07.彼女の二面性に気づいた夜
無音の室内は沈黙に包まれていた。風圧でうるかったエアコンや、鍋の煮立つ音すらない。こんなことならつけておけば良かった。今更ながら後悔してしまう。
外していた視線を彼女に向ける。
少し俯いた顔にかかるサラサラの髪。一つに結んだ髪が、ゆっくりと肩から滑り落ちていく。顔や耳は今も赤く染まり、俺の羞恥心をあおるようだ。
背中を丸め、正座を崩した足。綺麗な姿勢は崩れたが、なんだか可愛く見えてしまう。別の意味でドキドキしてしまった。
早く何か言わなきゃ。部屋の空気に呑まれて、急かされるように質問する。
「そ……そういえば。気持ち悪いって、どうしてそんな言い方したんだ?」
「えっ、あっ」
両肩がビクリと跳ねて、顔を上げる。眉を寄せて少し戸惑ったような表情をした。
なんとなく聞いてみたが、今の反応を見ていて不安が募る。地雷だったらどうしよう。膨らむ不安で、心臓がうるさく鳴り続ける。
あかりは遠慮がちな笑みを浮かべた。
「あー……そこ気になる? えーっと、ね。大学入りたての時、近くに座ってた人に言われたんだよ。姿勢がきちんとし過ぎて気持ち悪いって。そこで自分の姿勢が普通とは違うことに気付いて、出来るだけ周りを真似てたんだよね」
衝撃の事実を聞いた。まだ付き合って4か月ぐらいだけど、そんな話は聞いたことが無い。誰だよ、そんなこと言った奴。無性に腹が立ってしまった。
でも、負い目を感じたあかりを思うと……胸が痛い。どうしてその時、傍にいなかったんだ。悔しくなって手を握り締める。
「だからじゃないけど……さとるもそういう子が好きなのかなって思ってさ。ほら、普通の共学な高校に通っていたって言ってたでしょ?」
言ってはいたが、それがなんだっていうんだ。俺をそんな奴らと同レベルに見られていたことにも腹が立つ。いや、逆にそう思わせてしまったのか? それはそれで辛い。
他人と自分への怒りがごちゃ混ぜになって苦しくなる。いや、苦しかったのはあかりだろう。こんな風に思えるほど、好きだったんだな。
改めて見るあかりの顔は赤い。目を泳がしながらも、時々見てくる。その視線は熱くて、男心をくすぐられていった。
黙って待っていると、ためらいながら話してくれる。
「だからね、なんていうのかな。そういうきちんとしすぎた子、って好かれないんじゃないかなって思ったり、して」
言葉に詰まりながら、小さな声で教えてくれた。すぐに頬を両手で包み込むと、恥ずかしげに視線を下に向けた。ちゃらい感じはなく、とても可愛らしい……知らないあかりだった。
知らなかったことへの寂しさ。それよりも、俺のことを意識してくれたことの嬉しさと喜びが勝った。少し冷めたはずの体がまた火照り出して、息が詰まる。
燃えるような高揚感で、思考は麻痺して羞恥心が吹っ飛ぶ。
「俺は好きだよ、あかりの綺麗な仕草」
真っすぐに見つめて言った。
偽りのない本当の気持ち。今、一番に知って欲しい俺の気持ちだ。
ピクリとあかりが動く。下がっていた視線がゆっくりと上がる。その目にはまだ疑念が浮かんでいるように思えた。それが悔しい。
だから、もっと伝えたくなる。
「気持ち悪いどころか、本当に見惚れるし。惚れ直すっていうか」
「えっ、あっ……」
話の途中で聞こえる、しどろもどろな声。力が抜けたのか、姿勢がうずくまりそうなほど崩れる。顔は見たことのないほど赤く染まり、煙でも出てきそうだ。
あかりの豹変ぶりに羞恥心が沸き上がる。呑み込みそうになる言葉を絞り出す。
「俺の前ではそういうところ、見せて欲しいなって……思ったりして」
息が詰まりそうになる恥ずかしさに、はっきりと言い切れなかった。沈黙するのが怖くて、さらに声を絞り出す。
「ど、どう……かな?」
「どどど、どうって……」
お互いに視線を外す。そして始まる、沈黙の時間。長ければ長いほど緊張は高まっていった。
俺から話そうとした時――――
「……う」
「う?」
震える小さな声が聞こえて、視線を戻す。赤い顔を隠さず、潤んだ目で見つめられる。初めて見る、控えめな微笑みを浮かべた。
「嬉しい、です……」
愛おしさが溢れて、胸が締め付けられる。あれだけ煩わしかった心臓の音が心地よくトクンと鳴った。可愛いとか綺麗だとか、一言では説明できない。
それに、いつものらしくない口調。男心をくすぐられる。どうやら、不意というものに俺は弱いかもしれない。
大きく息を吸い、溜まった熱を吐き出す。少し鼓動が収まった気がした。
「そ、そろそろ……鍋食べようか」
「そそ、そうですねっ……じゃなくてっ。そうだね」
息が止まり、心臓が痛いほど強く鳴った。……俺は不意に弱いらしい。
チラッとあかりを見ると、いつも通りの腑抜けた笑顔に戻っている。俺はこんなにも翻弄されているのに、なんだか悔しい。もう少し言ってやりたい気になった。
「丁寧な口調のあかりがすごく新鮮」
「えっ、それはどういう……」
「なんか、いい」
少しからかってやろう、そんな軽はずみな思い。恥ずかしがれ、という子供じみた考えだった。
あかりは眉を寄せて、微妙な表情になってしまう。
「そう、なんだ……」
ほんの少し悲しげに目を伏せた。
わずかな変化に焦燥感が沸き上がる。言い方が不味かったかな。あれじゃ、今の憧れな姿より、昔に戻ってくれと言わんばかりだ。
「さっきも言った通りにいつもの明るい感じも好きだからっ」
少し慌てて訂正した。じっと見つめて、真っすぐに気持ちを伝える。
目を見開き、口をパクパクと動かした。それから両手で顔を隠して俯いてしまった。
「うぅっ、何度も言わなくても……わ、分かってるからっ」
「ご、ごめん……」
震える声だけでも分かる、恥ずかしがっていること。それが伝わってきて、俺も恥ずかしくなってしまう。
からかってやろうとして、不安にさせて、最後には自分の羞恥心をあおっただけだった。なんとも情けない結果に、ため息を堪える。
現実逃避をするように、IHヒーターの電源をつけた。放置しすぎて鍋の中身が煮えすぎていないか、溶けていないか。悪い方に考えてしまう。
その時、腕の服を軽く引っ張られる。
なんだろう、とあかりを見た。
服を引っ張る腕を伸ばし、少し俯いている。耳にかけていた髪がサラリと落ちて揺れていた。目線だけを俺に向けて、幸せそうに笑う。
「でも、ありがとう。本当に嬉しい」
心が一瞬で温まる。
なんだか不思議な感じだ。落ち込んだり喜んだりする原因が、全てあかりにある。表情や仕草で心をかき乱したり、慰められたりする。
でも、そういうのは嫌いじゃない。
むしろ楽しく思えるから……不思議だな。
顔が自然と綻んだ。
「うん」
優しく頷いて、目を見つめ直す。あかりの表情は、力が抜けたような締まりのない笑顔になる。可愛いさにニヤケそうになり、体中がソワソワしだす。
ぐっと全身に力を込めてなんとか耐える。だが、全然落ち着かない。煮えてもいない鍋の中身をよそおうと、お玉を手にして覗き込む。
「さとる」
「ん?」
呼ばれて振り向く。
真っ直ぐに姿勢を正したあかりがみつめてきていた。凛として佇み、微笑を浮かべる姿は綺麗で目を奪われる。
知らないあかり。
空想の別世界に住む、綺麗なお嬢様がいた。
深まる笑みは、ふんわりと花が咲き誇るようだ。
ダークブラウンの髪は、星々の瞬きのように艶やかに輝く。
きめ細やかな白い素肌は、新雪みたいで触りがたい。
息を飲み込むほどの美しい姿。
薄紅色の唇が動くと、心臓が一層強く鼓動した。
「私、さとると付き合えて本当に良かったです。こんなに楽しくて嬉しくなるのは初めて、なんです」
声すら違う。透き通った声は心地よく耳を打ち、腑抜けになりそうだ。見つめてくる視線は柔らかく、別人に思えてならない。だから緊張してしまう。
「えっあっ、あっ……あかり。その、なんだ……」
なんと返答していいか分からなくて、どもってしまった。焦って、さらにまた焦る。落ち着かなくて頭をかいたりした。
時間が経つにつれて緊張も焦りも高まり、思考が働かない。頭の中が真っ白になり、言葉すらもう――――
「ぷっ、あははははっ! お、可笑しいっ!」
突然あかりが笑い出した。腹を抱えて、大口を開けている。先ほどの態度が嘘のようだ。
「なっ!? からかったな!」
現実に戻った瞬間、沸騰する恥ずかしさで声を張り上げた。後から小さな怒りも生まれ、感情がぐちゃぐちゃになる。
俺が言うよりも先にあかりが動く。
絨毯に手をついて四つん這いでにじり寄ってきた。ニヤついた顔を見て、嫌な予感がする。
触れ合うほど傍に近寄ってきた。膝立ちになり腕を伸ばされ、俺に覆い被さる。重さと恥ずかしさと嬉しさ、全てが圧し掛かってきた。
受け止めようと上半身に力を入れて倒れないようにする。温かな体温を感じると、全身の熱が上がった。鼻先をくすぐる香りは、思考をクラクラと揺さぶってくる。
そして、ふっと体重が軽くなった。
不思議に思った時――頬に柔らかな感触があった。あかりの唇が頬に触れる、キスだ。わずかな時間触れ合うと、そっと離れていく。
息をすることを忘れていた俺に、ようやく呼吸が戻る。
ゆっくり離れた唇は悪戯を仕掛けるように耳に寄せられた。
微かに触れる距離。
あかりの吐息が耳を撫でて、囁くように言う。
「大好き」
熱を含んだ息と言葉の感触が、いつまでも耳に残った。