第八 牛転~琴屋
第八 牛転~琴屋
辰夫は、自分が暗闇の中をさまよっている夢を見ていた。何も見えない中を歩く恐怖、体を何かにぶつけながらさまよう自分がいた。ぶつけるたびに痛みが身体中に走る。何処へ行く当てもないのだから止まればよいのであるが何故か歩いている自分がいる。子供の頃よく見る夢で、奈落の底に落ちる夢があった。何故か、奈落の底に落ちる夢は覚えていて、覚えている理由は現実の世界で経験したことのない恐怖が身体に残っているからである。決まって落ちる瞬間と落ちていく過程は覚えているのであるが、落ちた場所は記憶にない。当然落ちた時の痛みも分からない。
辰夫は身体の痛みが激しくなり、「もう、止まろう」と思いながら足を進めてしまった。その次に来るものが分っていたように、踏み込んだ左足を置いた所が崩れ落ちていくのである。右足でふんばろうとするが何故か右足に力が入らない。両手を広げ何かに縋ろうとするが縋るものなどあるはずもない。ただ、その瞬間、奈落の底に落ちる恐怖と子供の頃よく見た夢を思い出したこととが同時に頭に走り、目が覚めた。やっぱり、落ちる時と落ちていく過程のみで、落ちたところはなかった。
目を覚ますと身体の痛みと暗闇の中は夢の中とあまり変わらない状況であった。ただ人の気配をはっきり感じることができた。頭を持ち上げ周囲を見渡すがまだ暗闇から抜け出すことが出来ていないようだ。自分で「確かに夢から覚めているはずだ。」と言い聞かせ、もう一度周りを見渡したが、やはり暗闇の中である。
辰夫は、頭の痛みと身体の痛みの原因を夢の中に預け、寝る前の自分を思い出そうとした。「俺は何をしていたんだ。確か三郎と管六と三人で源義経の兵と共に一の谷の合戦に行った。そして」その後、思い出せない。「ひょっとしてそれも夢なのか、横に早苗や春一が寝ているのか、」と急に自分自身興奮するように暗闇の中で手探りを始めた。その瞬間「大丈夫か」と声がした。
管六である。「死んだかと思ったぞ。でもよかった。明かりを着けてやる。」
辰夫は管六の声を聞いて、全て思い出した。と言うより、現実に戻されたと考えてよいのである。「そうだ。三郎を助けようとして、ボードで平家の武将を蹴ったんだが、その後気絶したんだ。」辰夫は、記憶を取戻したことがこれほど落胆するとは自分でも思わなかった。
管六は火打石で油の入った皿のようなものに火を着け明かりをとった。小さな灯りだが暗闇になれた辰夫には、十分過ぎるほどの明るさであった。
「源氏は勝ったのですか」辰夫は取合えずそれを確かめた。
「勝った。大勝利だ。ただ、義経様は船がないため逃げた平家を追いかけることが出来ず悔しがっておられたがな」
「大勝利か、歴史通りだな。それはそうと、ここは何処ですか」
「焼け残った平家のお屋敷の一つだ。辰朝さんがあの板のようなもので平家の武将をやっつけたから特別にと言ってこのお屋敷の一室を与えて下さった。表では源氏の兵士達が大勝利に沸いている。」話している管六も少し浮かれているのがわかる口調であった。
「そうですか」と言って、辰夫は負けた平家の中に春一がいる事に不安を覚えた。
「もしかして、春一が犠牲になっているような事がないか」と頭をよぎった。春一と分れる時、「春一は船に乗り込んだ。春一は安全な海上にいた筈である。」と思っていた。
春一のような子供の犠牲者はいないか、管六に聞いても分らないだろうが、堪らず聞いてみた。
「管六さん、平家の中に子供とか、討たれた者はいるんですか。」
「居るようだ。熊谷何某かいう源氏の武将さんが、自分の子供のような者を切らねばならなかったと言って嘆いておられた。相当落ち込んでおられたようで、他にも平家の公達で子供のような者も討たれたようだ。」
辰夫は管六の話しを聞いているうちに不安が増幅して、もっと確かなことが聞きたくなり、居ても足っても居られなくなった。
「私はもう大丈夫みたいです。表に言って三郎さんの顔を見に行きましょう」と三郎ならもっと詳しく知っているのでは、三郎の近くに居るであろう義経かその家臣ならば色々と知っているであろうと思い辰夫は起き上がった。
辰夫は管六に連れられ屋敷の表にと向かった。辰夫は春一の事に気を取られ忘れていたが、自分が気を失って寝ていた間ずっと側にいてくれたようである。自分勝手にも管六にまだ礼を言うのを忘れていたことに気づいた。
「管六さん、有難う御座います。ずっと世話をしてくださっていたのですね。心配をおかけしてすみませんでした。」
「いいや、辰朝さんのお陰で勝ち戦に加わることができたから」
二つ程板戸を開け庭に出ると。そこには松明をあちらこちらに翳し、この時代の夜では考えられないくらいの明るさで、眩しいほどの世界があった。
管六は直ぐに庭を見渡し、ある人物を見つけたため辰夫を放り出し走り出した。辰夫はその場に立ったまま管六の走っていく方を見ていた。管六は辰夫も知る人物に話しかけていた。伊勢三郎である。辰夫は一の谷への道を案内するとき弁慶と同行していたので知っていたが管六は途中から自分達に加わり歩いただけで伊勢三郎とは話していないので知らないはずである。その割に二人は馴れ馴れしく話しながら辰夫の方に向かって歩いてくるのである。
辰夫にすれば取合えず春一の無事を確認するのにはよい相手と考えて、じっと待っていた。
伊勢三郎「おう、無事でよかった。御曹司も感心しておられた。不思議な乗り物で平家の武将をやっつけたといって、面白がっておられたぞ。わしが御曹司のところに連れていってやる。一緒に来い」
「その前に一つお尋ねしたいのですが、今度の戦で平家の中に子供はいましたか。」
「子供とは、年端もいかない者のことか」
「その通りで、十そこそこぐらいの者です。」
「討たれた者の中には居るまいが、一人おぼれた者が居ると聞いておる。平家の公達で平師盛とか申す者だそうだ。三草山のときから平家の武将として戦っていたようじゃが、子供ならその者ぐらいしか聞いておらん。」
辰夫の心は暗くなった。三草山から一の谷へ向かう途中、平家の武将が来たため寺の軒下に隠れた。その時の武将の一人である。確かに子供であった。その中で話していた者の一人だ。「春一とまた会いたい」と話していたので覚えている。春一と同じ年頃であろう事は想像するに容易い。その者が討たれたのではないにしろ、戦の犠牲になったことは確かである。春一と接点がある少年が死んだことは、恐らく春一も知ることになるだろう。春一を想うに悲し過ぎると辰夫は思った。
あまりに辰夫が落ち込みを見せているので
「お前、知合いか」と伊勢三郎が辰夫に問う。
「いいえ、私にも子供がいます。幼子の犠牲に心を痛めるだけです」
辰夫は話しをさらっと流すことにした。春一は無事でいるようであると思えるからである。
伊勢三郎は何時の間にか歩き出していた。辰夫は管六に伊勢三郎と何時の間に友のように話すようになったのか訪ねた。
管六の話では、辰夫を部屋まで運んでくれたのが三郎と管六とあの伊勢三郎とのことでその時伊勢三郎が「俺は、もとはと言えば、伊勢路の鈴鹿山の猟師だ」と話し、そこから我々と同じ猟師の出ということで話が弾んだとの事である。伊勢三郎の話しでは、自分の猟師仲間が新宮十郎義盛と言う源氏の血筋の者について戦に出かけたが、伊勢三郎は仲間と一緒を嫌い放浪していた時に義経様と会ってそのまま家臣として使えたとの事である。
伊勢三郎の後を追うように管六と辰夫は歩いた。管六も辰夫もこの福原の平家の屋敷が立ち並んだ所はよく知っているところである。しかし、今歩いているところはにはその跡形も残っていないと思えるほど屋敷は焼け落ちている。辰夫は恐らく昼間に見ても場所がわからなくなるであろうと思い、戦の激しさをみる思いであった。
辰夫が寝ていた屋敷から数軒離れた場所に殆ど原型収めている建物があった。その周りだけは落ち着いた雰囲気の佇まいで門には大きな篝火と警護の兵が置かれ、いかにもそれとわかる雰囲気であった。伊勢三郎は、義経の直接の家臣であることを自慢するようにその門を潜った。もちろん門番も制止することなく頭を下げて伊勢三郎を通した。それに続く管六と辰夫は少し恐縮するように伊勢三郎の後ろに着いた。
さすがに、伊勢三郎は、屋敷内には入っていかず、庭先に回って明かりの着いている部屋に向かい「御曹司、三郎で御座います。あの者が気づきました。板に乗って戦った者です。その者を連れてまいりました。」
その声を聞いて走ってきたのは三郎であった。
「おー、辰朝さん、気がついたか、心配したぞ」涙を浮かべんばかりに走り寄ってきた。辰夫はその声だけで胸が熱くなってしまった。三郎が本当に自分の無事を喜んでくれている事がわかるからである。
「有難う。まさか辰朝さんに助けられるとは思わなかった。よく馬そりの板に乗ってあんなことが出きるな。不思議な人だ」
「戦は怖い、何時の間にか自分も加わってしまった。三郎さんが危ないと思った時には滑り出していたので後のことはあまり覚えていません。夢中でしたから。」と三郎に話したが、辰夫自身よく覚えていた。スノーボードの話しをしてもわかってもらえるとは思えないし、それにスノボーの技だとも言えないからである。
辰夫は、三郎が自分に助けられたことをわかっていた。それで満足であった。
三郎と庭で話していると目の前の戸が開かれた。
「生き返ったか、よくやった。道案内人の付き人にしては上出来だ。それにしても器用なことよ。あのような板に乗って雪の上を器用に滑り抜けるとは、それに最後は空に飛びあがっておったな。どこで覚えた。」と義経がいきなり話した。
辰夫は、二十歳前の男にこれほど偉そうに見下ろされて話されると理屈ぬきで「むうー」となったが、なんと言っても歴史に名を残した源義経、頭を下げてしまう。
「はい、自己流で考えたことで、うまくいったのはたまたまのこと、最後は飛んだのではなく勝手に飛んでしまったのです。」と適当に話しをまとめておいた。説明し出すとややこしくなり、後で困りそうになるためである。
それを聞いていた管六は、辰夫と二人で三草山に向かっていたとき、辰夫があの馬そりの板で滑って失敗したのを思い出した。心の中で「本当は乗りこなせるはずだ。そうでなかったら肌身離さず持って歩いているはずがない」と思っていた。
「そうか、たまたまか、そうだ、それはそうとお主、義久とともにわしに仕えぬか。その者もどうだ」と管六にも目をやった。義久とは三郎のことだと気づいていた。
辰夫は「今回のこと、たまたまお役に立ったこと、このままお供いたしましても足手まといなだけで何の役にも立ちません。光栄ですがお断りします。」と義経の誘いを断りながら他の事を考えていた。
辰夫は、三郎を源義経に合し一の谷の合戦が歴史通りに動くようにする。そのことが自分に課せられたこの時代に来たことの役目だと信じていた。そのために今まで働いていた。その役目が達成で来た時から辰夫は心に決めていたことがある。
「御曹司様」周りの者がみんな御曹司と呼んでいるし、三郎まで御曹司と呼んでいるので辰夫もそう呼んでみようと思って御曹司と呼んだが、なんだか辰夫の持つ心の弱さが少しはみ出て御曹司に様を付けて呼んでしまった。「御曹司様」と呼んだ後、周囲で少し含み笑いが聞こえて、辰夫自身少し可笑しいかと思ったが、自分と義経の家臣との境がはっきりするようで、そのまま一気に話しを進めた。
「御曹司様、私はこれから西国へ行かなければなりません。会わなければならない人がいます。」
辰夫にすれば義経の家来になることを断るための口実ではない。辰夫自身前から決めていたことである。
義経は勝ち戦の後と言うことからか相当機嫌が良く、少し舞い上がっているようである。それに、二十歳前の少年である。「今なら何でも聞くぞ」という雰囲気であった。ただ義経一人がそこに居るのではない。奥には、源範頼、梶原景時、千葉常胤、安田義定、土肥実平そして熊谷直実など錚錚たる源氏の大将がいる。ついつい浮かれ過ぎたる事がないように義経が一人になるときは弁慶が後ろに控えているようで、義経が屋敷から庭に出てきたらいつのまにか弁慶が義経の後ろに立っていた。
「お前、名は何と言った。願いはあるか。」と義経が辰夫に向かって言った。
「はい、平居辰朝と申します。」
「兄上の朝の一字が入っておるな、どこのもの、」
「琉球国の者で宗の国の船でこの福原に来ましたが、乗遅れ迷子になりこの福原にいます。迷っていたところを三郎さんに助けていただきました。」
「そうか、」と義経が言ってそのまま話を続けようとするところに、割り込むように弁慶が話し出した。「お前達、好きなようにするが良、馳走がある。食べるだけ食べたら、好きにするが良い。何処にでも行け」と邪魔者扱いのようにと突慳貪に言った。
辰夫は、一つだけ願いを言いたかった。すると、義経のほうが勢いで言った。
「願いはあるか」と。
御曹司様に「願いはあるか」と言われ「一つだけお願いしたいことがございます。西国へ行くのに何か通行手形のような、源氏の方々にお見せできる書状のようなものを頂ければ、西国へ向かうのに安心できます。そのようなもの、頂けるでしょうか。」
弁慶に「ばか者、自惚れるでないぞ、さっさと立去れ」と大きな声で威圧されたが、辰夫はさほど怖く感じなかった。ここでどやされることがあってもそれ以上のことはないと信じていたからで、だめ元の考えで言って見ただけで、だめならだめで直ぐ引き下がれば良いと思っていた。
「申し訳御座いません。」と辰夫は直ぐに言って下がろうとしたが、後ろで話しを聞いていた。一人の武将が、「その者の願い、容易いこと。源氏に味方し、九郎義経殿をお助けしたのではないか、その御墨付、この戦の御大将蒲ノ冠者源範頼様にお願いしてやろう。」
「梶原様、そのようなこと」と弁慶が言うと
「黙っておけ」と梶原が弁慶を嗜めた。
梶原景時は、義経が嫌いなわけではなく、その後ろに付いている弁慶などの者を嫌っているようで、ある意味、源義経の家来達は、元々どこそこの血筋の者ではなく、また国司や豪族のような集団に属していたものではない。この時代源頼朝にみるように、源氏の直系の血筋と言うだけで人が集まる。血筋や家柄を重んじる風潮の中で義経の家臣に大きな顔をされることを特に嫌うのである。そのため弁慶が考え行った行動に対し反対のことをしたくなる。この場合のように弁慶の判断を稚拙な考えとし、「お前達は黙っておけ」と暗に言うようなことをしたのである。
辰夫は結果として通行手形のような御墨付を手に入れることが出来たが、どうも後味の悪さがあった。機嫌良く居た源義経は何も言わず立ち去り、当然弁慶などの家臣団と供に三郎もいなくなった。辰夫は、三郎と最後の話しも出来ず立去らなければならないようで、寂しい思いにかられたが、仕方がないと思った。出きれば最後の別れの言葉を交わしたいと思っていたが仕方がないこと。
管六は、義経と辰夫が話していた時、そっと三郎の側へ寄っていき、いつのまにか居なくなっていた。管六と三郎は幼友達でもあり二人でこれからのことなど、話したいことが山ほどあるのだろう。
いつの間にか辰夫は、三郎や管六の青年二人と同じ輪の中に居るものと思い込んでいた自分に嫌気がさしていた。
「自分は何を勘違いしていたのだろう。あの二人と会ってまだ二十日ほどしかたっていないではないか。それなのに三人は何時も一緒に居て友情で結ばれた仲間だと勘違いしている。こんなおっさんを相手に友達だなんて考えただけでもちゃんちゃら可笑しい。自分も浮かれていないでしっかりしよう」と独り言を言いながら、いじけていることに気がついていた。この「いじけ」は少しずつ寂しさに変わっていって、何故だか無性に泣きたくなって、涙がこぼれそうになった。自分でも元々一人から始まったのだからと言い聞かせ、半泣きで堪えた。
辰夫は、一人屋敷を出て、まさに「とぼとぼ歩く」を実践した。
福原の街は、殆どが壊されているか焼かれていた。街に住んで居た者は当然、何処かへ行ってしまったのだろう。戦が終わったことで明日には街の人が戻ってくるのか考えながらねぐらを探し歩いた。
辰夫は歩きながら、「ねぐらなら何処でも寝られるな」と思ったのと同時に、自分自身この時代にいつのまにか適用しているのに感心した。この寒い冬にどんな時でも寝るところに困らないということは、大事なことで、食べることが出きれば十分困らずに生きていけると考えた。そう考えると三郎や管六から見放されたことからのショックが和らぎ少し心が落着きを取戻した。
「何れ同じ所に行くのだからまた、会えるだろう」と呟き、帯びの間に手を入れ、源範頼から貰った御墨付を確かめた。
辰夫は古ぼけた板張りの小屋で一人、藁をかぶり寝た。壁の板は一部剥がれ落ち、その間から星空が見える。辰夫は今気づいたことであるが「一人で寝るのは、この時代に来て始めてだ」ということである。自分で呟きながら不思議な感じに思えた。運が良かったと考えていいだろう。ここまで生きて来られたことは、「しかしこれからだ。」との思いも出てきた。不安である。頭の中では何をするかは決まっているが、その通りいくとは限らない。辰夫は不安が頭の中を占領する前に寝てしまおうと目を瞑った。
何故かこんなところで寝ているのに、不安を感じなかった。むしろ何か落ち着いて寝られるようで、熟睡できるようで、今急かされるものは何もない。これからは自分一人で突き進むだけと言いながら眠りの中に入っていった。
辰夫は一人でいることで何の制約もないことをいいように、朝日が上り明るくなっても起きなかった。ほんの少し目が覚めかけた時もあったがもう一度眠りに入った。「久しぶりだからいいや」と自分に言い聞かせた。
二度寝はどうしても眠りが浅く夢を見やすい。辰夫も夢を見た。半分は寝ているが脳の何処かは活動し始めているみたいで、夢もあまり現実ばなれしていない。誰かに絡まれたり、囚われたりとあり得そうな話しで、その時出した源範頼の御墨付の効果がない。「そんなもの」と破り捨てられる。するとやっぱり目が覚めてしまうのである。
藁に包まれながら辰夫は、自分は持っている源範頼のイメージが「頼りない者」としているからかと考え、これが義経の御墨付なら水戸黄門様の印籠のようにいくのにと勝手に想像しながら、三度寝を試みたが流石に寝られないので仕方なく起きて街にでた。
平家の兵とは異なり源氏の兵の多くは、揃いの決まった衣服を着ていない。多くの者は麻でできた貫頭着か辰夫が着ている狩衣である。辰夫はその狩衣の上に猟師が被っている毛皮を羽織っており、十分猟師に見えた。福原の街を歩いても源氏の兵と思われ、辰夫に会釈する者すらいるのである。
辰夫は今日一日福原の街を歩く予定である。辰夫の頭の中にある計画に必要なものを集めるためである。今日を逃してはなかなか手に入らないからである。それに腹ごしらえも必要である。
福原の街の中では源氏の兵のための炊き出しがあちらこちらで行われており、源氏にすれば兵を餓えさすようなことがあっては、これからまだ続く平家との戦いに差し支える。そのこともあり、今日福原の街では食と酒には困らない状況である。だから、昨日まで殺気だっていた兵も今日は穏やかな表情で、少し拍子抜けするぐらいである。
辰夫は、一人腹ごしらえを済ませ戦いが激しかった生田の森を目指して歩いた。途中、炊き出しの食材で何かを入れてきたものであろう、竹で編んだ籠を見つけた。拾うものがあるのだから、入れ物も必要とするだろうとそれを持っていった。生田の森に足を踏み入れることは辰夫にとって気持ちのよいものではないことぐらいわかっていたが、平家の旗指物の生地が多量に必要であったのでしかたがないと思っていた。案の定生田の森は屍が多く散乱し、鎧兜や刀槍と言った武具はおおかた取られて死体だけが放置されていた。
冬の寒い時期であったことと海風で死臭は強くなかったが気持ち良いものではない。兵どもの戦の跡といえ、烏が飛び交う中うろつくのは戦場泥棒のようで自分が情けなく感じてしまう。辰夫は目的の旗を集めた。鎧兜等の武具と異なり比較的多く散乱しているが、それでも織物はこの時代貴重なものと思われ武具と一緒についでにもっていかれているようで旗が取られた指物だけが放置されているものも幾つか見られた。
辰夫は警察官であることから、現場検証などで悲惨な現場は幾つか見ている。そういった辰夫自身身につけた免疫がなかったらこの場所には来られないだろうと心の中で感じていた。ただ一つ一つ手を合わせることだけは忘れなかった。
この旗を守るために命を落とした者もいるかもしれないと思えば破れ果てた切れ端ではなく何か大事なものを守るもののように思い、自分で「私自身が一番大事なものを取戻すために使います。」と一人声を出して集めた。その中に脇差と思われる刀が落ちていた。美しく飾り付けがされているものではないことから平家の公達の物ではないだろうが、簡素であるが素朴な美しさを辰夫は感じる脇差に見えた。辰夫は武具等拾わずに去ろうと決めていたが、自分勝手に理屈をその場でこねて、「この脇差は、自分に拾ってもらいたいと思っている」と勝手に呟いて手に取った。その辺辰夫は警察官の持っている罪に対する割り切りかた、気持ちの切り替え方が早く「刃物も必要になるか、まあいいか」と気を持ちかえた。
竹籠いっぱいに旗を入れ、脇差は腰紐の背中に差した。腰に差すと何か自分が攻撃的な人間に思われそうで、外からは見られない背中に差して羽織っている毛皮で隠して歩いた。
生田の森の戦場の跡から塒にしている小屋へ帰る道すがら、辰夫が馬上の武将から声を掛けられた。「そこの者、そんなに旗をもって何をしておる。何処の者じゃ」
「洗って、使おうかと思っております。」辰夫にしてみれば、何気ない会話の始まりと思っていた。
「何に使おうとするのじゃ」若干、声を荒げ、馬上の武将は、高圧的になってきた。
「それはまだ考えてはおりません。ただ捨てておくのはもったいないと考え拾ってきました」
「怪しいやつじゃ。」
辰夫は、決まり文句のように話すこの武将が可笑しかった。自分の懐には源氏の総大将源範頼の覚書があるので気持ちに余裕があった。「少々何を言われても何とかなるだろう」との思いがあり、「別に怪しい者では御座いません」と言い返した。
その武将は、何か腹の虫の居所が悪いようで「きさま、口答えするのか」と一言言うなり馬の鞭で辰夫を叩いた。
辰夫は自分の考えの甘さを後悔している暇もない。覚書を見せ、説明する間もなく斬り捨てられそうに感じた。
いつのまにか退屈で時を持て余している源氏の雑兵がその武将の声に反応して集まってきた。辰夫と武将の成り行きを見ようとしているだけで、それ以外の目的は全くないものばかりである。人の生き死には散々見て来た者ばかりである。今更もう一人殺されたとしてもあまり気にすることはないと思っている。ようは暇つぶし状態なのである。辰夫に当然助け船など出す者はいない。
武将は、辰夫に何か訳のわからないことをどなり出した。旗指物の何たるかを話しているようであるが辰夫には理解できない言葉ばかりで、辰夫は仕方なく恐縮した格好で地べたに正座しじっと耐えていた。これ以上事を大きくすれば自分の立場がややこしくなる。今はひっそり生きていく時と考えている辰夫は、ここは絶対に穏便に収めたいと考えじっと耐えている。しかし、どうもこの武将の怒りが収まりそうもない。自分の言葉に自分で興奮し、より激しさが増すようで終わりそうにない。
この場に小一時間ほど居るようである。辰夫は「だんだんえらいことになってきた」と感じ出した。「誰か、物分りの良い人が出てこないか。」と、辰夫のいた時代なら警官として良く絡まれたりして、同じようなこともあったがそこは、警察官として対処しているため先を見ることが出きる。しかし今は先が見えない。この武将は何時まで続けるのか、この俺をどうするつもりか、一つ間違えば殺される可能性も出てきた。辰夫自身行き詰まりと危険を感じたのである。
辰夫と武将の周りを取り囲んでいた群衆は話が進まない展開に飽きてきたようで少しずつ減ってきており、途中から輪に加わった者は、何がどうなっているのか分からず取り敢えず様子を見る形で首を突っ込んでいる。
この群集が居ることで辰夫は二つ助かっている。一つは群集の目はいつの間にか判官贔屓(この時代の源義経をさしてできた言葉を使うのは面白いが)的に弱そうなものを大衆は応援しだすこと。そのため、武将の方は押っ開に刀は抜けずにいる。
もう一つは、人目によく付いたことである。これは、長期戦になったことで福原の街の中で噂が広がり、ある者の耳に届いた。そのある者は、三郎である。
源氏の兵士の中では、源義経が噂になっており、義経を一目見ようと本陣としている屋敷周囲では人だかりになっている。
源義経の周りにいる武将の数は知れている。その中で義経の後ろを歩く鷲尾三郎義久は一部の武将の中でいつの間にか顔を覚えられる存在になっている。
三郎は、義経がいる屋敷で街の噂を聞き気になりだしていた。昨日、急にいなくなった辰夫はどうしているのかと。三郎にしてみれば辰朝は頼りない大人であるがこんな時代の中でも心から信頼できる大人である。その証拠に「命を賭けて自分を助けてくれたのではないか」と心に感じていた。
義経はよほど三郎が気に入ったのか、それとも一の谷への道案内が気に入ったのかその両方かもしれないが、昨日から「義久・義久」とこと有ることに呼ぶのである。三郎は源義経の用事を済ますまもなく次から次へと呼ばれるため、その街の噂の元を確かめることができずにいる。新参者の三郎は、義経の他の家臣に頼むこともできず苛ついていた。そこに伊勢三郎が「義久」と声を掛けてきた。伊勢三郎は義経に三郎と呼ばれており、鷲尾三郎を自分が名を与えた「義久」と呼んでいるのである。ようは、伊勢三郎が「三郎」で鷲尾三郎が「義久」と呼ばれることになった。
伊勢三郎は、義久に向かって「管六が表に立っているぞ、お前に用があるのではないか、」と同じ猟師上がりで同じ名前であることから伊勢三郎はあまり義久を新参者として扱わず友として接してきているのが三郎には心強かった。
「悪いが、今御曹司に呼ばれて、行くところじゃ、管六の話しを聞いてやってくれないか」
三郎は伊勢三郎に頼んだ。
「任せ、わしは暇にしておる。」と言って直ぐに引きうけて、管六が居る門の外に出た。
管六は、ずっと誰にも相手にされず、待ちくたびれたのか座り込んでいた。仕方ないことではある。屋敷に入る者に「義経の家臣で鷲尾三郎を呼んでくれ」と言われても誰も知らない。昨日家臣になったばかりの新参者の名など知る者が居るはずないのである。
「管六、どうした、何かようか。」気さくに伊勢三郎は管六に声をかけた。
「おー、伊勢殿、三郎に会いたい。何とかしてくれ」
「俺ではだめか、義久に頼まれてきた。」
「頼めるか、昨日、俺と一緒にいた辰朝さんがえらい事になっている。殺されるかも知れん。助けてやってくれ」
「さっき、屋敷でも噂になっていた。旅の者と侍の喧嘩のことか」
「そうだ、伊勢殿来てくれるか。」
「わかった。」伊勢三郎は、こういったもめ事に頭を突っ込むのが好きなようで、二つ返事で応えた。
管六も三郎と同じ猟師の出、昨日から話しも合う。気さくに管六の話しに乗った。
伊勢三郎は、そのまま直ぐに管六の案内を受け、辰夫が絡まれているところへ行った。
そこには、数人の野次馬が輪を作っている。野次馬の数は大分減ってしまっていた。通り縋りの者が少し見ては飽き、また次ぎの通り縋りの者が見るといったようになっていた。それだけ長期化してしまっているようである。
武将は、引っ込みがつかなくなってしまっていた。お開きにするタイミングを逸したのだ。
辰夫は辰夫で、その後武将に数回鞭で打たれて苛き始めていた。
辰夫の目つきが変わりだし、興奮ぎみになってきた。
この時代に来てからそれなりに冷静に対処してきたつもりである。辰夫自身もこんなところで自分を見失ってしまったら春一を助けることが出来ないと心で思い辛抱していたが、鞭で打たれ、いくら謝り続けてもこの武将は去ろうとしない。長期化の中で少しずつ冷静さを失い、それに輪を掛けるように何度も屈辱的な言葉を浴びせられた。辰夫の手はいつのまにか背中に隠し持った短刀を探し出したのである。
警官として、剣道や警棒術をやって来た辰夫は、道具に差がなければ戦えば勝てると感じていた。
その「勝てる」ということが余計に辰夫の冷静さを失わせ、この武将との勝負へと駆り立てていった。「やれば、お前などいつでもやっつけられる。」との思いが増幅することで、辰夫は「切れる」と言う状況へと傾いていった。
辰夫にとって冷静さを失い「切れる」のタイミングは、何でもよくなった。
そのとき武将は馬から降りた。ただの雑音であった武将の悪たれた言葉が無くなっていた。
武将はスムーズな動きで刀の柄に手を掛けた。辰夫は、「やられる」と思ったと同時に完全に切れてしまった。
辰夫の性質から考えて、「切れた。」だけでは絶対ありえない行動である。この時代に飲み込まれていた。現代の辰夫ではなく、源平合戦の時代の人となっていた。と言うより、俳優が芝居をするように、辰夫自信がこの時代で演じ、主人公にでもなった気分で浮かれていた。
浮かれた辰夫は、左手で探っていた背中の短刀を左手の中に納めていた。武将が刀に手を掛けて抜こうとした時、辰夫は左手に持った短刀を眼前に突き出し、右手で抜こうとしたが、短刀は抜けない。
辰夫は一瞬焦ったが、相手が刀を抜いてしまえば負けるかも知れないと感じ、すぐさまその短刀を警棒のように使い、相手の懐に入り、右手首に討ちつけ足払いをした。相手の武将はまさか逆らってくるとは思っていなかったようで、右手を打たれ、仰向けにこかされてしまったのである。武将は刀を抜こうにもあまりの痛さで右手が使えない。そんな時に言う言葉は決まり文句で「無礼者」とだけで、痛みでそれ以上の言葉を発せないのである。
二人を囲んでいた野次馬は攻守が一変に逆転したこととこの弱そうな乞食みたいな籠を持ち歩いている男がいとも容易く、一見強そうな武将を倒したことに一つの余興を感じ面白がった。
この展開では武将の方が納まりつかなくなった。今度は「この男を殺す。」と。辰夫はあまりに簡単に倒せたことに拍子抜けし、正気に戻った。
一旦切れてしまった気持ちを修復できたが、後の祭である。武将は痛みがある右手でも男の意地で刀を抜き辰夫に真剣勝負を挑んできた。戦を思い出したように真剣になった武将と気持ちを取戻し、気弱になった辰夫が向い合った。
真剣を目の前に突き出された辰夫は、足がすくみ、逃げることすらできなかった。刃物で人と戦うなど辰夫にできるはずがない、まさに立ったまま腰を抜かした状態であった。
辰夫は身動きが出来ないほどの恐怖を感じ、そのまま跪き「ご勘弁を」と額を地べたにこすりつけ、泣いて謝りだした。
そのときである。
伊勢三郎と管六が野次馬の輪を掻き分け辰夫の側へと進んできた。
「やめい、この者は御曹司がこの一の谷へ来るまで道案内をしてきた者の一人じゃ、この合戦の功労があった者、その刀納め」と伊勢三郎が一言。
武将は聞く耳持たぬという風に刀を振り上げた。辰夫は頭を擦り付け、泣いて謝り続けた。
普通の現代人で、正気に返ればこんなもんである。
伊勢三郎は「待たれ、御曹司の客人ですぞ」と活を入れるように声を荒げた。
武将が、「その方何者」
「御曹司事、源義経の臣で直参である伊勢三郎義盛である。」
源義経の家臣の活躍は源氏の中でも聞こえが良く、弁慶等は話しが誇張され噂されている。この武将伊勢三郎が何者かは知らないが、今回の合戦での源義経の功績の大きさはこの福原では誰彼なしにわかっている。その者の家臣と名乗るこの者の言葉、信じるに値するとこの武将は判断せざるを得ないのである。
この武将にしてもそう簡単に引き下がれない。それでも義経の名を出され、仲裁されたら、これから先のことを考えたら、不承不承ではあるが、この者の話に乗らざるを得ない。
それに、この籠を持ち歩いている男は、今、全身全霊で自分に許しを乞っている。
その男を衆人の中で切ることはできない。
落着くと武将も損得勘定は出きる。打算的に考え、時の人と言ってよい源義経を敵に回すようなことは出来ない。
「義経殿の御家臣と、それならばその方の言葉信じよう。我らも源氏の旗印に馳せ参じた者、今後とも御見知り置きを」と言ってその武将はその場を去っていった。
伊勢三郎はあまりにあっさり引いてしまったことで、拍子抜けしてしまうと同時に御曹司の名の威力に驚いていた。今や源義経と言えば鬼神の如く言われるようなものと思ったのである。
辰夫は辰夫で安堵していた。武将が最後に戦いを挑んで来た時の眼に恐怖を感じていたのである。技や動きではこの武将に勝つことは出きるだろう。恐らく棒をもって剣道のように戦うのであれば。しかし、真剣勝負として戦うとなれば辰夫は飲み込まれてしまうと感じたのである。現にあの武将の座った眼、戦場でなど修羅場で培った男の眼の恐ろしさに手足が動かなかった。今まで感じたこともない恐怖を感じたのである。伊勢三郎が話しをつけてくれた事で辰夫はこの場から逃れることができた。
自分は、何に血迷ったのか、何に浮かれたのか、辰夫は二度とこのようなことはしないと心に決めた。「全てを投げ出してでも、逃げて逃げて逃げまくろう」と心に決めた。あの時短刀が抜けなかったのが幸いしたと思った。短刀を抜いて刃をもって戦ったとしても相手を傷つけることはきっと出来なかっただろうと思うからである。自分が生きている世界ではそれが普通であるからで、しかしあの武将は体が動くのであれば必ず反撃に出る。それは、相手を必ず殺そうとしてである。自分は、この時代で戦うことなど出来ない。生き方が違うと心に刻まなければならない。だから、「全てを投げ出しても、逃げて、逃げて、逃げまくらなければ」と心に決めた。
「大丈夫か、」と管六が声をかけた。
辰夫の頭の中は恐怖と後悔と安堵が一度に押し寄せてきて、その後それらが曳いていったため、真っ白になっていた。当然管六の「大丈夫か」の掛け声に反応はなかった。自分の軽率な行動が直、「身の危険」となることはよくあることであるが、多くは、車の運転など物に対する安全管理を怠ることでの身の危険を感じることであり、肝を冷やすといったものである。辰夫の場合、相手が武将で自分が勝たなければ、いつまでも命を狙われる。例え勝ったとしても敵討ちとして次ぎの相手が出てくる。自分が死ぬまで逃れられないのではないかといった恐怖が軽率な行動から生まれた。その大きな恐怖は大きな後悔となった。
伊勢三郎によってこの「身の危険」から逃れられたことは辰夫にとって大きな安堵となった。頭の中が真っ白は、辰夫の恐怖の大きさを現している。
管六は、辰夫を揺するようにしてもう一度呼びかけた。「辰朝さん、大丈夫か、三郎が心配していたぞ、」
辰夫は、揺すられたことで我に返ったように、周りを見渡し、あの武将がまだいないか確かめてから「有難う」と呟いた。
「腰を抜かしておるのか、確かにお前には戦は無理じゃな、ワッハハハ」と遠慮なしに伊勢三郎は高笑いをした。まだ、野次馬は数人残っていたので、伊勢三郎の笑いにつられて笑っていた。辰夫は伊勢三郎と周囲の野次馬に大笑いされた形となったが、その時点では腹も立たずにいた。
管六は、見世物のようになっている辰夫をかばうように道端から離した。そして、三郎のいる屋敷に引っ張るようにして歩き出したが、後ろを歩く伊勢三郎がいつまでも笑っているので、辰夫は、少しずつ腹が立ってきた。
この腹が立ち出したことは、自分が助かり気持ちに余裕が出てきたからかと諦めて伊勢三郎の笑いを辛抱して聞いていた。
「辰朝さん、その背中に背負っている籠の中の旗、そんなにいっぱいどうするつもりじゃ、」
「乗り物を作るのにどうしても必要なのです。これだけの布、戦の後でなければ手に入れることはできないと思い少し危ないかと思いましたが盗ってきたのです。」
「辰朝さんの考えている事、分らないことが多いから聞いても無駄だから聞かないけど、そのようにして持っているとまた、絡まれるぞ、もう少し隠して持つことだ」と管六はまた同じことが起きないか心配していた。
「そうします。それより、助けてくださって有難う御座います。よく見つけてくださった。死ぬほど困り果てていましたので、助かりました。」
「道の真中であれほどの騒ぎを起こしていたら、誰にでも直ぐに見つけられる。屋敷にいた三郎も噂を聞いて「もしや、辰朝さんではないか」と心配して、伊勢三郎殿に頼んだぐらいだからな、」
辰夫は、昨日一人いじけて屋敷を出たことを少し恥じた。三郎や管六との歳の差や付き合いの短さから「どうせ、私のことなど」と一人で思い、一人でいじけていたことである。
「お二人に御心配をお掛けして、大変申し訳御座いません。」
「辰朝さんはこれからどうするんだ。わしは須磨村に帰ろうかと思っている。昨日、三郎に小夏を面倒見てくれと言われた。小夏は鷲の谷村に一人でいるらしい。鷲ノ谷村は、平家に加担した村となっている事から脅えているだろう。三郎やこのわしの働きもあった事で鷲ノ谷村へのお咎めはないと源範頼様からのお達しがあった。それを鷲の谷村に行って「源氏のお咎め無し」を知らせてやろうと思っている。それに小夏を引きとって、須磨村に連れて帰ろうと思っている。まあ、小夏のことは三郎に頼まれてもいるからな。鷲ノ谷村ではちょこっと自慢してこようと思っている。「鷲尾三郎義久殿のお計らいでこの村にはお咎めなしである。」と言って来ようと思っている。何か偉くなったようで気持ち良さそうだからな。」
辰夫は、自分を励ますわけでもなく、ただ、辰夫の心を切り替えようとしている管六の話を聞きながら、人生で良い奴にそう会えることはないと胸で話を聞いていた。
「それは、いいことですね。それに三郎さんの名も上がります。それと一郎さんと次郎さんは、」
「何処か身を隠しているみたいだ。辰朝さんも一緒にどうだ」
「私は、昨日、義経様にも申しましたように、西へ行かなければなりません。急ぐことはないのですが瀬戸内を西へと向かいたいと思っています。」
管六はその後黙ってしまった。管六自身辰朝と一緒に鷲の谷村へ行ってその後、山の中の須磨村に戻りたかったようである。「一緒に行こう」とはその場では言いづらかったのか黙ってしまったようで、それにちょうど三郎の居る屋敷に着いたので会話が途切れてもおかしくなかった。門のところには三郎が立って待っていた。
辰夫は、門で三郎が待っていてくれたことを心から喜んだ。管六や三郎は、自分を真の友のように思ってくれていることを信じたのである。
辰夫は、管六や三郎と会って、「人を信じること、」そう言うことは、いたって単純なことのように思えた。
この時代が辰夫にそのように思わしているのかもしれないが、辰夫にとってそれは素直な気持ちである。
この時代の人間の生きかたを考える時、現代の人間が生活に比べて、この時代の生活そのものが面倒なことばかりである。
例えば、この平家物語の時代では、コップ一杯の水が飲みたいとする。当然水を汲みに行く。一人で井戸へ行きコップ一杯分の水だけを汲み飲むことはしないだろう。周囲の人が必要とする・しないに関係なく桶一杯の水を汲み、溜め置く。現代の人間は自分だけ飲みたい分コップに水を汲み飲みそれで終わりであり、それが普通である。昔不便な時代の人は、人のために余分な労力を当たり前のように使う。その中に「してあげている・してもらっている」といった心の蟠りをもって行動していない。無意識の中で信じ合っているのである。
辰夫は、三郎や管六に対して「面倒を掛けた、世話になった」の気持ちから「何かお返しを」の気持ちが常にあった。いま、門の前に立っている三郎、助けに来てくれた管六、二人は、自分に何も要求していないのが分るのである。「ただ、自分が咽が乾いたから水を汲みにいった。友もどうか」だけである。
辰夫自身常に心の何処かで歳の差、付合いの長さ、ギブ・アンド・テイクといったものを天秤の錘としていたことに恥ずかしく感じてしまった。
三郎は門の所で「きっと長い間待っていてくれたのであろう」と思った瞬間、辰夫は涙が出てきた。自分にとって恥ずかしい涙のように思え、涙は見られないように三郎の姿が見え、そばに行くまで歩く速さを落とし、目を擦る振りをして涙を拭いた。
「辰朝さん、騒ぎはやっぱり辰朝さんやったんか。そうやないかと思い心配しとった。それでどうもなかったのか」
「伊勢様と管六さんのお陰で何とか」伊勢三郎のありがたみも言葉にして辰夫は、話した。
「この男、武者の前で竦んでおった。御曹司の名前とこのわしの名前を出したら退散していきおったわ。わしの名も中々のもんじゃ。義久、後は任したぞ」
伊勢三郎は、自分の名がそれなりに知れ渡っていたことに相当気分がよかったのか上機嫌で屋敷の中に入っていった。
伊勢三郎が去った後、三郎と管六と辰夫は福原の街の中にあった猟師茶屋へ向かった。
管六が今朝猟師茶屋を見に行くと建物だけが残っていたとのことで、三郎も少し暇が出来たことからそこで三人で飯でも食おうと三郎が誘った。
茶屋に着くと管六は忙しなく急に働き出した。こういうところで飯の段取りをするのが生にあっているのか何も言わず一人動き出した。三郎も辰夫もよく分っていて管六に任して座り込んだ。
「辰朝さん、わしはもう直ぐ義経様と同行して京へ上らなければならん。辰朝さんとはお別れじゃ。今度何時会えるか、もしかしてもう二度と会えないかもしれん。わしにとって辰朝さんは「気になるお人」じゃ。今まで生きてきて、辰朝さんのような人には会った事もないしこれからも会うことはないと思う。わしの運命の人のようじゃ。だからこの先気になる。」
「そのように言って下さって私は嬉しい、心持ちがすごく好い」辰夫独特の言い回しに三郎は慣れている。三郎もこの辰夫独特の言い方に何か快さを感じているのである。
「私は、昨日、義経様の前で話しましたように西へ向かわなければなりません。ここだけの話ですが平家を追って西へいく事になると思います。ですから三郎さんと、もう一度会うことがあると考えています。三郎さんは義経様と一緒に動かれることになります。当然平家追討の先鋒である義経様が動かれないことはありません。ですから二度と会えないということはないと思います。」
「辰朝さんは、何時も不思議な人じゃ先が見えているように話す。辰朝さんが「会える」と言うのなら会えるのだろう。面白い」
三郎は、辰夫が言った「会える」ということに不思議な思いを見た。こんな先を見越した話しをしては何時もその通りになっている。今度もそうで、それを「面白い」の一言を言ったのである。
「それはそうと、これからどうする」
「瀬戸内の海沿いを西へ向かい、船を作っているところを探してそこで雇ってもらおうと考えています。そこで暫く船作りの勉強をさしてもらい。変わった乗り物を作りたいと思っています。これから、源氏も船が必要となります。船大工のところなら人手が必要でしょう。気楽に考えていますが食べるだけで良かったら、何とか雇ってもらえると思っています。」
管六が辰夫の話を聞いて「「変わった乗り物」ってまた馬そりの板みたいな物を作るのか」と火に鍋を掛けながら三郎と辰夫の話に入ってきた。
「いえ、もっと大きな物です。それに複雑ですので、材料集めに苦労しそうです。」
管六は、辰夫が作るものの物よりも何に使うものかが、気になっていた。
「そんな物作ってどうする。」
「子供を助ける道具を作るのです。」
三郎と管六は「はっと」した。話の流れの中で辰夫が言った言葉にである。「子供を助ける。」今まで一度も話さなかった言葉である。人を助け出すという言葉の重みは三郎も管六も分る。管六は今まで忙しなく動かしていた体を止めて辰夫の側によってきた。
「子供って辰朝さんのか」
「そうです。私の子供です。私の命より、いや、何かに比べたりすることが出来ないくらい大事な子供です。」
辰夫は涙を浮かべだし、それを拭おうともせず話しを続けた。
「私と息子は遠くから、この福原の街にやって来ました。二人して何かの事故に遭ったようで、帰れなくなり生田の森辺りでさまよっていたら、平家のかり武者に囚われました。その時平家の人達は、我々親子を宗国の船に乗り損ねた皇子と従者か何かに勘違いされたようです。
平家は清盛の時から宗国と交易があり、我々二人は、それなりに粗末に扱われなかったのです。
ところが、経緯はわからないのですが、薩摩守平忠度の屋敷で私の子「春一」と言うのですが、安徳天皇の影武者にする話しになってしまったのです。私一人屋敷から追出され、さまよっていたところを三郎さん達に会った次第です。」
「何でまた、勘違いを」
「出立ちもそうですが、春一は、蹴鞠が得意で、安徳天皇のお相手にもなり、蹴鞠が出きるということで高貴な者と間違えられたのです。一郎さん達も私が平家の屋敷から出てきただけで間違えられたのと同じようなものです。」
春一を思いだし涙ぐんだ辰夫であったが話しているうち収まってきていた。
「その春一という平家に囚われている子供を助けるために西へ向かうのか」
「そうです。」とだけ辰夫は、返答しただけであった。
管六も三郎も何故「西へ」なのか聞かなかった。
「管六、小夏を須磨村に連れて帰ってきたら辰朝さんの手伝いをせんか、辰朝さんの話じゃ何れ西の方でわしと会うと、その時までどうじゃ」
「わしもそう考えておった。辰朝さん、頭は良さそうじゃが、頼りないし世間知らずじゃ。それにまた何か作ろうと考えているようじゃからそれも見てみたい。辰朝さん、わしはこれから鷲ノ谷村へ行って、須磨村に戻る。それまで須磨の上野山福祥寺で休んでいてくれんか」
辰夫は三郎と管六の話しを聞きながら心がうきうきしてきていた。「これから一人だと心に決めてはいたがやっぱり寂しく辛い」と思っていた。
管六が自分と一緒に来て手伝ってくれる話になっている。辰夫は思わず「いいのですか」と言って、「いや」と言われないうちに「有難う」と言った。辰夫には気持ちがよほど顔に出ていたのか、三郎と管六は辰朝の素直な喜びように笑みで返した。辰夫にとって今日の昼間の事件といい、天と地を往復しているようで、一人は、相当こたえていたのである。
辰夫は、一人で西へ向かうと決めてから肩肘張っていた。「管六が助けてくれる。それより、一緒に来てくれる。一人じゃない。」と思ったときから肩の力が抜けた。辰夫は今まで何を背負っていたのだろうと思った。自分が生きている世界は人が生きている世界である。時代は変わっても人は同じである。いや良い意味でも悪い意味でも、この時代は、人間らしい時代ではないかと思った。
管六が作ってくれた食事が腹にしみわたる。一人で食べるのではない。人が顔を突き合わせて、たわいもない話しで、そして、この別れは一時の別れと信じ、管六と辰夫は三郎を送り出した。
辰夫は、須磨上野山福祥寺に滞在していた。辰夫の感覚からすると須磨という地名から海を想像し当然福祥寺についても海岸沿いの立地を想像していた。管六の住む須磨村は山奥であることから別段須磨上野山福祥寺が山の中にある寺であっても可笑しくない。
福祥寺は、管六の住む須磨村からは離れており、山一つ、海よりに位置し叡山の延暦寺などのように山頂付近にある山ではなく、山の中腹に位置している。だからと言って別段切立った場所ではない。それなりに静寂な場所である。辰夫から見ると山奥に建つ寺院は全て古色蒼然と見える。
辰夫は管六が来るまでの幾日か寺の僧都とよく話しをしていた。何を話していても戦の匂いがしないのが楽で、一日を僧都と話しながら寺の隅で、拾ってきた旗を染めていた。染めるといっても辰夫は特別な知識は持ち合わせていないので、釜で草木を茹でて染めるといった、素人考えの草木染めである。それでも染めては干し、染めては干しを繰返しているうちに斑ではあるが濃い緑色に染まってきた。
福祥寺の僧都の話で牛転と言うところは、木造船を作っている。との話である。この地での木造船は造りもよく、牛転から来たというだけで名船大工と称されるほどであるとのことで辰夫の興味をそそった。僧都から場所を聞くが瀬戸内であることは確かなようであるがはっきりしない。管六が来たら聞いてもらおうと思っていた。
何故この僧都がそんな話しをしたかと言うと、寺では一絃琴というこの地にだけに伝わる楽器があり、その楽器を作っているのが牛転の琴屋という船大工の店である。
琴屋は、一絃琴だけでなく、船箪笥という箪笥なども寺に寄贈しており、一枚の桐の板を使って作られる一玄琴と桐の箪笥は琴屋の技術力を世に知らしめるものでもあった。造船技術を家具造りや楽器造りに応用したもので、「船箪笥は、船が沈んでも船箪笥は浮くと呼ばれるほど密閉性が高く出来ている。」といわれ、寺においても長く使われ続けているものである。
辰夫が計画していることを成し遂げるためには、船大工を紹介してもらいたい。
僧都の話しを聞き牛転の琴屋に何とか世話になりたいと思うが、肝心の場所が何処かわからない。それに平家と源氏の戦が諸国の人々にどのように影響を及ぼしているのか判らない。
寺の者の話では、瀬戸内の諸国、備前・備中・備後や安芸などの地頭や荘園領主は、平家に忠誠を誓っているところが多い。現地を管理する荘官や国衛領の郡司・郷司など地方の豪族も各々において平家か源家のどちらかに加担すると決めているであろう。
何の予備知識も持たずにそういった場所へ行くことは危険であることは分っている。辰夫自身源氏の源範頼からのお墨付も仇になりかねない。辰夫は管六が戻ってきても、もう少しこの寺で瀬戸内のことを知ってから動こうと考えた。
辰夫は、この時代に来てから何故か時間との戦いのように、毎日追われていた。今その時間との戦いから開放された気分になっている。
何故時間と戦っていたかは、春一を助けるためでも、守るためでもない。辰夫自身が感じていることであるが、辰夫がこの時代に来てやらなければならない使命を必死にやっていた。それは、義経と鷲尾三郎義久を会わせ、一の谷の戦いを史実通りにする。歴史の流れを元に戻すことだということである。今度、辰夫がしなければならないことは、春一をどのように助けるかである。ただ、春一は遥か遠くの屋島に行った。次ぎの屋島の合戦があるのは平家物語からすると一年程先になるはずである。その後一月先に壇ノ浦の戦いがあり、平家が滅亡する。辰夫が覚えているのはこの程度のことで、それが史実と平家物語と一致するかはもちろん辰夫には分らない。ただ、正確な日付はどうか分からないが、ほぼ間違い無く歴史はそのように進むと考えていいと辰夫は思っていた。
辰夫は、たた歴史小説を鵜呑みにしているわけではなく、史実に沿って書かれた本も読み、比較もしている。
辰夫はこれからの一年という期間は春一から遠ざけられている分、長く感じるだろうと思っている。
辰夫は、この寺から離れ、西へ向かうときから春一を助け出すまで休むことは無いと心に決めていた。だからこそ、この寺でのひとときを静かに考える時間にしようと思っている。
寺での毎日は静かなもので、源何某のゆかりの寺である福祥寺は源範頼のお墨付と須磨村の管六の口利きとで何不自由なく過ごすことが出来ている。その中で辰夫は一つ一つ自分の計画を整理し、この時代の中で春一を助け出すことを考えていた。
管六が福祥寺に帰って来たのは、思っていた以上に遅く一週間もかかった。普通なら二日もあれば戻ってこられる距離であるが、戻れない理由があった。
鷲ノ谷村では「平家狩り」と称して源氏の郎党が押し寄せてきていた。平家に組した一郎や次郎等は一早く山に隠れたが、他の村者は逃げることも出来ず脅えていたのである。そこに管六が戻って来て、源義経の書状と鷲ノ谷村の鷲尾家の者で源義経の家臣鷲尾三郎義久のことを源氏の郎党に話すと郎党の態度が一変した。管六が源義経の書状を持っていたことと義経の郎党の中に鷲尾三郎義久の名を知った者がいたのである。郎党は管六が源氏と何らかの繋がりがある者と勘違いしたのか管六に対して下座に下がり低頭し村から出ていったのである。まさに勝ち組の理論であった。
この時代、多くの源氏に組した武将は、自分の地位が源氏の武将の中でどの辺りに位置するのか分からずにいる。鎌倉の頼朝を頂点としていることは分っているが鎌倉からの恩賞を受けるまで自分の主人筋の地位とする位置がわからない状態である。そんな中でのやり取りには管六のような鎌倉の頼朝の異母兄弟である源範頼や源義経の縁の者には一歩下がる。
一郎の父にとって一郎の考えで村全体が平家に組することを決めたが三郎のお陰で源氏から御咎め無しとなり、複雑な心境となった。結果助かったことで鷲尾家として村に残ることが出来た。ただ今度のことで村の明主からは落ちてしまったのは当然ことである。村では、救いの主となった管六を持てはやし、なかなか村から出してもらえなかったとのことで戻ってくるのが遅くなったと管六は説明していた。
管六は何を思ったのか小夏を須磨村に置いてこず一緒に連れてきた。管六にとっては妹ではあるが、西へ向かって旅をするわけでそれなりに危険である。そんなことは管六にも分っているにもかかわらず一緒に連れていくのはどう言うことかと辰夫は思った。
「小夏さんを連れていくことは危険じゃないですか」と辰夫は若干不服そうに言った。
管六は、「小夏が「もう一度三郎に会いたい」と言っている。辰朝さんは三郎と別れるとき「また、会える。と話していた。と言っていた。」と小夏に話したら一緒に付いて行くと言って聞かなくなった。小夏の気持ちにしてみたら分るような気がする。今まで鷲尾家では兄妹でも無いのにそのように扱われ、ほんとは、好いた者同士なのに、今、小夏は須磨に帰って来て自由になった。自由になった体で三郎に会いたいと思うのを兄として叶えてやりたい。だから連れてきた。
「それに小夏は、猟師の娘じゃ、なかなか強いし役に立つ」といい加減な一言で管六は話を締めた。
辰夫は、西へ行くことが小夏のようなうら若い娘には危険であると直感的に言ったが、よく考えてみると自分よりしっかりしている。実際に辰夫一人何処で何をすると言ってもどうしてよいか何も頭に浮かんでこない。小夏なら一人で山を越え何処にでも一人で行くし、少なくとも色々な土地の風習なども知っている。何よりも一人で生きていく術を知っているのである。
自分が偉そうに「小夏を連れていくのは危険だ」などと言ってしまったことを少し恥じてしまった。そして、もう一度小夏に向かって言いなおした。
「偉そうなこと言ってすみません。よく考えたら私より小夏さんの方がしっかりしていますよね。」と言って一緒に行くことにした。
辰夫は、早速管六に牛転のことを話した。「もしそこが安全ならば行って見たい」と言うと管六はニタニタしながら「牛転ならそう遠くないぞ、福原に大輪田泊が出きるまでは須磨の者が船に乗るときは牛転へ行っていた。備前の国で、わしら山の者は足が達者ということで、須磨の社の氏子は牛転の牛窓八幡宮への使いで何度か行っておる。」
辰夫は「うしまど」と言う発音を聞いて直ぐに理解できた。「牛窓ならわしも行ったことがある」と思わず口に出してしまった。
「辰朝さんも牛窓八幡宮を知っとるのか」と言ったら辰夫は直ぐに否定し、「聞いたことがあっただけです。」と言い換えた。
辰夫は、「牛転は、牛窓のことか」と一人納得し、「牛窓ならちょうどいい」と一人で頷いていた。
「管六さん、牛転の街は源氏に厳しいですか。我々は源範頼から貰ったお墨付を持っている。出きれば平家に見方する町より源氏に見方する町の方が都合がいいのですが、」
「牛転なら大丈夫だ。奈良の東大寺を平家の誰だったか、焼き討ちしたらしい。あの辺りの寺は東大寺と繋がりのある寺が多くて、村や町も一緒になって平家の仕業を怒っていたからな」
「平重衡の軍勢に焼き討ちされたのです。それで余り平家に厚意を持っていないのですね。」
京から西の国で、備前・備中・備後・安芸・周防・長門といった山陽道の国々はことごとくが平家に見方している。ある意味牛転は貴重な町と辰夫は思った。だから、牛転へ行こうと決めたのである。辰夫は、管六からこの福祥寺の住職に願い出て僧都が話していた琴屋という船大工の店への紹介状を書いてもらうことを頼んだ。
管六は、辰夫が平家に敵対する牛転を選んだことは分るが何故船大工の琴屋なのか分っていなかった。ただ辰夫が馬そりから作った木の板の乗り物のような物をまた作ろうと考えていることは凡そ想像がついた。そのための旗拾いで、船大工の店であると思った。
管六は辰夫が話す自然現象や道具のうんちくに何時も興味を注がれていた。あんな馬そりをちょっと改良した木の板があんな乗り物になったりするのである。今度は何を作り、どうするのか見てみたいと思っていた。
管六と小夏は、幼いときからよく知っている福祥寺で少し滞在し体を休めた。二人にとっても辰夫と一緒に西へ行くと言ったがそれなりに冒険であることは分っている。
小夏はその辺冒険を何処かで楽しんでいるようなところがあるが管六は少し不安であった。やはり西へ行くことは平家と源家の戦に巻き込まれる可能性が考えられるからである。戦を目の前で見た管六にとってやはり恐ろしいもので、管六は三郎との約束や妹の小夏に兄らしいところを見せたい、そして、気になる辰朝と旅をして何か不思議なことを見ることができるのではないかと思ったこと。
若い管六の好奇心が辰夫と共に西へ向かわしたのである。
三人は、福祥寺から一旦福原の街に出た。福原の街はいつのまにか落着きを取戻し、あの殺気だった空気は失せていた。自然と街に人が帰って来る。百姓、猟師や漁夫といった者が物を持って集まれば商人が出てくる。物が流れ、街が活気付く、それにつられまた人が集まる。街の人々は感じているのである。この福原の街では「もう戦は起きない」と分っているのである。この感じは辰夫にも分った。辰夫達三人は、また福原の街に出来ている猟師の店に立ち寄った。以前と同じ場所に同じように建てられている猟師の茶屋、福原の街での猟師の拠点として作られている。管六が顔を出すと上げ膳の接待を受け、管六が言う鷲ノ谷村での話しは本当のことと証明した。
福原で一日滞在し、牛転へと出発した。昼間の山陽道は辰夫が思っているより人通りが多く、この時代、物と人の流れは意外と活発に行われていたと思った。二月の気候はじっとしていると寒いものであるがこうして歩き続けていると体があったまり気持ちよいものであった。辰夫は葉を落とし、枝をさらけ出した山の木々は春を待つようにほんの少し芽をつけ、山間から見える瀬戸内の海は春の明るい日差しが照り返し煌いている。
管六と小夏はピクニック気分を満喫しているようで、海が見える度に瀬戸内の景色を褒め称えていた。そんな景色にほんの少し心奪われながらも辰夫は、めまぐるしく考えていた。牛転に近づくにつれ自分の計画の恐ろしさ、単純さが不安となってくるのである。だからといって今更退くことは出来ない。突き進むだけであるが、自分と春一の命がかかっていることへの不安に押しつぶされそうになっていた。
「今はまず自分も海の上に居ることが出きるようにならなければ、勝負にならない。そのための琴屋だ」それだけを考えようと辰夫はした。
福原から牛転までは、二日ほどの行程であった。山陽道を途中から瀬戸内側に折れ坂道を下るように細い山道に入った。辰夫は管六の道案内で進んでいるが、よくこんな道知っていることだと感心すると、いとも容易く「初めての道だ」と軽く応えられた。管六が言うには「来るたびに、この辺と見当をつけ道を見つけては行くのだ。海に向かって歩いているうちに牛窓八幡宮の近くにたどり着く」とのことで、辰夫は一人でなく、管六が一緒で本当によかった。自分一人だったら事を起こす前にたどり着かないのではと思った。
確かに管六の言う通りに牛窓八幡宮に着いてしまった。辰夫にとって不思議な感じで、目指して歩いていたのであるが、「着いてしまった。」という感じである。
管六と小夏は、宮司に挨拶をしてくると言って社に入っていった。辰夫も牛転の街の雰囲気が知りたかったため一緒に着いていった。要は、源範頼のお墨付が役に立つか仇となるかを確かめたかったのである。
八幡宮にやってくるまで知らなかったことであるが、備前の国は一の谷の戦いが終わった直後に源氏の武将梶原氏が国司となって入ってきていたようで福原から東国の守りを固める目的のようである。そのため、平家に組するものも備前の国には多くいるが表立って動いていないようで、平家ゆかりのものは、梶原氏が入ってくる前に四国の屋島か瀬戸内の島々に逃れたと八幡宮の宮司から聞いた。確かに備前の国は福原の街と接し、この辺りを平家が有していると福原から平家を追出した意味が無くなり、京の守りのためにも兵を多く置かなければならなくなる。この辺りは素早い動きで平家の基盤であった備前に兵を進めたことは頼朝の能力の高さと考えていいのである。
三人は、福祥寺でいただいた紹介状のようなものを八幡宮でも書いてもらい、それを持って琴屋に向かった。
牛窓八幡宮から琴屋までの道は、下りも手伝ってわずかな距離に思えた。
八幡宮は山裾に位置し、海に続く参道があり、その先に琴屋がある。
琴屋は船大工の工房であることから海沿いの場所に位置する。辰夫は牛窓には一度新婚のとき妻の早苗と一緒にきているが今見ている景色には記憶は無い。
辰夫がこの牛窓に来た事があるのは、十年以上前のことである。当時はペンションブームの真っ盛りで日本のエーゲ海とのうたい文句に誘われ新婚時代、妻の早苗と来た。
辰夫がウィンドサーフィンを始めだした頃である。初めての海でのウィンドサーフィンがこの牛窓であった。何時もは琵琶湖が辰夫のホームグランドである。
ウィンドサーフィンのメッカとしても有名なこの牛窓は、夏場は、関西方面の若者が多く集まっていた。
泊まったところは高台のペンションでその宿の名前は記憶にないほどである。牛窓の記憶は夕暮れの瀬戸内を眺めながらペンションの庭でバーベキューを食べてリッチな気分を味わったこととおいしい西瓜を百円で買えたことが印象に残っている程度である。海でのウィンドサーフィンは、残念ながら殆ど風が吹かず海岸沿いで海水浴を楽しんでいた程度であった。辰夫は、この時代の牛窓の景色を見て、以前来たことがある牛窓を覚えていたとしてもきっと重なるものはないだろうと思った。ただ一点、琴屋の前に広がる海岸から少し沖に小さな島が見え、この景色を見て記憶にあるようなないような感じでを味わうぐらいである。
ウィンドサーフィンをする時オフ・ショアー(陸から沖へと吹く風のこと)の風になって流されても向かいの島へ着けば流されずにすむと思って眺めていた景色である。初めての海でのウィンドサーフィンは、当時の辰夫にとっては早苗には自身たっぷりに見せていたが密かに海の怖さを感じていた。
辰夫と管六、小夏の三人は、琴屋の門前に来た時である。門構えは立派な家であるが門前から見る感じでは、屋敷と言うほどでもなかった。庭は広く作られているが平家の屋敷のように庭園が造られているわけではなく、鶏が放し飼いで飼われているような庭である。やたら門から玄関まで遠く門から大声で呼んでも届きそうになかった。三人は、お愛想程度に一・二度呼んで勝手に中の方へ入っていった。何やら玄関先で騒がしい雰囲気で自分達より先に来客があったようでその来客の対応に追われているようであった。
管六がその来客の後ろに立って何か言おうとした時、四十路そこそこの女性に「お前達も連れの者かい」と睨まれた。
管六は「牛窓八幡宮の宮司様からの紹介で参った者です。」と一言言うと、その女性は険しい顔を和らげ、「宮司様のお客様かい、そっちへお回り、佐助やあの方達を奥へ案内おし」
管六と辰夫は後姿から何処かの武将で有ることは分ったがあまり係わり合わずにいようとそっと横を低姿勢で通り過ぎようとした。辰夫は避けるようにしていたのでその武将の顔を見ることはなかったが、管六は武将の横を通り過ぎた時、顔を合わせてしまった。
「佐藤様」管六は声を出して言った。辰夫も管六が言った佐藤と言う名を聞いてピンときた。「義経の家臣の佐藤継信様か」と分った。辰夫にとって佐藤と言う苗字に現代的な響きを感じ記憶に残っているのである。もちろん義経の側にいたので顔も知っている。口数の少ない人物であった。何時も義経の側に居たのである。
佐藤継信は、もともと平泉の藤原氏の重臣であった。藤原氏は頼朝の旗揚げを聞き義経を兄の頼朝の元へ送り出した。その時に弟の忠信と一緒に義経についてきた家臣である。義経が単身で頼朝の所へ向かうときに義経を慕い着いてきたと言っても過言ではないのである。その時からの家臣で義経のためなら「自分を犠牲にしてでも」と常々考えている義経股肱の家臣である。
「あんた等もこの御仁の連れじゃないか、中に入るのはお断りだよ」とその女性に今度は敷居をまたぐのを止められた。
「女将、その者達は私とは無関係の者、許されたし」
「ヘー、お侍にしては珍しいもの言いですね。でも、だめなものはだめなのですよ。家は、源氏のお方に売る船はないのですから。船はね、漁をするもの、人を運ぶものなのですよ。戦のための船は何も生みません、世間では不作で食べるのにも困る状態ですよ。戦しかしない船なんか造りたくは御座いませんよ」
「そこを何とか、琴屋で造った船がどうしても一隻欲しい。我が殿の乗る船じゃ。この戦を早く終わらすためにも、我が殿である御曹司に船が必要なのじゃ」
「お侍様、今日で三日目、こう度々来られると困ります。家は源氏にも平家にも船は作りません。お約束します。摂津の方でお探し下さい。」
「分った、また来る。そうだ。その者達は顔見知りではあるが、我ら源氏とは無関係の者じゃ。それだけは言っておく。」
佐藤継信は、自分のせいで辰夫達に迷惑がかかることに気を使い一言言い残して出ていった。その一言を聞いて女将は、「武将のくせに気を使って」と継信の言葉の意味は、気づいていた。
佐藤継信は、管六や三郎には見向きもせず琴屋の門を出ていった。門のところには継信の舎人が刀を持って待機しており、継信は、わざわざ刀を舎人に預け、帯刀せず、尋ねた。
今まで女将は佐藤継信が出ていっても見向きもせずにいたが、佐藤継信の態度が気になり、後姿を追ったのである。佐藤継信が舎人から刀を預かるのを見て女将は何かを感じたようで、いつもなら佐藤継信が帰った後は機嫌が悪いはずであるが、今回に限ってそうではなかった。
管六と辰夫と小夏は、玄関で立ったままで、入って良いのか悪いのか分らず突っ立ったままであった。
「悪いね。宮司様からのお客さんをそんなところにほったらかして。佐助奥へ案内しておあげ。私は直ぐに行きますから先に案内しといておくれ」と言って、佐藤継信が潜った門の方へ行った。
管六は「有難う御座います。」と言って佐助に付いて奥に入っていった。小夏も辰夫も言われるがままで、この場合管六にお任せ状態になり、黙ってついて歩いた。
琴屋は、奥行きがやたら長く、裏手は海岸に面している。裏手から船着場や船を作る作業小屋へ行けるようになっている。管六達三人は案内された部屋で行儀良く座って待っていると女将が入ってきた。「お前さん達、宮司様からの紹介と言うが、どうしたのだい」
「おらは、須磨の猟師で、こいつはおらの妹で小夏、このお方は、遠くの国の人で、平居辰朝といわれる方、須磨の福祥寺の住職から聞いたんですが船を造っておられるということでお願いがあってやって来ました。」
「へー、宮司様だけでなく、福祥寺の住職様からも紹介されて来なさったかい。そちらの平居様がよほどお気に召されたようだね。福祥寺の住職様が紹介されるなど珍しい。
辰夫はそれを聞いて、「自分が気に入られていたとは」と考えたが、「そう言えば住職は辰夫の不思議な話をよく聞いておられた。」と思った。それで紹介していただいたのかと思った。
「家は船を作っているところだよ、そんな家に来るなんて、船でも作りたいのかい、平居様とか言いましたね。どうなのです。」
女将は誰がこの琴屋を選んだかが分っているように辰夫に向かって話しかけた。
紹介があったからと言って流石に、「はい、そうですか、どうぞ」とはいかない。当たり前のことである。赤の他人を世話するのである。それなりの理由を聞くのは当たり前で、ただ、女将の口調は男衆ばかり雇っている店をしきっているだけあって、辰夫を十分威圧した。辰夫は適当なことを言ってごまかしても直ぐにばれるように思えたのである。
須磨から今まで管六の後を付いて歩いて来た。この琴屋に入ってくる時も余り深く考えていなかった。でも、この女将に理由を聞かれた辰夫は、自分の気持ちを言うことが、女将が聞きたいことのように思えた。そして、辰夫は素直に自分の思いを話し出した。
「私には息子が一人います。名前は春一と言います。赤子の時から私と一緒に寝ていました。その頃から私の手を握りながら寝ていき、いつのまにか私の手がなければ寝たがらなくなるほどで、そんな春一をいつもいとおしく思っています。私は、遠くの国から春一と二人でこの国に来て迷子になり、途方にくれていました。そんな中、出で立ちや行動の不審から平家に囚まり、春一と福原の街で離れ離れになってしまいました。
後から分かったのですが、春一は安徳天皇の影武者として平家の屋敷に連れていかれました。私は必要がないとの事で福原の街に放り出されこの管六さん達に助けられましたが、春一は未だに平家の中にいます。私は命に変えてでも春一を助けるつもりでいます。
平家と源氏は雌雄を決するまで戦います。今、平家は屋島にいますが、何れ源氏との決戦は海の上なると考えらます。そのことは源義経様も考えておられると思います。だから佐藤継信様が船を必要とされているのでしょう。
私は、一度春一を助け出そうと福原の大輪田泊で待ち伏せをしましたが、失敗しました。
源氏と平家の戦の舞台となる海の上での戦い、そこから春一を助け出すにはどうしても船が必要となります。ただ、私が必要とする船は、少し変わった船で、自分で作らなければ出来ないものです。そのため、船を造る技術を持っておられる琴屋さんに教えを請いたいと考え福祥寺の和尚さんに頼みました。」
「辰朝さんの話しはわかったけど、ちょっと大胆じゃありませんか。何百という船が戦をするのですよ、その中に三人で船を漕いで助けに行くなんて、いくら船があっても無茶な話しだ。」
管六と小夏は「きょとん」とした顔になった。自分達も辰朝の考えの中に入っているのかと思って、それは困ると直ぐに言いたかった。
辰夫は、「一人です。私の考えている船は、一人乗りです。しかも風さえ吹けばどんな船より早く走ることが出きる船です。」
管六と小夏は、浮き沈みする自分達の心を無視するように話しが進んでいることに気づいて、「少しは、人の気持ちも考えろ」と言いたかった。
辰夫は、今まで自分の考えは誰にも言わなかった。言っても分ってもらえないと思っていたのもあるが、今この女将を前にして自分が思っている考えをさらけ出して助けてもらいたいと心から思ったのである。それが辰夫を饒舌にしたのである。
「私の作りたい船はこんな船です。」と言って辰夫は福祥寺で画いた図面を懐から取り出してきて広げた。これには女将も引き込まれた。船の設計図となるとやはり興味をそそるものである。女将は直ぐに頭の吉良を呼んだ。
辰夫は図面の上の下手な絵を指差しながら、「この平べったい板の上に一人用の帆を立てて、風の力で海の上を走るのです。」
女将は、船の絵を見て「何と簡単な船、こんな板だけの船、見たことがない。三角の帆を立てるといってもどうするのか、」と思った。辰夫は女将の思っていることは凡そ分る。きっと「こんなのは、船ではない」と言いたいのだろう。それを察するように辰夫は、立ち上がり、部屋を仕切るために立てかけられていた「衝立」を持ち上げて、女将に説明しだした。
「女将さん、その絵の板の上に乗っているとしますね。この衝立が帆とします。衝立の角をこの船のような板の真中辺りに立てて、その帆を立った状態でこのように両手で持ちます。そして風を受けて進むのです。」と手真似を交えた。
辰夫は、衝立を帆に見立てて、ウィンドサーフィンの格好をしながら操作する姿を見せた。
女将と頭の吉良は、辰夫の真剣な話しっぷりとこの男は何処か他の所でこのような船を操作していたことがあることが分った。
女将は、何よりもこの辰夫が面白かった。この男の態度や話し方、今まで見たことがなかった。戦の匂いが全くしない。かといって女々しくもない。この男に境界線がないように感じた。身分や年齢、男と女といった境界線が見えないのである。女将はもっとこの男を見ていたいような気になった。
「あんた、面白いね。こんな船出来るかどうか信じられないけど家に置いてやるよ。その程度の板の船ぐらいの材料ならあるから使っていいよ。ただし、家の手伝いもしてもらうよ。管六さんと小夏さんも一緒に造るのかい。」
「おいらと小夏は、八幡宮に世話になる。」
「あたいは、女だから行かない。ここで辰朝さんと一緒に世話になる。」
「八幡宮と言っても社で寝泊りするわけじゃない。宮の持っている山や田畑の手伝いをするだけだ。その間に辰朝さんの船造りの手伝いをするんだ。だからおらと一緒に来い」
「嫌だ、あたいは、辰朝さんの船を造るのを手伝う」
「面白い子だね。船造りの作業場は女を忌み嫌うのだよ。この私さえ作業場には足を踏み入れないのだからね。それでも良いのかい」
「いいよ、ここの方が面白そうだもん。」
「辰朝さん、どうなんだい。」
「私は、どちらでも結構です。管六さんさえよければ」
最後に小夏の居場所の決定権を振られた管六は、心の中では、「自分も辰朝と一緒に船つくりがしたい」と思っていたので「八幡宮とこことなら離れてもいないし、暫くはいいか」と言って、今あったばかりのお上の方を向いた。
「これで決まりか、一番肝心な私は、良いも悪いも言ってないけど今更だめだとも言えないからね。それに福祥寺の住職と宮司さんの紹介とあらば喜んで引き受けなきゃね、それと、あんた達、先ほどの佐藤継信と言うお侍さん知っているのかい。源氏の御曹司の御家来と言っておられたが、本当かい、ちょっと気になってね」
それについては、辰夫が口を出した。
「本当です。源氏の頭領で鎌倉に居られる源頼朝様の弟君で源義経様の御家来の方です。福原でお話もしたことがありますので確かですよ。」
「そうかい、なら相手は確かな人だね」
その日は、管六も琴屋に泊まった。夜になり辰夫と管六は久しぶりに家の中でくつろぎ、寝ることができた。
「管六さん、女将さんは、今のところ我々を歓迎してくれているようですけど、福祥寺の住職や牛窓八幡宮の宮司様の紹介は効果がありましたね。」
「確かに、書付だけでも世話になることはできたと思うが、歓迎とまではいかないと思いますよ。まあ、好くて4・5日ぐらいの世話だと。多分、女将も頭の吉良さんも気になっているのでは、辰朝さんの船の絵、船の話しをている時の辰朝さんの不思議な感じ、おらや三郎はなれているけど、それでもあの話し方不思議だ。おら達が辰朝さんに感じたのと同じように女将さんもきっと感じたんだろうな。」
「私は普通に話しているつもりですけど」
「そうだろうな。おいらも何がどうと言えないけど、その普通というのが不思議なんだ。侍は偉そうにものを言うし公家は小馬鹿にした物言いをする。辰朝さんは何処か南の方の国の公家さんのような人でしょ、だから不思議なんだ。まあ言いか。歓迎されないよりされた方が良いか。それより明日から始めるのか」
「そのつもりです。取り敢えず材料選びをしなければ」
管六は朝早く、琴屋を出て八幡宮に戻った。何か宮司に頼まれていることがあるとの事で、辰夫にはまた来ることを告げて出ていった。琴屋の朝は早く日の出には食事をすませている。当然辰夫と小夏もいつまでも客ではない。朝から要領悪く動き回っている。
小夏は職人の朝ご飯の用意など慣れてくるに連れ役に立つが、辰夫はそうはいかない。火も、まともに起せない。水を汲んでも時間がかかって役に立たない。朝から勝手口辺りをうろうろするのみで、周りの職人は始めから当てにしていなかったのか、面白がって笑っていた。
女将から、職人には何か言い含められていたのか、役に立たない職人が朝からうろついている程度に思っているのである。辰夫は、仕方なく玄関周り庭掃きなど自分に出来る用事を見つけて、職人が仕事を始め出すまでの時間稼ぎをやっているのである。
庭掃きをしている辰夫の側に女将さんが近寄ってきた。「辰朝様、無理をなさらなくてもよろしいですよ。ゆっくりやってくださっていいんですよ。勿論仕事はしてもらいますけどね。でも、福祥寺の和尚様の書付には、南の方の国のお公家さんと書いてありましたが、そんな御偉い方が下働きなど自分からなされるのには少し驚きましたよ。」
辰夫は、朝から迷惑を掛けながら手伝っているにも関わらず誰も咎めない理由がわかった。自分がこの時代ではそれなりに身分が高い者のように思われているからである。辰夫は「自分はそのような者ではない」と言いたかったが黙っていた。その方が都合良いと思ったからで、世話になる人を騙す後ろめたさはあった。
玄関先で何やら音がする。昨日の佐藤継信である。舎人一人を連れ琴屋の玄関先で止まった。二人は黙って佐藤継信を見ていた。継信は、自分の腰に差している刀を鞘ごと抜き舎人に預けた。そして、玄関に立ち「頼もう」と一言。女将はそれを見て直ぐに佐藤継信のところに駈けより、「何度も足を運ばし失礼しました。源義経様のお船、この琴屋が造らして頂きます。」と継信の言葉を待たずに言った。
佐藤継信は思わず声を出し、うろたえたように驚いた。「何とおっしゃった。女将、今の言葉誠か。もう一度聞かせてくれ」と言った後、継信は自分が情けないほど懇願するような態度になったことを恥じながらも、嬉しさをかみ締めるような顔は、止めようとはしなかった。そして姿勢を正してもう一度言いなおした。「御曹司の船を造るとは誠か、」
女将は、佐藤継信の立場を立てる様に姿勢を低くし、「ぜひ、琴屋で源九郎義経様のお船を造らせていただきます。」
当然のことではあるが佐藤継信は、何故急に琴屋が船を造ることを引き受けたのかに疑問を持った。ただ、それを聞いて話しをややこしくしてしまうのではないかと思い。その話しを聞いてよいものかそれとも黙ってこのまま話しを進めていくべきかを少し迷っていると女将が佐藤継信の気持ちを察したのか訳を話し出した。
「佐藤様、当家には、船を造るよう色々なところから話しがきます。勿論平家からもです。身分の高い者や力を持っている者は、たいていそれを嵩に来て、そういった輩には、断ることにしていますが、当家も勝てない喧嘩も出来ず、しぶしぶ引き受けることもあります。佐藤様は、そのどちらでもなく琴屋の門を潜られました。しかも刀を付き人のお方に預けて、最後までそれを通された事への感謝です。当方も気持ち良く源氏様のために船が造れると言うものですよ。ですから引き受けさせて頂きました。」
佐藤継信は、結果としてよかったことに満足し、女将に礼を言った。佐藤継信は「人のために働ける」と言う生まれ持った資質がそうさせたことでそこまで深く考えてやった行動ではない。その資質がその後の佐藤継信の命を縮めてしまったのではあるが。
義経が乗る船は、中型の大きさの船で、漕ぎ手と兵を合わせて二十人程乗れる船で出来るだけ早いものを要求された。その作業の責任者として辰朝が指揮を取り三月で造り上げる約束となったのである。辰朝が責任者となることは何故か佐藤継信と女将が二人で決めたようで、その理由はわからない。
船造りのことは何も知らない辰夫が責任者とされたことを辰夫は女将に断った。しかし女将が頭の吉良を補佐に付けるので大丈夫だといい、辰夫が作業場に出入りするためにも引き受けることだと女将と吉良に諭されたので辰夫は、訳も分からず引きうけた。
女将にどんな考えがあったのかは、分からないが確かに誰が見ても異例である。始めて見た職人でもない者を宛がうのはどういった意味があるのか。
その日からの辰夫の働きは鬼神の如くと言って良いほどで、朝から夜まで作業場に入り浸りであった。辰夫にとって木造船を造る事は、ウィンドサーフィンのボードを造るための知識を得る機会でもあり、また、早く造り終えてボードを造らなければならないのである。うまくいけば春一が屋島にいる間に助け出したい気持ちがあった。
辰夫の毎日の働きは、琴屋の誰もが認めるもので、体を動かすだけでなく、辰夫が持つ近代知識は船造りの行程で職人を感心させることが多々あった。
木を細工するような技術力は当然持ち合わせていないが、この時代の者には考えつかないような知識は皆を驚かすだけ持ち合わせている。
琴屋の女将もまさかここまで出来るとは思わなかったようであったが、良いことばかりでもない。時折職人を唖然とさす行動は周りが理解できずにいるのである。
それは、辰夫の人間らしい「へま」と辰夫の時代の産物(考え方)を持ち込んだ時である。この時代、釘や楔といった金具はあるがネジはない。当然ねじ回しもない。辰夫にとってネジ釘とかネジとナットの組合せを前提とした物作りをしてしまうときがある。
必然的に無い物を前提に作ったものは最後に部材だけで組立てられなくなる。最後に笑ってごまかすしかないのであるが他の職人にはその積み木のような部材が不思議に思い、それなりに辰夫の持っている不思議な知識に感心もしてしまうのである。
辰夫は、大学や警察学校では優秀な成績とはかけ離れた存在ではあったが、科学的なものや自然現象等の不思議なものに対する興味は常にあった。
かと言って、科学者のように数学的に物事を理解できない。何となく「そういうものなのか」と子供に説明できる程度には理解できるタイプであった。逆にいえば、そのように理解しなければ答えられないため、記憶力だけで勝負する警察の昇任試験は苦手としていた。
そういった形で身に付けた辰夫の知識はこの時代で適当に役に立っていることは、事実である。
佐藤継信と分れてから二月ほど経過した。辰夫にとってこの二月は短く感じた。必死になって手作りの船の模型造りをしているようで、ある意味、この時代に来て初めて楽しく過ごせた日々でもあったかもしれない。管六は毎日のように辰夫の手伝いに琴屋に顔を出している。管六が猟師であることで辰夫は大変助かった。
船造りには、山の木々の知識が必要なのは当たり前である。猟師の管六は当然山についての知識は豊富である。辰夫はそれより木を接着するために必要な膠について管六がよく知っているのに驚いた。膠の作り方を聞けば納得するのであるが、膠は動物の皮を煮ることで作り上げていくものである。当然猟師の管六も膠作りをしていたのである。その他にも辰夫が必要とする竹、蔦等についての知識は管六に頼るところとした。
辰夫が楽しく過ごせたのは他にもある。この時代、村集団や他国の者への警戒心からよそ者を受け入れないのが普通であるが、この瀬戸内の街ではよそ者を見分け、受け入れる力がある。海に開けている街で、交通の要所でもあるため色々な人の出入りが多い、そういうことから人を見る目が肥えているのであろう。勿論誰でも受け入れているのではない。この琴屋でも辰夫が来てから流れ者のような男が数人来ているが、一人として琴屋は受け入れていない。船の注文は多く入っているのは事実であるが、人足を集めたりはしていないのである。女将の話では、今は戦のために源氏も平家も船を必要としているが、「戦が終われば、そう船を必要とはしない。」ということである。そういうことから考えると辰夫は、目の肥えたこの街の人達に受入れられる人物と見られた。
琴屋の作業は日が沈みかければ終わる。辰夫はその後いつも海岸に一人で散歩に出て行く。始めはよく辰夫について職人が付いきて、辰夫の変わった話を聞いて喜んでいたが、辰夫も大分ネタが切れてきて職人を喜ばせるだけの話がなくなってきた。職人も辰夫の散歩は見なれてきて、辰夫の日課のように眺めだし、最近は付いて来なくなった。
今日も辰夫は作業場の裏手の海岸に向かって歩き出した。琴屋の裏手の海岸から眺める瀬戸の海は目の前に島々が点在しているため水平線の遥か遠くを眺めることが出来ない。それが辰夫には恨めしく思えたのである。この先にある淡路島の向こう四国の屋島に春一がいることを思い浮かべて遥か遠くの海を見つめているのである。春一と分れ三月近くになるが未だに春一に近づくことが出来ない。目の前に広がる海が邪魔をして行く事ができないのである。行くための道具はあっても近づくことは出来ない。近づけたとしても恐らく源氏の者と見られ殺されるだけだろう。辰夫は「後十月、来年の三月に」と一人呟いて海を眺めていた。
「辰朝さん、今日も一人」と後ろから小夏の声がした。辰夫は涙ぐみかけた目をぱちくりさして、涙を抑え込み、間を置いてから振り向いた。西の島影に入った太陽は、島のシルエットを瀬戸の海に落としながら島影からはみ出た西日の光は、波をきらめかしていた。その美しい景色が小夏をここへ呼んだのかも知れないと辰夫は思った。
「辰朝さんは、仕事が終わるといつもここに来るね。海が好きなん」
「はい、好きですよ。」
「それだけ」
「いいえ、他にもありますよ。」
「それ、辰朝さんの秘密、辰朝さんはお国で何をやっていたん」
「そういう訳じゃありませんが、夕暮れの浜から見る海は、船もなく人影も無く、何の争いもないですね。私が住んでいたところは、戦がありませんでした。勿論遠く離れた国では戦をしているところもありましたが、私達家族が巻き込まれるような戦は無かったのです。私は、そんな国で警察といって国の役人のような仕事をしていました。別に偉そうにしていたわけではありませよ」
「へー、お役人だったんだ」
「私の国では役人は、民の役に立たなければいけない仕組みで、民の方がいつも強かった。」
「初めて、辰朝さんとこんなして話しするの、辰朝さんいつもあたいを避けてるもん。あたしと二人きりってなかった。いつもお兄ちゃんや職人さんが一緒。」
「別に避けていた訳ではありませんが、何となく二人きりになるのが、きぜつなくて、」
「三郎やお兄ちゃんは辰朝さんのこと、「不思議な人だ」といつも話している。話し方は確かに変わっているけど他に何処が不思議なのか。」
「別に不思議なことはありませよ。普通の人間です。ただ、生きてきた場所が違うので、不思議に感じられるのです。」
「生きてきた場所?」
「私の住んでいた場所は、こんなに美しいところではありませんでした。その美しさを亡くした引換えに、便利さを手に入れた世界です。何処へ行くのも楽に早く行く事ができ、何をするにも労力を必要としない。子供まで遊ぶのに汗一つ掻かなくてすむ。極端に言えば、何もできなくても生きていける。」
「すっごく、楽そう」
「その代わり、何も知ろうとしない子供がいて、何も教えられない大人が居る。それは、人の心を見る必要がない世界なのかも知れませんね。見なくてすむから、分らなくてすむ。人の心を見なくて、分らなくて、そこから始まるものって、何かな、」
「話し、難しいね。私は、そんなこと考えて生きてないよ。人の心覗いたりしないもん」
「そんなことないですよ。いつも職人さんに気を使っていますよ。小夏さんは職人さんの心をつかんでいるからみんなに可愛がられるんだ。職人さんも人を見ている。だから繋がっている。船造りの技術だけでなく心もね。」
「何となく分るような、辰朝さんの国ではだめなの」
「うん、ここのように技術は人が心で伝えていくものとしたらだめだろうな。」
「辰朝さんは、難しいこと、いっぱい知っている。それに優しいよ。良いお国のように思うけどな」
「戦がないことはすごく良い。優しいのは実は、実は小夏さんや管六さんに嫌われたくないからじゃないかな。」
「変な言い方。」
「変な言い方か、確かに素直じゃないな。でも私の子供は素直だよ。」
「平家に居る子。辰朝さんの家族って」
「うん、」
辰夫は、「うん」と答えた後、息が詰まりそうになった。小夏と海岸で話しているうちホームシックにかかってしまったように思って何処か心が涼しく感じていた。それは、自分でこれがホームシックかと思えるほどのものであったが、小夏から春一や妻の早苗のことを聞かれ一気に息が詰まるような苦しさを胸に感じたのである。
うろたえるほどの胸の苦しさである。小夏の前では涙を見せたくないという気持ちと思い出すだけで込み上げてくる涙、春一への想いが次から次へと噴出し、止まらない。それを抑えようとする。
辰夫は、急にその場に腰を下ろし両膝の間に頭を抱えるようにして下を向き、小夏に見られないようにした。
小夏は辰夫が急に座り込み、頭を抱え込んだので少し戸惑ったが、何となく辰夫が家族のことを思いだし臥せったのだと築いた。そして、黙ってしまった。
辰夫は、溢れる涙を見られないように下を向き、海岸の石の上に涙を落とした。声を出さず泣いた。小夏は、自分が泣いていることが分っているはずであるが、何も言わず黙って横にいることに感謝した。石の上に落ちる涙は、雨滴が石を叩くように一滴一滴落ちるのと似ていると辰夫は自分の涙の滴の行方を見ながら心を落ち着かせていた。
「御免よ、急に泣き出して。もう大丈夫、話しの続きだけど、私が言うのもなんだけど、春一は、私と違って素直な心で人を見ることが出来る子供なんだ。優しい子だよ。自分の友達が悲しい目に合っていると友達と同じように泣くほど悲しがるんだ。ある時のことだけど、まだ、十歳もなっていないときだな、友達と歩いていた時、その友達が大事な物をこけて壊してしまったことがあったんだ。その友達は、勿論悲しくなって泣き出したんだが、それを見ていた春一は、友達の悲しいそうな顔を見てその友達以上に泣き出した。余りに春一が悲しそうに泣くもんだから、その友達が春一を慰める羽目になってしまった。私はね、泣いている春一を見つけて、始め虐められたかと思って話しを聞いてみた。春一の優しい気持ちに今度は私が泣きそうになったくらいだ。」
「初めて、辰朝さんがそんな生き生きと話しているのを見たの。好きなんですね。それに春一は優しい子供なんだね」
辰夫は、小夏の「優しい子供なんだね」の言葉を聞いて、急に心の想いを止めることが出来ずになり号泣してしまった。小夏は二度目なので少し慣れたのか、一歩離れて、辰夫の背中側に下がり、辰夫の背中越しに瀬戸内の夕暮れを眺めた。
辰夫が居る瀬戸内は、ちょうど平家と源氏が鬩ぎ合いをしている位置で、少し離れた位置に児島がある。源氏の兵はまだ山陽道を上がって来ていない。平家は、四国の屋島に本陣を起き、平家に味方する山陽道の国々と一脈を通じようと兵船が瀬戸の海上を動いている。源氏は播磨辺りまで陸路を下がってきており、備前にまではまだ足を伸ばしていない。
源氏として余り兵を多く進める訳にはいかない。国内では飢饉のため兵糧が乏しく、京の都ですら荒れ果てた状態が続いている。平家はその中で陣中でも笛や太鼓を奏でるだけの余裕を見せており、徐々にではあるが一の谷の敗戦から立ち直りつつある。児島は、その平家が山陽道を掌握するための重要な拠点となりつつあった。
瀬戸内の制海権は平家のもので、我が物顔で往来している。
その原因は、源氏の船が少ないことと海上での戦に慣れていないからである。船が少ないからと言って直ぐに増やせるものでもない。船を造るところは限られている。この辺りでは、殆どが備中・備後・安芸の瀬戸内に集中し、地名に船木と名がついているので分り易い。そして全て平家の掌中にある。
義経がこの琴屋で源家の船を造っていることは、源氏にとって貴重なことと考えねばならない。琴屋では絶対に内密にしておかなければならない。この辺りは、播磨の西隣で比較的平家色が薄い地域であって、元々は清盛の父平忠盛は播磨守として在住し播磨から西の備前・備中・備後・安芸と内海経営していた。その延長線上に平家の氏神ともいえる厳島神社がある。
そんな備前の牛転で源氏の船を造っているということ自体、無謀といえるもので、平家に肩入れしている者に知られれば平家縁の国司や郷氏から襲撃を受ける可能性もある。
今のところ牛転では平家に附くと声を大にして言う国司などは聞こえてこない。ちなみに頼朝は、播磨・備前・美作の借りの知行国司として土肥実平と梶原景時を配し経営にあたらせている。
その効果は大きく、この辺りの豪族の動きはほとんどない。豪族も日和見主義を決め込んでいることがその要因の一つと考えられる。
そう言うことで、この牛転辺りでは、陸は源氏、海上は平家となっている。琴屋としては両方に面して位置している事から態度を明確にしなければ成らない。源氏につくか平家につくか見方する方を誤れば存続が危ぶまれることになる。
琴屋の女将は、佐藤継信の誠実さに惚れて源氏の船を造ることにしたが数十人の職人のことを考えると今後も源氏に肩入れすることを「良し」として良いものか思料していた。元々平清盛の父忠盛がこの地で国司としていたときは平家の世話にもなることも多く、気持ち的には平家に附きたい気持ちであった。しかし、今は源氏の臣下梶原氏が国司としていることから、女将としては決め兼ねるのであった。
そうした時、琴屋に梶原氏の家臣で三浦高信と言う男が現われた。話しは簡単で琴屋に船を造れと命令してきたのである。しかも、短期の内に十隻の船の注文で無理難題と受けとめられる注文である。
梶原氏にとって船が手に入らないことは今後戦を続けて行く中で致命的な戦力の欠陥である。平家が海上にいる以上手も足も出ないことに成るからである。同じ源氏の源義経は京にいながら熊野や紀伊で動いている。関東しか知らぬ梶原氏にとって義経に余り差を開けられる事は不愉快極まりないことで何としても船を手に入れておきたいのである。
ちょうどこの牛転の備前を源頼朝から任されたことを良いことに琴屋に来たのである。
ただこの男、源頼朝の挙兵に応じた三浦義澄とは関係なく、梶原が京で行う宮中の儀礼事を良く知る男であることから雇い入れた者である。
一の谷の合戦などでの功績がなく、この備前に赴任したことをよいことに梶原へのゴマすり的な面を強めていた。
三浦は、国司としての権力を笠に着て、琴屋に対して接してきた。琴屋の女将の性格からして同じ三浦でも三浦義澄と異なり敵対したくなるのである。
「三浦様、当方では、今、船造りは目一杯でして、注文して頂いても造ることは出来ません。大変申し訳が座いませんが、御勘弁を、」
「源義経殿の船を造っていると聞いたが、いかに」
「それも含めてで御座います。」
「ふざけるな。馬鹿にしておるのか。義経の船は造っても梶原様の船は造れぬと申すのであるな。梶原様の船を造れないとは、琴屋では平家に通じていると報告せねばならぬ」
「何と、御無体な、言いよう。当方は源氏や平家と言った御武家様との関わりは御座いません。「船を造らない」と言ったから平家に通じているとの言掛かり、三浦様お引取り下さいまし。」
女将は、怒り心頭に発し、思わず「帰れ」と言ってしまったのである。言われた三浦氏は屈辱を武力で屈服させねば気が済まなくなったが、今は供の者も連れておらず、明らかに恨みを残し「覚えておれ」と一言言い、引き上げた。
流石に女将は、三浦が帰った後不安に思ったのか、頭の吉良を呼び相談した。相談はするものの、何の解決策など浮かばない。ただ、「経緯は、職人にも話しておかなければ」との吉良の言葉を受け女将から職人に話しをした。
話しを聞いた辰夫は、自分の持っている源範頼から貰った書付が何かの役にたたないかと考えた。単純な発想であったが、梶原氏も「書付」をもらったその時に居られた。
そのことを辰夫は女将に話した。
なぜ持っているのか、経緯については言わなかったが、その「書付」の効力が女将にはわからない以上あてにするわけにはいかない。
辰夫自信も言ってはみたものの「書付」が何ぼのものか知るところではない。
まあ、女将としては、三浦高信が直ぐに如何こう、動くとは思わず、暫く様子を見るとのことであった。
ところが、翌日三浦が徒党を組みやってきた。様子を見ている間もなくである。
女将は、朝から天満宮の宮司の所に出かけていた。それが幸いし、三浦の喧嘩相手が不在となってしまったのである。
店のものは、三浦高信の言いがかりを「はい、はい、」と聞くだけで埒が明かない。
三浦は、引き上げ際、琴屋の門をぶち破り、少し気を晴らし頭の吉良に女将自ら屋敷まで謝りに来るよう言い残し、引き上げた。
帰ってきた女将は、門が壊されていることで三浦が来たことが直ぐに分った。入って来るなり「三浦だね。あんな馬鹿な家来を持っている源氏も先が見えているよ」と嫌味の一つも言わなければ気が治まらないのか、一人聞こえよがしに呟いた。だからと言って女将に対抗策はなく、梶原達、源氏の家臣が入り込んでいる屋敷まで謝りに行かなければならないのかと覚悟していた。
辰夫に話しがあると言って、女将と一緒に管六が来た。管六は辰夫に書付のことを言ったが、「それは女将も知っている。」と辰夫は話した。
管六は、「屋敷に来ているのは梶原様ではなく、土肥様が来ている。」と言った。どうやら、備前、備中と西方面は梶原様と土肥様とが仕切るようだとのことで、今居られるのは土肥様らしいとのことであった。
それを聞いて辰夫は管六と相談し、女将に「三浦高信が翌日に来たのなら、我々は今日、出向きましょう。」と、それに今なら何とか土肥様に合うことが出来るのでは。
そういった辰夫の意見は、自分が前面に出るものではなく、あくまでも女将へのアドバイス的なものと考えて話していた。
しかし、いざ女将に話すと自然に話の中心が、自分になっていて、辰夫自身が土肥実平と時下談判する形に話しが進んでいたのである。辰夫にとってもこの琴屋で世話になっていることは分っているし、やくざの物言いではないが、一食一飯の恩義がある。何より、琴屋が潰されてしまえば、春一を助けるために必要とするウィンドサーフィンのボード造りが出来ない。今更一から始めるには時間がなくなる。辰夫自身この時代になれてきたのか、命の危なさを考えたとき、平身低頭し、理由を言えば命までは取られることはないと考えた。
辰夫は、女将に条件を出して、自分も行くことを了承した。その条件とは、船を造ることである。三浦氏の要求の十隻は無理難題であることを主張し、三隻程度で収めてもらう。その代わり、木曽義仲の京での所業を例に出し三浦氏の所業について土肥実平様の意見を伺い、今後琴屋への出入りは他の方へ変わってもらうようにする。最後に女将がなかなか「うん」とは言わなかったのが、今後平家には船を造らない。造るのであれば源氏にすることの約束であった。
このことは、女将にとっても首を縦に振りたくないことであったが、琴屋の将来のことを考えてのことと、しつこく辰夫言われ、しぶしぶ了承したのである。辰夫ははっきりと言いきった。「平家と源氏の戦は平家が負ける」である。琴屋の女将を説得させられるだけの根拠はそれなりに多く語ることが出来た。辰夫は、あくまでも預言者のような物言いではなく、源義経が、熊野の辺りの海の者を味方に入れていること。平家の兵力が少なくなっていることなどを入れ混ぜて女将を説得したのである。説得している辰夫は、結果からものを言っているのであって、走り終わって結果がわかった競馬を謗らぬ顔をして解説しているようなもので説得力があるのに決まっている。
辰夫にとって琴屋の今後を考えたとき、源氏から睨まれる存在となっては困ると考えていたのである。
辰夫は、女将と琴屋で一番腕っ節のいい藤吉さんと三人で源氏の屋敷に向かった。屋敷前で門番に「琴屋松栄の妻、呉美といいます。土肥実平様に御用があり参りました。どうかお引き合せを」と言った。門番の一人が中に入って行ったため、少なくともこの地に土肥実平が来ていることは確かであることが分った。暫く門の所で待たされていると、当然の如く三浦が通りかかったのである。
三浦にとっては、「来い」と言いつけたものの、こう早く来るとは思っていなかったようで、一瞬驚いたようであったが直ぐに「にやり」と嫌味っぽく笑みを浮かべ、「謝りに来たか」と言うと、女将は、三浦の顔を見ると「今日は、三浦様ではなく土肥実平様にお目通りをお願いしに参りました。」と言った。
女将の顔は、キリっとした態度で涼しげな目を見せ、明らかに「あなた様には用はない」といった顔であった。その姿勢の良さに美しさを感じるほどで、三浦自身屈辱を味わったように感じ殺気をはらんだ。そして、いきなり刀を抜いた。女将は驚きもせず肝の座った態度で一歩前へ出て、三浦に向かって行こうとした。
辰夫は思わず女将の両肩を掴み後ろに引きずった。
当然誰かが女将と三浦高信の抜いた刀の間に入ることになる。
脅しとは判っているものの、恐ろしいことは確かである。
それに、弱いはずの女性が怯まず身を投出し対抗する姿に男として辰夫は守らなければとの気持ちもある。
辰夫は、かっこよくとはいかないが、一応女将の前に出て、身を挺した。
ひ弱そうな辰夫の行動に女将は戸惑ったようであるが、三浦が刀を上段に構えた時、藤吉が三浦の胸元へ入り込み、三浦の振り上げた刀の下に入り三浦高信に体を寄せた。
藤吉に体をくっつけられてしまった三浦は刀が振り下ろせなくなり、鼻面にある藤吉の顔を振り払おうとした。藤吉は三浦の鼻先で深く頭を下げそのまま黙って跪着いた。その一連の動きは、三浦の殺気を無くさす動きになった。
殺気は無くなったが三浦の怒りは収まっていない。刀の柄の部分で藤吉を殴り、背を向けている辰夫の背中を足で蹴飛ばしたのである。蹴飛ばされた辰夫は女将をかばうように一人こけた。
そこへ門番が戻り、その後ろから土肥実平が一緒に歩いて来ていた。門番には、一緒に源範頼の書付を渡して土肥実平に連絡を頼んでいたのが功を奏したようである。
土肥実平は辰夫を覚えていたようで門のところでひっくりかえっている辰夫を見て、「三浦殿その辺でお止めなされ、その者は一の谷で我が方を勝利に導いた道案内の一人じゃ、見よ、このように蒲殿の書付を持参しておる。」
辰夫は、門番に源範頼の書付を見せ土肥実平への面会を頼んでいたのである。
書付が無ければまずは門前払いであったろう。書付の効果絶大で土肥実平自ら玄関先まで赴いてくれた。
辰夫は「水戸黄門の印籠」のように源範頼の書付を感じながら起きあがった。自分がこけた煽りで座り込んでいた女将であったが、立ち上がり辰夫に寄った。
辰夫も立ち上がり、寄添ってきた女将を一瞬不思議に感じた。女将との距離に何か今まで感じたこともないものを感じたからである。
三浦は、梶原氏の家臣であるので土肥実平との間に臣下の交わりはない。なので土肥氏だけの言葉であったならば言い返しも出来ようが、源範頼氏の書付を以って一の谷の功績までも言われれば土肥氏の言葉を無下にすることは出来ない。それに例え臣下でなくても土肥氏は自分より上位に位置することは確かである。
この時代は、徳川の時代ほど武士道といったものは確立していなかったが、それでも武士としての暗黙のルールはあった。
抜いた刀を容易く元の鞘に戻すことは出来ない。それでも刀を収めなければ土肥氏との間に恨みを残しかねない。三浦高信は、土肥実平の次の言葉を待った。
「三浦殿、この書付は梶原殿が推挙して源範頼殿が書かれたもの。私もその場に居たので、確かなものじゃ」
三浦高信は、振り上げた拳を下げざるをへなかった。言葉を出せずやり場にない気持ちを供の家臣にぶつけ、遺恨を残したままその場を去った。
「月日に関守なしじゃ、どうしとった。名は何と申したかは忘れたが、貴様の顔は覚えておるぞ、」と三浦がこそこそと逃げて行ったことに気を良くして土肥は、話し出した。
「何やら、気分が好い。お前のお陰かな」
「記憶に留めて頂いて有難う御座います。」
「あの三浦、梶原の威を借りてこのわしと対等にしおる。家臣に目もくれず、上ばかり見て、御所で使えていたことを自慢げに、どうも好かん。威を借りている梶原が関わった「書付」、あの男の弱いところだったな。わしもちょうど海にでも行こうと思って庭先に出てきたら、お前の持参した「書付」に出会った。気分がよいは、まあそれは良いとして、船のことであろう。中で話しを聞こう。」
辰夫は、書付を見て「わざわざ門のところまで出てきてくれたのか」と思ったが、やっぱり違って、たまたまのめぐり合わせか、と思った。同じ出て来てくれるのなら蹴飛ばされる前に来て欲しかったと思った。
屋敷の中で女将は今までの三浦との経緯を話した。そして、正直に琴屋は元々平家に恩があり、平家の船も造っていたことも話した。そんな中で今、源義経の船を造っているのは佐藤継信の誠意ある頼みを自分が感じとって引き受けたもので、源氏のためにではなく、佐藤継信の誠意に対してであることを述べた。
女将の卑屈になるでもなく媚を売るでもなくかといって言葉巧みにごまかそうとしていない話しぶりに土肥実平は、聞き入っていた。
その後付足すように、「今後源氏を拒むことは、琴屋にとって危険であることも承知している。源氏の世が来ることは恐らく間違い無いであろう」と土肥実平に対して持ち上げるように辰夫は話した。辰夫にとって事実を話すだけでさほど難しくなかった。それらを話し終わった後で、土肥実平に助言を求めた。
「三浦はしつこい奴じゃ、このまま黙っているとは思えん。かといって船の調達は必要、船は何隻か源氏に造れ」
「琴屋では、十人以上乗る軍船を造るには、最低でも三月はかかります。土肥様の助言を頂きたく思います。」と造る船の数を値引き交渉のように土肥に言った。
「琴屋では、源氏に対して船を造ると言うのであるな。心証な心持ちよ。」
「源氏に対して船を造るだけでなく、平家に対して船は造らないと御約束させていただきます。そうですね女将さん」
「はい」
女将は、心持ち返事に詰まったが、辰夫との約束であったので、ここで返事を濁らすようなことはしなかった。
辰夫は、そのまま、一気に船を三隻源氏に対して造ること、三浦を琴屋に近づけないことを土肥実平に話した。
「三隻では心もとない、五隻用意せい、それなればわしとして、鎌倉への言い訳も出来よう。蒲殿だけならば、三隻でもよいが梶原も一緒じゃ琴屋で五隻用意せい。」
「分りました。あの三浦様のお顔を見なくて済むことでしたれば、無理も致しましょう。土肥様宜しくお願いします。」
「さすが、女で一人、職人を纏めるだけのことはある。気持ちよい返事じゃ。わしも約束しよう。」
辰夫は女将が一瞬で土肥の要求を飲んだことに少し驚いたが、それより女将の鋭い眼差しの中に見える強さが辰夫を引き込んだ。辰夫は、今まで余り綺麗な着物も着ず職人の中で動く女将を気の強い荒くれ職人を束ねる琴屋の主人としか見ていなかったが、土肥とのほんの一瞬の駆け引きで事を決する鋭い眼差しに今まで見たことのない女の魅力を感じてしまった。
土肥も辰夫と同じものを感じたのか、「女将、歳は幾つになる。いや、聞くまい。わしは明日にも京へ発たなければならぬ。次にここを通る時は、平家との決戦、この備前での思い出に残る女子として心に留めて置くだけにしておこう。何せあの三浦から詰め寄られても怯まずにいるあの態度、京では見ることの出来ぬ者よ」
辰夫は、自分達が三浦と出会ったときから土肥が見ていたのを知った。「やはり人の上に立つ人間、よく観察している。犠牲にしていいもの、利用するものを見ている。」と思った。
三浦の事があってから琴屋での辰夫に対する待遇が少し変わった。特に飾り職人の藤吉がやたら辰夫に親切になった。辰夫が三浦の刃から女将をかばったことに気をよくしてのことで、藤吉の態度で周りの職人までもが変わってくる。辰夫は警察の職場と似たところがあると思った。署に配属されて、古株の巡査部長辺りに気に入られれば少々の失敗も恐れずに仕事に当たれるが、嫌われると何をしても気に入らない対象とされる。新人で辞めていく者の多くはこれが原因で、簡単に言えば「いじめ」のようなものである。上しか見ていない管理能力の無い上司とこんな古株の巡査部長がいる職場は、どこにでもあり、時代も問わないようである。
なんにしても辰夫にとってはよいことで、ボードを造るためには飾り職人の藤吉の技がどうしても必要になるからである。船が沈んでも船箪笥は浮くと云われるほど気密性のある精巧なものを造れるのは藤吉ぐらいのものである。
ボードを造るときどうしても板木一枚で造れば浮くことは浮くが浮力が小さく、重量があるため推進力がなくなる。辰夫の考えでは、板の上面をドーナツ状に上辺だけを切り抜き空洞を作り、蓋をするように被せる。そうすることにより、内部に空気の層を作りだし、ボードそのものに浮力と軽量化を図ろうと考えていた。
その際当然木と木を合わせ、蓋をし、気密性のあるものを作らなければならないことから藤吉の技が必要になるのである。それにフィンの細工もである。形だけなら作れるが、ボードに取付けるのに可動性が必要になる。「可動はするが直ぐ外れる」ではだめで、そういった細工は藤吉に頼まなければならないと考えていた。
それとボードの板とマストになる竹竿とのジョイント部分の細工も藤吉の技が必要となる。なんにしても藤吉が気分よく手伝ってくれることは辰夫にとって助かった。
問題は、帆である。いわゆるウィンドサーフィンのセールに当たるものである。辰夫が福原から拾ってきた旗を繋ぎ合わせて6平方メートルほどのセールになるものを作ったが薄く張りがなく弱い、明らかに風が抜けてしまいそうである。セールの強度を高めるためと曲線を描くラインを作り出すために、細く糸のようにした竹籤を横糸のように張り付けた。何度か試行錯誤して作り出すことが出来たが、布が水を吸うために隙間が多く出来る。セール全体に水をはじくようにするためにはどうすればよいかだけが最後に残ったのである。
当時の船の帆は筵で作られていたがそれもごく一部で強風に弱く。水に弱い。普段は帆をたたんでしまっておくための長細い木の箱が用意されていて、必要なときだけその箱から帆を取り出し上げている。風が良い塩梅でなければだめで、強すぎても弱すぎてもだめである。もちろんヨットのように風上45度への推進はできない。そのため瀬戸の船乗りは、潮の流れをよく知っていた。その潮の流れで漁をしているといっても過言ではない。逆に言えば瀬戸内の漁師は、潮の流れを知らない外洋へは船を出すことがないのである。
そのため船を造る工程で帆を重要視する考えはなかった。ただ大型船を造るときだけ帆のことを考えて造船しなければならないのである。そんな中で辰夫は、帆を一生懸命に造っている。しかも変わったものである。藤吉も不思議がったか女将が口添えし、辰夫の好きにさせてくれたため周囲で楽しく笑われていながら作業が進んだ。
帆の製作に管六の意外な知識が役に立った。動物の毛皮から作り出すのは、接着剤である膠であるがそれだけではない。山で生活している管六は、山でなる木の実などから生活に必要なものを作り出すことを知っているのである。ミカンのような果実から蝋のようなものも作り出せるのである。
実際に火を灯す蝋燭として使用されているものであるが、辰夫は、その水を弾くどろどろした蝋のようなものを帆に塗ることで短時間であるが水を弾くセールを作り出したのである。
辰夫にとって一日だけ水を弾いてくれるセールを造ればよいのである。このセールが出来た時は、管六が猟師でよかったと辰夫はつくづく思った。
辰夫は、試作品としての一艇を牛窓湾に浮かせて試してみた。さすがに藤吉作だけあってボードは、浮力と軽量化が出来ていた。が、バランスが狂っていた。そのあたりはボードの空洞に粘土のようなもので調整することが可能でボードの方は上出来の出来栄えであった。後はフィンの位置やマストの調整し、マストを実際に立てて立ち位置など調整することにした。
その後、ウィンドサーフィンのボードとして出来上がるまでにあちらこちらといじくり回し、ボード自体ぼろぼろになってきた。
当然使用に耐えない状態になってきた。セールについては、材料さえ整えば作り上げるのに時間を要することはない。ただ材料を揃えるのが大変ではあるが、なんとかなりそうである。ボードはそういう訳にはいかない。そのため辰夫は、始めから2艇同時に造っており、試作品の最初のボードでウィンドサーフィンのボードとしての完成品にまで仕上げようと考えていた。
その完成品と同じものをもう1艇で造ることにしていた。
辰夫は、その試作品のボードでウィンドサーフィンとして完全に乗れるまで牛窓湾の海上を走り回った。
辰夫は、造船の作業の終わった夜に灯火の下で一人作業をしていた。辰夫は造船の作業が終わると日が残る海岸に出てボードの試し乗りをする。その結果でボードやセールに少しずつ手を加えている。一度に手を加えると元に戻すことが出来ないため、毎日少しずつしか手を加えないようにしている。そのため気の遠くなるような作業を根気よくしなければならない。
そんな作業を見ている藤吉がマストとボードの接続部の金具を作ってきてくれた。長船の刀鍛冶に頼んでくれていたようである。琴屋の船の部品を注文する時に一緒に頼んでくれていたようで、それを見た辰夫は、喜びを見せていた。
毎日のように海岸に出ていく辰夫に小夏がいつもついて来る。小夏にとって興味を引くことではないと思うのであるが、いつも辰夫の後を就いて海岸に出て辰夫のセーリングを眺めている。
辰夫は小夏が自分を好きになって来ているのではないか思うようになった。小夏は、十七・八の小娘で辰夫の感覚からしても少し罪の意識が出てくる。それに小夏は、三郎の恋人で管六の妹である。絶対に裏切ることが出来ない。三郎や管六は自分を信じているのは分っている。そんなことを考えながら海で頭を冷やして小夏を海から眺めている。ただ、自分も男である。煩悩は人並みに持っており、何処か抑えきれない妄想が頭をよぎって、夜一人でふけってしまう。「まあ、これもこの時代に慣れてきた証拠か」と一人納得している。
海で頭を冷やしながらセーリングをしている時、いつものように海岸で辰夫を眺めている小夏に琴屋の女将が近づいて来て、何やら話をしている。小夏は下を向いてうなずいているだけであるが、女将に何か云い付けられているようであった。その後小夏は、一人引き上げて行くのが見えた。「そう言えば最近女将の顔を見ることがなかった」何か商売の用で東の方へ行っていたと聞いたが、定かでなかった。
辰夫は、源氏の屋敷で女将を庇おうとした時、女将の体に触れている。それを後から思いだし女性を感じたのである。その後から辰夫の見る目が変わったのか女将の様子が女っぽく見えてきてしまったのである。辰夫自身、女将が変わったのではなく、自分の見方が変わったと思い、頭の中の想像を振り払うのに大変であった。
辰夫は、そんな女将を久しぶりに見たよな気がする。小夏が去った海岸に女将が一人辰夫を眺めている。始め小夏に見られたとき、褌に小袖を一枚はおっていたが、海から上がる時は少し恥ずかしく感じ、小袖をわざわざ上がったところできちんと直して小夏に近づいたが、最近は慣れて、乱れた体でも平気でうろうろしていたのである。今度は女将が海岸に一人居る。やはり慣れていないことと、女将が綺麗に見えたことで、辰夫は、岸に上がると直ぐに身を整えた。
海岸の女将は、辰夫のその姿に目をそらすことなくじっと見ていた。
辰夫はその視線を感じ、見返すことは出来ず足元を注意するような仕草で下を向いて海から上がってきた。女将の前にきたとき辰夫が発することが出来る言葉といえば、「ご苦労さんです」と一言言ったのみである。辰夫は、言って直ぐに「他に何か次に繋がる言葉はなかったのか」と反省した。
女将は、手拭を出し辰夫の体を拭きながら、「器用な乗り物ですね。小夏が見ているのも分るような気がします。それより、日が落ちてもう直ぐ夜、体が冷えて風邪引きますよ。」と言葉はいつもより丁寧で、辰夫自身少し距離感を感じた。
辰夫は、女将に手拭で体を触られた感触がぎこちなく思い、「有難う御座います」の言葉とともに手拭を受取り自分で拭いた。
女将は何か話そうとしたように辰夫には見えたが、言葉を飲み込むようにし、姿勢を正し、海の方に目をやった。
下向き加減の辰夫は、たまに女将を確認するように目を上げ女将を見るが、目を上げ女将を見るたびに女将が美しく見えてくることに自分の気持ちを知った。
辰夫は、心が熱くなり心臓が打つ音が聞こえて、それに気づかれないように何の言葉も発せず、ボードとセールを俯きながら片付け出した。それは、自分自身をごまかすためで、それを見透かすように、女将はその場から立去ることなく海を見ていた。
辰夫は黙ったまま、琴屋の作業場へセールを引上げへ、ボードを引き上げるために海際にまで戻って来た。女将の視線は今度辰夫に向けられていた。目を伏せ続けていた辰夫も女将と目が合い、女将が何を言いたいのかわかるような気がした。気丈な女将のきりっとした目を崩さず絶えている。「自分が訴えられるのはここまで」と言っているような目を感じた。
いつもならボードを持上げ「何処をどう改良するか」を考えながら歩くところを今は、砂浜から作業場までの歩く歩数を数えることで気持ちを静めていた。
職人が引き上げた作業場には女将と辰夫二人になった。西日を向かい入れている天窓から光と共に風が吹き込み、その風が肌を冷やした。
辰夫は、体の中で熱く燃えるものを感じ男としての我侭な思いが噴出しそうになっているときに、それを冷やすように通り抜けた風が、辰夫にほんの少しの冷静さを与え、それが言葉となった。
「女将さん、綺麗です。私は、妻も子供も居ます。そしてその子供のために今命を賭けてもとの思いでこの船を造っています。そんな私ですが、男です。土肥様に合ったとき女将さんの体に触れたときから女将さんが綺麗と思い、男として女将さんが欲しいと思いました。もう直ぐここを出ていくことは確かです。それでも今女将さんの優しさを間に受けている私がいます。………男として女将さんを抱きしめたい。」とそれだけ言って辰夫は顔を女将に向けたまま仁王立ちした。海岸で肌かに近い容でいる辰夫は、余計に自分が欲望の塊になっていることに気づいた。
女将は、源氏の屋敷で三浦から辰夫に守られて心が一人歩きしだしていることに始めは気がついていなかった。ただ、今まで自分自身女を捨てこの琴屋で職人達の頭目として生きていくことに少し弱気になりかけていることには、気づき出した。「何かに寄添いたい」との気持ちである。それが、辰夫であるように感じ出したのは、海岸での辰夫のウィンドサーフィンの姿である。
辰夫という男は、女将にとって今まで見たこともない異質の男であった。特に男らしいという訳でもない。かといってなよなよしている訳でもない。人を何のこだわりもなく素直に平等に見る姿、強引な優しさや強さではなく普通なのである。女将も分からないが、この時代、辰夫の持つ普通の姿を持った男は見ることが出来ない。それに、自分の息子を愛し命を賭けて助けだそうとする姿である。
女将は辰夫が無心で挑んでいる姿、それを岸でじっと見ている小夏にいつのまにか嫉妬を感じていたのである。「あんな小娘」と思っていたが自分でも理解しがたい行動をとってしまったのである。
それはまさしく、辰夫を求める行動であった。女将自信その感情は止められなくなっていたのである。辰夫を求める気持ちである。
姿勢を崩さない女将が、俯き加減で辰夫に近づき辰夫に体を寄せた。目には涙が一筋流れ、女将自身も何かに絶えていたのがわかった。辰夫は頭の中では何も考えまいと思い、自分の体に自由を与え、女将の体を求めた。女将もまた辰夫と同じように自分自身に自由を与えたのである。
二人は開放された空間の中に入り込んだ。そこでは、自由で何の蟠り(わだかまり)もなく、快楽を求め自由に振舞った。自分でも気づかないうちに、人なら誰でもが求めるものをいつからか心の奥に閉じ込めた二人であった。閉じ込めたものを互いに見つけた時から二人は引き合っていたのである。
今の二人には、先が見えなくなってしまった。
辰夫は、体の自由を手にして、快楽の束縛にあっていた。女将は辰夫の求めにいつも応じ、二人は密かに体を交わっていた。辰夫は、いつのまにか小夏のことを忘れてしまっていた。あの日から小夏が琴屋に来なくなったこともさほど気になることなく過ごしていたが、職人の間から、小夏が須磨村に帰ったことを聞かされ、「帰ったのか」と思う程度でそれ以上の感情移入はなかった。それと同時に管六への接しかたもいつのまにか横柄なところが出てきていた。辰夫は、琴屋の女将との距離が近づくことで自分の立場が変わったように思ってしまっているのである。辰夫はふとした所でそんな自分に気づき、態度を改めようとするのであるが、何処かずるずるいってしまうところがあった。周囲と辰夫との距離も管六と同じように、女将との距離が近づくことに反比例し、遠くなっているように思えた。辰夫自身分っているが、快楽の束縛の延長線上にあり、その呪縛の沼でもがき始めている。
辰夫にとって作業後の夕方、海でのセーリングは、終わった後の女将との情事が目的になりつつあり、後一歩でウィンドサーフィンの完成が停滞している。
秋も深まった11月、藤戸海峡を挟んで児島に平家の船が集結している。源範頼は、大軍を率いて、福原に陣を構えていた。福原には関東からの兵糧も届き西へ向かう準備が出来ていた。
寿永年間の飢饉は西国一体のものでこの備前も例外ではない。この地に軍を進めることは民の苦しみを増幅するもので、特に農民の負担は多きい。
琴屋においても、源氏の注文の軍船五隻と佐藤継信の頼みの源義経のための軍船は引渡しが終わっており、平家の押寄せは琴屋を不安に陥れた。辰夫にしてみても源氏が勝つことは分かっていても、その前に琴屋が平家に襲われてしまえばおしまいである。辰夫は藤戸の戦いまで頭になかった。
そんな中、一隻の船が琴屋の船着場に着いた。鎧兜はしていないが、明らかに平家の武将と分かる身なりであった。鎧直垂を着た武将が三人琴屋の門を潜った。
「呉美はおるか。」と門前で大きな声がした。呉美は女将の名である。女将は安心したように、「斎藤様で」と言って直ぐに玄関に向かった。
「斎藤様お久しぶりで御座います。平家の御武家さんが児島に沢山お集まりになっておられるのは耳にしていましたが、まさか斎藤様が居られるとは、思いも寄りませんでした。てっきり屋島の方に居られると。」と女将が言いと、斎藤は、急いでいるのか直ぐに本題を話し出した。
「呉美、悪いが至急船を一隻修理してもらいたい。嫌とは言わぬよの。もうすでにこちらに向かっておる。源範頼は福原に居るが、我らが児島に集結していること、もう伝わっているはず。直ぐにでもこちらに向かうはず。それまでに直して欲しいのじゃ」
「船の具合にも寄りますが、勿論、お引受け致します。期日は見てからでよろしいか。」
「だめじゃ、源氏が来るまでにせよ」
「分かりました。その期限で沈まぬ船を」
「沈まぬ船か、相変わらず強い物言いよ、それで頼む。」
琴屋に出入りするものは、大なり小なり琴屋の自信に満ちた仕事に敬意を持っており、それに対し礼を知った対応をしている。
この斎藤も平家一門の誰かの臣下であろうが、平家の体質か鷹揚として琴屋が源氏の船を造っていようがいまいが気にすることなく話を持ってきている。どちらにしても平家の船の修理が必要なわけであるから目的さえ達することが出来ればとの考えが優先されている。
琴屋にすれば平家の船を修理することは、源氏との約束である「平家に船は作らない」が修理までしないとは約束していない。
源氏との約束には背いているわけではない。
そんな言い訳が通用するかどうかだが、一応理屈は合っている。
辰夫や職人達は、気が気でなく作業の手を止めて事の成り行きを母屋で覗くように見ていた。辰夫にしても女将にもしものことがあればとの思いもあり、職人と同じように母屋を覗いていた。女中の者から笑い声が聞こえているとの話しを聞きそれなりに安堵した職人は作業場へと引き返した。辰夫は何故か引き返せず、平家の使いの者の顔の一つも見ることが出来ないか母屋に残ったままであった。
斎藤達が引き上げようとする時、辰夫はわざと玄関に出て跪き履物を揃え、平家の使いの三人の武将の顔を見つめた。顔を見られているように感じた斎藤に付いて来た一人の者が、「その者、我等の顔をそうじっと見てどうした。下足の者にしては無礼な振るまい。」と言った。慌てたのは女将で、直ぐ様「不慣れな者、何もわからずにいるもの御勘弁を」との女将の言葉に、斎藤が「躾ておけ」と一言言って治まったかに思えた。
じっと下を向いていた辰夫は、武将の中に知る者が居なかったが春一の事が知りたくて、知りたくてたまらなくなり、声を出してしまった。「申し訳御座いません。一つお尋ねします。御知合いのお仲間の中で秦様は居られないか確かめました。もし近くに来られて居られるのであれば、ぜひ引き合せて頂きたくお願い致します。」と言って額を地べたに擦りつけんばかりに声を出した。
「お主、秦様の知合いか、」
「秦様には覚えて頂いているか分かりませんが、私は、お世話になった者で御座います。秦様には、私が宗の船に乗遅れた親子連れの一人と言っていただければ恐らく思い出していただけると思います。」とそれ以上の詳しい話しは言わなかった。
斎藤が「分かった。秦様に合えば伝えておこう。」と言っている横で、二人の武士が顔を見合わせて訝しげにしているのが伺えた。
辰夫は、秦嘉平が近くに居るように思えた。三人の武将は秦の名を聞いてそれなりに反応しているようであったからである。
辰夫は、秦嘉平の名を口に出し、願い出てから、下を向き、顔を伏せながら涙を流していた。春一のことが頭の中心にきたのである。忘れてはいなかったが、いつのまにか琴屋で過ごし、女将を思う。そんな中で少しずつ春一のことが頭の中心からずれていたようであった。春一を助け出す手段としてのウィンドサーフィンであるのに、いつのまにか女将との密会の道具のようになっていた。そんな自分が寂しく情けなく、いつも春一のことを思い、込上げてくる涙とは異なり、悔し涙となっていたのである。
斎藤達武将は、辰夫の涙に気づかず出ていったが、玄関でいつまでも手を突き、涙を流している姿を見て、職人頭の吉良は胸を打たれていたが、女将は、違った。女将は、辰夫が遠くに離れていくことに気づいたのである。ただ、辰夫の涙を流す姿に何処か安堵を感じる自分があったがそれ以上に辰夫と離れたくない自分も感じたのである。心の何処かで「辰夫を秦嘉平という男に合わせたくない」との邪気を孕んだ心が持ちあがっていた。
女将は、斎藤達武将が玄関を出ていくのを見送る容で門の方へ先回りした。斎藤は、門の所に見送りに出ている女将を誘い少し歩いた。
「あの男は、何者じゃ」
「はい、須磨福祥寺の住職様の紹介でうちへ船造りの修行に来ている者です。」
「秦様と言えば、今は亡き薩摩守平忠度様の後家来、福原の戦の後大納言平時忠様が是非にとの誘いで。平家の家中において剛の者としてだけでなく、頭の切れる御仁として名を馳せておられる。そのような方を知っていることが、しかも会わせろとはのう。」
「その、秦様はこちらに来られて居られるのですか」
「修理をする船でこちらに向かっておる。船戦は余り慣れておられないとのことで、屋島からこの牛転までの間、船旅である。船に慣れるために乗って来られている。ほっておいても差し支えないと思うが、秦様に後から叱られることもあるのではと危惧するもの。知らせるものかどうか」
「そのようなおきづかい、心配なされることは御座いません。あの男、ただの職人、お気に止めなさることは御座いません。」と、暗に秦には知らせることはないと言った。
「我々は児島におる。秦様が児島に寄られるかどうかも分からぬ。どちらにしても秦様の乗ってこられる船は一両日中にここに着くであろう。頼むぞ」
「分かりました。」
女将は、自分の中の邪気を抑えきれないでいた。それは、辰夫と秦様を会わすまいと考えていたことである。
女将は、店に戻ると直ぐに辰夫を呼び、使いを頼んだ。須磨福祥寺への使いである。女将の考えは、単純で須磨までの往復は少なくとも四日はかかる。秦様が来て船の修理に十日かかるとすれば、秦は、一旦児島に向かうであろう。そうすれば、修理が終えた船を琴屋で児島へ届ければ、辰夫と秦は会うことがないと考えたのである。単純ではあるが確実でもある。
辰夫は、急な使いに訝しげに思ったが、船の修理に辰夫の労力は余り必要としないのは確かである。急な仕事が入って来たからかとも考えたが、平家の船が入って来ることで「春一のことが聞けるかも知れない」との思いがある。琴屋で世話になっている以上やはりしかたがないことと諦めざるを得ないのは事実であるので、従った。
女将から預けられた手紙の内容は、分からないが三日で帰って来ようとの思いがあった。女将は急な用と言いながら、「ゆっくり行っていい」と言うのである。夕方ではあったが、辰夫はその日のうちに出ていった。「秋の日は釣瓶落とし」とはよく言うもので、「女将や店の者が直ぐに暗くなるから明日の朝、出立するよう」と止めるのも聞かず辰夫は、須磨に向かった。山陽道の夜道は一人になるが三草山から一の谷への夜行に比べ比較的歩き易い。辰夫自身さほど不安に感じなかった。
山陽道に出る途中、管六の居る牛窓天満宮に立ち寄った。今の辰夫の頭の中は、春一のことで一杯、そうなると管六の顔が無性に見たくなったのである。自分でも何故かわからない。ただ管六だけが何でも話せるのである。
管六は天満宮に入っていく参道の集落に住んでいる。辰夫の突然の訪問にびっくりしたようであるが、喜んでくれた。辰夫は玄関で自分の用事のことを管六に話し直ぐに立った。立ち際、管六が「それを言いに来たのか」と訪ねると辰夫は「管六さんの顔が無性に見たくなり来ました。」と言って笑って須磨に向かった。
辰夫は、今気づいた。何故管六を訪ねたのか。自分がこの時代に来てまだ、十月ほどである。その自分が、訪ねる家がある。友がいる。それが確かめたく、それが嬉しくて訪ねたのである。女将との事があって見失ってしまったものを一つずつ取戻したように思った。
日が沈み上弦の月が山陽道を照らす中、辰夫は、口ずさみながら歩いた。右手には瀬戸の海が広がっているのだろう。漆黒の空間がそこに広がっている。須磨までの一本道であり迷うことはないだろうが、考えてみれば始めての一人歩き、強くなった自分を感じた。
何の不安もない。行きつくところは決まっている。ほんの少し寄り道したが今は立っている道は間違っていない。急げば何かいいことがありそうなそんな予感の山陽道、辰夫は歩いた。口ずさみながら。
ここから続く道
それぞれの家の前では小さな花壇、
ささやかな花には気づかず通り過ぎる
歩きなれていた道
いつもの道
今日、生まれるお前に
会いに行くよ
扉を開けると白い世界
昨夜からの空の仕業
足跡をつけるのは
自分に何の自信がないから
行き交う人を避ける
お前だけは、お前だけは、
何かつかんでほしい
お前もきっと言うだろう
「親父みたいにならない」
俺は何も言えないんだろ
弱さが正しいと逃げて
いつかお前は、家から続く道を出て行くだろう
戻ることはなく
そう、人生の道と同じ、戻ることなく
夕焼けはいつもよりまぶしく
自分だけを照らしているように
この道のように、いつも迷うことなく、
迷わないと信じてた
辰夫は、徐々にではあるが、歩きながら全身に興奮を覚えていた。少しずつアドレナリンの分泌が増え、こんな暗がりの道を興奮して歩いている自分が不思議であった。夜道の不安や恐怖は全くなかった。何か久しぶりに大声を出して歌を歌ったように思える。そう言えば、大声を出すことは最近なかったように思う。自分が思い出す歌を古い順から一曲ずつ大声で歌い歩く。学生の頃覚えたアコースティックギター、無性に懐かしく弾きたくなった。ただ、今思うことを現す歌がないのが残念で、一人詩を作り、曲を着け歌い出した。誰も聞いていない、誰も見ていない。自由に春一のことを思い、涙を流しながら、歌う。ずっと、ずっとそうして歩きつづけた。
お前が、生まれたとき、
私は何を考えていた
辰夫は、次の日の夜に福祥寺に着き、福祥寺で一晩体を休め帰路についた。福祥寺での辰夫は、腰が浮いた状態で落ち着いていない。用事さえすませれば直ぐに引き返すことを考えており、身体さえ許せば直ぐに引き返したいぐらいであった。いかんせん身体は許してくれず、一晩休めることにしたが、寺であることが幸いして、朝早く須磨を出立することが出来た。
用事の内容は詮索することなく、早く帰路に付くことのみを考えていた。女将の思惑など全く考えもしなかった。
辰夫が三木辺りに差し掛かったとき、見なれた顔があった。管六である。
意外なところで合ったことは確かであるが、それ以上に「一人旅であったことから」気持ちが「一人」を嫌がっていたところであったことから心の底で喜びを感じた。
顔では何か表現しなければと思いながら手を上げて「やあー」と一言言って、「管六さん、須磨に戻られるのですか、私は牛転へ帰るところです。」と自分の期待と逆のことを確かめるように声を掛けた。
管六は、自分も須磨村に行って牛転へ帰るところである。と答え、二人は何も言わず牛転へ山陽道を下り出した。お互いに一緒に歩き出したことを快く感じているのは確かであるが、口に出さないのも同じであった。ただ牛転までは、何故か心持ちの良い旅になった。
琴屋では、平家の船が作業場に入っていた。斎藤が話した通り平家の船には秦嘉平が乗ってきていた。女将は船の損傷具合を確かめ修理に要する日数を秦に言い、秦嘉平の反応を見た。
「女将、修理に半月と言うか、どうも中途半端な、行き帰りを考えれば一月近くなる。そんなに長く屋島を留守には出来ぬ。児島から迎の船が来れば私は屋島に戻る。この船を引き取りに来るのは他の者になるが宜しく頼む。」
「分かりました。それで秦様は、今日はどうなされますか。」
「元々備前は清盛様が守護職を命ぜられていた土地、と言っても今は源氏の支配下、大手を振って歩くことも叶わぬ。早々に引上げたいが、迎えの船待ちになるがな」
女将、児島まででしたら、当家の船でお送り致しますが、いかが致しましょう。」
「それには及ばぬ。迎の船が来るまで待たせてもらう。」
「はい、分かりました。」と言って、秦を奥に案内したが、辰夫が出て言ってから三日目、女将は「まさかこんなに早く帰って来ないだろ」との思いがあり気が気ではなかった。女将は秦嘉平の接待のため秦に夕の膳の用意をした。
「屋島には早く戻らねばならぬ。ここでは気が落ち着かぬは、」
「秦様は大納言平時忠様の御家臣と言うことを斎藤様からお伺い致しております。御忙しいお身体、お急ぎのことと思いますが、今日はゆっくりと御寛ぎ下さい」
「忙しくはないが、気になることがあっての、無骨者であるがどうも最近幼子に弱い。歳は十二にもなるが、心が幼い子を世話しておる。今の時代に似つかわしくない子供でな。その子から見る大人は、皆同じ高さ、に見えるらしい。そこが危なっかしく思えての。」
「秦様のお子様で」
「いや、わしの子ではない。ただ時を同じにすると情が移る。その子が慕う者もいる。幼いが心の強い子じゃ。信じておるのよ、その者が迎えに来るのを。」
女将は、気づいた。秦嘉平が言う子は、辰夫が助けだそうとしている子「春一」であることを。そして、奇妙なことを思いついた。
「秦様、そのお子様、平家の世が来るまで、暫くこの琴屋でお預かり致しましょうか、そうすれば秦様も気がねなく戦働きができましょう。」
「そうはいかぬ。今は平家にとって大事な子、何処へも連れ出すことなど叶うものか。その子は、幼子のように幼稚なくせに強い性格をしておる。泣き言を言わぬ。何かを信じて待っているのであろう。一度、夜に一人泣いているのを見た。我慢をしておるのもわかる。不憫には思うが今の平家には必要な者じゃからな。特に幼帝、」と言って言葉をを止めた。「少し酒が入ったか、要らぬ話じゃった。」
女将は、秦嘉平の話しから子供を思い浮かべていた。辰夫が自分から離れ、遠くへ行くのを恐れた。そのため秦嘉平に会わすまいと仕組み辰夫を遠くへ追いやった。そんな自分を肯定するものは何もない。醜い己が秦嘉平の前に座っている。こんな無骨な武者すら子供に愛情を持ち、心痛めている。それなのに自分はどうか、
女将は、辰夫が帰ってくるのを恐れて、もし帰ってきたら隠そうとまで考えていた。今、心揺らぎだした。心の隅で後悔が疼きだし、「帰って来ても良いと、いや、辰夫を待っている。帰って来い」と思い出した。
それでも秦嘉平には、辰夫の話は言えない自分がそこに居るのである。
女将は寝られぬ夜を迎えた。自分の醜い心と辰夫の息子である子、辰夫を信じて待っている子供の心とを考え、いつのまにか涙で枕を濡らし出していた。外は、風が強く吹き出し雨音まで混じり出している。女将は辰夫の今を思い描いていた。
風の音が門を叩きざわめく。その音は何かを訴えているように感じた。そうして夜をその音と共に過ごすこととなった。
いつのまにか眠りに入った。気を失っていたのが、意識を取戻したみたいに目が覚めた。
女将は、空の明るさが確認できるぎりぎりの夜明け、昨夜の風音が気になり、玄関の方へ向かった。誰もが眠りの中に入ったままで、店や母屋には人の気配が全くない。そんな中一人歩いて見て、昼間の違った空間を感じた。見るものが同じでも見る時間、見る心が変われば、これほど違ったものに見えるのかと思った。
そんな心のまま女将は、玄関から門に向かった。門は閉じられていたため横の潜り戸の閂を外し、門の外に出た。
女将は何か予感していたのか、門にもたれて眠っている辰夫を見ても驚かなかった。
そして、辰夫の心を見るようで涙を流して一人呟いた。「間に合いましたよ。誰もあなたを止めたりしません。心配しないで下さい。こんなに急いで帰ってきて、あなたを必要としている人は私ではないことは確かなことですね。」
その後辰夫の顔をじっと見て、辰夫の顔が始めてあった時と同じ顔をしていることで女将自身も元の顔に戻れた。
辰夫は、秦嘉平に会い春一のことを聞いた。今も無事で元気にしていることを確かめることが出来た。辰夫は秦がそれ以上言わないことは分かっていた。ただ春一が無事で元気でいることが分かれば今はそれで良かった。
むしろ、秦の方が話し言葉を止めて、何か心が詰まるような思いで話し終えてしまっていた。
辰夫はその日から以前にもまして昼間は働き、夕には寒さの中ウィンドサーフィンをしていた。二隻のボードを完成させ、一隻は訓練用として使っていた。
児島に集まっていた平家衆は、年も押し詰まった十二月に世に言う「藤戸の戦い」で敗れ屋島に引き返した。
辰夫は、屋島に引き返した平家を確認して、女将に船で送ってくれるように願い出た。
女将も頭の吉良も辰夫のここ数日の動きで感じていたようであった。
頭は、「もうそろそろかと思っていたよ。」と一言呟き、「屋島だね」と言った。
辰夫は「長門の国です」と言い、女将と頭を驚かした。
女将は、納得がいかない顔で辰夫に聞いた。
「なんでだい、平家の衆は、屋島に集まっておられる。息子さんの春一さんも屋島じゃないのかい」
辰夫は、「今は、屋島ですが平家が次に行くところは長門の彦島です。」
「何故、そんなことが分かるのかい。確かに彦島は以前平家の皆さんが木曽様に追われ京を出られたあと、彦島に軍を構えられたことはあったようだけど、」
「以前、土肥実平様に会いに行くとき、何れ源氏の世になります。と言いました。それは偶然ではなく、事実です。何故分かるかは言えませんが、自信を持って話せます。自分の息子を助けるための行動です。いいかげんなことは言っていません。お願いです。私と私の作った船を長門まで送ってもらえませんか。」
「分かったよ。吉良さん行ってくれるかい」
「分かりました。それで何時だい」
「出来るだけ早くお願いします。長門までの陸地は、源範頼様が軍を進めて源氏に逆らうことはまずないように思います。源範頼様の書付もまだ効果があるように思いますので」
「分かった。松の内が明けたら直ぐにでも出てやろう」
「有難う御座います。」
女将は途中から話に寄れなくなっていた。辰夫との別れを意味するもの、辰夫を待ちうける危険も、女将は正視することが出来ないからである。女将は堪えきれずその場を離れてしまった。頭の吉良は女将の心がわかっていた。分かっていてもどうする事も出来ないことである。
辰夫自身は、わだかまりがないわけではないが、今は壇ノ浦へ向かうことに気持ちが集中していた。
辰夫はその日から、ここでの最後の仕上げを始めた。
管六への別れは辰夫にとって何よりも重要なことで、まず、管六に会いに行った。
すると管六の家には、須磨から小夏が来ていた。
3人で三郎の居る源氏の本拠地に行くことは、福原を出るときからの決め事である。
小夏は、三郎に会えるかもしれないと辰夫と一緒に長門に向かうと言うのである。管六も気づいていたのか、いつのまにか小夏を呼んでいたのである。辰夫は少し拍子抜けをしたが、今度の源平の戦は海の上、陸地でいる分、危険はないと考え了承した。小夏にしてみれば別に辰夫に了承してもらわなくてもかまわないのであるが、いつの間にか家族のような感覚で受け止めていた。
忙しく旅支度をする辰夫を女将はじっと待っていた。最後の別れを辰夫が言いに来るのを待っているのである。皆と一緒の別れの挨拶をされるのは寂しい想いである。
辰夫の出発は、正月十六日の明けである。七日の松の内が明け、一週間伸びた。しめ飾りが取り外され、琴屋にも日常が戻ってきてからとのことにである。
辰夫は、屋島の戦いが始まる前に出発しておきたいと考えていて、辰夫の記憶では二月頃であったと思っている。確かな記憶でなかった。辰夫は、出発となって気が逸っていて女将への配慮が欠けていた。頭の吉良がその辺のところも考えてのことかどうか、辰夫が言っていた松の内が明けて直ぐ小正月まで伸ばし辰夫自身に余裕を持たせたのである。辰夫にとって吉良の心遣いは、直ぐ分かった。辰夫と女将のことを見透かされ、心恥ずかしく思ったが出発が一週間伸びたことで琴屋で世話になった職人への感謝の気持ちは、伝えられた。
勿論、職人たちには、旅立ちと言って良いのか、分れの宴を盛大に開いてくれた。辰夫にしてみれば珍しく酔いつぶれるほど酒を浴びたつもりだが、女将の姿が視野に入ると体に緊張がはしった。
辰夫は職人への礼といっても言葉以外に置いていくものがないので精一杯の言葉で礼を言った。
辰夫自信自分の身勝手さは分かっている。だからこそ本当のことを話したかった。
女将へは、辰夫がボード造りをしている合間に木彫りで作った飛行機の模型を渡すことにした。辰夫の世界の中で文明の力の象徴のような物体で、別段女将に渡すために作っていたものでないが、辰夫自身急に自分の物を何か渡したくなって、見渡して自分の物は何も無く、あるのは自分が彫った木彫りの飛行機だけであったからである。
辰夫は久しぶりに夕闇の瀬戸の海を見に海岸に出た。一人で「やることはやった」と呟き、これから向かう西の方をじっと眺めていると、人影を感じた。直ぐに女将さんであることが分かった。
「女将さん、長い間有難う御座いました。西に向かって春一を助けに行きます。女将さんから見て私はさほど代わり映えしない男に見えるかもしれませんが自分では強くなったつもりです。女将さんに会うもっと前の私は、人生を悟って自分の位置を決めその場所から見上げたり見下ろしたりしていました。自分を弱く見せ、多くの者と同じように、虫も殺さぬ臆病者で、悪いことができない人間を装ったり、弱い人の前では強くも無いのに自分を強く見せ、「やさしい人」を気取ったりしていました。本当に何かをしなければならないという(本当の必要)がなかったからかもしれませんが、たとえあったとしても今のように心が強く居られるようには思いません。管六さんや女将さん、頭や店の職人さんたちのおかげだと思っています。・・・・・・・・・・すみません、こんな話をしまして、何か話さなければと思い。女将さんのこととても綺麗で好きでした。一時、春一のことを忘れてしまいそうになるほど好きになったように思います。すみませんでした。一番女将さんを傷つけてしまったと思っています。これ、私が作った飛行機の模型です。貰っていただけますか。」
「辰朝さん、私は謝らないよ、春一という子供助けたあと、行く所がなかったら戻っておいで、待ってるよ。私もあんたが好きさ、頼りないのにどこかすごい。男のすごさじゃない。人間のすごさを感じるよ。そんな辰朝さんに惚れたみたいだからね。だからあんたが悪いのさ。でも、居なくなるのは寂しいね。私も畜生に落ちてしまいそうになったのだけどね。辰朝さんが門の前で寝ている姿を見て人間に留まれたよ。人の心はすごいね、言葉が要らないんだ。」
「生きていられたとしても、戻ってこないつもりです。」
辰夫は、今どの計画は命がけだと分かっている。
それに、行くところはひとつと分かっていた。
「わかっているよ。言ってみただけだから、それ以上念を押さなくていいよ。それより、この木彫りの人形不思議な形だね。」
女将は悲しくなるのを抑えるために話を逸らした。辰夫も分かったので話を作り出した。
「昔、今から千年先の夢を見たことがあるんです。そのときの乗り物で何時までも忘れられないんです。飛行機という乗り物で空を飛ぶものです。その時代は、人の殺し合いの戦はありませんが、また違った形の戦はありましたが」
「へー空飛ぶ乗り物ね。辰朝さんが言うとほんとに千年先から来た見たいだね。」
その後、二人は話を続けながら互いの顔を見ることが出来ずに居た。泣き顔を見ぬ振りをしながら互いに気づいて居て、暗闇が来るのを待っていた。一面の星明りは互いの頬の滴を光らすのに十分であったが気づかずにいることで互いのやさしさを見つめ合っていた。