ミス・マープルを探せ事件
父親が生まれ育った町は、国際貿易港を中心に発展した港町だ。父親と一緒に新幹線を降りて、ローカル線に乗り換える。お祖父ちゃんとお祖母ちゃんが揃って改札口で待っていた。
「クリスティ!」
「クリスちゃん!」
父親の手を離し、もつれる様に走る。
お祖父ちゃんとお祖母ちゃんに交互にハグされながら、クリスティは懐かしい匂いを吸い込んだ。
春休みのある週末、母親は他県で開催される学会に出席する為に、前々日から四日間ほど家を空けるという。
「わたしも、どこかへ、行きたい」と言うと、父親は祝日と土日の間に有休を取り、クリスティを連れて実家に遊びに来たのだった。
「ミス・マープル」
お祖母ちゃんは、屈んで父親の持つケージの中をそっと覗き込んだ。
「しんかんせんで、おりこうに、していたんだよ」
「そう、良い子だったのね。早くお家に行って、此処から出してあげたいわね」
ニャーン
ミス・マープルは、オッドアイでお祖母ちゃんを見上げた。
祖父の家は、駅から車で十分ほど。坂の途中にある『阿形歯科医院』と書かれた看板が目印だ。今は、若先生こと、クリスティの父親の兄が医院を継いでいる。
医院の奥に二世帯住宅の自宅があり玄関を開けると、従兄弟が待っていた。
「クリスちゃん! いらっしゃい!」
兄弟が声を揃える。
「アッちゃん、ヤッちゃん、こんにちは」
アッちゃんは、小学一年生。ヤッちゃんは、クリスティと同じく年中さんだ。
顔を合わせるのは久し振りなので、どこか気恥ずかしい。顔を見れずに、ちょっと視線を外してしまう。アッちゃんとヤッちゃんは、恥ずかしくないのかな。
「遠い所、大変だったわね」
ミエ伯母さんはスリッパを並べながら、クリスティと父親に交互に笑い掛けた。
「お義姉さん、二、三日お世話になります」
父親は、買ってきたお土産を差し出した。
「あら、K軒のシウマイとJ飯店のパイナップルケーキ! ご馳走様」
「クリスちゃん、こっち、こっち」
アッちゃんとヤッちゃんが、家に上がるやいなやクリスティの手を引く。
「う、うん。ちょっと、まって。ミス・マープルに、おみずや、おやつを、あげたいの」
お利口にしていた愛猫をケージから出して抱っこして見せる。
「めが、きれいだよね」
「きんめ、ぎんめって、いうんだっけ?」
兄弟は、ミス・マープルを触ろうとして、猫パンチされた。
「ちぇ、なんだよー」
「なれないところに、きたから、きんちょう、してるの」
「ふーん、ネコを、かったことがないから、よくわからないや」
アッちゃんとヤッちゃんは「あとから、きて」と言って居間に行ってしまった。
お祖父ちゃんとお祖母ちゃんは、「荷物を置いてくる」と言い、もう一つの玄関から入った。
水やおやつをもらって、少し落ち着いたミス・マープルを、兄弟が遊ぶ居間の床に降ろした。ブルーグレーのシャギーカーペットの上で、ミス・マープルはクリスティの側を離れない。
大きなガラスの掃き出し窓からは、庭の木越しに医院の建物が見える。
兄弟はテレビゲームで遊んでいた。
ジャンプしたり、走ったり、戦ったり。
目まぐるしく動く画面に兄弟は殆ど瞬きもせずコントローラ―を手に集中している。
「うぉっ」
「くそっ、なんだよー!」
BGMや電子音が絶え間なくする中に、大きな独り言が混じる。
「クリスちゃんもやってみる?」
アッちゃんが、振り向き、声を掛けた。
クリスティは、テレビゲームを、あまりやったことがない。特にこういうアクションゲームは、自信が無かった。
「ううん、みている。やりかたが、わからないの」
「おしえてあげるから、すこし、やってみ?」
アッちゃんは、コントローラーを譲り、操作方法を教えてくれるが、上手くいかない。
「あれ、あれ、おしているのに、おかしいな」
「まって、まって、そっちじゃない!」
思わず、声が出てしまう。
「クリスティ、そろそろ行くかい?」
父親が居間に顔を覗かせた。
お散歩に行く約束をしているのだ。
「パパと、おさんぽに、いってくるね」
念の為、ミス・マープルはケージに入れた。ケージの中の方が、落ち着いているように見えたからだ。
父親の実家に来ると、いつも父親と散歩に行く。父親が話す思い出を聞きながら歩くのが好きだ。
中でも、好きなのは、父親が通っていたカトリック系の保育園だ。尖った塔が二つあり、塔の上に十字架が付いている。塔の後ろにはレンガ色の大きな屋根が見えた。
「えほんに、でてくる、おしろ、みたい」
初めて見た時、そう呟いた。
「まどが、いろんな、いろで、きれいだね」
「ステンドグラスっていうんだよ」
もう、何度も聞いたけれど、何度でも聞きたい。
「木で作られたゴシック建築で、中がまたすごいんだよ。白くて天井が高くてね。本当にヨーロッパのお城みたいなんだ」
父親は目を輝かせる。
父親の話は、よく分からないところもあるけれど、最後に決まってこう言うのだ。
「パパがね、建築のお仕事をするようになったのは、この教会を、綺麗だなぁって思ったからなんだよ」
パパのお仕事は建築士だけど、他にもあるよね。それは、サンタさん!
手を繋いでいる父親を見上げてニマニマする。昨年のクリスマスに知ってしまったすごい秘密。
「うん? クリスティもこの教会好きかい?」
「うん。すてきだね」
坂道を上ると、小さな商店街があった場所。
「昔は、八百屋さんとかお肉屋さんとか、お魚屋さんが、全部別々にあったんだって。お祖母ちゃんが言っていた」
「スーパーは、なかったの?」
「パパが子供の頃には、スーパーしかなかったね」
「此処は、パパが通っていた小学校」
「もんが、しまっている」
「中には入れないか。クリスティに見せたかったな。随分と歩いたね。そろそろ、帰ろうか」
「パパが、そだった、ところを、みるのは、おもしろいよ」
何度歩いても面白い。小さな子供の父親を想像して、不思議な気持ちになる。
クリスティと父親が阿形歯科医院に戻ると、家の中が騒がしかった。
「クリスちゃん、ごめんなさいね」
慌てた感じで玄関に出て来たミエ伯母さんが、いきなり謝った。
何がなんだか分からずに、父親と家に上がり居間に行くと、ヤッちゃんが大泣きしていた。
「うわぁーん、クリスちゃん、ごめんね、ごめんね」
「どうしたの?」
兄のアッちゃんが、深刻な顔で床に置かれたケージを黙って指差した。
ミス・マープルを入れたケージの扉が開いている。
「ミス・マープル?」
嫌な予感がしてしゃがみ込んでケージを覗くが、そこに愛猫はいなかった。
「……ミス・マープルが、いない」
状況が呑み込めない。
ミス・マープルはどこへ行ったの?
「どうしたのかな?」
クリスティに代わって父親が訊ねる。
「ヤッちゃんが、ケージから、だしたんだ。ネコちゃんは、しばらく、まどのそとを、みていて、それから、そとに、でていった」
「うっ、ぐっ、だって、ずっと、ケージの中をウロウロして、ニャァニャァないて、かわいそうだったんだもん。ぐすっ、ぐすっ」
「ごめんなさいね。丁度、私が換気の為に掃き出し窓を少し開けてあったの」
ミエ伯母さんが、身を縮めて付け加えた。
「そ、れで? ミス・マープルは……うっ」
涙が溢れて全部を言えなかった。
春休み前のノリコ先生の話を思い出す。
『春休みにお出掛けする子もいるから、大切なお話をするよ。お出掛け先は、皆が知らなかったり、慣れていなかったりする場所です。迷子にならないように、一人で何処かへ行かないようにね。先生とのお約束』
ミス・マープルは、知らない所で迷子になって、泣いているかもしれない。
心配で胸が押し潰されて、息が苦しい。視界がぼやけていく。頬を後から後から涙が伝い、しまいには声を上げて泣いた。
「それって、いつの話? どっちに行った?」
父親が、訊いている。
「二人が帰って来るちょっと前なの。すぐに庭や医院の駐車場の付近は見たのだけれど」
「ということは、通りの方に出たのかな」
父親は独りごちる。
「……クリスティ、探偵のお仕事だよ」
クリスティの金髪クルクル巻き毛を、父親の手が撫でた。
「探偵」と聞いて、クリスティは、目をギュッと瞑り、わななく唇を引き結んで泣くのを堪えた。
いつもなら、アユちゃんの「じけんよ~! じけんよ~!」で、探偵スィッチが入るが、今は春休み、アユちゃんはいない。
「うっ、ぐっ……じ、じけんよ~! じけんよ~!」
クリスティは涙声で言うと、荷物の中から赤い伊達眼鏡と可愛い手帳を取り出した。しゃくりを上げながら、涙を手の甲で拭う。
「ひっぐ……たんていの、でばんの、ようね」
「さぁ、パパと一緒に探しに行こう。持って行く物は、ミス・マープルのバスタオルとおやつ。あと玩具かな」
父親は、クリスティの涙と鼻水を、優しくティッシュで拭いてくれた。
「ぼくたちも、いっしょに、さがすよ」
アッちゃんは、泣き顔の弟と顔を見合わせ申し出た。
「大丈夫だよ。家で待っていて」
歯科医院を出ると父親が訊ねた。
「さて、探偵さん、どうやって探すかな?」
クリスティは、右手のグーを顎に当てて考える。
「まずは、ききこみ」
「ミス・マープルの写真を持っているかい?」
「……うん」
クリスティは、手帳の裏にいつも挟んである写真を見せた。
金目銀目の白いペルシャ猫が赤い首輪をしている。大好きで大切なミス・マープル。クリスティは、写真を右手の指先でそっと撫でた。
待っていてね。すぐに、見つけるから。
「よし、じゃあ行こう」
父親は坂道の歩道を下り始める。前方から、紺のジャージの上下を着た男子学生が上って来た。ラケットバッグを背負っている。休日に部活動だろうか。
「すみません。猫を探しているのですが、見かけませんでしたか?」
「このねこなの」とクリスティは、写真を見せる。
男子学生は写真をチラリと見ると、「知らない」と首を振った。
「ありがとう」
クリスティも父親の横で小さな頭を下げる。
「通りを渡ってないといいのだけれど。道路を渡るのは危険だからね」
お外は危険がいっぱい。
どうか、ミス・マープルが車に轢かれませんように!
「ああ、でもこの先には川があるな」
「かわ?」
クリスティは不安になった。ミス・マープルは、お風呂というか水が苦手だったからだ。
「おちたりしないかな?」
自分で言って、最悪の光景が目に浮かび、涙が出そうになる。
前から来たおばさんに訊ねる。エコバッグから、大根と長ネギが飛び出していた。
「ねこを、さがしているの」
写真を見せる。
「あら、綺麗な猫ちゃんね。その子かどうか分からないけど、さっき、そこを右に曲がった所で白い猫を見たわ。もし、間違っていたら、ごめんなさいね」
クリスティは、父親と顔を見合わせる。
お礼を言って、おばさんと別れると、父親が指さした。
「この通りを右に曲がったのかな」
直進すれば川だったが、そちらには行かなかったようでホッとした。
おばさんが見た子が、ミス・マープルでありますように。
父親とクリスティは、歩いている人に訊ねながら進んだ。今のところ目撃者はいない。
本当にこっちに来たのかな?
さっきのおばさんの見間違いかもしれない。
ミス・マープルを見つけられるだろうか。
ちゃんと、お家に連れて帰れるのだろうか。
もし、見つからなかったらと思うと、クリスティの足は重くなり、ついに歩けなくなった。
「どうした? クリスティ?」
立ち止まった娘に、父親が声を掛ける。
「みつかるかな」
自分でも驚くほど、小さくか細い声だった。
「……見つけるさ。君が見つけてあげなきゃ。ミス・マープルが待ってるよ」
父親は屈んで目線を合わすと、励ますように、クリスティの肩をポンポンと叩いた。
「う……ん」
滲んできた涙を手で拭う。
そうだ。自分がしっかりしなくては。クリスティは、手帳を胸の前でギュッと握って頷いた。
探偵なのだから、ちゃんと考えよう。
ミス・マープルが行きそうな所は、どこだろう? ミス・マープルは騒がしいのが苦手で、静かな所が好きだった。
「パパ、このちかくで、しずかなところって」
「うーん、……こっちかな」
父親は、また右に曲がる。石段を数段上ると
石の鳥居があった。大きな木々が見上げる青空を、いびつに切り取っている。静かで、冷たく澄んだ空気。クリスティは身が引き締まるような気がした。
「八幡神社だよ。パパが子供の頃、友達と節分に豆を拾いに来たり、夏にはラジオ体操をしたりした所さ。お参りして行くかい?」
クリスティは頷いた。
「お賽銭を入れて、鈴を振って、二礼二拍手一礼だ」
父親の真似をしながら、参拝する。
ミス・マープルが、早く、見つかりますように!
「ミス・マープル~!」
「ミス・マープル~!」
二人で呼びかけながら、境内を探すうちに、竹ぼうきで掃き掃除しているお爺さんをみつけた。
「おじいさん、ねこを、さがしているの」
クリスティは写真を見せる。
「あ、ああっ? 猫か」
少し、耳が遠いようだ。
お爺さんは、ちょっと考えるように首を傾げてから「おお」と声を出す。
「そういえば、ちょっと前に、ふわふわの白いのが、あっちの住宅地の方へ走って行ったわ。猫かどうか、分からんがな」
父親はお礼を言い、クリスティがお爺さんにバイバイと手を振ると、来た時とは違う、もう一つの鳥居の方へ向かった。
「この辺りは住宅地だな。何処かのお家に入ってしまったのかな」
自動車が一台通れるかどうかの細い道を進んで行くと、どこかで女の人の声がした。
「しろちゃん、しーろちゃん、おいで、おいで。そこから出て来て」
「しろちゃん?」
「パパ、もしかしたら、ミス・マープルかも」
以前、自宅の近所のおばさんが、ミス・マープルを見て「しろちゃん」と呼んだ事があった。白い猫だから、「しろちゃん」と呼んだのだろう。
声を辿って行くと、槙の生垣の向こうから聞こえる。背の高い生け垣は、中が見えそうで見えない。父親は、声がする庭の方に回って枝折戸越しに声を掛けた。クリスティもついて行くと、砂利を敷いた庭で、四十代くらいの女性が物置の下を覗き込んでいた。
「こんにちは、すみません。何をしていらっしゃるのですか? 声が聞こえたものですから」
女性は体を起こして、枝折戸の外に立つ父親とクリスティを見た。
「猫が、物置の下に入ってしまったみたいで……」
「猫を探していらっしゃるのですね。実は僕達も猫を探しているんです。よろしかったら、そちらの猫を見せて頂けませんか?」
女性は、此処は自宅ではないが、住人に了解を得て庭に入らせてもらっているのだという。
そこで、父親は玄関に回って、自分達も庭に入らせてもらう許可を取った。
枝折戸からすぐの所に、大きな物置が二つあった。コンクリートブロックの上に設置されているので、地面との間に隙間が出来ている。猫はその隙間に居るらしい。
「しろちゃん、でしたか?」
父親と一緒にクリスティも砂利の上に這いつくばって、隙間を覗いてみた。薄暗くて猫の色は分からないが、コンクリートブロックの陰に猫の目が見えた。毛足の長いシルエットだった。
ミス・マープルも狭いところが好きだ。
「おいで、おいで、こわくないよ」
ミス・マープルならクリスティの声を聞き分けるのではないか。
父親の持って来たおやつの封を切って、差し出してみるが、猫は動かない。
「お腹空いていないのかな」
「じゃあ」と言って、今度は猫じゃらしを隙間の入り口で振ってみる。
伏せていた猫がピクリと反応した。
「おいで、おいで、だいじょうぶだよ」
『森のお家ニャンゴロー』のニャンゴローはクリスティの呼び掛けに姿を現したが、このしろちゃんは、どうだろうか。
果たして、猫は物置の下から、のそりと姿を現した。
「しろちゃん!」
飼い主の女性が、嬉しそうに、そっと抱き上げる。
「しろちゃん?」
現れた猫は焦げ茶色の毛足の長い猫、ラガマフィンだった。クリスティは困惑した。
「えっと、しろちゃん、というのは?」
父親も怪訝そうに、飼い主の女性に訊ねた。
「ほら、お腹が白いでしょ。だから、しろちゃんなの。お嬢さん、ありがとうね。あなたの猫ちゃんも早く見つかると良いわね」
「……」
「……もしも、この猫を見かけたら、こちらまでご連絡頂けませんか?」
父親がミス・マープルの写真を見せ、連絡先のメモを手渡した。
「んんー? あら? この猫ちゃん」
「見かけましたか?」
「さっき、しろちゃんが、そこの物置の下に入る時に、入れ替わりに飛び出してきた猫ちゃんじゃないかしら」
「どちらの方へ行きました?」
「お隣のカミナリ、いえ神波さんのお宅の方へ行ったと思います」
隣家との境界には、大人の背丈位の目隠しフェンスがある。ミス・マープルらしい猫は、真っ黒なフェンスの下部と基礎の隙間を潜って隣家へ行ったらしい。
「ありがとうございました」
この家の持ち主と、しろちゃんの飼い主に礼を言うと、父親とクリスティは隣家に向かった。隣家は敷地が広いので、入口まで少し歩かなければならない。
「ねぇ、パパ。さっきのおばさん、カミナリさんって、いっていたよ。こわいひと、なのかな」
いつも、ゴロゴロピカピカ怒っているオジサンの姿が頭に浮かんだ。
怖い人だったらどうしよう。
「ミス・マープル、いじめられて、いないかな?」
悪い事ばかり考えてしまう。
「神波さん?」
父親は何か考えているのか、クリスティの言葉が耳に入らないようだ。
「ねぇ、パパってば」
「……ああ、もしかしたら!」
見上げるクリスティの視線に気付いたように父親はニッコリと笑った。
「ごめん、ごめん。カミナリさんは、もしかしたら、パパの知っている人かもしれないよ」
四台くらい車が入りそうなシャッター付きカーポートの横に大きな黒い扉の付いた門が見える。扉脇の石造りの壁には『神波』と表札があった。屋根付きの門も大人の背ほどの高さがあり、内部を伺うことは出来ない。
「なんだか、すごい、おうちだね」
父親はインターホンのボタンを押した。
「……はい」
落ち着いた女性の声が応える。
「阿形と申します。うちの猫がお宅のお庭に入り込んでしまったようなのですが」
「少々お待ちください」
ややあって、今度は、しゃがれたお爺さんの声が応えた。
「阿形さんと、仰ったかね?」
しばし沈黙がある。
「画像を確認しているのかな?」
父親は、クリスティに顔を向けて、小声で囁いた。
「……あんた、歯医者の阿形のとこの、ケンちゃんかい?」
父親の名前は、ケンという。
「あ、はい。父がお世話になっております」
「ちょっと、待ってな」
ガチャリ
自動で門扉が解錠され、静かに開いた。
「どうぞ」
インターホンが言う。
お爺さんの姿は見えないが、中に入れということらしい。玄関ポーチまでは石畳になっており、結構遠い。手入れされた芝生が広がっている。
「パパ、しっている、おじいさんなの?」
「お祖父ちゃんのお友だちだよ」
「へー」
「地元の会社の偉い人なんだよ。お祖父ちゃんとは、高校の同級生なんだって」
「なんで、カミナリっていうの?」
「見てのお楽しみ」
父親は片目を瞑る。
玄関ドアを開けたのは、お爺さんだった。
カミナリ様だ!
クルクル巻き毛の白髪は固そうで、ヨシミ先生を男にしたようなごつい顔。太い眉毛の下にある目は、まるで睨みつけているように強い光を放っていた。そして、着ているセーターが虎柄。背中に太鼓を背負っていないけれど、いつか絵本で見たカミナリ様にそっくりだった。
「ご無沙汰しております」
「おお、本当に久しぶりじゃ。爺さんとはしょっちゅう会っているけどな」
「父がいつもお世話になっております。これは、娘のクリスティです。クリスティ、こちらは、お祖父ちゃんの古くからのお友だちの神波さん」
「こんにちは」
「ほう、ワシと同じクルクル巻き毛じゃの。ハッハッハッ」
神波さんは、豪快に笑った。
「お休みのところ、申し訳ないのですが、うちの猫が、お宅のお庭に入ってしまったようなのです」
「そうかい、好きに探していいよ」
家政婦さんだろうか、白いエプロンを付けた女性に「庭に案内してやってくれ」と指示する。邸宅の裏の方へ案内される。綺麗に選定された庭木は低木もあるが、結構大きな樹もあった。広い庭だった。
ニャ……ン
微かな猫の鳴き声が聞こえた気がして、クリスティは辺りを見回した。
「ミス・マープル? どこ?」
ニャア……ン
クリスティは、キョロキョロとする。
父親も視線を遠くに投げ、広く見回している。
「いないね」
「でも、声がする」
ウッドデッキの下を覗き、木々の間を探す。
ニャ……ン
下ばかり見ていたが、何だか上の方から聞こえた気がして見上げると、高い木の上にミス・マープルが居た。
「パパ、あそこ」
「随分と大きな桜の樹だね」
「さくらのき、なの?」
「ああ、ほら、花芽が膨らんで来ている」
「ミス・マープルは、なんで、あんな、たかいところに、のぼっちゃったのかな」
「しろちゃんに、ビックリしたのかもね。さて、どうしようか」
「カミナリさんに、はしごを、かりる?」
「おったかね?」
その時、二人の背後から神波さんの声がし、芝生を踏む足音が近付いて来た。
「ええ、桜の樹に登ったみたいです」
「おお、あんな所に」
「猫は登るには登っても、降りられなくなることがあるんです」
「何か、困っとるみたいじゃな」
神波さんは、桜を見上げた。
「脚立を、お借り出来ますか?」
父親は、家政婦さんが持って来た脚立に上って、手を伸ばすが届かないので、ミス・マープルに呼び掛けた。
「ほらほら、こっちだよ」
太い幹をトントンして誘導する。
今乗っている枝が折れないか心配だ。
「そうそう、後ろ向きに、上手だ」
ミス・マープルは後ろ向きにソロソロと降り始めた。
何だか危なっかしい。クリスティは、両手を胸の前で指先が白くなるほど握り締める。
猫は高い所から落ちても、足から着地すると聞いたことがあるが、ちょっと高過ぎる気がした。
「クリスティちゃんといったかな、そのバスタオル貸して」
神波さんは、家政婦さんとバスタオルの両端を二人で持ち、広げた。
「放しちゃいかんぞ」と言うと、桜の樹の下で待ち受けた。神波さんがバスタオルを広げても、まだ高さがある。
大丈夫なのかな?
「あ!」
父親が声を上げる。
「ミス・マープル!!」
ミス・マープルの爪が幹を捕らえ損ねた。白い毛足の長い体が空中に放り出され、空中で体を捻る様子がスローモーションのように目に映る。
落ちる!
クリスティは怖くて見ていられず、目を瞑って首を縮めた。心臓がバクバクする。
ポスンという音と、「ニャ」と鳴き声が聞こえた。
恐る恐る目を開けると、神波さんがバスタオルでくるんだミスマープルを抱っこして、家政婦さんと一緒に笑っていた。
「ほらほら、もう大丈夫だぞ」
ニャーン
クリスティの目から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れた。力が抜けて、その場にへたり込みそうになる。
「すみません。受け止めて頂いてありがとうございます」
父親は、脚立から降りて礼を言った。
「中々、お転婆娘じゃな」
バスタオルでくるまれて、ミス・マープルは大人しく抱かれている。
「カミナリさん、ありがとう」
思わず言ってしまって、クリスティは「あ」っと口を押える。
「いや、ええよ。ワシはカミナリと呼ばれておるのを知っているから、ほれ、こんな虎柄のセーターを着ておるんじゃ」
ミス・マープルを手渡しながら、神波さんは笑った。
「いやじゃないの?」
「子供の頃は、嫌じゃったよ。髪が黒くてゴワゴワのクルクル巻き毛で、眉毛は太く、怖い顔だから、誰も寄って来ない」
怖い顔でも優しい人を、クリスティは知っている。
「でもな、クリスティちゃんのお祖父ちゃんも同じく天然パーマでクルクルしていたから、それがキッカケで友達になれた。もう五十年近く、ずっと仲良しだ。何が幸いするか分からんね」
神波さんは、遠くを見るような目をした。
お礼を言って、父親と阿形歯科医院までの帰り道、今度はバスタオルにくるんだミス・マープルも一緒だ。
「ぶじに、みつかって、よかった!」
ミス・マープルの頭に頬をスリスリする。
「そうだね。君が『静かな所』って気づいたのが解決の糸口になったね。神社にはいなかったけれど、目撃者がいた」
「そこから、しろちゃんを、よぶこえが、きこえて」
「しろちゃんが、焦げ茶色だとは思わなかったけどね!」
「うん」
クリスティと父親は笑った。
「神波さんのお宅で良かった」
「わたしの、クルクルは、おじいちゃんゆずり、なんだね」
「ママも少し癖っ毛だから、ママの分もあるかもね」
阿形歯科医院では、祖父母も一緒に出迎えた。
「そうか、神波の家の庭に居たのか。逃げたって聞いて、心配していたが」
「良かったね、クリスちゃん」
お祖母ちゃんが屈んで微笑む。
「たかい、きから、おりられなくて。みていて、こわかった」
「無事で良かったわ」
ミエ伯母さんは、ヤッちゃんに視線を移す。
ヤッちゃんは、すごく落ち込んでいたらしい。
「ほんとうに、ごめんね。クリスちゃん」
「ううん、もう、みつかったから、だいじょうぶだよ」
自分もミス・マープルを置いてきぼりにしないで、連れて行けば良かったと反省した。散歩用のハーネスも持って来たのだから。
お祖父ちゃんちの和室に、父親の分と二つ布団を敷いてもらう。
「窓や出入り口は閉めてあるから、ケージから出しても大丈夫よ」
お祖母ちゃんが言うので、クリスティはミスマープルをケージから出して布団に入った。
ミス・マープルもモゾモゾと布団に潜り込んで、枕の辺りに顔を出した。
父親はまだ、居間で祖父母や伯父さん達と話をしている。
「ねぇ、ミス・マープル、きょうは、ごめんね。おいてきぼりにしたから、おいかけて、きたのかな? ほんとうに、みつかって、よかった」
沢山歩いて疲れたのか、ミス・マープルは眠そうだ。
「わたしね、いつもは、ちゃんと、さがせるのに、きょうは、だめだった。パパがいてくれたから、たんていの、おしごとが、できたの」
大切な家族のミス・マープルを失うかもしれないと思ったら、頭がグチャグチャになって、冷静に考えることが出来なかったのだ。
「だめだね。こんなじゃ、めいたんていに、なれない。あとね、アユちゃんがいつも『じけんよ~!』っていってくれるのが、たいせつなの。スィッチが、はいるかんじ」
探偵に求められるのは、客観的な観察と冷静な判断、深い思考だと、いつか父親が言っていた。たとえ何が起こっても、自分の気持ちを抑えて『探偵』をすることが出来るだろうかと、不安になる。
ミスマープルをそっと撫で、顔を近付けて匂いを吸い込む。
「わたし、めいたんていに、なれるのかな」
ミスマープルは、眠そうにゆっくりと瞬きをした。
翌日は、お祖父ちゃんの車を借り、アッちゃん、ヤッちゃんと一緒にお出掛けをした。
今日はハーネスを付けたミス・マープルも連れている。
桜の名所のF公園は、まだ一分咲きくらいだったが、此処でも父親の思い出話を聞けた。
「昔、家族でお花見によく来たんだよ。お弁当持ってね。満開になるとすごく綺麗なんだ」
桜を見上げる小さい頃の父親を想像すると、顔が綻ぶ。
「ケンおじさん、うちのおとうさんも、きた?」
ヤッちゃんは訊ねる。
「勿論。もう少ししたら、満開になるから、また、お父さんに連れて来てもらうと良い」
「おにいちゃん、こんど、おとうさんに、いってみよう」
兄弟は頷き合った。
その後、港の方に移動すると、丁度、有名な豪華客船が寄港していた。
海の匂いの風。遠くに水平線が見える。この船は、もっと、ずっと遠くを旅してきたんだ。ミス・マープルは、クリスティに抱かれ、巨大な船を見上げた。
「すごく、おおきいね」
「うみに、うかぶ、マンションみたい」
アッちゃんとヤッちゃんも、口をポカンと開けて見ている。
クリスティは、こんなに大きな物が海に浮かんでいるのが不思議に思えた。
それからアニメキャラクターのテーマパーク等を回って、楽しい一日が終わった。
アッちゃんとヤッちゃんの父親のソウ伯父さんは、休日も用事があり、兄弟は中々一緒にお出掛けできないようだ。だから、とても喜んでくれた。
次の日はあいにく雨降りだったので、一日中屋内でゲーム等で遊んだ。テレビゲームも少し上達したが、一番楽しかったのは、祖父母と一緒に、皆で遊んだトランプやボードゲームだった。
「懐かしいなぁ。まだ、取ってあったんだ」
父親は、子供の頃に遊んだトランプやボードゲームを見て驚いていた。
翌日、クリスティと父親は帰路に就いた。
ローカル線のホームで電車に乗り込む時に祖父母とハグをした。ドアが閉まり、ゆっくりと動き出した電車を追い掛け、手を振る祖父母の姿に、車窓から見えなくなるまで手を振り返した。
「アッちゃんや、ヤッちゃんと、いっぱい、あそべて、たのしかった。おじいちゃんたちに、バイバイするのは、さびしかったな」
思い出すと涙が出そうになる。
「また来れば良いよ」
父親はクリスティの髪を優しく撫でる。
「うん、そうだね。……ねぇ、パパ、わたし、たんていに……」
「ん? 何だい?」
「ううん、なんでもない」
新幹線の車窓を流れる景色が少し滲んだ。
クリスティ達が帰宅してしばらくすると、母親も帰宅した。
「ママ!」
クリスティは、母親に飛び付き、母親は、娘を抱き締めて頬擦りする。
ママの優しい匂いにホッとした。
「ただいま」
お互いに買ってきたお土産を出したり、とりとめもなく出来事を話したり。
楽しかった出来事ばかり話したけれど、本当は一番に話さなければならない事がある。
父親は語らなかった事。
「……そう、ミス・マープルが逃げちゃったの。大変だったわね」
夕食後のティータイム。
クリスティは自分が名探偵になれるのか自信が無くなったと母親に打ち明けた。
母親は父親と顔を見合わせてから、クリスティの手を両手でそっと包んだ。
「誰でも、大切なものが無くなったら、心配で堪らなくなるわ。クリスティはまだ小さいのだから、泣いて何も出来なくなってしまっても、おかしくないのよ。その後、パパと一緒にちゃんと探せたじゃない。頑張ったわね。また一つ、お勉強になったと思うわ。これは、『あがたクリスティ・じけんぼ』に書かなくちゃね」
母親の言葉が心にポッと灯りをともす。
クリスティは頷くと、自室からピンクのノートと鉛筆を持って来てテーブルに広げた。
『ミス・マープルを さがせ じけん』
と書いた。母親にインデックスを貼ってもらう。
『いらいしゃ じぶん』
『なくなったもの ミス・マープル』
『カミナリさんちの おにわのきに のぼっていた』
『わかったこと じぶんのことだと かんがえられなくなる きもちの きりかえは たいせつ』
いつのまにか、ノートの最後のページになっていた。
「こんな事もあろうかと、ふふ」
母親は、笑みを浮かべながら二冊目の新しいノートを取り出した。
「旅行先のお土産屋さんで、可愛いノートがあったから買ってきたの」
母親は、ノートの表紙に『あがたクリスティ・じけんぼ2』と書いた。ご当地のゆるキャラが描いてある。
「かわいい! ありがとう、ママ」
クリスティはベッドの中で、気持ちが少し楽になった自分に気付いた。この先、『あがたクリスティ・じけんぼ2』に書き込む、どんな事件が待っているのだろうと、胸が高まる。
「ミス・マープル、わたし、がんばる。だから、もう、いなくならないでね。やくそくだよ。おやすみ」
愛猫を、そっと抱きしめる。
ミス・マープルはニャッと小さく鳴いた。




