五章
五
さて、ナタでドアチェーンを破壊した後の鹿野信吾はどうしたであろうか?
まずは普通の書き方で進めていきたいが、どうも鹿野信吾の精神は冷静な水沼に比べて不安定である。そのため、読者には何が何だかわからなくなる可能性もある。
そうした不安はあるが、まずはこのまま書き進めていく。
密室を破って踏み込んだ鹿野信吾は足元の近藤の生首をなるべく見ないようにしていた。ビニール袋の血の塊のような何かを確認する勇気もなかった。
ただ、僅かにしか開かなかったドア越しでは気づかなかったが、鬼の面が無造作に床に置かれているのにはすぐに気づいた。
ウェディングドレスを染める血の匂いに気が遠くなりながら、何とか意識を保っていた。
――まず、やらねばならぬのは……
誰か隠れてはいないのか?
それが一番重要だったはずだ。
奥のベッドの上の探索が恐ろしくあったのかもしれない。毛布で隠れて見えない胸から上が果たしてどうなっているのか? その確認が恐ろしかった。
それで、右手のバスルームのドアを開ける。そこに誰か隠れているのか、いないのか?
バスルームは密室ではなくドアは簡単に開いた。そして!
誰かが洗い場に倒れていた。ネグリジェを着て、頭には――
思わず気が遠くなる。
鹿野は思わず吐きそうになった。「倒れているそのネグリジェを着た誰か」は頭の位置に半透明なポリ袋が被されていた。内側に血のようなどす黒い汚れが付着した半透明なポリ袋。その汚れで中は透けてはいないが――
頭がクラクラする。混乱の中で、何がどうなっているのか? それを考え、状況を整理する。
吐き気を堪えながらよく見てみる。
――首はない……
ポリ袋を外してしっかりと確認する勇気はなかった。だが、ポリ袋は半透明だったし、その膨らみ具合から、首が――頭がない……、そう思われた。いや、確かに首はなかったはずだ。
――この首のない死体は良美? いや、良美のはずはない! すると近藤?
そう思うと混乱した。二階の寝室は確かに先刻ちょっとだけ覗いたが、水沼の「良美ちゃん、首を切られて死亡……」という声を聴いた。そこで彼は良美の死体に……。いや、あれが本当に良美の死体だったのか? 確認できたわけではない。しかし――
――バスルームが近藤だとするとベッドの上は誰なんだ? 良美?
良美が離れにいると思ったのはスマホにそうメッセージが来たからだ。実際には二階で寝ていた、水沼がそう言ったではないか!
いや、違う! 二階で寝ていた、ではなく、二階で死んで――殺されて――
これを書いている今でさえ、混乱している。あの時、鹿野信吾はどう思っていたのだろう。バスルームはネグリジェ姿で頭にポリ袋。ベッドの上は浴衣姿で頭には――
バケツ……
そうだった。思い出した。
ベッドの上の毛布を引っ張り、頭だけ確認すると頭にはバケツが被さっていた。
思わず、後ずさりするが、足元を見ると広げられ血で染まったウエディングドレスの上に近藤の生首――、そして、ビニール袋に入った赤い何か……
書いている今でさえ混乱するのだから、あの時の鹿野の混乱は凄まじいものだっただろう。恐怖よりも混乱。いや、やはり恐怖。
腹を据えないといけない。覚悟を決めないといけない。混乱にしろ、恐怖にしろ、克服してこの現実の事件をミステリーとして書き上げなければいけない。可能な限り思い出して書き進めなければいけない……
――殺されるかもしれない!
もし、誰か隠れていたら?
ここはクローズドサークルではない。嵐の山荘でも、海上の孤島でもない。そう言えば、妙なことが続いていた。あのサングラスとマスクの男、いや、あれは水沼の変装?
殺人現場にミステリー作家がいたとしても、探偵業務より優先すべきことがある。それは身を守ることだ。殺人事件は現在進行形だった。
ああ、これを書いている今、何も思い出さず、十二章で終えていたらどんなに楽だったろう。そう思えて仕方ない。しかしミステリーは完成させねばならない。それだけは絶対に……
とにかく確認しないと……
鹿野は再度ベッドに近づく。毛布から飛び出している頭の部分にはバケツが……
しかし、やはり、バケツに触る勇気が出ない。
――やはり首がないのか?
とりあえず、先にベッドの下に誰もいないことを確認し、念のため窓の鍵がかかっていることを確認した。
そして――
鹿野信吾は本当に何かを恐れていた。ベッドに横たわる浴衣姿のそいつの頭のバケツを取ってみるだけのことだったが、本当に恐れていた。
いや、バケツの下に首がないのであれば結局何も確認できない。バケツは取らなくてもいい。これは近藤の死体で間違いないのだ。
今「これは近藤の死体で間違いないのだ」と書いた。しかしあの時、鹿野の心のどこかでは「これは良美かも」そう思っていたのかもしれない。
近藤がウェディングドレス姿で離れに飛び込んだのだが、着替える時間はあっただろう。バスルームのネグリジェが近藤かもしれない。近藤がネグリジェで寝る変態的な趣味があることを鹿野は知っていた。
するとこの浴衣姿は――
しかし、良美は二階で死んでいる。近藤か水沼が殺した可能性が――
頭はますます混乱してくる。あの時も、書いている今も。堂々巡りだ。
いや、この二つの死体は――
少なくとも一つは知らない別の人間かもしれない。だいたい男か女かもわからない。あのサングラスとマスクの変装したやつも女だったかもしれない。
ここは密室だが、その謎もまだ解けていない。
謎は何も解けてはいないし、解くために必要な死体の確認も恐ろしくて何もできない。
この時の鹿野の感情はこれを書いている今、少しわからなくなっている。ベッドの上の死体にしろ、バスルームの死体にしろ、首がなければそれが誰なのか確認のしようがない。「首がないのであればバケツを外してもそれが誰なのかはわからない」は「論理的に意味のない行動」ということなのかもしれない。
要するに首のない死体を見たくなかったのかもしれない。情けない話だが、やはり恐ろしくて仕方ない。
そうだ、きっとそうだ。いや、しかしだ――
そのバケツの浴衣のそいつが生きているのではないか? そう思ったような気がしているのだ。それはミステリーでは絶対にあってはならないことだったことにもかかわらず……
いや、現実にもありえない。しかし――知らないところで医学が進んでいたとしたら……
もし、大腿部で片足を切断されたのなら……
急いで止血すれば、命は助かる。出血が多くても……あっ!
鹿野は思い出したことに眩暈と吐き気がした。
――すぐに血液を輸血すれば死ぬ可能性は低い……
首を撥ねても身体の方を止血して、輸血すれば身体はすぐには死なないかもしれない。
近藤の首の日焼けの跡が思い出される。首に巻いたプローブで頚髄に流れる脳からの電気信号を記録したとすれば――。その記録した電気信号をそっくりそのまま首のない胴体の――止血、及び輸血してまだ生きている胴体の頚髄に電極を刺して記録したその電気信号を流したとしたら……
いや、そんなことはあり得ない。
しかし、あの時、ベッドの上のバケツ頭――浴衣姿で仰向けに横たわるそいつを眺めながら、そいつが生きているんじゃないかと思った妙な気持ちは何なんだろう。
いや、生きていてほしいと思ったのだろうか? 首が切断されても生きていれば殺人ではない。そうだ、そういう首無しのニワトリが生きていた事例はあるのだ。
じっと、バケツ頭のそいつの胸を――呼吸の有無を見定めようとしていたのではなかったか?
そして、それを確認して……
ほっとした? それとも ぞっとした?
わからない……
いや、可怪しい! わからないはずがない。
良美が寝ているこの離れに近藤がウェディングドレス姿で入っていった。近藤の生首があって、バスルームに首のない死体がある。そうするとベッドの上のバケツ頭は当然……。
――違う! そうじゃない! そんなはずはない!
頭が混乱していた。
良美が離れで寝てるとの事実はスマホのメッセージだけだ。あれは近藤が良美を殺してまだ生きていると思わせる工作をした――だからあのメッセージは近藤が打ったに違いない。するとやはり良美は母屋の二階に……
バスルームの首無し死体は近藤に違いない。するとこのベッドの死体は誰なんだ?
とにかく、ベッドからできるだけ離れたかった。
ふと、バスルームの方が再び気になった。そちらの方を確認した方がいいかもしれない。そう思ったのだろうか?
バスルームに戻る。ふと、浴槽に血の付いた牛刀があるのに気が付いた。不思議と落ち着いていたかもしれない。
洗い場に横たわるネグリジェ姿 近藤なのか? 良美なのか? それとも全く別の……
――確認できるかもしれない。
頭のポリ袋はとる勇気はなかったし、とっても首はないのは明らかなので意味はない。ただ、鹿野は良美の身体のある特徴を知っていた。
――へその横に手術痕があるはずだった。
恐る恐るネグリジェの裾から手を入れていく。
――まだ柔らかいが、冷たい……。あっ!
果たして手術痕はどうだったのだろう? 書いている今、どうしても思い出せない。
でも? おかしい? 可笑しい? 可怪しい?
いや、何かがわかってしまったはずだ!
書いている今、それが何かまだよく思い出せないのだが……
これは鹿野信吾が書いている。賢明に思い出しながら書いている。混乱? いや……
すごく単純じゃないか!
これを書いている今、気づいてしまった。恐ろしいほど単純……
読者も当然そう思うだろう。しかし――
そう、思い出した。今、割とハッキリ思い出した。
しかし、やはりこう書こう!
手術痕はあったのだ。それは間違いない。自分が知っている良美の手術痕と同じ形の傷跡が確かにあった!
* * *
さて、その後の鹿野の妙な行動をどう説明すればいいのだろう?
心配したとおり、記憶が曖昧で精神が不安定な鹿野信吾のパートは彼の内面の吐露が多すぎてよくわからないことになっている。
とにかく、書ける事実を淡々と書き進めよう。鹿野信吾の内面は無視して事実だけを淡々と――
鹿野は血の付いた牛刀を右手に持ち、狂ったようにネグリジェの胸の辺りに突き立てていた。血がほとばしり、鹿野は返り血を浴びた。牛刀はバスタブ内に落ちていたやつだ。多分、凶器に間違いなかった。犯人もそれを使ったのだろう。
勢いでポリ袋が外れたが、やはり首はなかった。それを鹿野はまったく気にしていないように見える……
そうして牛刀を持ったままバスルームを出ると床に転がっている近藤の生首を鷲掴みにした。
それをカメラがしっかりと捉えていた。カメラの映像を見る限り、確かに鹿野はそうしたのだ。
「これは近藤の本物の生首!」
カメラの映像をAIが解析し、その口の動きを読むと、ハッキリそう言っていた。それが近藤の本物の生首であることは間違いなかった。
そして今度はベッドの浴衣姿の頭のバケツに手を掛けた。
離れにもカメラはあった。そのシーンもカメラは捉えていた。
鹿野信吾はそのままふらふらと倒れるようによろけた。バケツを取ると鹿野信吾の予想通りの光景が現れたはずだ。そして更にそれは期待通りだった。
しかしそれにもかかわらず、僅か数分のうちにショックを受けたように彼はふらつき脚がもつれていた。何かがほんの少し予想及び期待からかけ離れていたのだろうか? 彼はしばらくそのまま、立ったまま固まってしまった。
鹿野信吾は過去も立ったまま気絶することがあったかもしれない。強いショックを受けた時、自分の精神を守るために――謂わば自発的に意識を失うタナトーシス、狸のように……
しばらく時間が経過して、鹿野信吾はベッドの上の浴衣姿の死体をぼんやりと眺めている自分に気づいた。どうしようもない吐き気がしていた。恐ろしくてしかたなかった。
ふらふらと後ずさりすると、ベッドから離れたバスルームの入り口にだらしなくへたり込んだ。
密室に首のない死体が二つ。生首が一つで近藤のもの。
良美は二階の寝室で死んでいる。おそらく首は切断されている。
すると、一つ、生首が足りていない。
ビニール袋の中に血で汚れたような何かが入ってはいる。
いや、そんなはずは……
生首にしてはサイズが小さすぎた。
勇気を出してベッドの方を見る。首のない死体――バケツが取れてしまって明らかに首のない死体が仰向けに横たわっている。そして――
浴衣の胸がはだけ、露わになったそこにはぽっかりと穴が開いていた。
――ビニール袋の中は心臓だ!
それに気づいて鹿野信吾は再び意識が朦朧とした。朦朧とした意識で、歯を食いしばって何かを確認したはずだ。だが、それは何だったのだろう?
気を失う前に鹿野信吾は思い出していた。
それはカメラには絶対に映らぬもの――彼の手が感じたぬくもりだった。
ベッドの死体はまだ暖かく、バスルームのそいつは冷たかった。
それと……
何だろう? その時何を見たのだろう?
思い出したくない何か……
ベッドの下にバケツが……
ベッドには浴衣姿の死体が……
首はなく、その……
予想通りの光景……
期待通りの光景……
これはミステリーなのだ……
当然のように残虐な光景が予想され期待される。
殺人事件の起こらないミステリーはクソだ!
事件が残虐であればあるほど、それは祝福されている。
謎に満ちた残虐な他殺体は祝福された死――
生首より――
首のない胴体より――
もっともっと残虐な――
つまりは――
その間の切断面……
見る前に予想し……
見たら、期待通りの……
祝福された死の象徴……
繰り返すがこれはミステリーなのだ。
しかし――
見ただけではなく、感じたのだ!
その重さを――
命の重さ――
不可逆で、二度と戻らないその重さを!
しかし、これは……ミステリー……
祝福された死の象徴――
しかし、現実にはそれは虚無……
虚しい……
胸に穴が開いたような……
感じた重さは……
虚無への……
供物……
その重さを……
鹿野信吾は確かに感じたのだ……




