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クロノマン  作者: 蛙の介
2/12

ニ 音色

2015年


 梅雨が明け、木々も、その色を少しずつ夏に適した明るいものへと変え始めていた。陽の光がまっすぐ人々へと延び、心地の良い風が身体の隙間を抜けてゆく。夏を待つ、特に名前のないこの季節が、春や秋よりも好きだと感じる者も多いかもしれない。

 太陽を待ちわびていたのだろうか、ここNU大学構内にも、小さな子供やペットと共に散歩に来ている人の姿がいつもより多い。スタバのテラスでコーヒーと共に会話を楽しんでいる留学生や、広場で友人と汗を流している学生の姿もある。噴水の前のベンチでは、近所の老夫婦が日向ぼっこをしていた。

 迷うほどたくさんある校舎のうちの一つで、講義の終わりを知らせるチャイムが鳴った。

「今日の講義はここまで。ハイゼンベルクの運動方程式をよく復習しておくように。それでは先週の課題を前に出してからーー」

教授の言葉が終わる前に、ほとんどの学生が一斉に席を立つ。今の今まで机に突っ伏していた者ほど動き出しが早いのがおもしろい。この後は昼休みであるため、皆食堂が混む前にと足早に教室を去ってゆく。人の減った教室では、何人かの女子学生達が、長い机を贅沢に使い、自分達で作って来た弁当を広げ始めていた。

「昨日のスペシャルドラマ見た?私普段ジャニーズ系しか観ないけど、あの人の書く話だけは好きなんだよねー」

「分かる!渡何ちゃらさんだっけ?若いのに凄いよね。今度医療ものの連ドラ書くらしいよ」

 彼女達の会話は新幹線のようだ。ドラマの話の後は、夏休みの旅行をどうするとか、バイト先のカッコいい先輩の話とか、昨日食べたパンケーキのこととか、僅かの沈黙もなく話し続ける。一方で、午前中で講義が終わる学生達は、人の波が去るのを待ってから、電車の時間に合わせてバラバラと帰っていった。

 3人は、この最後のグループに属するようだった。もう教授も部屋を出た後で、ようやく彼らは動き出した。

「アキラ、お前この後どうするんだ?」

3人の中で一番背が高く、銀縁眼鏡をかけた青年が尋ねた。シャツのボタンは一番上までキッチリと止め、頭の上から足の先まで少しも隙のないその姿だけで、彼が真面目な男だという事がよく分かる。話しかけられたアキラの方は彼とは対照的に、小柄で幼い顔立ちと短い髪が特徴的で、少し襟の伸びたTシャツには、若者に流行りのロゴが小さくあしらわれている。そしてその首には今も、あのネックレスが光っている。講義の間かけていた眼鏡を外しながら、アキラが答えた。

「今日はハルと一緒に大掃除なんだよ。昨日から突然おばさんに火が付いちゃってさ、終わらないと寝る場所、ないんだ」

 ハルとは、彼らと共にいる女の子のことだ。顔立ちは整っているが、綺麗というよりは可愛いと言った方が合っているだろう。すれ違う男達が羨ましそうにアキラ達を見ている。幼い頃から10年もの間家族として過ごしてきたアキラにとっては、彼女の存在は姉のようでもあり妹のようでもあった。

「そうか、俺は教授に用があるけど、後から手伝いに行くよ。人手は多いに越したことはないだろう。ホコリで鼻がやられるのだけが心配だな」

「なら、カズキが来てくれるまでに、なるべく綺麗にしておかなきゃね」

 そこまで話したところで、カズキはアキラとハルと分かれ研究室の方へと歩いて行った。2人は途中、コンビニで昼食を買って、バス停までのんびりと向かった。

「アキラ、それ何見てるの?ニュース?」

 バスを待つ間、スマホで時間を潰していたアキラの手元を、ハルが覗き込む。細かい字がギッシリと詰まった画面は、隣からは少し見づらい。

「うん、囲碁の羽井聡策名人が七冠独占に王手をかけたってさ」

「それ、凄いことなの?」

「凄いなんてものじゃない、偉業だよ。しかもこの人、将棋も強いんだ。僕が思うに、きっと人間じゃない」

 2人は、5分ほど遅れてやって来たバスに乗り込み、後ろの方に並んで座った。彼らのほかは、5歳くらいの男の子とその母親が乗っているだけで、車内は比較的静かだ。バスのガタガタと揺れる音がBGMのように響き、ところどころ黒く汚れた窓には、街の景色が映し出されては消えてゆく。

 しばらく進んだところでバスが止まった。前の方で事故があったらしく、渋滞が発生している。反対車線では、脇にあるガソリンスタンドに寄ろうとする車が列を作っていた。その間を、スケボーに乗った少年がスルスルと走ってゆき、その先では、イヤホンを付けたままランニングをしていた女性が出会い頭の自転車に驚いて尻餅をついていた。

「サン・ライズの映画だ!カッコいいなぁ、ぼくもあんなふうになれるかな?」

 先程の男の子がバスの窓に顔を引っ付け、映画館の外に掲げられたスクリーンを見て興奮を露わにしていた。それはかつて国中が熱狂したスーパーヒーローの半生を描いた作品で、シリーズはすでに3部作にまでなっていた。

 映画館よりも、目をもう少し遠くに向けると、そこでは街一番の高さを誇る建物、巨大な時計塔が時を刻む。4つの側面全てで針が仕事をしていて、どこにいても正確な時を知らせてくれるのだ。この時計塔は40年前に作られて以来、街のシンボルとして市民の様子を見守ってきた。今でははるばる遠方から見に来る観光客もいるほどで、住民からも広く親しまれていた。

 男の子は、ついさっきまで窓の外を見て騒いでいたのが嘘のように、今度はスヤスヤと寝息を立てていた。母親も普段の疲れが出たのか、自分にもたれかかっている息子に首をあずけ、目を閉じてしまった。その2人の寝顔がそっくりなのを見て、アキラとハルはくすくす笑った。しかし数分後には2人とも寝てしまい、今度は逆に、そのそっくりな寝顔を親子に笑われる事となった。

 プシュー

「足元にお気をつけて〜お降りください」

 バスの扉が開く音と、運転手の少し抑揚のついた低い声で2人は目を覚まし、慌ててバスを跳び降りた。バス停から2人の住む家までは歩いて数分だ。周りにはあまり店などもなく、街中の賑やかな雰囲気とは対照的に、ゆったりとした時間が流れている。ここら一体は古くからの住宅街で、2人が今住む家もその中にあった。中央に伸びるアメリカのような広い道とほとんどの家についている綺麗な庭が特徴的で、広さの割に値段も安いことから今でも非常に人気が高い。辺りにはそのまま自然が残っているところも多いので、そこで子供達が遊ぶ声が住民の楽しみの一つでもあった。

「あら、今日は早いのね。お昼は食べて来たの?」

 玄関を通り居間に入ると、ハルの母親であるケイおばさんがキッチンの奥から2人に話しかけた。

「うん、バスを待ってる間にちゃちゃっと・・・って、お父さん何でいるの?仕事は?」

 応えるとともに尋ねるハルの視線の先には、ゆったりとソファに腰掛け、ビール片手に新聞を広げる父親の姿があった。おばさんが小柄ながらもスタイルが良く若々しいのに対して、おじさんは力仕事で鍛えた体とシワの入った険しい顔がやけにマッチしていた。

「この間臨時で出勤したおかげで、今日は休みを貰ったんだ。いやー昼から飲むビールほど美味いもんはないぞ、2人とも!」

 顔に似合わぬ明るい声で、おじさんが答える。そんな夫に、その一本だけよ、と目線でおばさんが返していた。彼女はそのやりとりの間も手を休める事なく皿を洗い続け、ようやく終わったというふうで流しの横にかけられたタオルで手を拭った。

「さて、早速大掃除に取り掛かりましょう。ハルは、お父さんの庭の手入れを手伝ってあげて。アキラは二階の方から攻めてってちょうだい」

 キッチンから出て来ながら、おばさんが2人に声をかける。

「庭の手入れかー、家の中のが良かったのに・・・」

 そのハルの言葉が終わらないうちに、おじさんはわざとらしく大きな音を立てながら新聞をたたむと、ソファから立ち上がり、娘の肩に腕を回した。

「そんなこと言うなよ。そりゃお父さんだって家の中が良かったさ。でもな、ハル。世の中とりあえず言うことを聞いておいた方がいい事ってのが沢山あるんだ」

 父と娘は、コソコソと話す。

「人に聞こえないように話す方がいいことも、たくさんあるわよ」

 マスクをつけ、ハタキに手を伸ばしながら、おばさんが静かに言った。その言葉に、ハルもおじさんも慌てて部屋を飛び出した。しかし残されたおばさんは、目こそ厳しく2人の背を追いながら、マスクの下のその口元が緩んでいるのを、アキラは見逃さなかった。


 二階は、おじさんとおばさんの寝室がある他に小さな部屋が一つあるだけだ。その部屋は幼い頃のハルが使っていたが、アキラが引き取られた時に2人で一階の大きめの部屋に移ったので、それ以来物置としてややぞんざいに扱われていた。

 部屋の中は古い炊飯器やら脚の壊れた椅子やらで埋まっていて、その上に冬用の布団だの何だのが山積みになっていた。そのほとんどが、少し触るだけで埃が舞う状態で、カズキなら数分で体調を崩しそうな有様だ。

 アキラはその一つひとつを適当に分類していった。捨てるもの、移動するもの、綺麗に洗うもの、そのまま放置しておくもの・・・そうやって半分ほどが、自分の新たな居場所が決まり部屋から追い出されたところで、棚の隙間から一冊の古いノートが顔を出した。

 それは日記のようだった。表紙には何も書かれていないが、中をめくると2〜3行ごとに区切られて、その各々に日付が振られている。そしてその、繊細かつ温かみのある字は間違いなく、アキラの母のものだった。

 アキラはそれを一つずつ読み進めていった。はじめのうちは、他愛のない文章が続いた。運動会や遠足など、ところどころにアキラの事も書かれている。しかし数ページが過ぎたところで、その内容はガラリと変わった。


2002年

9/11 乳がんを宣告された 末期であり手術は難しいと言われた でも諦めない アキラのためにも必ず治す

9/25 ケイに相談して、食事療法をはじめることにした 案外美味しいし、続けられそう

10/10 アキラとハルちゃんとカズキ君の演劇発表会 とっても素敵で声を聞くだけで涙が出てくる この子達を来年も再来年も、大人になるまで見ていたい


2003年

3/11 アキラが誕生日を祝ってくれた 本当に幸せ

10/8 運動会に参加 大きくなったアキラとビデオを一緒に見たい

12/3 患部からの出血が増えてきた 主治医から抗がん剤を勧められたが断った 薬じゃなくて、自分の力で治したい もっと免疫力をつけなくちゃ ありのままの私で、アキラと生きていけるように


2004年

3/30 ケイ達と桜のトンネルを見に行った ここの桜は何度見ても綺麗

7/15 出血で病院へ また抗がん剤を勧められたけれど断った 主治医が私にイライラしているように見える


2005年

2/29 安らぎをつむぎ

後ろへと繋げる輪

うごめく運命に導かれた子

野を駆け捲き上る土

かなたへと今行かん

8/25 皆がいつもニコニコいられます様に アキラの発表会に元気に行けます様に もう出血しません様に 身体が自由に動かせる様になります様に

10/23 患部から大量に出血してしまった 南部共生病院に入院 これ以上アキラに心配はかけたくない 主治医に抗がん剤を勧められたが断った あの場所なら、治せるはず

10/24 また出血があった 抗がん剤をしつこく勧めてくるのを丁寧に断った そしたら、「あなたの考えは理解できない」と言われた

11/1 25日の出血はひどかった けれど目の前で出血している私に、あの医師は何もしてくれなかった あと2時間、あと30分、と余命だけを口にして、血を止めようとしなかった 最後には私を置いて、部屋を出ていった 友人が助けてくれなかったら死んでいた

11/20 あの医師がまた病室に現れた。自分に逆らえばどうなるか分かったか、とだけ残していった 体力が、戻らない

11/28 あの人の姿を見るたび、胸が苦しくなる 担当医は変わったはずなのになぜ私の近くをうろつくのだろう お願いだからやめて

12/25 今日は朝から身体が軽い あの日の事がなかったみたい 半日だけの一時帰宅 久々の我が家で過ごすアキラとのクリスマスは本当に幸せ 生きていたい

12/30 アキラと一緒に朝日を見た 太陽の力で、元気を貰った


 日記はそこで終わっていた。それは、母の生きた最後の日の朝だった。

「何だ、これ・・・いったい、どうゆう・・・」

 母の遺した言葉の数々は、アキラの心模様を一変させた。はじめは、何が起きたのか理解出来なかった。ただ心の内側で、鏡に映った自分の顔に、小さなヒビが入るのを見た。

 アキラは日記を手に、散らかされたままの部屋を後にした。階段を降り、リビングで掃除機をかけるおばさんの前で、亡霊のように、立ち尽くした。

「どうしたの、そんなところで突っ立って・・・」

おばさんの言葉はそこで途切れた。その視線は今、アキラの手に固定されていた。そして独り言のように漏らした。

「その日記は・・・」

 いつも誰よりも凛として、常に揺るぎないその表情は、今明らかな動揺の色に変わっていた。体を小刻みに震わせ、目を逸らす。その後悔と苦悩に満ちた顔が、全てを物語っているようだった。

 しかし、一度きつく目を瞑り、そしてアキラの方へ向き直ったとき、そこにはいつも通りのおばさんの姿があった。

「中を、読んだのね」

「うん」

 そのまましばらく、2人は互いの目だけを見ていた。どれだけの時間が経ったのか、あるいはすぐなのか、先に言葉を見つけたのはアキラだった。

「おばさんは、知ってたんだね。母さんに何があったのか」

「ええ、知ってたわ」

「なら何で・・・こんなの、その医者に殺されたようなものじゃないか。そんなのって・・・」

「知っていたとは言っても、全てではないの。私たち夫婦も、あの日記を見つけたのは彼女が亡くなった後の病室だった。それからしばらく、警察や弁護士に助けを求めたけれど、何の成果も得られなかった。本人が亡くなってしまっていては、難しいと言われたわ。何より証拠がなかった。日記に書かれていたことは、カルテには載っていなかった。院長先生に問い詰めても、医師の行為と彼女の死に、関連性はないの一点張りだった。どれだけ粘っても、それは変わらなかった」

 おばさんの言葉は、これ以上ないほどはっきりとしていた。聞いた者に迷いを与えない事が、何よりの優しさだと知っているようだった。

 アキラは、ちらりと外を見た。庭にいるハルとおじさんが、慌てて顔を背け草むしりを始めるのが見えた。全く進まないその仕事をぼーっと眺めるアキラに向かって、おばさんは話を続けた。

「あなたには、悪かったと思う。彼女を救うことも、その無念を晴らすことも、私たちにはできなかった」

アキラはまだ、首を窓の外に向けていた。今、おばさんの目を見る勇気はなかった。

「おばさんは、母さんのこと、どう思う」

 アキラのそれは、問いというより、呟きに近かったが、おばさんは少しの間も開けず、答えを口にした。

「彼女は、誰よりも強く、誰よりも優しい人だった。まだ幼い頃、教室の隅で一人いた私に、唯一声をかけてくれたのが彼女だった。自分が信じたものを、貫き通す人だった。相手が誰であろうと、はっきりと、自分の意思を示すのがあの子だった」

「でも、そうして医者の言うことを聞かず、自分の想いを貫こうとして、そのせいで、母さんは死んだ」

「そうね」

 おばさんは、反論しなかった。アキラにはそれが耐えられなかった。口では母の決断を責めながら、心ではおばさんに、母のことを擁護して欲しかった。

「あなたの中に、ずっと彼女がいるのは、分かっていたわ。あなたは一度だって、私をお母さんとは呼びたがらなかった・・・」

「それは・・・!」

 そこではじめて、アキラはおばさんの顔を見た。おばさんの目は、まっすぐアキラのことを見ていた。この会話の間、一度もそこから動いていないのが、一目見て分かった。

「それはいいのよ。子供が母親を想い続けるのは当然。でもだからこそ、あなたに伝えることが出来なかった。こうなることが分かっていたから。愛が強ければ強いほど、苦しみは大きくなってしまうから。

 あなたのことを、彼女と同じくらい強い子に育てようと努めてきた。でも結局、一番弱いのは私だった。あなたに真実を伝える事が正しいと分かっていながら、そうする事が出来なかった。あなたに、誰かを恨む人生を、送って欲しくはなかった。本当にごめんなさい。あの子に合わせる顔がないわね」

 おばさんは、アキラがここに引き取られたその日から、決してアキラを甘やかすことをしなかった。アキラが誤ちを犯せば厳しく叱責した。迷ったときには、自分で答えを出すまで助けようとはしなかった。そのかわり、アキラが苦しむときには、ただ、ずっと側にいてくれた。

「おばさんは、世界一の、僕の母親だよ」

 アキラの絞り出すような声が、一瞬のタイムラグを伴って、おばさんの鼓膜を揺らした。その時アキラはこの10年で初めて、おばさんの涙を見た。一筋のそれは、夜空を走る流星よりもずっと真っ直ぐで、ずっと美しかった。これほどに透き通ったものを、アキラは今まで見た事がなかった。

「でも・・・」

アキラは自分の心に鞭を打ち、必死で唇を動かした。

「僕は知りたい。母さんが最期、どんな想いで生きたのかを・・・ただ、それだけなんだ」

 おばさんは涙を拭うことなく、しかしやはり決してアキラから目を逸らさず、答えた。

「それならば、あの家に行ってみなさい。あなたが幼い日を過ごしたあの家に。10年前のまま、今でもあなたを待っているはずだから」

 アキラは、おばさんの事をそっと抱きしめ、それから背を向けて、玄関へと向かった。

 扉を押し、外に出ると、そこには不安そうな顔のハルが、おじさんと一緒に立っていた。アキラは一言、一緒に来てくれるよう頼んだ。2人の背中を、おじさんがそっと押した。


 古い家の多い住宅街の中でも特に古く、一番端にある小さな家が2人の目的地だった。ここはアキラが生まれる前、両親が友人から貰い受けたものだと、幼い頃に母から聞いた。庭の草は伸び放題で、自分勝手にあっちこっちに向いている。どこから飛んできたのか、店においてありそうな立派な花をつけているのまである。塀は崩れて、その下にダンゴムシやら何やらが溜まり場を作っていたが、家の屋根やなんかは蔓に絡まれながらもなんとか原型をとどめていた。家の前のポストには、たくさんの郵便物が無造作につっこまれており、「仁道」の表札は傾いて外れかけている。「家って人が住まなくなるとこうも歳を取るとはね」などと話すハルの隣で、アキラは少し立ち止まり、フーっと大きく息を吐いてから、錆びついて頑として動かない鍵を、力づくで回して中に入った。

 家の中は実に、片付け甲斐のありそうな惨状だった。高く積まれていた家具の山が、扉を開けた振動で無惨にも崩れ、その面積を広げている。ただでさえ、アキラが引き取られた日に必要なものをあちこちから引っ張りだしたので、そこら中ぐちゃぐちゃになっていて足の踏み場もない。おまけに、物の間をぴょんぴょんと少し歩いただけで、靴下の裏が外を歩いてきたみたいに真っ黒になった。埃の量も相当だ。

「これは、カズキは遅れてきて正解ね」

 明るく話すハルに、しかしアキラは何も返さなかった。代わりに、時間をかけてゆっくりと、家の中を見回す。目に入る一つ一つが、そこに幼い日の光景を浮かび上がらせた。

「とりあえずは、埃をはらうところから始めましょうか」

 そう言ってハルはマスクと箒を装備すると、一人黙々と掃除を始めた。ハルには道中、母の日記を見せて事の経緯を話していた。埃を叩きながら、どうするのかとチラチラこちらを見るハルに気付いていたが、アキラ自身、ここに来てみたものの何をどうすべきか分かるはずもなく、ただ側にあるものを手にとってぼんやりと眺めた。

「ねぇ、これって昔遊んだおままごとのセットじゃない?おばさんが作ってくれた段ボールのお家でよくやったよね」

「こっちにはビーズの箱が残ってるわ。アイロンで固めるやつ」

「これなんて手作りのすごろくよ!一度これで一晩中遊んだよね!」

 少しして、ハルがその場に不釣り合いな賑やかさではしゃぎ始めた。その他にも、紙粘土で作った動物や、傷だらけになるまで使い込まれたカンゴマ、小さい頃に着ていたパジャマなどを次々と引っ張り出して来ては興奮してみせる。努めて無邪気に振る舞うハルの優しさに、アキラはようやく笑顔をこぼした。

「ここにいてもどうしようもないし、上の部屋も見てみるか」

 ようやく口を開いたアキラの提案で、2人は二階に上がった。二階には、母の部屋以外には小さな寝室があるだけで、下と比べれば昔のまま綺麗に保たれていた。ただ彼女はあまり片付けをしない人だったので、物の量はかなりのものだった。描きかけの絵やミシンに挟まったままの体操服袋、古いぬいぐるみやボロボロの絵本・・・その一つひとつが、母を思い出させた。窓際には、母のお気に入りだった木製の机が置かれていた。その2つの引き出しには、幼い頃のアキラの仕業であろうNARUTOのシールが貼られままになっている。アキラはそれらを開けようとしたが、一方は鍵がかかっているようだった。もう一つの引き出しの中は、他の場所と違いちゃんと整理されていて、たくさんの手紙がきれいにまとめられてあった。ほとんどはアキラの知らない名前だったが、ケイおばさんなど、知っている人からのものも何通かあった。そんな溢れんばかりの手紙の束が一枚の古い写真を隠すように挟み込んでいた。ボロボロで端の方は破れていたが、裏にはどこかの住所らしきものと、十数人の棒人間のような不可思議な絵が書き殴られており、表には若い頃の母と、3人の男性が写っていることが判別できた。

 そのうちの一人を、アキラは父親だと思った。父の顔は見たことがなかったが、目元や耳の形が、自分そっくりだったし、何より不思議とそう感じさせるものがあった。

 一方で、残り2人の男性にはまるで心当たりがなかった。一人は無表情で、歳は両親と同じくらいのように見えたが、顔には深いキズが何本か入っている。もう一人は、高い鼻や彫りの深い顔の形から外国の人のように見えるものの、そんな友人の話は母から聞いた覚えはなかった。しかしその時ふと、アキラの脳裏に一つの映像が浮かんだ。赤ん坊だった自分を覗き込む、母親と、多くの見知らぬ者たちの笑顔。誰もが新たな命の誕生を、心から祝福している。彼らの多くは外国人のようで、その交友は、アキラの知らぬ母の一面なのかもしれない。

「ねぇ、こっちにきて!」

 部屋の隅でごそごそと物をいじっていたハルが、ふいに叫んだ。その言葉で現実に引き戻されたアキラは、写真をズボンのケツポケットに突っ込んで、ハルの元へ駆け寄った。

「この箱、何か分かる?」

 そう言ってハルは小さな金属製の箱をアキラに突き出した。その箱は、想像以上にずっしりと重く、中世ヨーロッパの城にでも施されていそうなきらびやかな装飾があちこちにあり、その一つひとつが細部までこだわって作られているのが見て取れる。側面の、中央より少し上のあたりには、細い線が一周刻まれていて、そこが箱の裂け目のようだった。全体的にはシンプルにまとめられており、埃をかぶった上に錆びついていて元の色は判別できなくなってしまっているが、少し磨くと顔を覗かせるその美しい輝きは、見るものを魅了する。

「オルゴールじゃないかな。ここにつまみみたいなのもあるし・・・」

「でもね、これ、回そうとしても動かないの。それに見て、この鍵穴。見たことある形だと思わない?」

 ハルが指差したところには、2つの三角形が向かい合った形のへこみがあった。それはまさしく、アキラの首に10年間かけられているペンダントの形と一致していた。

「これって、あなたのそのペンダントをはめてみるべきだと思うんだけど」

 ハルの考えは、おそらく正しかった。ただ頭では分かっていても、アキラの心はまだ混乱していた。この箱の中に、少なくともアキラの求める答えに繋がる何かがあるーーしかし同時に、一度「そこ」に踏み入れば、自分の中の大切なものが崩れてしまって戻らないような気がした。

「私がやろうか?」

 黙って箱を見つめるアキラに、ハルが優しく言った。その言葉で、アキラの心は決まった。

「いや、僕がやるよ」

 アキラは首からペンダントを外し、恐る恐る、箱のへこみにそれをはめ込んだ。すると

 ピカーー

 ペンダントをはめたところから、青白い光が発せられた。その光は側面に刻まれた線にそって左右に広がってゆき、ペンダントをはめた側と逆側まで光の線が進んだところで

 カチャッ

と、何かのロックが外れた音がした。その後光は徐々に小さくなり、数秒で、消えた。

 アキラもハルも、その幻想的な光景にしばらく茫然としていたが、箱からペンダントが外れ落ちたところで我に返った。2人は顔を見合わせ、次にどんなことが起きてもいいように身構えながら箱をゆっくりと開けた。今度は何も起こらなかったが、その中は外見とは大きく異なり、かなり近代的だった。もともとあった中身を取り除き、何やら複雑な機械を押し込んだようで、少し箱との間に隙間が出来ていて中で傾いている。機械の表面にある画面にはヒビが入っていたが、そこには確かに

 20450216

という数字が表示されていた。アキラが試しにその機械を取り出そうとしてみたが、箱と一体化しているようで、動かすことはできなかった。

「あっ!これ、箱の後ろのツマミが動くようになってる!」

ハルがそう言ってツマミを何回か回して手を離した。すると

 ピロン、ピロン

と、心が落ち着くような美しいメロディーが流れ出した。その音に聴き入りながら

「やっぱりオルゴールだったのね。綺麗な音・・・聴いたことないけど、何の曲だろ?」

 そう、ハルが言い終わる前に、2人の姿はその場から消えていた。


 アキラとハルが不思議な箱を見つける少し前ーーカズキは一人、のんびりとアキラの家へ向かって歩いていた。カズキも、アキラとハルとは小学校に入る前からの幼馴染だが、彼はこの住宅街ではなく、街中の高層マンションに住んでいた。そのため、その道を通るのは久しぶりだった。昔から変わらない家々の様子は懐かしく、2人と遊ぶためにここに通った幼い頃を思い出させた。

「しかし急に行き先変更とは、一体何があったんだ」

 バスに揺られる途中届いたハルからのLINEには、予定が変わったからハルの家ではなく昔のアキラの家に来るように、と書かれていた。しかし言葉足らずのそのLINEで事態を理解できるわけもなく、またこの10年近づくことすらしなかった場所に向かうという事に、カズキは違和感を感じていた。

 アキラの家は換気のために扉が開け放されており、そのまま中に入ることができた。すぐに目に飛び込んできた様々な物の山は、いくつかが明らかについ先ほどひっくり返されたと分かる格好になっていて、まばらに拭き取られた埃と共に、ここに2人が来てからそれ程時間が経っていない事を告げていた。

「2人とも、どこにいるんだ?」

 カズキが声をあげたその時、

 ピロン、ピロン

と、二階の方からオルゴールの音がなるのが聞こえた。その出所を探ろうと、カズキは階段を上った。美しい音色はまるで、カズキを誘っているようでもあった。導かれるがままアキラの母の部屋へとたどり着いたカズキは、中に人の気配があるのを感じ取って

「アキラ、ハル、そこで何してーー」

そこで、言葉を失った。部屋に入ったカズキの目に映ったのは、アキラとハルの手によって引っ張り出されてきた様々な物の山と、その中に埋もれている革のベルトの腕時計だけだった。その腕時計の、3時11分を指す2本の針と、文字盤に刻まれたHARU-AKIRAの文字が、さっきまで確かにここに、2人がいたことを示していた。

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