六 邂逅
屋根のないところに出ると、外は雨だった。雲の灰色は濃さがバラバラで、かすれたペンキで適当に書きなぐったようにも見える。水道の蛇口を閉め忘れたみたいに、際限なく降り続く雨。そんな空の下、人混みの中に飛び込むとなれば誰でも躊躇しそうなものだが、通行人の誰一人として、そんな者はいない。それどころか、これほど雨が降っているというのに皆傘さえさしていなかった。にもかかわらず、通行人の体は少しも濡れているようには見えない。
「どうなってるんだろう、未来に傘はないのかな?」
「あれがそうなんじゃない?」
ハルの指差した先には、小さな自動販売機があり、そこで小太りの男性が何かを買っていた。男性はそこで買ったものを頭に乗せるような素振りをし、そのまま平然と雨の中へ出て行った。
アキラとハルは自動販売機の前に立った。そこには
「傘Sサイズ:50円 Mサイズ:100円 Lサイズ:200円」
とだけ書かれている。ひとまずハルが自分のブレインキューブをかざし、Mサイズを選択した。そして出てきたのは、何やら小さなシールのような物だった。
「これが傘?どうやって使うんだろう」
ハルはシールを裏返したり空にかざしたりしながら眺めた。
「さっきのおじさんは頭の上に乗っけてたよ。頭に貼ってみればいいんじゃないかな?」
アキラはそう言ってハルからシールを受け取り、ハルの頭のてっぺんに貼り付けた。するとシールから、よく目を凝らさないと見えないほどの、透明なシートのようなものが出てきて、ハルの周りを広く覆った。
「すっごーい!」
そのままハルが雨の中に出ると、シートに覆われた部分だけが雨を遮っていた。しかしながら、自動販売機で売られている安物だからなのか、所々雨が漏れているところもある。
「雨合羽みたいな感じなのかな」
と、アキラがシートを触ってみようとすると、
スカッ
なんとアキラの手はシートを通り抜け、おかげでアキラはバランスを崩し前につんのめってしまった。その様子を近くで見ていた子供が、
「傘なんだから、雨だけ遮るのは当たり前だろ?変なお兄ちゃんだなー」
と、呆れたように言う。
アキラもハルも感心してしまった。これなら両手も空くし視界も遮られない。千年以上変わらなかった傘も、ついに進化の時を迎えたらしい。この便利な傘をぜひ自分も、とアキラが買おうとした時だった。
「なんかあっちの方がすごいことになってるらしいぞ!誰かが暴れて軍隊も来てるって!」
近くで誰かが叫んだ。その噂は瞬く間に広がり、辺りにいた人たちは一斉にそちらに向かう。
「さっきの2人組かもしれないわ。あの人たち、計画がどうのって言ってたから」
急な人の流れを見て、ハルが言った。
「僕達も行こう」
アキラはハルの傘に入り、そのまま2人で人々の波に飛び込んだ。2人ははぐれないよう手を繋ぎながら、人々をかき分け前へ進んだ。そして辿り着いたのは、ショッピングモールからそれほど離れていない、背の高いビル群に囲まれた広場だった。
広場の周りにはすでにかなりの数の野次馬が集まり、さらにその内側には何十人もの軍隊が輪をなしている。辺りには、すでにボロボロに破壊された大きな装甲車が何台も転がっていた。そこでいったい何が起こったのかは分からないが、相当な戦闘が行われたことがうかがえる。
軍隊の銃が向けられたその先には、広場の中央で一人雨に濡れながらそびえ立つ、男の姿があった。しかしその男の様相は、普通のそれではなかった。身体の右側を漆黒の鎧が覆い、人間らしい肉体はわずかも見えない。それは着ているというより、直接装着されているようである。そして残る半身からは、不気味な赤と銀の光が鈍く輝き、掌の中心には銃口のような空洞が取り付けられている。そう、その左半身は全て機械で作られていた。
ーー闇。終わりのない闇。どこまでも深く、どこまでも遠く、ほんの僅かな光さえない。そこがどこなのか、何なのか、分からない。
一度その使命を終えたはずの脚が、動く。歩く。しかし地面を踏みしめる感覚はない。
自分の意思とは無関係に進む。どこに向かっているのか、そもそも目的地などあるのか、定かではない。
次第に意識が遠くなる。自分の身体を見ようと首を傾けても、何もない。ただそこに何かあるとかすかに感じるだけで、それが本当に正しい感覚なのかも分からない。
俺は、誰だ?
なぜここにいる?
どうやってここに来た?
自分とは、何だ?
何の為にある?
ただ一つ分かるのは、ここが自分一人しかいない闇ということだけーー
「撃て!」
その号令で、サイボーグ男を取り囲む軍隊がいっせいに発砲する。四方八方から放たれた無数の弾丸は、吸い込まれるようにして男へと向かい、その姿を覆い隠すほどの煙が辺りを包む。十数秒に渡って絶え間無く続いた銃声が鳴り止むと今度は、そこにいる人の数からは想像できないほどの静寂が訪れた。そしてその静けさの中、煙がはける音だけが辺りにこだまし、ゆっくりと、その内の様子をさらけ出す。
男の姿は、銃弾を受ける前と寸分も変わっていなかった。元の位置から一歩も動かず、顔の向きすら変えず、銅像のようにそこにそびえ立つ。男から醸し出されるあまりの威圧感に、軍隊は無意識に銃を落とし、集まった人々は言葉を失ってしまっていた。
煙が完全に晴れたところで、男はゆっくりと動き出した。体の向きを変え、周りのビルのうちの一つに、左の腕をまっすぐに向ける。そしてビルに向け開かれた掌から、
バチバチッ
と、小さな稲妻が生じた。音の間隔は徐々に短くなり、稲妻は球を形作り始める。少しずつ増す大きさは、やがて人の顔一つ分程までに。巨大なプラズマの球は輝きを増し、透けるような黄色と青白い光が、雨の闇を引き裂くーー
ズドーン!!
プラズマ球は、まるで同じ位置にいるのが耐えきれなくなったように、唐突に発射された。その動線上にあった地面はえぐれ、正面のビルは跡形もなく崩れ去る。軍隊もあえなく後退し、群衆の多くは粉々になったビルの残骸を目にしてようやく我に帰る。人々は散り散りに逃げ惑い、辺りはそれまでの静寂とは打って変わって悲鳴に包まれた。
男はこの攻撃を機に、一気に行動を始めた。辺りのビル群に次々に狙いを定め破壊してゆく。男を止められるものなどいるはずもなく、瞬く間に一帯は瓦礫の山となっていった。
「きゃっ」
人の波に押されたハルがその場に倒れ込む。アキラは自分の手からハルの手が滑り落ちたのに気が付いて足を止めた。人波を掻き分けハルの元へと駆け寄る。その時だった。
「アキラ!危ない!!」
ハルの声で振り返る。見ると、瓦礫となったビルの残骸が2人に目がけて倒れてくる。潰されればただでは済まない大きさ。絶体絶命、アキラは覚悟した。
ガッ
アキラは恐る恐る目を開けた。目の前には信じられないという表情でこちらを見上げるハルの顔。アキラの背は、巨大な瓦礫を見事に受け止めていた。
「そうかこれ、カズキの作った服のおかげ・・・」
しかし安心したのも束の間、サイボーグ男の左腕がこちらを向いている。バチバチッと音を上げ、プラズマ球が今にも放たれるーー
「貴様ら・・・の、好きには・・・させん・・・」
突如、男の様子が変わった。動きを止め、何やら自分自身に語りかけている。アキラ達に向けられていた腕を下ろし、もう一方の手では頭を抱えている。
「やめろ、やめ・・・てくれ」
頭を振りながらそう呟く男の顔に、大粒の雨が打ちつけ、流れる。
「やめ、ろ、これ以上、何も傷、つけるな」
そう言って、何かに抵抗するように天を仰ぎ、
「グオオおおおお!!!!」
男は叫んだ。その声は街中にこだまし、空気がビリビリと震える。そして、男は左腕を地面に突き刺し、そのまま特大のプラズマ球を暴発させた。
ズドーン!!
ガラガラ・・・
地面は広範囲でえぐれ、その中心には大きな穴が空いた。男は深く続くその穴へと飛び込み、一瞬で見えなくなった。
突然の幕引きに、その場にいた誰もが口を開けたままその場に立ち尽くした。
「アキラ、ハル!大丈夫か!?」
呆然とする2人は、ブレインキューブからのカズキの声で我に返った。
「こっちだ!広場の反対側、見えるか?」
見ると、カズキが大きく手を振っている。すぐ側には、この時代ではもはやクラッシックと呼ぶに相応しいであろう、古びた軽自動車が停まっていた。
「2人とも、無事で何よりだ」
カズキはハンドルを握りながら心底ホッとしたという声で2人に話しかけた。
「君の作ったこの服のおかげだよ。これが無かったら2人とも瓦礫の下敷きだった」
アキラは、自分が少し冷静になったのを感じながら、そう答えた。一方のハルは、まだ心ここに在らずといった感じで、ぼーっと窓の外を眺めている。
「カズキは、自分で運転するんだね」
10分ほどの沈黙があって、思い出したようにハルが声を出した。いつもの明るい表情が、徐々に戻ってくる。
「ん?あぁ、コイツも自動運転にはできるんだが、俺は何となく、自分でハンドル握ってるのが好きでね。学生たちは時代遅れだなんだと笑うが、旧い物ってのは、案外役に立つもんだしな」
ハルはふふっと笑って、しかしまた少し深刻な顔になった。
「あの人、なんだか哀しい顔してたわ・・・」
ハルは呟くように言う。
「あの人が何者なのか、カズキなら分かるんじゃない?そうすれば何か手助けになるかも」
「・・・さあな。当たり前だがこの時代でも、あんな姿の人間は見たことがない。犯罪組織の実験体か何かか・・・軍や警察のデータベースからなら何か分かるかもしれんが、顔も隠していたし、今は昔と違って、AIによって高度に暗号化されていて、そう簡単にハッキングできるものでもない。鍵を知らない人間には、絶対に分からないよ」
ん?
「それだ・・・」
アキラは一人呟いて、ポケットから母の日記を取り出した。湿気でパリパリになったページを音を立ててめくり、そして、角の折り込まれたところで手を止めた。
「アキラ、それだって、どれ?」
アキラの突然の行動に、ハルが訝し気に問う。
「実は今日、本屋に寄った時に、店員さんが例の写真の裏を見て、何かの暗号じゃないかって言ったんだ。結局僕もその人もどう解くのかは分からなかったんだけど、今のカズキの話で閃いたんだ。暗号を解くには鍵がいる。ならその鍵も、どこかに隠されてるはずだって」
アキラはやや興奮気味に答えた。
「それと、その日記と、なんの関係があるの?」
「今朝日記を見返してた時、なんだか違和感があったんだ。その時は気が付かなったけど・・・ここだよ、ほら」
アキラはそう言って、日記のページを開いて見せる。
2005年
2/29 安らぎをつむぎ
後ろへと繋げる輪
うごめく運命に導かれた子
野を駆け捲き上る土
かなたへと今行かん
「ここが何なの?確かに少し変な詩ではあるけど・・・」
答えを探そうと何度も日記を読み返すハルに、アキラは続ける。
「気付かない?日付だよ。この年、2005年は閏年じゃないはずだ」
「あ・・・」
想像以上に単純な答えに、ハルは一瞬やられたという顔になって、それからまた首をかしげた。
「でも、そんなのただ間違えただけじゃない?それに、それが分かったからってまだなんにも解決してないんだけど」
「うん、それ自体に意味があるわけじゃないよ。日付がおかしいのは多分、間違えたんじゃなく、ここだけ”日記”ではないって意味なんじゃないかな」
ハルはまだ難しい顔で首を捻っている。ハルは昔から、この手の話は得意ではない。
「つまりね、これ、行の頭と終わりだけを続けて読む、典型的な暗号なんだよ。順番に拾い上げていくと、”安””後””う”野””か””ぎ””輪””子””土””ん”・・・”暗号の鍵はコドン”と読める」
「アキラ、さっきの写真、俺にも見せてくれ」
いつの間にかカズキはハンドルを手放し、後部座席にまで身を乗り出していた。
「なるほどな・・・」
「ねぇ、もう少し丁寧に説明してくれない?」
既に解読を終えた様子のカズキに対して、ハルは頬を膨らませ、不機嫌さを露わにする。ハルの顔がはち切れないよう、アキラは今度こそ丁寧に説明を加えた。
「だからつまり、さっきの写真に描かれてた棒人間たちが、コドン、遺伝暗号に対応してるってことさ。
ここに描かれた棒人間、よく見ると4種類しかないんだよ。腕が2本あるやつが2種類、3本あるやつが2種類のね。これって、アデニン、ウラシル、グアニン、シトシンの4つの塩基と対応してて、腕の数は水素結合の数を表してるんだ。
そして、左を向いてる棒人間は両腕を上げてるやつと両矢印で結ばれてるから、これはつまり、別のものに変わり得るってことだろ。となると、DNAではチミンになるウラシルじゃないか。だから残りがアデニン。
3本腕の2体は天秤の上に乗ってるから、重たい方が分子量の大きいグアニンで、軽い方がシトシンになるってわけ。
あとは、3体の棒人間一セットとして遺伝暗号表に照らし合わせて、アミノ酸の一文字表記に置き換えれば、新しい文字列が出来上がるんだ」
「だがアキラ、これだけではあまり意味を成していないぞ。具体的なメッセージにはなっていない。恐らくは何かのパスワード、ってとこか」
カズキの指摘を受け、実際、アキラも同じところで悩んでいた。まだ何か、見落としている点があるということか・・・
「金庫・・・」
議論が煮詰まる2人を他所に、突然ハルが呟いた。
「アキラのお父さんの家、地下の研究室に金庫があったわ。何だか少し変わってて・・・普通金庫のロックって、アルファベットとか、数字を使ったりするでしよ?でもあの金庫、パネルにはアルファベットが20種類しかなかったの。確かアミノ酸って20種類じゃなかった?」
それだ。間違いない。アキラの推理は確信に変わる。
「あ、でも、アルファベット以外にわざわざピリオドがあったわ。アミノ酸に、ピリオドなんかないか・・・」
「いや、それこそアキラの推理が正しい証拠だろう。この暗号の最後の棒人間3体・・・塩基に置き換えるとウラシル、グアニン、アデニン、つまり終止コドンだ」
アキラの心臓は強く胸打ち、痛みすら感じるほど高鳴っていた。暗号まで作って、父さんはそこにいったい、何を残してきたのか・・・
「すぐに戻って開けてみよう」
そう言うと、カズキはアクセルを目一杯に踏み込んだ。
ガチャッ・・・
アキラの読み通り、金庫の鍵は拍子抜けするほど簡単に開いた。期待と不安を落ち着けつつ、アキラは中を覗き込む。
「何だこれ?」
中にあったのは、掌サイズの、傘の骨のような形のものだった。しかも同じものが全部で9個。
「カズキ、これ、何か分かる?」
そのうちの一つを、アキラはカズキに手渡した。
「これは・・・。これは、ループの研究段階で出来た試作品だよ。時間移動を可能にする、重力制御装置だ。俺たちは”タイムチューナー”と呼んでいた。試作品とはいえ、時間のコントロール自体はコイツでも可能だよ。こんな所にあったとはな」
「なら、これで私たち帰れるってこと?」
ハルが期待の眼差しを向ける。しかし、カズキによる否定は早かった。
「いや、残念だがコイツでは無理だ。確かに時間の流れを早めたり、遅くしたりは出来るが、年単位での移動までは出来なかった。それにそもそも、コイツには”時間の向き”を変える機能はない」
ハルは分かりやすく肩を落としたが、アキラには疑問の方が優った。
「結局、父さんは何のためにこれを残したんだろう。母さんは、何で暗号の鍵を日記に隠したんだろう」
「・・・さぁな。だがもしかしたらそこには、トーマが遺したかった、そしてお前の母親が伝えたかった、何か大切な"想い”が込められているのかもしれないな」
カズキの言葉に、アキラもハルも、目で疑問符を送る。そんな2人に、カズキは優しく微笑みながら続けた。
「だって遺伝暗号ってのは、親から子へ、未来へと紡ぐ、メッセージそのものじゃないか」
アキラたちは地下室を後にした。ソファに並んで腰掛ける3人を、窓から差した星明かりが優しく照らす。その中を、木々を揺らす風が雲を連れて、遠くの山へと吹き抜けて行った。