尾崎凌駕と鹿野信吾の会話
尾崎凌駕と鹿野信吾の会話
直接ではないが、尾崎凌駕と鹿野信吾が久しぶり――本当に久しぶりに会話している。システムはチャットのようなものなのか? Web会議システムのようなものなのか? いや、どちらでもいい。文字で書かれる小説にしてしまえば、どちらも似たようなものだ。もしこれが映像化されることがあれば、その時にそちらサイドで決めてくれ。
「君は尾崎凌駕でいいんだね? 随分久しぶりだと思うが」鹿野が言った。
「まあ、今更隠すわけにはいかない。そうだ、と答えておくよ」尾崎凌駕が笑った。
「君が僕の主治医なのかい?」重ねて鹿野が訊く。
「そういうことになるね」
「僕は一体どういう状態なんだ?」
「さあ、今はまだ言えない」尾崎は答えなかった。
鹿野信吾はそのまま黙った。
「精神科の主治医のことは訊かないのか?」沈黙に負けて尾崎が尋ねる。
「僕の精神は異常じゃない。だから退場してもらった」
「なるほど。つまりあの主治医は君が産み出した小説上の架空の人物」尾崎は頷いた。
「そうだ。精神科の医者なんて誰も僕に付いていない。いたのは君だけだ。そしてそれが尾崎凌駕だと――」
「君はひたすら暗闇で執筆している。僕も少しは手伝っているが――」
「僕はやはり作家なんだ。ミステリー作家……」
「今、書いているこのWeb小説『殺人事件ライラック~』は君の作品だが、完全なフィクションかね?」尾崎が訊く。
「フィクションだが現実とリンクしている」
「そうかね?」
尾崎の突き放したような回答に鹿野は沈黙する。
ややあって――
「フワちゃんとやすこの騒動をどう思うね? いや、それより長崎の平和祈念式典にイスラエルを呼ばなかったことをどう思うかね?」唐突に鹿野が問う。
「その質問はメタ的に言うと何を示しているんだ?」尾崎は怪訝な顔で質問に質問で返した。
「これはフィクションだが、現実とリンクしている、という情報――。あるいは、僕は暗闇にいるがネットにアクセスできる、という情報――」
鹿野のその答えに尾崎は沈黙していた。
「僕はずっと眠っていた。そしてようやく目覚めて、このWeb小説『殺人事件ライラック~』を執筆している。あの別荘での事件のぼんやりとした記憶を元に――。そう、本当にぼんやりしてるんだよ。随分長いこと眠っていて浦島太郎状態――なので、結果的に君の助けを借りている――つまり、君――尾崎凌駕は僕の原稿に手を入れている――」
「ああ、僕もこのWeb小説『殺人事件ライラック~』を読みたいからね。僕としては君の執筆を手伝っているつもりだ。しかし、決して勝手に書き換えてはいないさ。最終的な原稿のチェックは君だろう?」
「僕は浦島太郎だから、ラズパイもスマホも知らない。あれは君が手を入れた部分じゃないのかい? ネットで検索してどういうものかは理解したが――」
「藤沢さんの指摘はもっともだが、死霊の自序で埴谷雄高も言っている。この世界にあり得ぬ永久運動の時計台を掲げたのは、nowhere,nobodyの場所から出発したかった、って――つまりは非現実。やはりこれはフィクションでいいんじゃないか? いや、フィクションであってほしい……」尾崎は最後少し苦しそうに言った。
「それはどういう?」
「現実は辛すぎる……」
「君はすべてを知っているのか?」鹿野が問う。
「いや、全部ではない。だが、知っていることだけでも十分悲劇だ。ただ……」
「ただ?」
「君はミステリー作家なんだろう? だからこのWeb小説『殺人事件ライラック~』の完成に向けては協力するよ。それがどんな結末だったとしても」
「ありがとう。一つ訊いていいか?」鹿野は尾崎に質問した。「尾崎凌駕、君は親友じゃなかったのかい?」
尾崎凌駕は長い沈黙のあと一言――
「違うね」
「そうか、残念だ……」鹿野信吾はポツリとそれだけ答えた。「少し眠るよ」
「待ってくれ。眠る、その前にこいつの話をしないか?」尾崎凌駕は机の引き出しから色あせた書類を取り出した。「『針金の蝶々』の原稿を入手したよ。原稿用紙に鉛筆で書かれている。枚数は三十枚くらいだ」唐突に尾崎がそう呟く。
「そうか」鹿野が反応する。「読んだのか? 書いたのは確かに僕だが大昔だ。内容はすっかり忘れている。憶えているのは探偵役が高柳一――やはり君がモデルだ。ワトスン役が日野何とか、モデルは僕だ」
「日野茂だそうだ。三十歳、売れない作家だそうだ」
「他の登場人物はどうなってる?」鹿野が訊く。
「えーと……。横小路大介、三十一、二歳、医者。林正夫、四十五、六、陶芸家。山本明、二十七、八、イラストレーター。三浦和男、二十四歳、カメラマン。田村愛、二十一歳、大学生。小倉正、えーと……、二十歳。使用人、料理人だね。あとは今森さん、というのも出てくるようだ。すまんな、拾い読みだ。あとは近藤克夫、近藤製薬の会長か……」
「別荘の描写はあるかい?」
「そうだな。確かにあの近藤社長の別荘に似ているかもしれない。母屋は二階建てで、離れはあるし、それにライラックが植えてあるらしい――母屋と離れを繋ぐ渡り廊下に――」
「そうか」
「それで、この『針金の蝶々』で起きる惨劇は、現実の君が巻き込まれた惨劇と同じなのかい?」
「わからない。原稿は未完だろう? それに本当によく覚えていない。何かトリックはあったんだが……」
「離れは密室だったのかい?」尾崎凌駕が訊く。
「どっちの話だ? いや、両方密室だった。現実の離れも、『針金の蝶々』の離れも」
「原稿には書いてないが、少しは憶えてはいないのか? 密室トリックを――」
「ただ、言えることは――、密室から犯人が脱出するのに針金の蝶々が必要だった。でも、現実のあの離れは――、ただのドアチェーンだった」鹿野信吾は苦しそうに言った。
「そうか。ところで樫の木はどうなんだ? あの別荘になかったぞ。重要じゃないのか?」
「いや、よく憶えていない」
その後沈黙が続く。
「ところで『針金の蝶々』での犯人は誰なんだね? それも憶えていないのかい?」
尾崎凌駕の質問に鹿野信吾は答えない。沈黙が続く。
「すまんな。野暮な質問だった。最後に訊いていいか?」尾崎が謝ってからポツリと訊く。「先日の大きな地震、揺れたかね?」
「マグネチュード7.1の――、日向灘が震源の――」
「そうだ」
「答えたくない。ただ……」
「ただ? 何だ」
「会話の中ではなく、地の文で書くよ。この会話も小説にするから……」
「わかった。おやすみ」尾崎は笑って言った。
鹿野信吾は尾崎凌駕との会話を纏めて文章にした。
――あのかなり強い地震……
鹿野信吾は少しの揺れも感じなかった。ただただ、暗闇にいてシステムを通じて文章をやり取りできる――それが今の鹿野信吾にとって世界のすべてだった。
――それから「針金の蝶々」での犯人は……
高柳一
所謂、探偵が犯人というやつだ……
ヴァンダインの二十則違反……
そうなると僕は恥知らずのペテンらしいが……
「わかった。おやすみ」尾崎は笑って言った。
先ほど、そう書いた。尾崎凌駕が書いたのなら事実だし、鹿野信吾が書いたのなら「笑った」のは鹿野の想像だ。そしてそれはどちらでも大差はなかった。
「ただのドアチェーンだった」鹿野信吾は苦しそうに言った。
その前にもそう書いた。これも鹿野信吾が書いたのなら事実だし、尾崎凌駕が書いたのなら「苦しそう」は尾崎凌駕の想像だ。
とにかく、今の鹿野信吾にとって世界はとても狭かった。
僕――鹿野信吾は死んだのだろうか? いや、殺された?
犯人は――僕を殺したのは?
尾崎凌駕?
尾崎凌駕による挿入「答えはイエス……そう言われても仕方ない……」
* * *
僕はずっと眠っていた。そして夢を見ていた。
本格ミステリー小説を僅か三作上梓した後、諦めて地元の中小企業に就職した。そんな夢だ。
配光シミュレーションのソフトを自分でC言語で書いて、それで行うLED照明の配光設計を生業にしていた。そんな夢だ。特許も何件か取得した。
夢の中では執筆活動はしていない。ただ「火星のゴリラ」というラジオネームでラジオ番組に投稿して気を紛らわせていたような気がする。
でも、その夢からは覚めた。そして暗闇の中にずっといる。そしてこのWeb小説『殺人事件ライラック~』を黙々と執筆している。
これはフィクションだ。しかし、現実とリンクしている。確かにあの殺人事件はあった……
いや、あれも夢だったのだろうか?
すると、夢オチ……?
いや、そんなことはない。現実に今、尾崎凌駕と会話した。藤沢さんとやらも――本名は違うのだろうが――現実に存在している……
彼と会うことは可能なんだろうか?
なあ、尾崎凌駕、彼に会ってみるのはどうだろう?
すまん、疲れた……
やはり眠るよ、しばらく……




