第176話 きっかけ
「おい。ブルト、大丈夫か?」
「あ・・・、ああ。」
俺は捕虜仲間から声を掛けられ、肩を叩かれたことに気が付いた。また、声が聞こえたような気がした。
「最近何かあったのか? ぼーっとしていることが多いぞ。お前らしくもない。」
「心配かけたな。大丈夫さ。」
「なら良いさ。こんな場所にいるからこそ支え合わないと。悩みがあるなら相談してくれよ。」
少し微笑みながら、そう返したが相手が信じたようには見えない。長い付き合いだけに、何かを察したのか、それ以上追及して来ることは無かった。
俺の生活は、帝国軍に捕まったあの日から、何年も変わることがない。規則正しく起き、砦の拡張工事、物資の移動、そして時々戦場。そういった生活が続いている。逃げ出したい、もちろんそう思ったことは何度もある。そういった思いは、鈍く光る鉄製の足かせが容赦なくつぶし続けている。普段つけている足かせは、戦場に出るときにだけは外してもらえる。戦場に出る度に、逃走のチャンスを伺っているが、これまで一度もその機会が訪れることは無かった。
(もう少し、共和国軍が善戦してくれればと思うが、無理な話だろう。)
捕虜は、前線維持要員として駆り出されることがあるのだが、形ばかりになることが多い。向かい合っての戦闘は、弓の射程ギリギリ届かないくらいの位置で一斉射をする。それに合わせて騎兵が突撃するのだが、それだけで大勢がほぼ決まってしまう。逃げ込むべき共和国軍の前線は遠く、しかも俺たちの後ろに帝国兵が監視している。悩みの足かせがないが、逃げられる機会もない。
捕虜になって1年間は、それこそ血眼になって隙を伺った。シモンとエルバのもとに、なんとかしてでも帰ろう、そう考えていた。だがこの砦での生活の中には隙が無く、無為に時間が経つにつれ、段々考えなくなっていた。俺と似たような境遇の捕虜は他にも結構いるが、逃げ出せた奴は誰もいない。体調を崩し、帰ってこなかった奴はいた。
(ある意味、外に逃げられたのかもしれないが・・・)
ここでの生活は、悪いことばかりではない。その一つは、食糧に困らないことだろう。お世辞にも美味しいとは言えないが、生きていける分の食糧は提供される。閉じ込められて、無理やり働かされているが、それでもスラムでの生活より良い暮らしと言っても良いかもしれない。逃げ出せる機会があったとしても、残る奴がいても不思議ではないくらい外の暮らしは厳しい。
実際、この規則正しい生活への慣れと厳しい労働による疲れ、逃走できない無力感からあまり脱走を考えることが無くなっていた。あれだけ妻に約束した、シモンとエルバのことを考えない様になり、漫然と暮らしていた。あの声が聞こえるまでは。
・・・・・
(確かに、女性の声が聞こえる。)
ある意味安定していた生活に変化が起こったのは、1週間ほど前だ。最初は気のせいだと思った。男ばかりの環境で女の声が聞こえるはずがない。これまでこの砦に女性を連れ込むような規律の乱れが起こるようなことは一度もなかったし、俺が知る限り前線の砦に女性が来たことも無い。誰かが聞き間違えそうな高い声を、何かの拍子に出したのだろうと思っていた。
しかし、その声は、ほぼ毎日聞こえている。いや、正確には、少し前から、声でなく直接頭に語り掛けられていると理解してはいた。俺の妄想の産物で死んだ妻が聞こえるのかとも思ったが、似ている要素が全くない別人だ。エルバの声でもない。禁欲的な生活が続いたせいで産まれた幻聴かと思ってみたのだが、色っぽさをまるで感じない。むしろ色っぽさとは真逆の神秘的な響きだ。
(俺は狂っているのかもしれない。)
俺以外にも女の声を聞いた奴がいないか冗談めかして聞いてみたが、噂すらなかった。その不思議な声は昨日も聞こえた。その声には必死さが込められているようで気になっており、ついに睡眠にまで影響が出始めていた。仲間にも心配をかけている。
これ以上、ぼーっとしないように心掛けながら、意識を強く持って牢屋を出た。今日はここでの仕事の中でも、重労働の砦の拡張工事の予定だ。体を疲れさせて、泥のように眠った方が良いだろう。仲間は既に先に行ってしまっている。まだ本調子ではないので、可能な限りゆっくりと階段に向かった。
(ブルト・・・)
少し歩いたところで、いつもの声が聞こえてきた。そしてその声は、確かに俺の名前を呼んだ・・・ 驚いて足を止める。
「だ、誰だ」
思わずうわずった声が出る。周りを見渡しても女性どころか、近くに人もいない。
(考えるだけで伝わります。声を出さないようにしなさい。驚くのも分かりますが、今はそこを動かずに聞きなさい。)
これまで断片的にしか聞こえなかった神秘的な声が、しっかりと伝わってくる。意味は分からないし、考えが上手くまとまらない。
(あ、・・・ああ)
(私は女神イーリス様に仕えるセルカです。ようやく話ができそうですね。イーリス様のお力でも、その場所が限界のようですね。その場所を忘れないようになさい。)
(・・・ああ。やはり狂ったのか俺は・・・)
俺はこれまで神の存在など感じたことも、ましてや信じたこともない。それでも王都で信じられているガイア神くらいなら知っているのだが、イーリスなどという女神は聞いたこともない。
(あなたはまだイーリス様を知らないでのしょう。ですがシモンとエルバは知っています。あなたは彼らの父親ですね。)
子供達が俺の知らない女神に仕えているという。女の声は、とんでもないことを伝えてきた。
(シモンとエルバを知っているのか? 確かにその名前は、俺の子供達のものだ。)
自分の名前だけなら、周りの仲間にも呼ばれているから、知られる機会はいくらでもある。俺の子供の名前まで知っているのは、捕虜の中にはいないはずだ。何か得体のしれないものに、見透かされているようで急に恐ろしくなる。今起こっていることが理解できない。やはり俺は狂っているのかもしれない。例えそうであっても、もし可能性があるのなら。
(・・・シモンとエルバは無事なのか?)
(ええ。私と同じく女神に仕えるリコルドが保護しています。あなたが望むのであれば、そこから救出し、会わせてあげましょう。)
そんな都合の良いことがあるのだろうか? 何年も逃げられずにいた身からすれば、ここから救出できるとはとても思えない。それこそ神の奇跡でも起こらない限り、不可能だ。だが、それでも、もしそんなことが可能であるならば・・・
(ああ! 望む。いや、お願いしたい。もし子供たちに再び会えるなら、なんでもすると誓う。)
(そうですか。その言葉を忘れないように。わかりました。願いを叶えましょう。あまり立ち止まっていると怪しまれます。明日から、少しずつもそこにいる時間を作りなさい。必要なことを伝えます。)
(わかった。いや、承知しました。)
そう伝えると、もう声のようなものは聞こえなくなった。これが現実なのか、それとも狂ってしまったのか。もし明日も声が聞こえるのであれば、女神はいる、そう信じても良いのかもしれない。そして、本当に再会できるのなら・・・




