とある入院患者の手記
とある入院患者の手記
ここはどこだろう? そして私は……、その疑問をぐっと呑み込む。私は「自分が誰であるか?」それが思い出せない。
暗い……。しかし真っ暗ではない。ぼんやりとわかる。窓のようなものがある。そこに文字が?
目覚めましたか?
そうだ、私は今目覚めた。ずっと夢を見ていた。長い長い夢だった……
目覚めましたか?
再び問われる。文字で綴られた呼び掛けにどう答える? 答え方がわからない。
自分のことがわかりますか? 返事できますか? 答えられますか?
わからない
まずはそう伝えたい。とにかく眠い。何も思い出せない。
いや、思い出した。これは何回か続いている。眠りから覚めると前にぼんやりと窓があり、そこに浮かぶ文字で誰かが問いただしてくる。それに何も答えられず、また眠ってしまう。それが続いている。
――眠ってはいけない。とにかく返事をしないと……
わからない
そう文字が綴られた。何とか私は問い掛けに返事できた。
意識がありますね? このまま会話できますか? 気分はどうですか? 大丈夫ですか?
――大丈夫かどうかはこちらが訊きたい。
いしきはあります。もじがみえます。それになんとかこたえることはできそうです。しかしくるしい。ねむくてしかたない。
もう少し頑張って。自分が誰か? わかりますか?
わからない。むしろおしえてほしい。わたしはいったい……
それは御自分で思い出さないといけません。
しかし、なにかひんとを……
しばらく休みましょうか? とにかく文字は読めるし、文字で返事はできる。よかった。意識が戻った。
わかりました。すこしねむります。
次起きたらまた文字を読んでください。こちらの問いかけではなく、ある人の手記です。そして後で感想を聞かせてください。
わたしはそのまま眠ってしまった。
* * *
次目覚めた時、相変わらず何も思い出せなかったが、前回目覚めたことは憶えていた。
誰かいますか?
私はそう綴った。少し操作に慣れたのか漢字で文章を綴ることができた。
すぐに返事があり、文字による会話が続く。
凄い進歩です。そちらからのアクションは初めてです。それに漢字が使えてますね。
少し頭もハッキリしています。前回よりは長く起きていられそうです。
では、これを読んでみてください。
そうして、窓に文章がゆっくり流れていく。
■■さん、完全に囚われの身の私にとって、こうして鉄格子の外のあなたに文書を残せることを心から嬉しく……
私はゆっくりとそれを読む。そして最後まで読み終わる。
冒頭の「■■さん」の■は■でしかなく、それが誰宛のものか? 判別はできない。差出人は署名があるし、どういう状況で書かれたものか? それば読めばわかる。
しかし――
これは何だろう? いや、その前に私は誰だろう? ここは何処? 拘置所? 刑務所? いや、やはり病院? いずれにしても鉄格子の中?
読み終わりましたか?
そう、文字で問われる。
私は迷ったあげく――
はい
とだけ答える。
それで感想は?
――感想? 何と答えればいいのだろう?
時間が必要ですか?
はい、落ち着いて考えたい。
質問を変えます。自分が誰か? 思い出しましたか? あなたの名前は?
――私の名前? ああ思い出した! しかし!
私の思考は完全にフリーズした。そのまま何も返事ができなかった。
どうしました? あなたの名前は?
少し独りにさせてくださいませんか?
いいですよ。疲れましたね。ではこれで。おやすみなさい。
いや、ちょっと待って。訊いてもいいですか?
何でしょう?
これは「チャットのようなもの」ですね?
ええ
やはり…… ただ……
ただ?
私はそのチャットのようなものをどう操作しているのか? それがわからない。
今はまだ説明できません。ただ、あなたはちゃんとチャットが使えています。
このチャット上のものは記録されてる?
ええ、過去の会話履歴も見ることもコピペもできます。やり方は自ずとわかると思います。
ずっと前の履歴も?
いえ、きちんとチャットが成立したのは今回が初めてです。履歴をみてもこちらの「目覚めましたか?」から続いて「わかりません すこしねむります」の繰り返しが少しあるだけです。あなたは随分長い間眠っていた。
ええ、私はずっと夢を見ていました。そうして今、目が覚めました。
そうです。長い夢からあなたはようやく本当に目覚めました。これまでも何回か目覚めたのですが、すぐにまた眠ってしまっていた。しかし、今回は本当の目覚めです。そちらから「誰かいますか?」と呼びかけがあったので少し前進したと思い、ヒントとして――
わかりました。しばらく独りにさせてください。ちょっといろいろ試してみたい。そして疲れたら休みます。ただ――
ただ?
これまでのことを文章に纏めておきたいのです。それで私の名前については最後に本名で署名します。
なるほど。わかりました。それでは。
チャットによる呼びかけはそれで終わった。
私はいろいろ試してみた。履歴を遡り、書かれていることを確認する。また、テキストのコピペもできるようになった。それで「ここはどこだろう?」で始まるこの手記を纏めている。
しかし――
――まだほとんど思い出せてはない。
私はずっと夢を見ていた。長い長い夢だが、その前にも……
未決の死刑囚の手記も再度読んでみる。この「■■さん」という宛名は私宛で、これは私に当てられた……
いや、この「■■さん」がもらった手記を私が単に見せられている、そういうことだろう。しかし――
――そうだ、ここも鉄格子の中。そしておそらくここは病院だ。やはり私も正常ではない。
そしてこれはその正常ではない「私」が自分で書いてしまったものなのかもしれない。そうしてそれを憶えていない……
そう、私の記憶はボロボロなのだ。
しかし、少し思い出した気もする。そうだ、あれは夢ではないのだ。あの事件――
あの事件で頭をかち割られた私――それ以上に惨い目に遭い、死線を彷徨った私は、手術に耐え、どうにか一命を取りとめたものの、脳のダメージは相当なもので、記憶はとぎれとぎれだし、自分が誰であるか? それすらも曖昧だったのだ。
私は被害者のはずだ。でもそうだとすれば、チャットの問い掛けの相手――恐らく私の主治医はそれを教えてくれるはずだ。
するとやはり先程読まされた手記は過去の私が書いた物なのか?
死刑囚の手記の感想を求められた時――
あの時に、もし「私が妄想で書いたものです」そう答えれば、私の精神が正常であると認められ、無事にここを退院できるはずだったのかもしれない。しかし、あいにく、それが思い出せない。
逆に「私が書いたものではないです。それだけは確かです」そう答えれば、私が正常だと認められたのかもしれない。しかし、やはりそうだともハッキリ言い切れない。やはり記憶が曖昧なままである。
いや、どちらの回答も、もしそれが間違いであれば、私がおかしいということを証明してしまうことになるのかもしれない。迂闊に返事はできない。わからないものはわからない。
とにかく今の私にできることはこのチャットのようなシステムを操作して文章を綴ることだけである。どのようなシステムなのかまだよくわからないが、私は相当長いこと押し黙ったままだったんだろう。そうしてそのまま喋り方を忘れてしまったのかもしれない。あの事件で殴打され傷ついた脳細胞は喋るという機能を失ったのかもしれない。何かしゃべろうとしても、ひょっとしたら――私の口からは日本語ではない何かケダモノの唸り声――もしくは「ぽーぽー」といった間の抜けた音声が発せられるのかもしれない。それが怖くて私は喋らないのかもしれない。
つまりは失語症……
いや、黙狂――あ! 矢場徹吾!
埴谷雄高の死霊に出てくる矢場は黙狂だった!
つまり、やはりこの手記を書いたのは私なのだろうか?
ふと自分の置かれている状況を確認してみる。文字の見える窓以外何もない。手足を動かそうにも首を廻してみようとしても何もできない。そういう空間にポツンと……
自殺防止……
そうだ、私は自殺する可能性があるのでこうして隔離・拘束されているのだ。
死霊の第五章で三輪高志はこう言う。
「およそ、人間が完全に自由意志で成し遂げられることが、二つあり、その一つが自殺なのだ」と!
確かにそうだ、とも思えるが、反論もしたい。例えば!
そうだ、今書いているこれ――これを書いているのは私の完全な自由意志ではないのか?
いや、違う……
私は完全な自由意志ではこれを書いていない気がする。誰かの意志によって書かされている。それはあの主治医なのかもしれないし、この手紙を書いた囚人なのかもしれない。やつが、これを私に書かせている、そうとも言える。
いや、違う! 私はもっと多くの人間の意志を感じている。それは読者だ! 今、書いているこれが読者に読まれることを私は強く意識している。つまりは――
私は作家だったはずだ! しかもミステリー作家!
ペンネームは……坂東? 尾崎?
わからない。でも……
段々思い出してきた!
あの事件をミステリーとして書くことはできるかもしれない。こうして文字を綴っているとどんどん文章を紡いでいってくれる。曖昧な記憶が、ミステリーの執筆という作業の際にだけ蘇ってくる気がする。
そうだ、私はやはりミステリー作家だった。そうして、あの事件に巻き込まれた!
死刑囚の手記の最後の追記――逃げてはいけない!
私はあの事件の……
被害者? それとも?
わからない……
私がこの死刑囚の手記を書いた人物である可能性はゼロではない気がする。自分で自分に「逃げるな!」そう言っているのか?
死刑囚とあるが未決ともある。刑は確定していないのだ。死刑囚があの手記を残した時、刑はまだ確定していなかったのだ。そうして、結局、心神喪失で無罪となったのではないか? 殺した相手が「哲学的ゾンビ」だと完全に思い込んでいたら罪には問われない。それで拘置所からこの病院に送致されたのではないのか?
いや、とりあえず、ここまでにしよう。続きは何とかあの事件のことを思い出してミステリーとして書こうと思う。これから書くことは、実際に起きた事件を小説として再現させたミステリーになる……。ただ……
一度眠って次に目覚めた自分がこれを読んでも、自分がこれを書いたことすら思い出せないかもしれない。この手記の最後の署名をみて、気が更に変になり、自殺を考えるかもしれない。そこまでの鬱状態に追い込まれるかもしれない。しかし、やはり今の自分にとってこれが間違いなく自分の本名なのだ。それを最後に署名しておく。
佐藤稔
※以下、次起きてこの文書を発見した自分に書いておくが、こうしたことは何度も繰り返されているのかもしれないので、この文章を消しても、また同じことを繰り返すだけだと思う。
とにかく、あの事件を思い出してみてくれ! そしてミステリーとして書いていってみてくれ! ボロボロの記憶を何とか辿って……。もう、それしか道は残っていない。私はミステリー作家だったはずだ。それも本格ミステリー作家……。逃げてはいけない……
それと、問いかけてくるあいつを完全に信用してよいのか? まだそれはわからない。私が入院患者なら主治医だと思うがハッキリはしない。とにかくどういうシステムなのかわからないが、私のいる世界はこのチャットのようなシステムがすべてだ。あいつも文章で問いかけてくるだけで、姿も声もわからない。
ただただ文章が綴れる――それは何よりもありがたい。それがすべてだ。