一章 再び二十数年後 別荘廃墟にて
一
さて、少しややこしくなってしまったこのミステリー「殺人事件ライラック~」であるが、話を事件当日に戻し、先に進めるとしよう。
実際に二人の手記があるし、主治医なる人物もいるので、このまま話を進めてもよいのだが、読者の混乱は増すばかりに違いない。なので――
例えば、こう考えてみてはどうだろうか? そうした手記やらをデータとしてAIに与えて、こう指示を出す。
これらを読み解いて、読みやすい小説――ミステリーにしてください。可能なら真相を語る前に「読者への挑戦状」を挿入してください。
と――
AIはまず複数の登場人物の視点が交錯するのを整理したいと考える。そこで神の視点を導入する。つまり仮定として別荘のあちこちにカメラを設定する。
いや、実際にカメラはあったのだ。そして、そのカメラの映像をじっと見ていた複数の観測者がいたのだ。
シュレディンガーの猫よろしく、猫すら観測するまでは重ね合わせの状態にある。いわんや人間をや。
鹿野信吾はブリキの花嫁のバケツを引っぺがしたのか否か? 観測されるまでそれは重ね合わせの状態にある。観測して初めてどちらかに決定される。
ただ――
カメラの観測者はすべてを見てはいない。いや、見ていたとしても書けないこともある。書いてしまうとミステリーにならないからだ。読者には、それはご理解いただいて……
では階段の踊り場にバケツを被ったブリキの花嫁が現れたあの場面から――
* * *
深夜、別荘の階段の踊り場にウェディングドレス姿の人物が立っていた。手にバケツを持っている。
そのシーンをカメラを通じて映像を見ている観察者の一人が呟く。映像には人物の顔がハッキリ映っている。
「会長、御子息です」
「ああ、あのバカ息子……」会長と呼ばれたもう一人の観察者がそう嘆く。「これで近藤グループもお終いか……」
「流石にもうどうしようもないです」そういう声も出る。
観測者は三人以上はいるようだ。
「サイコパスは病気……」会長が苦しそうに「逮捕されても心神喪失で無罪になるのかもしれないが……」
「ご指示があれば……ご決断を……なんなりと」
会長の息子が手にしたバケツを頭に被った。
「会長……ご決断を。これ以上、犠牲者を出すわけには……」
「わ、わかった」
促されて会長が立ち上がり、更に全員が立ち上がる。そしてそのまま退室する。
カメラの映像は続いているが、観測者がいない。しかし、AIは登場人物の顔を認識できる。なので読者になり代わってAIにこう訊ねてみよう。
水沼はいますか?
AI:わかりません。映像には映っていません。
いちりとせは聴こえますか?
AI:残念ながら映像のみです。音は聞こえません。
いや、AIへの質問はここまでにして物語を先に進める。
バケツを被った近藤――ウェディングドレス姿のブリキの花嫁はそのまま階段を駆け降りると、玄関を開け、離れの方に走っていく。バケツのままでは前が見えず走りにくいのか、バケツは手に持ち、顔にはいつの間にか鬼の面を被っている。
そのあとを鹿野信吾と水沼が追いかけるが、追いつかず近藤は離れの玄関の扉を開けて中に飛び込んでいった。
鹿野と水沼の二人は何やら話をしていたが、鹿野はスマホを出して何やら操作している。どうやら離れで寝ている良美にメッセージを送ったようだが、返事はないらしい。
まずいな。これでは無声映画だ。マイクがあるわけではないが、少しは声も拾っておくことにする。
いや、母屋の裏から、じっと二人を窺う何者かがいたとでもしておこう。時代劇なら忍びの者とも言えるようなすっかり気配を消した、その者がいたとしておこう。顔にはサングラスとマスク。そういう者が聞き耳を立てている。とぎれとぎれにしか聴こえないが、踏み込むかどうかで悩んでいるようだ。
離れでの二人の会話。概略だけ書いておくと……
水沼:「で、どうするんだ? 中に入るのか?」
鹿野:「踏み込む……しかし――」
水沼:「良美ちゃん、離れじゃなくて二階の寝室で寝てるんじゃないか? 俺たちはふざけた近藤に遊ばれてるだけじゃないのか?」
鹿野:「いや、そんな……」
水沼:「じゃあ、俺がちょっと見てくるよ、二階の寝室を」
水沼は母屋に引き返す。
それでは水沼に着いて行ってみよう。気づかれないよう――忍びのようにそーっと、気配を消して……
母屋に戻った水沼は二階に上がっていくと近藤の寝室をノックした。返事はなく、水沼はそっと寝室のドアを開く。
「良美ちゃん、寝てるな」水沼はそう呟き、そのまま扉を閉めた。
しばらく水沼は寝室の外で立ち尽くしていたが、
「すると殺されるのはやっぱり近藤の方か。まあ考えればわかるか」
確かに水沼はそう呟いたのだった。
* * *
いや、小説――ミステリーだとしてもこの書き方は少し無理がある……
ただこの章に嘘は……ない……
* * *
ミステリーとしてかなり無理があるのだが、やはり敢えてこれは書いておく。二階の寝室にも実はカメラがあった。そして水沼が覗いた入り口からのアングルでは見えなかったが、カメラはしっかり別の角度から映像を捉えていた。
しかし、その映像を見ている観察者は今はいない。だがほんの数分前、ブリキの花嫁が寝室を出る前に、観測者である会長がその映像をハッキリと見ていたのだ。そしてハッキリこう嘆いた。
「どうしようもないバカ息子、勝男が妻を殺して首を撥ねた。首さえ撥ねなければまだ助かったかもしれず、また仮に死んでしまったとしても過失による事故だと言い逃れることはできた。近藤グループの力をもってすれば優秀な弁護士をつけてやれる。だが、もうどうしようもない。首を撥ねてしまったらもうどうしようもない。良美さんをサイコパスの息子が殺して首を撥ねてしまった。恐れていたことが現実になった。いや、恐れてはいなかった――よかれと思ったことが逆効果――我々が愚かだった、浅はかだった……。いや……」
やはり会長のこの地獄の嘆きを読者にも伝えておこう。
繰り返すが、この章に嘘はない……
……はず……
書いているこれがミステリーとすれば……
いや、これはミステリー……
の……はず……
再び二十数年後 別荘廃墟にて
藤沢はWeb小説「殺人事件ライラック~」を読むのを途中でやめ尾崎の方を見た。
「どうしました?」尾崎が訊く。
「いや、ちょっと小説が変な感じになってきてるんですが」藤沢が困り顔でそう言う。
「ああ、AIとかのとこですか?」尾崎が笑う。
「ええ、まあ、いや、ただ……」藤沢が真面目な顔をする。「これから話すことはちょっと悩むんですが……」
「悩む?」
「ええ、事実を話しますが、守秘義務はあるのでオフレコでお願いします」
「ええ、心得ています」と頷く尾崎。
「どうも県警の上層部と近藤グループは繋がりがあるので……」
「ええ、知ってますよ。県警上層部にも近藤グループの……」
「そうですか、知っていましたか。まあとにかくあんまり喋ると私の方もまずいというか、身の危険もありえるのですが……」
「お互い本名は隠してますよ。そんなにまずくはないのでは? まあ強要はしませんが」
尾崎にそう促されて藤沢が話をする。
「実際にカメラはあったようなんです。全焼した現場からその残骸が見つかったはずです」
「はず?」
「ええ、捜査の正式記録からは削除されたと思います。そうしたカメラがあったことは」
「上層部が……」
「ええ、近藤グループからの圧力なのか? こっちの忖度なのかはわかりませんが」
「すると小説の話はあながちいい加減ではない?」
「ええ、近藤グループの創業者、会長が見ていたのかもしれない」
「カメラを仕掛けるなんて、殺人事件が起こる可能性を会長は知っていたのかもしれない?」
「いえ、そこは道楽息子の変態趣味で……」
「ああ、ゲストハウス……」
「バスルームにもカメラがあった可能性が……。一階の三つの客室のバスルームにはカメラあったかもしれません。離れと二階のバスルームにはなかったそうですが……。つまり狙いはゲスト……」
「そりゃ、破廉恥な……。でも結局その映像は捜査陣は見ていない」
「ええ、記録として公式にはカメラとその映像への言及は一切ありません。ただ、聞いたところではカメラはあって会長他何名かがその映像を見た可能性はあります。ただ、すぐに消したらしく……」
「なるほど。でもまあ、消すでしょうね、まずい映像が残っていれば。それに残念ではありますが、残っていればミステリーにはならない」
「まあそうかもしれませんが」
藤沢はそれだけ言うとしばらく黙った。
「ひとつ話せる範囲でいいのですが……」藤沢は尾崎に訊く。「尾崎凌駕さん、あなたは探偵でないとしたら何なんです? 職業は?」
「職業ですか? 無職の自由人と言いたいですが、形の上で籍はまだ残っていますかねぇ」尾崎は笑った。
「籍? 何をされているんです?」
「私は医者です」尾崎は言った。
「ああ、東大医学部でしたね。『思案せり我が暗号』にそうあった。で? 専門は? 精神科ですか?」藤沢はじっと尾崎を見る。
「いえ、外科です。脳外科」
「勤務先は?」
尾崎は笑ったまま答えない。
「ひょっとして――」藤沢はある医療センターの名前を上げた。
尾崎は少し困った顔で――、
「最先端の研究をしたい者にはいい環境を提供してくれるとこらしいですね。かなりやばい噂もあるかもしれませんが」
「その回答はどう理解すれば?」
その藤沢の問いに尾崎は笑ったまま答えなかった。
「黙人ですか? それとも黙狂ですか?」
「ライラック 階段いざなう 夢の国」俳句でとぼける尾崎。
藤沢はそれ以上何も言わず、再びWeB小説を読み始める。
尾崎は階段に座って物憂げに頬杖をついていた。
藤沢は最後まで読み終わると顔を上げた。
「『繰り返すが、この章に嘘はない……』とか言いながら『これはミステリー……の……はず……』で終わりましたよ。うーん……。『主治医による挿入(読者のために)』という章があって、その後新しい章が始まりましたが……。しかし、何でしょうね? 妙な感じだ。近藤グループの会長と思われる人物が、カメラの映像を見て、『息子、勝男――これは実名ですね――近藤メディボーグの社長が、妻の良美さんの首を撥ねた』とか言っていますが……。うーん、この時点でこう書かれるのはミステリーとしてどうなのかな? ああ、だからミステリーの『はず』なのかな?」
「まあ、少し奇妙なミステリーですね。この先はどうなるんでしょうね。藤沢さんは現実の事件の真相を詳しく知っているんですよね?」尾崎が訊く。
「まあ、そうですが……。いや、今日はここまでにしましょう。小説はまだ終わっていない。続きが書かれるのを待ちたい」
「現実の事件について話してくれませんか?」尾崎がそう頼むと、
「いや、今はまだ話さない方が……。この小説の続きが書かれるのが先でしょう」藤沢は首を横に振る。
「そうですね。ではもう少し小説が進んだら、また――」
「わかりました」
藤沢と尾崎は再会を約束して今日のところはお開きにすることにした。
「ところで、先ほどの『尾崎諒馬のインタビュー記事』コピーさせてもらっていいですか? どこかでコンビニによるので」
「ええ構いませんよ」藤沢は快諾する。
別荘の廃墟を後にして砂利道を下りながら尾崎が後ろを振り返る。
「全焼してもコンクリートの基礎は残っているので、やはりあの階段は見事ですね。ミステリーという夢の国にいざなうあの階段ですよ」
「そうですね」藤沢が同意する。
「我々は巨人の肩の上に座っています。先人の偉大な成果の上にちょっとだけ自分の成果を載せているだけです」尾崎が言う。
「謙虚に言えばそうですね」
「しかし、新しいことを成すには古いものを壊さねばならないこともある、そう思いませんか?」
「まあ、そうでしょうね」
「でも、基礎まで壊したら失敗します。それは単なる独りよがりでしょう」
「ミステリーの基礎の話ですか?」藤沢が訊く。「その基礎は何です?」
「小説ですよ。ミステリーは探偵小説、推理小説なんですよ。小説じゃない、例えば――」尾崎は少しためた。「小説の上位互換の大説なんて宣言したら――、それはもう……ねぇ……」
藤沢は尾崎が何を言おうとしているのか大体わかっていた。それで、ただ一言こういった。
「そうそう」
「あ、そうそう」尾崎が思い出したように言った。「小説の中で『息子、勝男が、妻の良美さんの首を撥ねた』とかありましたよね? 妻の良美さん――婚約者じゃなくて妻?」
「ええ」藤沢が答える。「先ほど、現実の事件について話すのを拒みましたが、これだけは話しときます。勝男と良美は事件当時既に入籍していて夫婦になっています。しかし、これが重要でしょうか? 些細なことでは?」
「さあ、どうでしょうね」尾崎はとぼけた。




