緋色の髪
はっと目を覚ますと、窓の外は夕闇に沈んでいた。どうやら、フィリップ様のことを考え、涙を流すうちに眠ってしまったらしい。
窓辺に近付いて空を見上げると、雲の影もなく澄んだ夜空にはほの赤い三日月が輝き、その側で星々が淡く瞬いていた。
せめて夢の中だけでも、昔の私に微笑んでくれるフィリップ様に会いたかったのだけれど、夢に現れたのは違う人物だった。
…それで、よかったのかもしれない。目覚めたら、ほんのり胸が温かくなっていたのだから。
私が夢に見たのは、懐かしい祖母の姿だった。
私の家族で緋色の髪をしているのは、祖母と私のただ2人だけだった。
特に何の特徴もない、辺境にある小さく閉ざされた村では、人との少しの違いが差別につながる。
さらに、魔王の復活が噂される中、村人たちの不安や緊張の矛先は、自然とそんな差別の対象へと向かっていった。
祖先に呪術師がいたというのは本当らしいけれど、私にはそんな変わった力は何も備わっていない。
年の頃が近い子供たちや、私とすれ違う人々からは、遠目にも目立つ私の髪色に、そして能力もない私に、蔑むような冷ややかな視線が向けられた。
家族でさえ、祖母以外はまるで腫れ物でも扱うかのように私に接した。
ある時、とうとう堰を切ったように涙を流しながら祖母の胸へと飛び込んだ遠い日の私は、しゃくり上げながら祖母に尋ねた。
「おばあちゃん、どうして、私はこんな髪の色をしているの?
…せめて、私にも何か能力があればよかったのに、なぜ私には何もできないの?」
魔法を操る者をはじめとする能力者は、魔物の姿が見られるようになってからというもの、貴重な人材として厚遇されるようになっていると聞いていた。
おばあちゃんは優しく私の緋色の髪を撫で、私を抱き締めると、ほほほと笑った。
「そうだねぇ、エレノア。私も昔はお前さんとおんなじことを、よく考えていたよ。
きっとね、人間はみんな、自分とは違うものが、自分の預かり知らない、人知の及ばないものが怖いのさ。だから、けっして私たちが悪い訳じゃない。肩を落とすことはないんだよ。
…そしてね、わたしらの一族は、利他的な一族なんだよ。人間はだいたい、利己的なものだ。少しはわたしらのような一族がいた方が、全体のバランスが取れるのさ…」
「…リタテキ…ってなあに?」
意味がわからず首を傾げる私に、祖母は柔らかな光をその瞳に浮かべた。
「人のためになるということさ。人知れずではあるけれど、…お前さんがその髪色をしているということは、その資格があるということだろう。
なに、きっと、いずれお前さんにもわかる日が来るよ」
さっき夢に出て来た祖母は、あの日と同じように私を抱き締め、髪の毛を撫でてくれた。
…私は未だに、あの時の祖母の言葉の意味がわからないけれど。
祖母が他界してから、私はさらに孤独になった。そんな孤独を癒してくれたのが、フィリップ様だった。
フィリップ様との距離がだんだんと縮まっていく中で、王都周辺で魔物の出没が急激に増えている、との情報が耳に入るようになった。
多少の魔物が目撃されていても、今まではたいした被害はなかったようだった。それが、今では王都の中にまで侵入し、住民を襲う魔物も出ているらしい。
家の商売の関係で、よく王都にも足を伸ばすというフィリップ様の身を案じながら過ごしていると、ある週末、彼は私に大事な話があると真剣な眼差しで告げた。
「エレノア、僕は、王都に腰を据えて、魔物の討伐軍に加わろうと思う。
王都で、能力者が集められていることは知っているだろう?…僕には、取り立てて剣の腕もなければ、攻撃魔法も使えない。だけど、幸運なことに、治癒魔法の能力が認められたんだ」
「…治癒魔法、ですか?」
フィリップ様は私の言葉に頷いた。
フィリップ様が、それほど数が多くはないと言われる治癒魔法の使い手だったとは知らず、驚いた。だんだんとフィリップ様のことを知っている気になっていたけれど、そういう訳でもなかったらしい。
「…行ってしまわれるのですか」
私は掠れる声で呟いた。
当然のことながら、魔物の討伐には大きな危険が伴う。フィリップ様の身の安全を考えれば、できることなら全力で引き留めたかった。
けれど、彼は今まで私が見たことのないような、猛々しいような光を目に浮かべているように見えた。…燃えたぎる野心、とでもいうのだろうか。
「ねえ、エレノア。僕は末子にすぎないから、家の商売を継ぐ権利もない。
だから、これは僕にとって大きなチャンスなんだよ。…王都にはたくさんの冒険者が集まっている。その中でもし力が認められれば、地位も権力も得ることができるんだ、今なら。王家は、王都を守る優秀な能力者を集めるために、優れた功績を残した者には貴族位までも与えると公言しているよ」
フィリップ様の迫力に思わず少し後ずさると、フィリップ様ははっとしたように、いつもの屈託のない笑みを浮かべた。
「それにね、エレノア。僕が地位や名誉を得ることができれば、胸を張って君を迎えに来ることが出来るんだ。
…君が俯くことのないような、君を守れるような、そんな地位を確かなものにできたら、君を迎えに来るから。
そうしたら、…君に、ずっと僕の隣にいて欲しい」
「…!」
想像だにしていなかった言葉に、自分の耳が信じられずに、私は息を飲んだ。
「こんなことを急に言って、驚かせてしまったよね。でも、僕は君を一目見た時から君が気になって、会うほどに惹かれ、君を手放したくなくなってしまったんだ。
…もう、明日には王都に向かうから、今告げるほかなくて。ねえ、エレノア。君は僕のことを、待っていてくれるかい?」
フィリップ様の声が少し震え、その瞳には熱と縋るような色が宿っていた。
もし私の為だというのなら、地位も名誉も何もいらない、そう思った。フィリップ様と一緒に過ごせるのなら、ただそれだけで良かった。
…けれど、フィリップ様は、それらを得ることを心の底から望んでいるようだった。自分の力を試し、それに見合った力を手にすることを願うことは、才能に恵まれた人間にとっては本能的な願望なのかもしれない。
愛する人が望む道を妨げるようなことはしたくはなかった。
「はい、フィリップ様。…フィリップ様の戻られる日を、ずっとお待ちしておりますわ。そして、フィリップ様のご無事を心からお祈りしております」
「ありがとう、エレノア…!」
フィリップ様は私を強く抱き締めると、私の額に優しく口付けを落とし、耳元で甘く囁いた。
「君にたくさん手紙を書くよ。僕も寂しくなるけれど、…君も自分を大切にして、元気でいておくれ」
最後にもう一度両腕に力を込めると、フィリップ様は私を愛おしそうに見つめてから、手を振って去って行った。
それから月に2度ほど、彼から定期的に手紙が届いた。
王都近くの森で野営していること、一緒に魔物討伐を行っている仲間や、出会した魔物のことなどの近況のあれこれ。そして、早く君に会いたい、君の元に帰りたいという言葉。
滑らかな書体で書かれたそんな手紙は、年月を重ねるうちに、やがて近況が省かれ、私に会える日が早く来ることを願う旨の簡潔な文面になっていったけれど、それでも彼が無事であることを示す手紙は私を安堵させ、彼に会える日を願う私の心をときめかせるには十分だった。
ただ、ここ3か月は彼からの便りが途絶えていた。
彼の身に何かあったのではないかと案じていたのだけれど、私に心がなくなったからと、そういうことだったのだろうか。
…私をここに連れて来た、ザカリー様と呼ばれていた黒髪の青年は、なぜあの夜の教会で、私の前に現れたのだろう。
もうフィリップ様の心が私にないとわかっていながら、彼を蘇らせたのだろうか?それとも…。
考えるほどに混乱した私は、明日にでも直接黒髪の彼に聞こうと考え直し、まだ温かなベッドの中へと潜り込んだ。
***
馬車の上で、フィリップの視線は一箇所に吸い寄せられていた。
(あの炎のような緋色に輝く髪は…。まさか、エレノア?)
数多くの観衆が歓声を上げ、自分たちを称賛する中で、夥しい数の頭が視界に入ったけれど、ただ1人だけが目を引いた。あの髪色を、見間違う筈もなかった。
そして、一瞬彼女の金色の瞳と目が合ったような気がした。
顔から血の気が引き、固い表情になったフィリップに、身体を寄せるように彼の横で腕を組んでいたメアリが目を細めた。
「あら、どなたか知り合いでもいらして?」
「…ああ、昔の知り合いに似た人がいたようだ」
観衆向けの微笑みは絶やさぬまま、少し顔を引き攣らせたフィリップの瞳をメアリは覗き込むと、片方の口角を上げた。
「もしかして、あの手紙の彼女かしら」
「…!君は、どうしてそれを…」
フィリップの顔から、張り付けていた笑顔が剥がれ落ちる。
メアリは今度はにっこりと笑った。
「わたくし、貴方のその能力には惚れ込んでいますのよ。貴方の治癒魔法はこの国随一だと思いますわ。
貴方が私の力をどう思っていらっしゃるのかは、わかりませんけれど…。
でも、わたくしにどんな力があるかはご存知でしょう?
もしかしたら、可哀想な田舎者の御令嬢が、ちょっとした事故に巻き込まれるなんてことがあるかもしれませんわね」
メアリは、フィリップと組んでいない方の腕を伸ばすと、掌を上に向けて、観衆には馬車に隠れて見えない高さでふわりと炎を燃え上がらせた。
フィリップとメアリとの間に、一瞬の沈黙が落ちる。
フィリップは知っている。魔物を何の躊躇いもなく、片端から切り捨てていく姿が悪魔にも喩えられる勇者ザカリーにも引けを取らず、…いや、それ以上に、まるで天使のような容貌とは裏腹に、攻撃魔法の達人であるメアリが魔物を追い込んだ時には、まるで彼らを弄ぶような残忍な色が、その美しい瞳に浮かぶことを。
そして、今目の前にいる彼女の瞳の奥には、その時と同じ色が見え隠れしていた。
ぞわりと粟立つ背筋を隠すように、フィリップはできる限り優しくメアリに微笑み掛けた。
「僕の君への気持ちはよくわかっているでしょう?メアリ。君はそんなことはしないよね…?
…一度だけでいい。僕に、彼女と会う機会をくれないか」
「そうねぇ…」
緊張の色が見て取れるフィリップの眼差しに、可愛らしく小首を傾げたメアリは、フィリップに絡めた腕に力を込める。
「婚約者の貴方のお願いですものね。一度だけでいいなら、会わせてあげる。
でも、一回だけよ?…いつにするかは、私に決めさせてもらうわ」
ふふと微笑む彼女の目は笑ってはいない。
フィリップがエレノアに視線を戻そうとした時には、既に彼女の姿は消え失せており、その後どこを見回しても彼女の緋色の髪を見付けることは出来なかった。