12. ラベンダーとベルガモット
帰宅後しばらくして月が天に昇る頃。
灯からの電話があった。
「今日は、その…ごめんね。」
思った通りの切り出し方だった。
「謝る必要なんてないだろ。」
「でも星一君を泣かせちゃった。」
「女に泣かされる男なんてな…」
あんなに泣いたのは、白鳥が亡くなった時以来か。
両方、悔し泣きだ。結局俺は何もできずに死んでいく人を見ているしかないのだ。
わかってる。
どうにもならないことはわかってるんだ。
「ね、今から会えない?いや、今からそっちに行っていい?」
「え?馬鹿なこと言うんじゃない、何時だと思ってんだ。」
「でもね、来ちゃった。」
擦りガラスの向こう側に、小柄な人影が見える。
「…灯なのか。」
「うん、寒いから早く開けて?」
窓の奥と電話の向こう側から同時に声がする。
そう言われてしまえば、追い返すわけにもいかず灯を家に招き入れた。
…初めてか、灯を家に入れるのは。
「わー、殺風景。必要最低限の家具とお魚さんの入った水槽しかないや。」
「うるさいぞ。今お茶を淹れるからベッドに座って待ってろ。」
「おかまいなく~」
僕は星以外の唯一の趣味である紅茶を丁寧に淹れ、灯へ差し出した。
「いい香り。なんて紅茶?」
「ベルガモットラベンダーだ。心を落ち着かせる効果がある。」
「今の星一君にはぴったりだね。」
「…まぁな。」
それ以降特に会話もなく、ぼんやりとテレビを眺めながら1時間ほど過ごした。僕からは切り出さないことを灯は知ってか、話し始めた。
「…あとどれくらいこうやって過ごせるんだろうね。」
「それは僕ら次第だろうな…。」
「今日たくさん泣いたよね。でも私は泣けなかった。きっと酷い女だとみんな思ったかもしれない。」
「そうは思わないな。みんなただの貰い泣きだろう。君は強い意志があるから泣かなかっただけさ。」
「私も泣きたかったよ。星一君と同じ気持ちを分け合いたかった。でも、私も泣いちゃったら、誰が貴方を照らすのよ。」
「…よせよ。また目から水が零れる。」
「泣いちゃえ。」
僕のわき腹を強く突く灯。
決して痛くはなかったけど、いろんな意味が込められているのが分かった。
「…ありがとな。」
「何もしてないよ。」
「ずっと傍にいてくれたことに対して。」
「ふふ。」
「でもな、」
星一君は言葉を詰まらせて、震えた声で言った。
「最期の日には、僕と会わないって約束してくれ。」
私はそんな約束はできないと言いかけたが、気持ちを押し殺して、無言を貫いた。紅茶のラベンダーの香りだけが部屋に広がる。
そんな無言の私に星一君は追撃する。
「…君が眩しすぎて、どうにかなっちゃいそうだ。」
「…光を抑えれば、一緒に居れる?」
「そういう問題じゃないんだ…」
掠れた声で弱弱しく言う。
「わかった。ごめんね。」
私はそれだけ言って、星一君の家を飛び出した。
自分の髪の毛に、微かなベルガモットの香りを感じてこの日初めて泣いた。




