EP1 ワイの異世界転生はあの子犬から始まった*
◆◇◆◇◆◇
____ 2023年12月11日 午前10時30分 東京。
暑さがワイの心と体を打ち付けた夏が、やっと過ぎたのはまだほんの二か月前の事だった。
チッ
ここに何かやり場のないイライラを、ただ舌打ちするしか無い一人の男がいた。
その男が座っているペンキが剥げた公園の、まだ融けた小雪で濡れた木製ベンチからは、今日も主幹道路を走るトラックや車が、掛けた黒いグラサン超しに良く見えた。
しかし通り過ぎて行く乾いた無機質なエンジン音だけが、男の耳に空しく響いていた。
「やれやれ、もう師走だってぇのに、世の中は一向に変わらねぇな。何か心がわくわくするような、パッとした面白い話は無いもんかねぇ。唯一、大山が来年移籍するかどうか、世界中の関心を集めているのか」
バササ
ゴミ箱に捨てられていたスポーツ新聞の見出しを、ざっと目を通してからそう言うと、男は手にした三本目の燗が出来る日本酒をグビグビっと飲み干した。
ぷはぁ~
「だけどワイは寒い朝っぱらから、安酒でも飲めるような結構な身分じゃねぇが、少し訳ありの身だ。酒でも飲まねぇとやってられねぇしな....けどよ、この頃は好きな酒も旨くなくなっちまった」
次に男がまた道路を見ると、公園に向かう横断歩道を濡れた体を震わせながら、鼻先が黒く焦げ茶色した一匹の子犬が歩いて来る。それもヨチヨチとだ。
キュン キュウゥ~
「捨て犬か......それもまだ生まれて一か月位の子犬じゃねえのか。ん? あれは足が悪いのか? 血ぃが出てるじゃねぇか、早く渡れ!そんなんじゃ危ねぇだろがよ。車に轢かれたらどうするんだよ」
男がその子犬を良く見ると、確かに血に染まった右後ろ脚を引きずっているのが痛々しかった。
「車か他の犬にやられたのか....そんな小さなお前さんでも、世の中の理不尽の中で一生懸命に生きてんだよな。本当に立派なもんだぜ。朝から酒を不満たらたらこいて食らっている俺なんかと違ってよ」
なら、よっこらしょっと。
____この男、名前を近藤哲と言った。歳は38歳になるが、職と住所は転々としている。若い頃からアウト・ローな性格で、仁義に厚く頬に傷まであるが、別に組織の男では無い。しかしそんな顔故に、警官から職質を受ける事がしばしばあった。
「人間を顔で判断するのか? ワイを馬鹿にするなってんだ」
公園で朝から医者から止められている酒を飲んで、フラフラしているのはリハビリの為だ。今から二週間前に、哲は工事現場の足場から転落して足と腰を痛めたのだ。
「今は何とか労災で暮らしてはいけるが......そのうち念願のパン屋を開店して、早く自分の店を持ちてぇものだ」
哲は将来、自分の店を持つ為に強面な顔に似合わず、コツコツと預金をしていたのだった。
「しかし貯金は全然貯まらねぇし、事故でまだ当分働けねぇ....酒ばっかり飲んでりゃ、そりゃ当然だな。弱ったもんだ」
不運な自分の生い立ちと重なるのか、弱い者を見るとどうしても助けてやりたくなるのが哲のいいところでもある。
「足の悪い子犬のお前と、リハビリ中のワイかぁ。とても他人とは思えねぇ。どれ、食べかけのパンでも....将来、俺が焼いたパンならもっと旨くて、きっと病みつきになるぞ、はは期待してくれてもいいぞ」
と哲が腰を上げ、横断歩道に向かって歩き出したが、リハビリ中の身で更に缶チューハイを三缶飲み干した後だ。若干ほろ酔い加減で、ゆっくりとした足取りで、濡れた横断歩道に踏み出した。
ピィコォ ピィコォ
横断歩道の信号は丁度うまい具合に青色で、子犬は依然としてヨチヨチと哲に向かって歩いて来る。
「......誰が捨てたんだか。お前さんのせいじゃないのにな。ほら、さっさとしないと信号が赤に変わっちまうぜ」
怪我をして歩くのが遅い子犬に堪り兼ねて、哲が子犬を抱えたその時、哲は濡れた横断歩道で、履いていたサンダルを滑らせ、大きな音が聞こえたと思った瞬間、哲の意識が緩やかに飛んでいった。
信号無視の車だった。
ヒーホ~ ヒーホ~
”左に曲がります”
”下がって、下がって!”
”中年男性と子犬が一匹、子犬は?”
”子犬も一緒に搬送する”
”バイタル、酸素マスク、ストレッチャー”
”バイタル低下してます!”
『うるせぇな~』
◆◇◆◇◆◇
____ 哲は長い夢を見ていると思った。
横断歩道を、必死で歩いて来る子犬を拾い上げてから、また公園のベンチに戻って、コンビニで買った食べかけのパンを子犬に与える夢を。
その夢は......
子犬は余ほど腹が減っていたのだろう。差し出したクリームパンをあっと言う間にバクバクと、美味しそうに平らげてしまった。
「ほうほう、気持ちのいい食べっぷりだなお前。なぁ、なんなら俺と一緒に暮らす気はねぇか?....なぁヨッチィ」
ヨチヨチ歩いて居たから、哲が適当に付けた名前だった。
やがて哲の意識がはっきりして来ると、今のがやはり夢だと分かった。
『夢中で食べてたな。あのままヨッチィを拾ってやって、俺が飼ってやっても......どうせ嫁も子供も居ない俺には、丁度良い相棒になったものを......無理をしてでもパン屋を開店すりゃ、嫌でも餌代とか稼ぐいい切っ掛けになったのにな』
哲は段々と意識が戻って来るのを感じたが、まだ目は開けられない。すると生暖かい何かで、顔を撫でられているように感じで意識が覚醒していった。
『はは、まだ夢の続きか? ヨッチィに顔を舐められてんのか俺は。やめろよヨッチィ』
哲がゆっくりと目を開く。そしてぼやけた像のピントが合って、次第に周り状況が見えて来た。
「な、なんじゃこりゃ?」
◆◇◆◇◆◇
____「あぁあなた、エリザがやっと目を開けたわ!”汝 ヤコリってて”?」
「ヤコリ? 誰だその名は? 大丈夫なのかエリザは!」
んぁ?!
哲はこの状況をまだ理解出来なかった。出来る筈も無かった。
今俺の手を握って居るのは、バッハみたいなズラを乗せたおっさんと、ブロンド・縦ロール巻きヘアーのおばさんで、二人とも揃って中世貴族のような豪勢な衣装を纏っている。
「あぐ、ワイは.....いったいどうしたんで御座んしょう? それとここは宝塚ですか?違うか、東京だしな」
哲がやっとの思いで、出た言葉がこれだった。
”タカ ズカ”??
戸惑った表情を浮かべて、傍にいた男の一人が答えた。
「エリザお嬢様、<シー・フー・ドドリア>に御座います。エリザお嬢様は、ドレスを踏んでしまい、階段から落ちたので御座いますよ。覚えていらっしゃいませんか?」
??
「はて、料理人経験の有るワイだから....シーフード・ドリアなら知っている。けど、なんとも変わった名前の御仁だ。....落ちた? このワイが? どこから? 階段? それにドレス」
見渡せば、やはり中世風の大勢の男と女達が、安堵の表情を浮かべ涙を流しているのだ。
「もう大丈夫でしょう。頭に見事なコブは在りますが、これはその内に治りますから」
「本当にそうか!?」
「たぶん......」
医者なのか、白い口髭の老人が、先程のズラバッハとブロンド縦ロールに向かってにこやかに話していた。
哲が頭にそっと手を当てると、やはり大きなコブが出来ていた。
痛ぅ
『これはひょっとして不味い状況かもな!』
哲は昔、TVドラマJimで頭を打った時は、急性硬膜下血腫である可能性もあると知っていた。
「だとしたら、頭カチ割って、血ィを出さないと.....ワイは七日後に死ぬがな」
「呪いのビデオ、リング見たいに死ぬ 死ぬ、ワイはまだ死にたくねぇ!」
ワイがそう叫んでいる為、ズラバッハとブロンド縦ロールが、医師らしき年老いた男に問いただす。
「ドクトル・ヘビィ・ヤーブ、本当に大丈夫なんだろうな!」
怒気をはらんだズラバッハが怒鳴り散らした。
「ドン・デンバーラ伯爵様、エリザお嬢様はまだ少々混乱しているだけで御座います故。なんなら別のショック療法で」
とドクトル・ヘビィ・ヤーブと呼ばれた老人が、革製のカバンからハンマーを取り出して見せた。
ヒョえぇぇ!
ワイは叫んだ。
「こんなもん、ショック療法なんかじゃねぇ!確実に死ねるじゃねぇか!止めろ!」
その一言で、ワイが無事に意識を取り戻したと思ったのだろう。
「うむ、やっと正気を取り戻したようだな」
ズラバッハの一言で、周りがホッとしたように騒めき、全ての視線がワイに突き刺さる。
『アブねぇ、ここで状況が分らないまま、不用意な発言は駄目だ』
咄嗟にそう思い、そこで取り合えずワイは、事態を見極めようと努めて冷静を保とうとしてみた。
こんな状況でも結構冷静なワイに、自分でも驚いている。きっとアドレナリンが大量に分泌して、一時的に冷静になれているのかも知れない。
____『ワイはエリザお嬢様と呼ばれ、ズラバッハの事は伯爵様と周りがそう呼んでいた。それならブロンド縦ロールは母親か....』
ワイは、周囲の状況と反応を観察する為に、静かにベッドから起き上がろうとした。
『そう言えば、ワイ落ちてうったのは頭だけか?』
「いけませんエリザお嬢様、まだ無理をされては!」
「そうよエリザ」
<シー・フー・ドドリア>が、起き上がろうとするワイを制止しようと、ついワイの胸に触れてしまった。ちなみに<シー・フー・ドドリア>は男だ。
ムニュン!
「おわぁ!エ、エリザお嬢様ぁ、も、申し訳御座いませぬぅう!」
「シー・フーその方、ワシの目の前で何と破廉恥な事を!」
「あ、あなた、ドドリアを咎めないで下さいませ」
状況からして、今のはドドリアを庇ったブロンド縦ロールが正しい。<シー・フー・ドドリア>に罪はないのだ。
『おい、ズラバッハはいったい何を怒っているんだ? 第一ワイは男、しかも38歳だ。ヤクザじゃあるめぇし、胸にちょっと腕が当たった位で因縁を付けたりはしねぇよ。しかし胸もしこたまうったんだな、腫れていやがるから妙な包帯まで巻いてある。今まで病院と縁が無かったワイだ、包帯も進歩したんだろうな』
コホン
「あ~そこの、ワイに問題はねぇから騒がないでくんな」
「エリザ、そなた......まだ気が......」
そう言ったワイの言葉で、ズラバッハもまだエリザを休ませた方が良いと判断し、シー・フーに退室を命じたのだった。
「エリザお嬢様、あ、ありがとうございます。では私はこれで」
<シー・フー・ドドリア>は平身低頭に謝罪の言葉を重ね、何故か首を捻りながら退室して行く姿を、ワイは黙って見送っていた。
そしてシー・フーの事より、ふとワイは思い出した。
『ワイがこの妙な世界に居るのなら、助けようとしたあの子犬のヨッチィはどうなったんだ? 確か子犬も一緒と聞こえていたような』
そんな疑問を持ちながらも、今はジッとしているのが賢明だろうと思い、哲の不思議な一日は過ぎていった。
______そして翌日の朝の事だ。
「大変で御座います伯爵様、妙な事にエリザお嬢様が階段から落ちたその同時刻に、クイントリックス城でもひと騒動が!」
そう告げたのは、長年伯爵家に仕えてきた老メイド長の<パパイヤ・アップル>だった。
「朝から騒々しいぞパパイヤ、エリザが起きてしまうではないか。してそれが何だと言うのか?」
「それが、転落されたのです!」
「誰がじゃ!」
「オ、オスト王子様に御座います!」
その言葉にズラは青ざめ、股間に尿意が走った。
ピっ
「なんと! オスト・アンデル第二王子様がか?!」
「さ、左様に御座います伯爵様!」
チョビっ
その日は朝から蜂の巣を突ついたような騒ぎとなったのを、ワイはベッドに横たわりながら、朝飯を待ちながら聞いていた。時間はまだ夜明け前の事だった。