母屋の二階の出来事を回想する鹿野信吾
母屋の二階の出来事を回想する鹿野信吾
第一部の八章。二階に上がっていって近藤社長と良美ちゃんと話をした場面。
近藤の言葉で少し落ち着きを取り戻した私は、その後、近藤と話をした。それを良美が黙って見ていた。
そう書いたところ……
「ちょっと向こうを向いててもらえますかね」
近藤はウェディングドレスを脱ぎ、ネグリジェに着替えた。良美ちゃんがそれを手伝っていた。いつの間にか、良美ちゃんも浴衣からネグリジェに着替えていた。
「まあ、変態だと思われるなら、仕方がない。私はやはり夜はこれで眠りたいんですよ。良美とお揃いです。かわいいでしょう?」
「特に責めたりはしませんよ。男女を問わず、何を着て寝たいか? は本人の自由だ」
「勝男なんて名前を付けた父に反発してる、まあ、そう取ってもらって結構です。良美、あれを――」
良美ちゃんは何やら準備を始めた。
「持ってる持病もお揃いでしてね。私も良美も真性多血症なんです。で、定期的に瀉血処理をやってるんです。献血みたいにね、血を抜くんですよ」
ベッドに横たわる近藤社長の腕に良美ちゃんがチューブに繋がる針を突き刺す。
「慣れたもんでしょう。良美はこの処理がとてもうまい。終わったら交代するんですよ」
恐らく近藤社長は良美との仲の良さを私に見せつけようとしているようだった。
「この信頼関係――いいでしょう」
近藤社長の腕からチューブで血が抜かれていく。
「結構、気持ちがいいんですよ。眠たくなってくる」
良美ちゃんは近藤社長から離れ、私に耳打ちをした。
「……のこと、絶対に許さない」
……のこと――
誰のことを言ったのだろう? よく思い出せないが、近藤社長のことを言っているとも、私の事を言っているとも取れた。
「婚約だけで本当に結婚をするつもりはなかった。でも既に籍が……」
良美ちゃんは近藤から自分を奪ってほしかったんだと思う。近藤の胸倉を掴み「お前に良美は渡さない」そう言って欲しかったんだと思う。
しかし私は何も出来なかった。
良美ちゃんの顔が苦悶に歪んだ。そして奇妙な笑い顔を見せた。
「あの、クーラー・ボックス……」
確かに机の上にクーラー・ボックスがあった。
「もう一人の良美……姉の……」
その良美ちゃんの言葉が何を意味しているのかすぐにはわからなかった。良美ちゃんの顔が更に歪んだ
「……助けて……」
「尾崎諒馬さん、ほんとはちょっとあなたを侮辱するある遊びをやろうとしてたんですよ。坂東善に協力してもらってね。でも、もうやめました。良美は真面目にあなたを応援してますからね。遊びはやめました。だから安心してください」不意に近藤社長の声がした。
眠そうな声だが確かに「遊びはやめる」そう言った。
「坂東善……」良美ちゃんが呟く「姉さんの旦那が姉さんを殺したかもしれない。完全な密室というミステリーを書いた坂東善が……」
思わず良美ちゃんの顔を見る。彼女は泣きそうに顔が歪んでいた。
「……助けて……」再び良美ちゃんがそう言う。
私はそっとクーラーボックスを開けてみた。
そして気を失った。
薄ぼんやりと意識が戻ったような気がした。
良美ちゃんはいつの間にか、再び浴衣に着替えていた。
私の手には牛刀が握られていた。いや、二人で牛刀を握っていた。良美ちゃんと二人で牛刀をベッドの近藤の胸に突き刺していた。
* * *
青服「いや、それはおかしい。カメラの映像にそんなシーンは映っていない。逆だ。牛刀を握っていたのは勝男だ!」
しばらくの沈黙の後、首猛夫も声を上げる。
「確かに今のはおかしい……。ベッドのネグリジェ姿は妻の良美で、浴衣を着て牛刀を握っていたのは勝男だった……。彼は確かにネグリジェから浴衣に着替えた」
尾崎凌駕は読み上げアプリを止めた。
「いや、尾崎諒馬=鹿野信吾は夢を見ている。立ったまま気絶して」
アプリの読み上げが再開される。
* * *
ああ、それは夢だったんだろう。確かにクーラー・ボックスには生首が入っていたに違いない。誰の生首か確認する心の余裕はなく、そのまま私は気絶していた。立ったまま――
謂わば自発的に意識を失うタナトーシス、狸のように……
そう書いている。気絶している間、私の主人格は夢を見ていたのだ。その時身体を乗っ取っていた別の人格が特に悪さをしていたわけではないだろう。カメラには呆然と突っ立っている私が映っているだけだ。
ただ、私に書けるのは夢の中の話だけ……
クーラーボックスの生首を見て、それが近藤社長の仕業だと反射的にそう思った。それで夢の中で私は良美ちゃんと協力して近藤社長を殺害した。
いや……しかし……
そして……
良美ちゃんは社長の首を撥ねた……
勿論、それは夢だと今はわかる。カメラは逆の殺戮を記録していて、私はただそれを見ていただけなのだから……
「……助けて……」
そう助けを求めていた良美ちゃんを私は助けられなかった。
あれが夢ではなく現実であれば……
良美ちゃんと協力してあの時、近藤社長を殺していれば……
私は良美ちゃんを助けられた。あの時近藤社長を殺してさえいれば……
いや……
現実は逆だった……
立ったまま気絶している私を前にして、近藤社長は良美ちゃんを殺してしまったのだろう。瀉血処理を交代して、そのまま血を抜き続けたのだろう。良美ちゃんは絶望していたのかもしれない。助けを求めた私はただ呆然と立ったまま気を失っている。その姿に呆れてすべてを諦めたのかもしれない――近藤社長に抵抗することができなかったのかもしれない。
最悪なのは立ったまま夢を見ている私だった。
私はずっと――
良美ちゃんが近藤社長を殺して首を撥ねた、そう思い込んでいたのだ。
私と良美ちゃんは二人で牛刀を……
そしてその牛刀は近藤社長の胸に……
協力して胸を突き刺した……
いや、そうではない……
私は必死に良美ちゃんを止めようとしたはずだ。
二人の手には牛刀があった。良美ちゃんはそれを近藤社長に突き刺そうとし、私は止めようとしたはずだ。
しかし、私は力付きた……
牛刀を押し戻すことを辞めてしまった……
そして、良美ちゃんは近藤社長を殺して首を撥ねた。
いや、それは夢だ。
夢の中でどうであろうと関係ない……
カメラには全く逆のシーンが映っていた。
現実では、近藤社長が良美ちゃんを殺して首を撥ねてしまった。
ただ、私は……
夢をそのまま信じていたのだ。
立ったまま気絶し、夢を見ていたのだ。
* * *
尾崎凌駕は再びアプリを止めた。
「なるほど、辻褄はあってきましたね」首猛夫が声を上げる。
黒服「確かに、尾崎諒馬さんはずっと夢を見ていたのでしょう。立ったまま気絶して――」
アプリの読み上げが再開される。
* * *
白状しよう。私はあの時、ミステリーの世界にいた。自分が書こうとしていた「針金の蝶々」に酷似しているこの別荘で、あのトリックが使えないか、懸命に考えていた。
夢の中で良美ちゃんに「大丈夫だから、僕が助けてあげるから」そう言い聞かせていた。
近藤社長を殺害した良美ちゃんは呆然と立ちすくんでいた。彼女をウェディングドレスに着替えさせ、丁寧に何をするかを説明して、階下に降りた。
ああ、なんという間抜けな話なんだろう。
あの時良美ちゃんはバケツを被っていた。私が被せたのかもしれない。実際は良美ちゃんではなく近藤社長だったわけだ。
ベッドの上には鬼の面を被ったネグリジェ姿の近藤社長がいた。いや、私がそう夢の中で思っていただけで、実際は良美ちゃんだったわけだ。
夢の中での良美ちゃんと現実の近藤社長はバケツや鬼の面で顔を隠してしまえば私には区別できなかった。私はその時思いついたトリックのことばかり考えていた。
それでバケツを被っている近藤社長を良美ちゃんと信じて、私は行動した。
いや、とにかく私は良美ちゃんに生きていてほしかったのだ。夢の中に逃げ込んでいたのだ。




