08.彼女がイタズラに清楚的にちゃらついて辛い
くたくたに煮立った鍋とぬるくなったサワー。コタツに入って、夕飯を再開した。
さっきのキスで意識しまくっている俺は、この状況がとてもありがたい。高揚して心臓がうるさい状態では、まともな会話ができなさそうだった。
そんな俺の戸惑いをあざ笑うのが、彼女だ。
「ねぇ、さとる」
「ん?」
スマフォを見ながら食べていると、呼ばれて振り向いた。
目の前に差し出される箸先に、摘ままれた野菜と肉。汁が垂れないように添えられた片手。綺麗な手つきに一瞬で見惚れる。
至近距離に寄せられた表情は、綺麗な微笑みをたたえていた。少し細められた目、長いまつ毛が良く見える。整った鼻筋に、何度も意識した薄紅色の唇が優しげに弧を描く。
小首をかしげると、サラリと揺れ動く髪が綺麗だ。鼓動が強く鳴り、顏が熱くなって息が詰まる。
「召し上がっていただけますか?」
心地よく耳を打つ声色に意識を奪われ、カランと箸を落とした。呆然と見つめることしかできない、何も考えられない。
あかりの表情がくしゃりと崩れ、陽気に笑う。
「あははっ、面白ーい!」
綺麗で清楚な雰囲気は一掃された。笑う振動で箸が揺れ、汁が飛び散っている。
完全にからかわれた。恥ずかしさと怒りが入り混じり、顏が一気に熱くなる。
「このぉっ」
「えいっ」
「んぐっ!?」
声を上げようとして、具材を口の中に詰め込まれた。息を吸ってしまい、気管に汁が入ってしまう。
「んんっ、ゲホッゴホッ!!」
「きゃっ!」
苦しくて咳き込み、吐き出してしまった。口からポンと出た具材、続いて聞こえるあかりの声。咳き込みながらも視線を上げてみる。
ピンクのニットセーター、胸のところに具材が乗っかっていた。
変に妄想をしてまた吹き出しそうになるのを、堪える。
「ゲホッ……言っとくけど、あかりが悪いんだからな」
あかりは唇を尖らせ頬を膨らませた。この期に及んで、不貞腐れた顔をしている。
反論がなくて静かでいい。安堵をしていると、ニヤッと口角を上げて笑った。別の意味でいやらしい。
悪い予感がした。こういう時、ろくでもないことをやる。
ニヤニヤと意味深な笑みを浮かべ、少し前屈みになる。両腕を寄せると、胸が弾力で揺れて盛り上がった。つい、凝視してしまうのは仕方がない。
「あの……」
透き通った綺麗な声が聞こえた。声に惹かれて、自然と顔を見つめてしまう。
恥ずかしげに眉を寄せながら、優しく笑う口元。薄く色づいていく頬が可愛らしくて、見ているだけで熱が上がりそうだ。
「このまま、食べて頂けませんか?」
あかりの視線がゆっくりと落ちると、簡単に視線が誘導される。魅力的に丸く膨らんだピンクのニットセーターに、意識も視線も釘付けになった。
真ん中に乗っていた具材なんて目に入らない。
自然と喉がゴクリとなってしまう。
「さとるのエッチ」
「うっ!」
頭を殴られたみたな衝撃だ。簡単に誘導されて、からかわれた。怒りよりも恥ずかしさが勝る。恐る恐る視線を上げると、やっぱりいた。
いやらしくニヤついている顔が。
口元に手を当てて、じっと見ながら笑いを堪えている。
「もう男子ったら、すーぐそこを見ちゃうんだから」
「なっ、おまっ!」
「えー、何を考えたの? 私は服のこと言ったんだけどなー。あれー、可笑しいぞー」
駄目だ、どんどん罠にかかってしまう。自尊心を刺激されて、とても悔しい気持ちだ。
でも、目の前で笑うあかりを見ると煩わしい感情が少しずつ薄れていく。口元に手を寄せて、肩を揺らしながら笑う姿は……やっぱり可愛い。見ているだけで、胸の奥が熱くも切なくなる。
あかりはこんな俺の気持ちを知っているんだろうか。
知って欲しいような、知ってほしくないような。
思春期のセンチメンタルな気分になる。
◇
現実は容赦ない。一時間前に感じていたセンチメンタルな気分は一掃され、卑猥な空想だけが思考を占拠する。
理由は簡単だ、浴室から聞こえるシャワー音のせいだ。
台所の向かい側にある浴室。脱衣所なんてない。台所と居間を仕切るカーテンが垂れ下がっているだけだ。計らず買ったため、床から30センチも離れてしまっている。
コタツに入りソシャゲをするが、全然集中できない。チラッと隙間から向こう側を見てしまう。筒形のプラスチックカゴが置かれていて、渡した黒色のシャツと紺色のスウェットが見るだけ。
もちろん、俺の物だ。俺の物をあかりが着るんだ。
考えただけで勝手な妄想をしてしまい、凄く居た堪れなくなる。変な汗まで出て来て、何度も手の汗を服で拭った。
そして、シャワーの音が途切れる。
耳に全神経が注がれた。無意識に聞き耳を立ててしまったことに、後ろめたたさを感じてしまう。欲を吐き捨てる為に大きく息を吐いた。
ガチャッと浴室の扉が開く音がして、布を漁る音の後にすぐに閉められる。
ホッと安心したような、少し残念な心境だ。自然とため息が出ていく。期待の喪失感が広がって体が重くなる。コタツテーブルの上でつい寝そべってしまった。
またガチャッと扉が開かれる。
視線はカーテンの隙間に目がいってしまった。
白い素足が青色のバスマットに降り立つ。小さな足に細い足首、柔らかそうなふくらはぎが少し見えた。その足がゆっくりと動く。
あれ、着替えは?
脳裏を過る疑問。失った期待がまた沸き上がり、次第に高揚していく。
「ねぇ……さとる」
艶のある声にドキッとする。緊張なのか、寝そべっていたテーブルから体が起きた。
「な、なんだよ……」
声が少しだけ震えてしまう。心臓の鼓動が体中に広がるくらいにうるさくて、息も詰まってきた。滲み出る手のひらの汗を軽く握りしめて、ゴクリと喉が鳴る。
「このままの姿で……そっちに行ってもいいですか?」
聞き慣れない女性らしい柔らかな声色に、心臓が跳ね上がった。ドッドッと胸を鼓動で揺さぶられる。思考はろくに動かないはずなのに、その言葉の意味を凄まじい勢いで理解した。
頭の中で妄想が滾る。
浴室に戻って、きっとバスタオルで水滴を拭いたはずだ。あの艶のある髪も、白い素肌も、健康的な細さの腕や足も。
じゃあ、向こう側にいるあかりはどんな姿なんだ?
きっと、いや絶対にバスタオルを体に巻いているはずだろう。そんな姿がカーテン一枚に遮られた同じ空間にある。じれったく、もどかしい。
「どんな姿でも……嫌いにならないでくれますか?」
「なっ、ならない」
「……嬉しい。こういう時って、凄く緊張しますね」
全面同意だ。否定なんてない、出来るはずがない。
少し震えているあかりの声からも緊張が伝わってきて、内心安堵した。相手も緊張していると知ると、自然と冷静になってくるのが不思議だな。
カーテンの真ん中にある隙間から、白い指先が現れた。俺の心臓は爆発しそうなほど、激しく胸を打つ。息も詰まり、苦しい。
そしてカーテンが――――勢い良く開け放たれた。
「じゃーーん!」
紺色のスウェットを上だけ着た、あかりが現れた。
「何期待してたの、バーカ!」
いやみったらしい笑顔を浮かべて、バカにされてしまう。もうそれだけで、全身から力が抜けた。
「……はぁ」
「ねぇねぇ、今どんな気持ち~? やっぱり残念だった? ねー、ねー」
テーブルにうつ伏せになって、あかりの追撃から防御する。からかい続けるあかりは本当にしつこい。小バカにしてくるんだが、怒ったら拗ねるから性質が悪いんだよ。
今はひたすら耐えよう。そう思っていたが、ふとあることに気づく。組んだ腕にあごを乗せて、改めてあかりの姿を見た。
上のスウェットだけ着ている。下は俺を誤魔化すために着ていない。
長めの上着が太もも半分を隠すが、後は露出している。腕の部分も長いのか、手が裾から出ていない。一気に冷めた熱がまた少しずつ戻ってきた。
戸惑いがちなあかりの声が聞こえてくる。
「えっ、ちょっと。何?」
「あーー、うん」
「……あっ」
どうやら気づいてしまったようだ。仕返しとばかりにあかりを見上げて、ニヤニヤと笑いかける。
あかりの顔が急激に赤く染まった。口をパクパクとさせて、まるで金魚みたいで可笑しすぎる。めちゃくちゃ愉快な気分になり、喉を鳴らしながら耐えるように笑ってやる。
手の出ていない裾でスウェットの端を掴んで伸ばす。
「さとるのバカッ!!」
出したのはあかりだろう、なんてツッコミは野暮だろうな。
久々に愉快な気分になって、スッキリとした。