第三話 エロを熱く語る剣客
明治の時代においても、学業優秀な生徒が集まるはずの東京府第二中学校でも、跳ねっ返りの生徒たちは校則については知らぬ顔の半兵衛を決め込んで昼休みになれば校門を飛び出していく。
外食して午後の授業が始まる前に学校に戻ってくればよいという計算。
校門の前までやってきた久佐賀と小野は、急いで走ってくる一人の学生に声をかけた。
「おいおい、坊や」
「何か用? 見てのとおり、こちとら急いでる」
伝法な口調で応じる。
防やと呼ばれた学生は、武太郎と同じ年ぐらい。見るからにやんちゃで元気な男の子といったような雰囲気がある。
小野はたずねた。
「何をそんなに急ぐ必要があるんじゃ?」
「うるさい余計なお世話この唐変木すっとこどっこい引っ込んでやがれと言いたいところだが、袖すり合うのも他生の縁かもしれぬと思わぬでもなし。格別なる御仏の慈悲をもってお教え遣わそう。
昼めし、外でばっちり食ってきた。午後の授業が始まる前に教室にしっかりお戻りになってねえと、こちとら、先生サマにきっちり叱られらちまァ」
口からポンポンと言葉が飛び出す。
怖いもの知らずめ。
久佐賀は、
「口が過ぎるぞ。この御方は会計検査院の━━」
と言いかけて、
「よせ」
止められた。
新設されたばかりの会計検査院のことなど、相手は知るまい。
「どのようなお偉い方か存じ上げませんが。そのようなお偉いお方が賤しい者に何か御用がおありでしょうかね?
こちらにゃそちらさまにゃに御用は全くございませんけど。頼みがあるなら言っとくれ。口の利き方にゃ十分に気をつけやがれ。ものを頼む側がものを頼まれる側に頭を下げるのが世間の道理ってものさ」
世間の道理。
コモンロー。
その言葉は英米法学者である小野梓の心の琴線に響いた。
「ハハハ」
「どうした、いきなり」
「悪かったな。まこと、お主の言うとおりじゃ。ちょいとお願いしたいことがある。この通りじゃ」
帽子を脱いで小野は頭を下げる。
男の子は気圧された様子で、
「そこまで下手にお出になられるというのなら、こちらも礼を尽くさねばなりますまい。俺にできることならば、お引き受けしてようござんす」
と言う。
「わしらは大隈邸の者じゃ。昨日、大隈邸から大切な書類が盗まれてな、盗んだ奴は捕まえたのじゃが、そいつはその書類を逃げる途中でここの中学の生徒の一人に押しつけたらしい。お主は学校で何か聞いておらんかね?」
「聞いてない。俺も顔けっこう広いから、みんなにも聞いとくよ。心当たりがある奴は、大隈さまの屋敷にそいつを届けるように言ってくれという話だね、かいつまんで言えば」
「お頼み申す」
小野は再び頭を下げる。
「頼まれやした。この俺に、まかせてください、旦那」
と言ってから、男の子はたずねてくる。
「ご尊名を是非にも頂戴いたしたく候。
その書類があった場合、大隈さまのお屋敷に届けるとき、話の受け付け先がわからねえと、こちらも困るからさ。
他人に名前をたずねるときには、自分から名乗るのが礼儀と申しますな? こちらが先に名乗りましょうぞ。俺は尾崎徳太郎と言います」
尾崎徳太郎。
後の戯古典主義作家、尾崎紅葉の幼名である。
山田美妙と同じく一八六八年の生まれ。
真実(理想)を抽出することを説く写実主義に対して、古典を参照しつつ日本語の語りの魅力を追求した。
小説におけるストーリー・キャラ・表現の三大要素の中で表現を重点に置く。
なるほど、と小野はうなずいた。
「わしは小野梓という。こちらは久佐賀満吉という。小野と満吉に頼まれたと言えば話は通じる」
「兄さん、満吉さんってえのかい? 右も左もわからぬ若輩者でございますが、爾後よろしくお引き立てのほどお願いしたく候」
十二歳の徳太郎。
あまりにも気安いのではないか?
年長者の久佐賀はいらついた。
「やれやれ、二中の学生と言えば、どれだけの英才がそろっとるかと思えば、ひどいものじゃな」
すると、
「エイサイって何だよ? ケイサイエイセンならば俺も好きだけれども」
徳太郎は笑う。
思わず久佐賀は喚いた。
「貴様みたいな子どもが淫乱斎を読むな!」
「淫乱斎って、兄さんも知ってるじゃん? 英泉の良さがわかるのなら、あんたとは良い酒が飲めそうだ」
「わしは知らんぞ」
小野は困惑した表情を浮かべた。
早口で久佐賀はまくしたてた。
「渓斎英泉というのは浮世絵師です。とても子供の読むべきではない怪しげな春画の絵草子を描きます。女の目の描き方に妖しさがある。天狗が天女を犯しつくす話とか、稲穂から生まれた稲姫が妖怪変化に様々な趣向で嬲られまくるような話とか、荒唐無稽でありもうすが、それゆえ、心に強く引っかかりよるです。淫乱斎というのは、英泉の別名でござる。こやつ、淫乱斎がよいとか人の前で恥ずかしげもなく堂々と広言しよる。子どものくせに淫乱斎が好きとは、いくら何でも、とがりすぎとる。こいつの親ば、いったい何をしとる? こやつの親の顔が見てみたいちゅう気に・・・」
「お主も詳しいのう」
と、小野。
衝撃を受けて久佐賀は絶句する。
「え?」
「この助平者!」
小野は久佐賀の背中をどやしつけてきた。
「すみません」
「いやいや、謝る必要はない、久佐賀くん。さっき、お主のことを若いのに真面目すぎて少し取っつき難いと思ったが、存外に面白いのう。気に入った」