いちりとせ
いちりとせ
「ちょっとやってみませんか?」アプリの読み上げを止め尾崎凌駕が首猛夫に言った。
「何をです?」
「いちりとせ」
尾崎凌駕は何かを探すようにウロウロと辺りを歩き回った。そしてバケツを二つ見つけ出すと、埃を吹き払って一つを頭に被りながら階段を上まで上がった。
「僕が良美ちゃんをやるので、あなたは鹿野信吾をお願いします」
頭にバケツを被り、手にもう一つのバケツを提げていた尾崎凌駕は「いちりとせ」を始める。
いちりとせ♪
やんこやんこせ♪
しんからほけきょ♪
は ゆめのくに♪
尾崎凌駕はそう歌いながら階段を四段降りた。
「あなたもお願いします。ほら、いちりとせ♪」
尾崎凌駕に促され首猛夫もしぶしぶ歌に合わせて階段を一歩ずつ上がっていく。
最後の「は ゆめのくに♪」で尾崎凌駕が一段階段を降り、首猛夫も一段上がると二人は同じ段になった。
「ふむ、これが第一部の二章。次は――」尾崎が階段を再び上がっていく。
「尾崎さん、これが何だというんです。ふざけないで……」首猛夫はいらだってそういう。
「まあ、じゃあ端折ります。あなたはそのままで――」
尾崎凌駕に言われて首猛夫はそのままの段に留まる。
「OK、そのまま」
尾崎凌駕は一旦上まで上がると、そこから四段階段を降りてきた。
「この位置が第一部の十章です。私がブリキの花嫁。あなたが鹿野信吾。さあ、どうです?」
「どうです? そういわれても――。前にも似たようなことをやりましたが、ただ、こうして下から覗き込めばバケツの中の顔はわかります。顎のあたりとか……」
「いえ、第一部の十章で鹿野信吾は『まっすぐ手を伸ばしそのバケツを引っ張った。そして、顔が少し見えた。バケツの中に見知った顔があった』そう書いている」
「しかし、頭のバケツには届かない。あ……」
手を伸ばした首猛夫の手はバケツに触れていた。尾崎凌駕が頭に被ったバケツではなく、手に提げているバケツに……。
「そうなるはずだったんです。鹿野信吾はブリキの花嫁が手に提げたバケツを奪い取るつもりだった。そういう夢を見ていた。それを小説に書いた……」尾崎凌駕が頭のバケツを外しながら、笑って言った。
「しかし、実際には……」首猛夫がポツリと言う。
尾崎凌駕は再びアプリに読み上げさせる。




