一 おわり
2005年
静まり返った夜の病院。とてもそこに何十人もの患者が入院しているとは思えない。暗闇の中、誰かが歩くだけで、その足音が病院中に響き渡っている様な錯覚に陥るほどである。中でも最上階は、余命幾ばくもない患者が入院していて、彼らには一人一部屋の病室が与えられているために、その静けさが顕著だった。
そのうちの一室に、少年はいた。同年代の子たちと比べても特に小さなその身体を、よれたTシャツが覆っている。病室の中は殺風景、壁に掛けられたボードに写真が数枚貼られているくらいで、見舞いの花なども飾られていない。
少年の目の前のベッドには、自身の力では起き上がることも出来ないほどに弱った女性の姿があった。長く自分の脚で歩いていないために筋肉は衰え脚は枝のようになり、満足に栄養を吸収出来ていないのであろう、体重は健康だった時よりもずっと軽い。
女性が、痩せ細った手を微かに動かした。その動きはあまりにゆっくりで、普通の人の倍はかかった。しかし少年は、その細部まで決して見逃さないとゆうふうで、それを最後までじっと待ってから、彼女の元へと近づいた。女性の手には、2つの三角形を向かい合わせにした様な、変わった形のペンダントが握られていた。彼がそれを静かに受け取ると、彼女は少年以外には聞き取れないほど弱々しく、小さな声で我が子に語りかけた。
「アキラ・・・私は大丈夫だから・・・」
それが、彼女の言葉が空気を震わせた最後となった。それ以降、目は固まり、一点だけを見ていた。身体が、動くこともなかった。時折、口だけがパクパクと動いていたが、もう誰にも、その声は届かなかった。ただ少年はそれを、
「生きたい」
と言っているのだと思った。まだ幼い彼にも、母親の命が長くないことはよく分かっていた。
カチッカチッ
響く時計の針が、静寂を一層引き立てる。その空間にいると、時間という概念が無くなってしまったようにさえ感じられた。数時間が、何日にも感じられたし、一瞬にも思えた。
無機質な機械音が、静寂を破る。
女性の心臓が、最期の仕事を終えた合図だった。
温もりを失った母親の横で、少年は石のように微動だにせず、ただ彼女のことを見つめ続けた。そんな彼に、一人の少女が歩み寄った。少年の手を、少女の小さな手がそっと覆った。彼はその手を握り返すことをしなかった。少女も、それでいいとゆうふうだった。2人を見守る少女の両親も、その場の誰も、言葉を発しなかった。哀しさが空間を形作っていた。少年の目に、涙はなかった。あらゆる痛みの中、必死に生き抜いた人間を前に、それが如何に不釣り合いなものであるかを、彼はよく理解していたのだった。
長い沈黙の後、少女の両親が病室の外に出た。彼らは女性の親友だった。死を宣告した医師が、彼らに少年のこれからについて話し始めた。
「あなた方は、彼女とどのようなご関係ですか?看護師の話では、あの少年には引き取り手がないとのことでしたが・・・」
「はい、彼女には兄弟もなく、ご主人はあの子が生まれる前には亡くなってしまいましたから。親戚はいないはずです」
「そうですか。しばらくは病院で面倒をみることもできますが、いずれは施設に入ることになるでしょう」
彼らは少年の方を見ながら、ずっと前から決まっていた答えを返した。
「あの子のことは私たち夫婦が引き取ります。それが、彼女との約束でしたから」
医師は「そうですか」と静かに言って、その場を立ち去った。残された少女の母親は、少しかがんで少年の背中に優しく手をあてた。
「アキラ君、あなたは今日から私たちと家族になるのよ」
それでも、少年は冷たくなった母親から目を移さなかった。だが今度はそっと、となりにいた少女の手を握り返した。
心なしか、街がいつもより静かに思える。何かのカウントダウンのように、家々に灯る灯りが一つ、また一つと消えてゆき、逆に夜空では、輝く星達が徐々にその姿を現してゆく。そうしてそっと、一日が終わりを告げた。