近藤とどんな風に知り合ったんだ?」
「サークルさ。別に所属大学は問わないサークルもあるんだぜ」彼はぶっきらぼうに「ミステリー同好会『威圧』」
「何だ? そのイアツって?」
「さあ? 歴史がありすぎて俺が入った時には誰も意味や由来を知らなかったがね。でもまあ先輩諸氏の威圧は結構きつかったよ。そういう先輩の一人がいて、その先輩と卒業後も交流はあってね。その先輩の友人が近藤だった。それで今夜の婚約パーティに招待されたんだよ。いや、実は彼が近藤グループの御曹司だなんて最初は知らなくて後で知ったんだよ。まったくね、大金持ちのボンボンだったなんて――。良美ちゃんは近藤の彼女として知ったんだがね。まさか君の幼馴染だったとはね。まあ魅力的な女性だ、ちょっと子供っぽいが――」
「幼馴染というにはちょっと歳が離れてるんだがね」
また同じことを言ってしまい、それで話題が途切れた。再び気まずい空気になった。
「と、いうか」私から話題を戻す。「近藤が大学時代の先輩の友人というのはわかったけど、それだけで婚約パーティーに呼ばれるのかい? 友人というには遠い、そう言ったと思うが」
「まあ」彼は苦笑いをした。「言いたくないことはあるよ、いろいろ……。ただ……」
「ただ?」
「一応、こっちがミステリー作家としてデビューしたからね。近藤はそれでこっちのことが気になったらしい。だから、君のこともミステリー作家として気になって、なんかのツテでこのパーティーに呼んだのかも、そう思っていたが、まさか婚約者の――」彼は少し言い淀んだ。「幼馴染だったわけだ」
私は何も返事しなかった。ただ、彼が「言いたくないことはあるよ、いろいろ……」そう言ったのは気にしていた。しかし、言いたくないことをほじくり出す気持ちもなかった。
「とにかく、あまり気にするな」彼は空になったビール缶を手に部屋を出ようとした。「まあ、とにかくお互いペンネームで呼び合うのはやめようや。気が滅入るだけだ」
そう淋しそうに言うと彼は去って行こうとした。
「ちょっと待ってくれ」私は彼を呼び止めた。「念のため、連絡先を交換しておかないか?」
「連絡先? いや別に構わないが、今スマホを持ってきてない。部屋に置いてある」
「自分の番号くらい憶えているだろう? 今から電話するから」私は彼から電話番号を聞き出し、自分のスマホで電話を掛けた。出るわけないのでワン切り。「君は何度も引っ越して一度音信不通になっているからな」
「お前の音信は恨みつらみが多いからな。そりゃ逃げたくもなるさ。まあ、いいや。なんでも相談にのるぜ。いつでも電話してくれ」そう言って、彼は部屋を出て行ったが、去り際に「ただ、ミステリーのネタの相談だけはごめんだぜ。あのトリックは未完成で遠い闇の中、夢の国の話だからな」
「ああ、ただ……」
「なんだ?」
「もし、今後ミステリーを上梓したら連絡してくれ」
「お互いにな。望みは……いや、やめておくよ」そう言って彼は部屋を出て行った。
――あのトリック……
彼との今の会話でおぼろげに思い出しつつあったが、それは未完成な上に陳腐な子供騙しのはずである。そう確信しているのは、そのトリックの詳細が少しも思い出せないからだった。もし、作品に使えそうな出来であるなら、詳細を忘れてしまうはずはなかった。こっちが最初考えて、そのあと二人であーだこーだとつつき回していたはずだが、確かに何か欠陥があり、途中で放棄したような記憶があった。
私はそれ以上そのことについて考えることをやめ、もっと昔を思い出していた。
――良美と二人で遊んだ「いちりっとせ」か。
歌に合わせて階段を上下し、鬼と同じ段になったら負けというその遊びは私も小さい頃――小学校低学年の頃、同級生の女子に教えてもらった記憶がある。幼い子供でも遊べる簡単な遊びだった。
そうやって覚えたその遊び――。自分が中学生になった頃、幼い良美と二人だけでよく遊んだのだった。
良美はいつも鬼だった。いや、交代で鬼を務めていたはずだが、幼い良美はルールが呑み込めないのか? 最後の「は、夢の国♪」で私と同じ段になることしか頭になかった。
「嫌なの。最後、一緒の段でないと嫌なの。お兄ちゃんと行くの、夢の国に」
いつもそう言って聞かなかった。
――とにかく、良美と話をしてみよう。
私は部屋を抜け出した。