願い
9月7日の異世界恋愛ジャンル日間ランキングで27位に入りました。
読んでくださってありがとうございます!
闇に沈む夜の教会で、1人の少女が声を殺してむせび泣いていた。
彼女の名前はエレノア。鮮やかな彼女の緋色の髪が、揺らめく燭台の灯りにうっすらと浮かび上がっている。闇夜に浮かぶ月のような金色に輝く瞳からは、とめどなく涙が溢れ出していた。
そっと教会へと足を踏み入れ、首を垂れる彼女の手に握られていたのは、…魔物と最前線で戦っていた、彼女の恋人の戦死を知らせる手紙だった。
不安に駆られて眠れない夜は、こうしてそっと、夜の教会に来て膝を折り、彼の無事を祈っていた彼女だったが、今夜は絶望で胸が張り裂けそうだった。
(ああ、フィリップ様。私には、あなたのご無事をただ祈ることしかできませんでしたが…。
もう、あなたが天で安らかに眠れるよう祈ることしか、できないのでしょうか…)
『君を迎えに来るから。
そうしたら、ずっと、僕の隣にいて欲しい。
君は僕のことを、待っていてくれるかい?』
真剣な顔で告げられた彼の言葉を思い出す度、そして熱の込められた彼の瞳が、屈託のない笑顔が脳裏を過ぎる度、熱い涙が彼女の頬を伝った。
彼から贈られ、欠かさずに大切に身に付けていた、花を模した金色の髪留めが、手を滑らせた弾みで粉々に砕け散ってしまったのが数日前のこと。
不吉な予感に胸が波立っていた矢先の、彼の訃報だった。
顔を伏せ、思いを巡らせながら肩を震わせる彼女の横に、音もなく現れた影があった。
その影は、そっと彼女の耳に囁き掛ける。
「…君の願いを叶えてあげようか」
「…!!」
はっと顔を上げ、怯えた表情で振り向いた彼女は、1人の青年と目が合った。
墨を流したような黒髪に、魅惑的な翡翠色の瞳をした、闇に溶け込むような黒い衣服に全身を包んだその青年は、ふっと口元を緩ませた。
「あなたは…どなたですか?どうして、こんな場所に…?」
びくりと身体を反らせた彼女が震える声で尋ねると、彼は落ち着いた、そしてよく通る低い声で答えた。
「そうだな、…俺は悪魔とも呼ばれているよ。俺がここに来たのは、君の泣き声が聞こえたから。
君には、叶えて欲しい願いがあるのだろう?」
(…どうして、私に願いがあることを知っているのかしら。
この人はもしかすると、本当に悪魔…?)
混乱と戸惑い、そして恐怖に身体を固くし、赤く腫れた目を瞬かせた彼女は、改めて目の前にいる青年の姿を見つめた。
悪魔といっても、恐ろしいというよりは、整い過ぎた容貌がどことなく人間離れしている印象だった。
…悪魔と呼ばれる人に、以前一度だけ会ったことがあるけれど、やはり、悪魔は黒髪をしているのだろうか。
目の前の出来事を俄には信じられないまま、エレノアは頭のどこかでぼんやりとそんなことを考えていた。
彼女の緋色の髪は、呪術師の末裔を表す色としてこの小さな村で蔑まれていた。
緋色よりもさらに忌避されるのが、彼のような真っ黒の髪色。悪魔の化身と罵られ、忌み嫌われる色だ。
村人たちから距離を置かれ、心を閉ざしていた、そんなエレノアの心を溶かしたのが、彼女の恋人だったフィリップだった。
一瞬恐怖に駆られ、思考を彷徨わせていたエレノアだったけれど、再度目の前の、悪魔と呼ばれるという黒髪の青年と視線を合わせた時には、その瞳に光が戻っていた。
「ええ、私にはたった1つだけ、願いがあります。私の大切な人を、フィリップ様を蘇らせて欲しいのです。
それが叶うのならば、私はどうなっても構いません」
神でも悪魔でも、縋れるのなら誰でも構わない。我が身を捨てる覚悟の、そんなエレノアの必死の形相を見つめ、青年はその美しい容貌に薄く笑みを浮かべた。
「いいだろう。君の願いは叶えてやる。
…ただし、君はどうなっても構わないと言ったな。君の言葉通り、君自身と引き換えにその願いを叶えよう。君のことは、俺が貰い受ける。
それから、もう一つ。
君の願いが叶っても、それが彼と君の幸福に繋がるとは限らないし、苦しみや悲しみを覚えることもあるかもしれない。…それでも、その願いを叶えたいと?」
「はい」
エレノアは躊躇いなく頷いた。
彼がもし生き返るのであれば、自分の身など惜しくはない。
大切な彼の命を失い、胸を抉られるような絶望に苦しむよりも辛く悲しいことなど、とても想像などできなかった。
エレノアの肯定を受け、青年がゆっくりと翳した右手が発光する。
暗闇を照らし出す眩い光に、思わず彼女は目を閉じた。
***
窓から差し込む眩しい朝陽に、エレノアは開きかけた目をまた細めた。
(もう朝になったのかしら…。
…私は、いったい…?)
慌ててばっと上半身を起こして、辺りを見回す。
ベッドサイドの大きな窓から見える景色も、見慣れた自分の部屋の光景も、いつもと何も変わらなかった。
(あれは、夢、だったのかしら…)
思わず彼女は両目を擦った。
普段と変わらない朝を迎えているのだから、悪夢を見たと考えるのが自然だった。
昨日泣き過ぎたせいか、目蓋も重い。
けれど、と彼女は首を傾げた。
最愛の彼の戦死の知らせを受けて、あまりのショックにふらふらと夜道を教会に向かったような気もするものの、帰り道を辿った記憶はない。
そして、夢というにはあまりに生々しい印象だった。細部まで記憶に残っている。
混乱する胸の内を落ち着けるように、エレノアが改めて身の回りを確認すると、昨日と違うことに1つ気付いた。
それは、彼女が手に握り締めていたはずのものがなくなっていたこと。
恋人の戦死を知らせる手紙は、忽然と彼女の手元から姿を消していた。
皮肉なことに、魔王討伐の噂がこの村にも聞こえ始めた時に、折しも届いたその訃報。…ようやく希望の光が見え、彼に会える日も近いのではないかと胸を弾ませていたのに。
彼から届いた手紙を大切にしまっている机の引き出しの中は勿論のこと、部屋中をくまなく探し回ったけれど、どこにも手紙は見当たらなかった。
エレノアは首を捻った。
(…もし、昨夜のことが夢でなかったとすれば。黒ずくめの青年は私と引き換えだと言っていたけれど、私の身体には特に何の異変も起こっていない。
昨夜のことは夢で、フィリップ様戦死の知らせは、平常心を失っていた私がどこかで失くしてしまったのかしら…)
それでも、どうしてかエレノアの胸はざわついた。
彼は、生きている。そんな気がしたのだ。
いてもたってもいられなくなったエレノアは、最低限の荷物を鞄に詰め込むと、目的地だけを定めてすぐに家を飛び出した。
今まで生まれ育ち、彼女にとってはこの世界の全てだった、辺境の小さな村から。
…エレノアはこの時、気付いてはいなかった。
砕けた筈の髪留めが、かき集めた破片をそっとしまった箱の中、元の花の姿を取り戻して輝いていたことに。




