第二話 快男児・小野梓
大隈意見書の写しを盗んだ壮士は、大隈重信な面会するために大隈邸に訪れていた者であった。
ずっと待っされた挙句が、大隈に急用が入って面会が無理になってしまい。壮士は無駄足を踏まされたことに腹を立てた。
怒った壮士は、待合室から飛び出して、屋敷の中を大隈が本当にいないかどうか、確かめるべく探し回った。
その過程で、大隈の部屋の自室の机に例の憲法意見書が放り出されているのを、たまたまま見つけて、腹立ちまぎれの嫌がらせとして、それを持って飛び出した。
発見した書生たちに追いかけられて、神保町の活劇に至る。
雉子橋の大隈邸に引き立てられた後、壮士は、
「捕まる前に、男の子に例の書類を渡した」
と白状した。
「何だって?」
話を聞いたのは、大隈邸の書生たちである。
「まさか、あの坊やかな」
「久佐賀くん、心当たりがあるのかね?」
「あの時、目があっただけでいきなり走り出した。やけに可愛い顔をしてた。あれは目立つ」
神保町の学生専門の古書店を中心に大隈邸の書生たちは聞き込みを開始した。
書店で買うときに言葉の一つや二つもかわすはず。男の子は目立つ特徴ある容姿。それは花も欺く愛らしさ。きっと記憶に残りやすいだろう。
あとは人海戦術。
大隈邸に世話になる書生たちの人数は非常に多かった。
幕臣の娘である大隈綾子夫人は、維新後に生活に苦しむ旧幕出身者を保護した。
大隈重信と同郷の江藤新平が斬首された後も、その関係者を守った。
議会開設問題をめぐって政策ブレーンとして慶應義塾関係者も呼び込んだ。
おかげて、梁山泊と呼ばれるほど、大隈重信の屋敷には常時に大量の人々が存在していたのである。
緊急時においては自他の陣営の人材の質を見極める余裕も知性も失われていく。
互いに愚者ばかりで争いになった場合には、馬鹿にでもわかる数の動員力こそ説得力になる。
質は無力。
数こそ力。
質を問うことなく大量の頭数を常時に自分の手元に置く。
戦国春秋時代の古代中国では、心得ある君子は多くの食客を屋敷に養っていた。
それを明治時代の日本において強烈に実践した政治家が大隈重信であろう。
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書生たちは聞き込みの結果を持ち寄るべく大隈邸に戻った。
情報整理。
「名前まではわからなかったものの二中の学生らしいことはわかった」
「うむ」
「何人もそう聞いてているのだから、二中に通っているということは間違いがないだろう」
「名前まではわからなかった・・・」
「どうする?」
その会話を聞いていた一人の男が口を開いた。
「内幸町の二中な」
「小野先生」
「ちょっと覗いてみっか」
小野梓。
体格も小さく肉も痩せている。
俊傑たることはその面魂を見ればわかる。
嘉永五年(一八五二年)に生まれ、土佐藩で洋式軍隊の訓練を受けた。十七歳で志願しての戊辰戦争に参加。庄内藩の洋式軍隊と一か月にわたり戦闘した。
なかなか物事を投げ出さない。
その策の滾々として尽きざる奇才と大隈重信は評する。
明治四年(一八七一年)から明治七年(一八七四年)にかけて、 米国および英国に留学して英米法を学んだ。
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つき合わされて、久佐賀は雉子橋の大隈邸から内幸町にある東京都府第二中学までの道を歩いた。
小野は言う。
「どうして、大隈さんはあの憲法意見書を公表せんのかな?」
近時の研究によれば、明治十四年三月に密奏された『大隈重信憲法意見書』は従来に言われてきたほど急進的内容でない。
大隈意見書の内容は交詢社の私擬憲法案の内容とほぼ同じであると喧伝されていたが、以下の大きな二つの相違点が指摘される。
(一)終身の永久官として三大臣は残す。
(二)民選議員であれども選挙方法は未定である。
明治十八年(一八八五年)に太政官制が廃止されることになるが、終身の永久官として三大臣を残すというのは朝廷の権威を強く認めようというものである。
英国で普通選挙運動が導入されたのは一九一九年であり、英国流の議院内閣政治を導入するにしても、選挙方法を調整すれば薩長閥の権益も相当に残すことができた。
岩倉・朝廷グループ。
黒田・薩摩グループ。
伊藤・井上・長州グループ。
各方面に配慮した穏当な内容となっている。
この内容については熱海会議で伊藤博文の同意を得たと大隈重信は岩倉具視に語ったという。
嘘でなかったのであろう。
大隈憲法意見書の各グループに対する利害の目配りについては小野の意見によるものもあるのではないかと目されている。
小野は勤王の志士としての活動歴が長く、その若さにかかわらず、他のグループの政府高官たちから『銃弾の下を潜った同志』として遇された。
他のグループの政府高官から情報が直接に入ることもある。
自分たちのグループの主張を絶対視して他のグループを悪と決めつけて敵視するようなことはしない。
極論を嫌う。
「議会の制度内容については伊藤さんの内諾を既に得たとうかがっとる」
久佐賀は、
「私なりに思いあたることはありますが」
と応じた。
「言うてみ」
「財政の問題について、大隈先生は伊藤閣下の譲歩を引き出したいのでござろう。
西南の役のために不兌換紙幣を大量に発行しました。インフレ政策です。おかげで民業は発展しましたが、士族の不満は大きゅうなっとります。
再び大きな戦乱が起きることを恐れて、伊藤公は不兌換紙幣の処理を早急に進めたがっとります。
しかし、大隈先生は民業の発展の流れを止めたくない。デフレ政策に急激に舵を切ることに反対なさっておられる。
デフレ政策に舵を切るにしても、緩やかにやるべきてしょう。急激な経済政策の変化はどぎゃんな方向であれ民の被害が大きい」
「語りよるな、キサン」
小野は唇の端を少し持ち上げた。
久佐賀は続けた。
「国会の来年の開設をしきりに大隈先生は口ではおっしゃっとられますが、あれは最初に大きくふっかけて、いざというちゅう時に捨つるつもりの手札でしょう。
来年に国会開設など立法技術的に無理。実のところ、内心、大隈先生は期日にあまりこだわっとらんのやないかと私は見とります。
思うに、国会開設の期日の問題で大隈先生が譲る代わりにインフレ処理の速度の問題について伊藤公に配慮していただこうちゅう駆け引きをなさっておられるのでしょう」
「ほう」
「そう考ゆると、国会開設の期日の入った大隈先生の意見書が公のものとして世の中に出てしまうというのは、うまくなかです。
下手に公開しよったら調子に乗った不満連中が騒ぎ立つる。
二年後に国会を開設せい、とか。
無理に決まっとるのに。
騒ぎが大きくなりすぎてしまったら、大隈先生が伊藤公に対して財政問題について交渉しよっての間、伊藤公から譲歩を引き出せるちゅう時に、交換条件として大隈先生が捨てる手札ァなくなってしまいます」
憲法意見書と財政問題。
史実では、憲法意見書の公開が遅れた理由として熱海会議で財政問題について伊藤博文と意見が対立したからだ、と大隈重信は述べている。
両者それ自体は関係ない。
しかし、伊藤博文と大隈重信という同じ人間がやることだということで、両者を一つの取り引き交渉の場に載せることが可能になってしまう。
小野は苦笑い。
「こじゃんと色々と見えちゅうな。久佐賀くん、慶応義塾では、福沢さんのところでは、そがな博打の駆け引きのようなことまで教えるのかね?」
「いえ」
「よいよい。わしに足らんところじゃ。おぬし、若いのに大したものや。まだわしも若い。これから修行じゃ」
小野梓には多方面から情報が入ってくる。
大量の情報を物の道理(英米法で言えばコモンロー)を基準にして素早く体系的に処理しようと努力する。
わからないものをわからないまま受け止めることは苦手。
悪く転がれば、厳然と聳え立つ不合理な現実を無視する視野の狭さにつながりかねない。
おのれに至らざる点があるとして反省するものの時間をかけておいおい直していけばよいと楽天的に構えている。
この話の時点で、まだ二十代の若さ。
才能を惜しまれながらも五年後の明治十九年(一八八六年)に肺結核で病没する。