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もう一つの平家物語  作者: 鷲谷 隆
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第七 一の谷の別れ

第七 一の谷の別れ


三郎達三人は、丹波から寺坂村に抜ける街道を歩いていた。夜道であるが月明かり、星明りがこれほどのものとは辰夫は知らなかった。管六の話では、この道は丹波から明石へ行く本街道で恐らく平家や源氏もこの道を通って来るだろうと話していた。

この道は、十倉の山村辺りまで高原になって起伏もあまりなく、夜道でも歩き易いとのことであった。「十倉から寺坂村へ抜ける切詰峠が難所で夜道では道を知っている者でなければ崖から落っこちるぞ」と脅していた。夜道であるが夜中には寺坂村の金心寺に着くことが出来るだろうとのことで、三人は、冬の寒さの中ゆっくりではあるが歩いた。身体を動かしての山歩きは適度に身体を温めてくれるので苦痛ではなかった。

寺坂村は、今で言う三田市辺りで三草山から山陽道へ抜ける街道の中では三木の街に次いで大きな村で金心寺を中心に出来た寺内町を形成しており、そういったことから当時は寺坂村と言われていた。

三郎は、寺坂村に着けば金心寺ある。その金心寺の境内で一休みすることが出来ると言っていた。

辰夫は三郎に「この街道を歩いていれば平家や源氏の兵に出くわすことはないか」と不安そうに尋ねた。辰夫にしてみれば管六の方が自分より「石橋を叩いて渡る」タイプであるのにメイン街道を堂々と歩いて行くのはどうしたことかと思ったのである。

三郎が言うには、こんな夜道いくら月明かりがあるといっても山中での歩行は困難であること。街道と言ってもやはり道案内なしでは無理なこと。第一、人が来れば山の中に隠れたらいいことで、絶対に見つからない。と言った。

確かに、街道は薄明かりでも何とか歩けるが、一人で歩けと言われれば自分には無理だと辰夫は思った。ただ、管六や三郎はいつでも山の中に隠れることができる自信があるのであろう。この山中での行動には絶対の自身があり、どんな状況でもどうにでも出来ることがメイン街道を歩かしている。

辰夫もいつのまにかこの山男二人と同行していることで安心感をもって歩き出していた。

辰夫は、これほど景色が変わらない歩きは始めてで、考えてみれば目の前以外は真っ暗で遠くでは山の稜線が微かに確認できる程度である。その稜線もあまり変化がなく、知らないものであったら、同じ処をぐるぐる歩き回っているような錯覚を起こしてしまいそうである。

辰夫は管六に景色のことやたまに響く獣の鳴き声、木々のざわめきの音のことの話しを聞いたり、自分からは満点の星空を見ては説明しきれない説明を話してみたりと所々で話しをしていたが、三郎はずっと黙ったままであった。

切詰峠を越えた辺りで三郎が口を開いた。

「俺は、武士になる。今まで兄の後ろについて来ていただけだが、決めたぞ俺は武士になる」

管六が「急にどうしたんだ」と問いただした。

三郎は、話し出した。

「歩きもってずっと考えていた。俺は、兄の一郎に付いて来た。元々俺は管六と同じ安田庄の出だ、管六の妹、小夏も当然同じだ、安田庄は、平家に従わなかった村だから庄屋の家の者としては鷲尾家に出されても仕方がない。兄弟と言うことで入ったが奉公人と変わりねえ扱いで過ごしてきた。今まで小夏が心配でじっと我慢もしてきた。でも、福原の街に出て俺も時代を感じ、男として何かやりたくなってきた。小夏のことは相手が辰朝さんだから今は心配しなくていい。辰朝さんを信じて一郎を裏切ってここまで逃げてきたのは、別に辰朝さんを信じて付いて来たわけじゃない。一郎と分かれるきっかけが今までなかった。きっと待っていたのじゃないかと自分でも思っている。だからあっさり平家の殿しんがりの仕事をほっぽり出して付いてこられた。はっきり言って辰朝さんの言った「平家が負けて、加担した鷲尾村が危ないとか自分が源氏に必要とされている。」ということは全く信じてねえ、だけどあそこに居たくなかったことは事実だ。あそこに居ても一郎にこき使われるだけだからな。俺は決めた、源氏の兵になる。今更平家に戻れない、下っ端でも何でもいい、源氏に入って一旗上げて見せる。」

辰夫は、三郎が源氏に加担することに決めたことは良しとしても、自分に小夏さんを任せるようなことを言われても困ると思った。しかし、いまはそんなことを言っている時ではないし、取合えず三郎が源義経に鵯越の場所を案内することである。

管六が寺坂村までもう少しだと言った。辰夫にしてみれば「よくこんな真っ暗で景色に変化がない山の中で、居る場所がわかるな」と感心していた。

寺坂村に入る少し手前のお堂に身を隠した。管六は何も言わず出かけたが直ぐに戻って来た。何やら食料と薦(荒く織ったむしろ)三枚を調達してきた。三郎が熾した火で大根雑炊を作り出した。見なれた段取りであるが、辰夫は「これがアウトドアーの極意か」と感心して見ていた。

村外れのお堂で食事を済ませた後、直ぐに管六は動き出した。

辰夫は、「もう少し休みませんか」と遠慮がちに言った。辰夫自身、二人が自分のせいで隠れるようにして、ここに来ていることは分かっているし、これから先の不安なことも元はといえば自分のせいである。

管六は、「休みますよ、この先村に入ると金心寺という大きなお寺があって、そこならゆっくり休める」といってさっさと歩き出した

少し歩くと、確かに大きな山寺が見えてきた。暗いので影だけだが、こんな山の中にと思うほどであった。

管六は、始めから決めていたように幾つかある建物の一つを目指して歩いて行った。

「この建物は誰も来ないからゆっくり休める。まあ入った所にある本堂とその横の建物以外は使ってないようだがな」と管六は言った。

昔は栄華を誇った寺院であったようだが今は、寂れてしまっている。

いつのまにか月明かりがなくなっていた。なのに山の稜線がわかる。きっとほんの少し照らすものがあるのだろう。何所をどう照らしているのか辰夫には分からないが、雪の結晶が小さく輝き、暗闇の中の寺は、暗闇に漆黒の美しいシルエットを映し、時間だけでなく、何もかも忘れさせる。

ふと時の動きに気づくと目の前のシルエットだけが栄華の時を残している。

辰夫は、その寺が陽の明かりのもとにさらけ出されたらきっと正反対のものが目に映るのであろうと思った。

三人が建物内に入ろうとした時である、馬の蹄の音が微かに聞こえたのである。

三人は立ち止って耳を凝らした。その音は次第に大きくなり、こちらに向かっているのがはっきり分かった。一頭や二頭の数ではない、明らかに十数頭の数である。馬の蹄の音に混じって人の歩く音と甲冑のカチャカチャ鳴る音も聞こえた。

兵である。源氏か平家かどちらかは分からないが、こんな夜中に歩いているなんて普通では考えられない。追っているのか、逃げているのかどちらにしても辰夫達にとって危険なことには変わりないと考えて間違いない。

三郎は直ぐに建物内ではなく縁の下へもぐり込み、「こっちへ来い」と管六と辰夫を呼んだ。

管六は、山の中ではなく村の中で兵に会うとは考えていなかったようで、足がすくんで直ぐに動こうとしなかったが、三郎が戻り管六の手を引っ張り込んで縁の下にもぐり込んだ。それに辰夫も従うように付いていった。

縁の下にもぐり込んで反対側へ逃げようと管六がしたのを三郎が管六の袖を持ち、「ここで暫く様子を見よう」と言った。

管六は、離れぎみに下がったが、気づかれるのをきらい、声を出さないのか、怖くて出せないのか黙ったまま息を凝らしていた。

三郎は、意外と冷静で余裕を持って兵が来るのを待っていた。

不安な空気と共に空を薄雲が覆った。

「月明かりも今はない。この暗闇である。いざとなれば金心寺の裏手の山に逃込めばいい」と言った。

確かにそうである。村の中といっても周囲は山に囲まれたところである。辰夫ならいざ知らず、管六や三郎であれば顔を見られず逃げとおすことも出きる。辰夫は少し不安に思うところもあったが何とかなると思った。

三人は、縁の下で薦を身体に巻きつけるようにして様子を伺った。

先頭を歩いている者が、自分達が休もうと考えていた堂に近づき、話し出した。

月明かりもない暗闇で、人影はわかるが顔は全くわからない。そんな中で聞き馴染みのある声が聞こえた。

「この辺りで一休みなさいますか。」

一郎である。

三郎は、思わず「自分を追ってきた」と考えた。「何故道案内の猟師一人を」とも思った。

同じことを辰夫も管六も思っていた。

三人は聞き耳を立てながらじっとしていた。

「ここは、どの辺りになる。」と馬上の武将が一郎に問い掛けた。

一郎は、「寺坂村の金心寺というお寺の境内です。」

「どの辺りかと聞いておる。それでは分からぬ。」と供に付いていた武将が言うと。

一郎は「三草山と有馬の真ん中辺りで、この後有馬には行かず、山陽道に入り三木を通って明石川沿いの三木街道を下って須磨へ向かいます。」と説明した。

平資盛は「平内兵衛清家は、「戦は我々に任せ先に福原へ帰るよう」といったが戦の戦況が気になる。この場所で暫く陣を置き戦況を知ることは出来ぬものか」と言った。

供の者の一人が一郎に、「ここから福原までどれくらいかかる。」と聞いた

一郎は、「山の者や馬でしたれば、急げば、朝出ると夕には着けると」

供の者が「中将殿(平資盛)、朝までここで陣を置き平内殿から何か連絡が入ればそれによって動くことにしましては、必ず福原へ伝令が走りましょう。ここに居ればそれも分かること」

平資盛は、総大将が戦場を離れてしまったことに対する自責の念に苦しむ一方、ここで留まり本陣を下げただけで離れたのではないとし、自分に対する言い訳を作り少しでも気持ちを軽くできるようにすることを考えていた。

ただ、心の中に宿っている戦に対する恐怖は拭い切れていない。そのためここに留まる時間を少しでも短くしたい気持ちが強く感じているのが、自分でもわかっていたのである。

平有盛と平師盛は今すぐでも福原へ向かいたい気持ちでいっぱいであった。

供の武将から見ても直ぐに分かるほどおどおどした様子である。二人とも子供である以上当然で、刀を抜き自分達へ一斉に襲いかかってくる源氏の兵が近くに居るのではないかと想像してしまった以上気持ちは戻せない。

戦で強い気持ちが途切れてしまっては、もう繋げることは出来ない。気持ちで負けている者は、戦では絶対勝てない。

そのことを大将である資盛はまだ分からず、この場所に少しでも留まり、言い訳を作ることを考えていた。

結局その言い訳作りのためにこの場所に朝まで留まり、状況がわかり次第作戦を考えることにした。と言うより直ぐに福原に向かうことにしていた。

「兄じゃ、どうしてここに留まるのじゃ」

「この場所で、戦況を見極める。三草山の戦は清平(江見太郎清平)が有利に進めているはずである。まだ本格的な戦は始まっていないと考えて良いかと思う。小野原で火の手が上がって、何処かの山賊がまぎれ込んできただけかもしれない。」

「ここまで、引いたのじゃ、一気に福原まで戻ればいいのでは、」有盛には全く戦う意思はない。

有盛に福原まで早く逃げるように言われた資盛も勿論戦う気がない。

それでも、「黙れ、わしにも考えがある。それに、引いたのではなく本陣を下げただけじゃ、清家が言っておった。」

資盛は、有盛に心を見透かされているようで乱暴な言葉使いとなり、有盛、師盛から少し離れて休んだ。

資盛が少しはなれたところに行ったが師盛と有盛の話し声は聞こえるほどのところである。

師盛も少し落ち着いたのか有盛に話し出した。

「どうなる。ここで戦をするのか、我々と供の者を合わせても五十名足らずじゃ、あまり役に立ちそうにないと思うが、」

「それを言うな、兄じゃも分かっておる。兄じゃは兄じゃで立場もある。わし等は三草山でまだ戦も見ずに本陣を下げた。兄じゃは気にしておる。」有盛は兄のことを少し心配していた。

「ここで戦うのか」

「分からんが、この人数でここで戦うとは思えん。おそらく朝には福原へ向かうと思う」

「福原か、出てきて何日も経っていないのに、福原と聞けば心が高鳴る。私は、春一が乗っている船に乗るぞ。あいつと話していると楽しい、」一番幼いだけあって、師盛はもう他のことに思いを馳せていた。

「何、ニヤニヤしておるのじゃ、思い出しているのか。確かに春一は不思議な奴じゃ。普通なら平家の者と聞くだけで平伏して何も話そうとはしないのにあいつはちょっと違った。あまりに普通で平伏するでもなく、挑戦的でもなく昔からの知合いのように話してくる。何者なのだろう、」

「蹴鞠、兄じゃも楽しんでたではないか、」

「私だけではない、みんなじゃ、清宗、能宗それに平知章もじゃ」

「春一と合ってから数日しか経たぬが、楽しかった。浄海様(平清盛)が居られた時のように戦のない世が来たらな」

「我らがそれを」と言ったあと有盛は、言葉を続けるのを止めた。

二人とも自分達があまりにも非力であることは分かっている。ただ二人の子供が幸せに生きていけることを望んでいるだけなのだ。

縁の下で聞いていた辰夫は、一人涙を流していた。

管六や三郎には顔を伏せ見られずにしていた。暗闇の中、縁の下であったことが幸いしていた。

辰夫自身彼ら平家の武将のこの後の運命は記憶にないが壇ノ浦までの命であることは確かである。暗がりで見る彼らの影や声、それに話の中に出てくる息子、春一のこと。彼らは、平家の若武者であることには間違いない。その彼らの話しで春一の状況についての話しを聞けたことに対する喜びはある。辰夫は、彼らが春一を友のように思ってくれているこの若武者の行く末を思うと他人事ではなく、胸が詰まる思いになる。運命ではあるが、一の谷の戦いは、源氏が勝利しなければならない。その歴史を歴史通りに進める役目を辰夫自身が担っているからである。

辰夫は、このお堂の縁の下の奥の全く光がない暗闇を見つめた。目をいくら見開いても何も見えない。ずっと見つづけていても、いつのまにか目を開けていることすら分からなくなる。自分が上を見ているのか下を見ているのか、真っ暗な空間にぽつんと一人浮いているような感覚になってきて、いつのまにか睡魔が押し寄せてくるようであった。ひょっとするとこのまま眠りに入りまた、何処か他の世界へ一人投げ出されるのではないかと思うほどである。そんな時手探りで三郎を確かめる。今は何故か元の世界へ戻れると思わなかった。眠りから覚めたら、「今までの事が夢であった」と思うことはなかった。いつもそんな目覚めを朝起きるたびに期待して目覚めていたのである。

手探りで確かめられた三郎は、辰夫の背中を触り互いがこの場所に居ることを確かめ合う。彼ら若武者の話しは途切れた。

辰夫は何故平家が負けたか思った。積年の恨みを持って自分から戦をしかけた源氏は、戦に対する心構えが違った。彼ら若武者には戦をする動機がないのである。心から源氏を憎む動機がないのである。木曽義仲に攻められ京を離れたが子供である彼らが憎き敵としての恨みを持って過ごしてきたのではない。だから彼ら若武者は、戦をすることなく三草山から急ぎこの寺坂村の金心寺まで引き上げてきたのである。そして思うことは、子供らしい楽しく過ごした日々のことであるのだろう。そして春一と過ごしたことのようであった。

いつのまにかお堂の周りが静まり返っていた。平家の若衆も供の者も疲れて眠ってしまったようで、そして、辰夫達も同じように縁の下で眠ってしまっていた。


馬の走る蹄の音が大きくまだ、夜が明けぬ暗闇の中を鳴響いた。眠っていた者が一斉に起き金心寺境内はざわめき、平家の武将達は臆病ながらも臨戦体制をとっていた。もちろん縁の下の辰夫達も目を覚まし、聞き耳を立てた。

走ってきたのは、早馬で一頭のみであった。伝令である。早馬は、新三位中将平資盛が居る辰夫達の真上のお堂前に走り寄ってきて直ぐに口上を述べた。

「平内兵衛清家の家臣何某である。平家軍は源氏の夜襲に会い総崩れとなり撤退中である。すぐさま新三位中将平資盛様は、福原へ陣を引くようにとのこと。」

「清家はどう致しておる。」声が上ずらせながらも資盛は清家の家臣に聞き返した。

「遠くの小野原辺りで火の手が上がり、何があったか見に行かそうとしておりました時に源氏の兵の夜襲がありました。江見様が兵を整えて向かえ撃っておりますが夜のこと逃げてしまった兵が多く、平内様とお話なされ一旦兵を引いて立て直すこととなりました。

引くのであれば福原まで戻り兵を整えて行くべしとの事で、伝令で新三位中将資盛様も福原へ引いて頂くようにとのこと」

「分かった、下がって良い」

一郎は、伝令の後ろに控え、伝令が言い終わると直ぐに伝令を掴まえ「わしと一緒に居ったもう一人の猟師で次郎はどうした。」

伝令の言うには次郎は、みなの者の道案内としてこちらに向かっているとのことで、他の猟師達はほとんどが山に逃げてしまっていないとの事である。

一郎としては、自分が誘った鷲ノ谷村の者が心配であったのか、何処か責任を感じていた。

平資盛の集団はあっと言う間に福原に向かった。辰夫達が見ていて、まさに「逃げ足が速い」とは、このことかと思ったほどである。その一部始終を見ていた辰夫達は、漸くして縁の下から出てきた。空は月明かりもなく、どんよりとした雰囲気を感じるようであるが、辰夫達が目で見えているわけではない。あくまでも感じるようなもので、寺の境内の持つ独特な雰囲気がそのように感じさせている。

辰夫達が出てきたからといって何をすると言うわけではない。彼ら自身この金心寺で休息をとりに来たので、そのままここで休んでいればいいわけだがどうも落ち着かないのである。かといって平資盛の後を追う必要もないし、何か急に当てをなくしたような感覚になった。

それは、辰夫だけでなく三郎も管六もであった。三人は、さっきまで平資盛が休んでいたお堂の中へ入って座り込んだ。そこには火を熾した後の火鉢のようなものが残されており、自然とそれを囲むように座った。

「俺達は須磨に向かうのだったな」と管六が確認するように言った。

この先のことは辰夫が、仕切ると言うように「一の谷辺りにいく予定ですが、それまでに源義経の一行の位置を知りたいと思っています。」と言った。

辰夫は、その後の説明を始めた。

「三郎さんも管六さんも知っての通りこれから福原で源氏と平家の戦が始まります。福原では見ての通り平家の勝利を思わせる雰囲気で、恐らく生田の森辺りで両軍の主力が戦うことになると思います。それと同時に平資盛の軍が今福原へ帰って生きました。当然源義経の軍を警戒して明石に兵の準備をします。挟み撃ちにされることを嫌って当然です。この段階では兵の数に余裕がある平家に有利に働きます。こんなことは私でも分かることですし当然源義経も分かっていると思います。ここからが大事なところです。そこで源義経軍の一部というか、本隊というべきか源義経と少数の兵だけ別行動を起こします。平家の一番大事なところに直接攻め込もうと考えるのです。そこが一の谷のお城です。ここに攻め込むためには城の位置と行き方が分からなければなりません。その役目が三郎さんあなたです。」辰夫は一気に話し終えた。

管六は、以前にも同じような話しを辰夫から聞いていたのでさほど驚かなかったが、三郎は違った。驚きと同時に「辰朝」と言う人物が何か得体の知れない人物に見えたのである。辰朝の話しは、明らかに源義経の行動を知って話しているのである。普通義経と通じていての話しであればこんなまどろっこしいことはせずに「義経の味方に付け」だけで言い。これほど遠回りして味方に誘うほど三郎達は大物でもない。なのに長い時間を掛けて義経への軍へと誘っているのである。

三郎は聞いた。「辰朝さんは、何者じゃ。何故義経の作戦を知っているのか、本当は源氏の者か」

辰夫はどう説明しようか迷った。本当のことを言えば恐らく二人とも怒り出すだろう。明らかに二人を馬鹿にしているように思われるからである。今までの三人の信頼関係は完全に崩れる。そう長くはない間の付き合いであるがいつも一緒にいてお互い心は通じ合った。信じあってもいた。それに何よりお互いが男として好きであった。「こんな良い奴とそう会うことはない」と思っている。それでも話の真実は三人の仲を崩してしまう。それは、分かりきっている。

辰夫は真実を言うのは最後の最後にしようと心に決めていた。

「三郎さん、私を始めて見たのは薩摩守平忠度の屋敷でですね。あの時私と一緒に子供が居たのを知っておられますか。」

「知っている。辰朝さんともう一人子供が居たのを、見たこともない格好をしていたから忘れられない」

「あの子供は、私の子供です。私の命より大事な大事な子供です。

辰夫は、春一を思いだし目頭が熱くなるのを感じた。私と息子は、京で安部何某か言う陰明師に言われ二人で福原まで来ました。その者の言うには、「時代の流れが崩れようとしている。今その流れを元通りしなければ明日がなくなる。地獄が訪れるのじゃ、お前の息子も地獄へと落ちる。それを正すことができるのはお前達二人だけである。直ぐに福原に行き三郎と言う人物と義経を会わすのじゃ、さすればお前の息子も地獄に落ちることはなくなるであろう。」と言うのです。私は半信半疑息子とこの福原まで来ました。その者はこの福原での出来事、この山中での出来事を言い当てています。今、息子が囚われの身となり、このままでは陰明師の言うようになり、息子は地獄へと行きます。こんな話しは信じられないかもしれませんが私の息子が平家に囚われている事は事実です。義経が一の谷に向かっているのを私が何故知っているのかと言いますとこの者から聞いた話だからです。」

辰夫はあの発掘現場で会った老婆の話を陰明師に置き換えて話した。陰明師の話しは京都の西陣付近に住んでいる者であれば良く知っている。堀川通元誓願寺に晴明神社があり、よく子供の名前を付けてもらいに行くので知っている。ちなみに辰夫は「春一」という名前を晴明神社で付けてもらっているのである。

話し終えた辰夫は不安であった。辰夫の時代であれば恐らく誰一人として信じない話しである。この時代ではどうか、山神や祟りを信じる時代だからついつい期待を持って黙った。

三郎は口を開いた。

「信じられねえ、でも辰朝さんを信じる。何か言えないことがあるのだろうけど全部嘘じゃないことは分かる。それに俺は武士になると決めた。その源義経の家来になれる話しに乗る。源義経といえば源氏の御曹司じゃないか、俺にとって悪い話でもない。取合えずその陰明師の話しに乗って一の谷へ行こう。」

管六は辰朝の話しを信じる信じないではなく辰夫と三郎の話しの成り行きだけを気にしていたようで、どうやら決着がついたようなので一人安心していた。


外は日が白んで来て薄くではあるが金心寺境内の全体が見えてきた。辰夫は暗がりではさほど大きな寺院とは感じていなかったが、想っていた以上に広い敷地と小ぶりながらも伽藍がある寺院であった。寺院の大きさよりも雪の多さの方が辰夫を驚かした。夜中歩いていたときは、確かに雪が積もっていたことは分かっていたが歩行を困難にするほどのものではなく、気にもならなかったが、こういった空が開けた寺院境内では、一面銀世界に見え、以外に積雪があったことが分かった。恐らく管六が選んで我々に歩かした道は樹木の生い茂る下の道であったのであろう。それによって辰夫が余り積雪を感じず歩くことができた。辰夫にとっては目に見えぬ管六の心遣いに心の中で感謝してしまった。

一旦空が白み出すと明るくなるのは早かった。三人の心は直ぐにここを出て一の谷へと進むことで決まっていた。そして金心寺を出ようとしたときである。鳥がざわめき飛び立つ音に混じって人の声のような馬の蹄の音のような、何かしら人らしき集団が迫ってくる音を感じた。辰夫達三人はまたかとの思いで今度は慌てることなく隠れることができた。

三人は何が来るか大よその予想ができた。「恐らく平資盛の兵であろう」と思っていたのである。三郎と管六は辰朝の話しをおおよそ信じていたのである。辰朝の話しから平資盛の軍は三草山の戦で敗れ敗走することになっている。さっき通った兵は平資盛とその近習達だけで、多くの兵はまだ敗走してきていない。辰朝の言う通り考えて行くと次に通るのは平家の残兵になる。三人は、互いに誰も何の質問も疑問も投げかけず、資盛軍がきたときに隠れた縁の下に隠れた。

辰夫は、自分の予想通りの残兵を期待し、三郎と管六は辰朝の話が真実かどうかを試せていたのである。

金心寺に入ってきたのは予想通り平家の残兵である。その中に次郎の声も混じっていた。三郎と管六は辰朝の話しが真実に限りなく近づいて来たことに驚きと供に気味悪さも同時に感じた。それと次郎の声がしたことにも少しではあるが安堵感も感じていた。

残兵の一行は金心寺でほんの少し休んだだけで直ぐに出発した。早く平資盛の本隊と合流したいとの思いと、後ろから源氏が迫ってくるのではないかとの思いで出発を早めたのである。辰夫達も縁の下で残兵の会話を聞いて彼らが平資盛を追って明石の方へ向かって行くことはおおよそ分かった。

辰夫達は一の谷の方面へ向かう。ただ金心寺のある寺坂村から須磨方面へ向かうのも一の谷の方面へ向かうのも基本的には山陽道に入り三木を通って明石川沿いの三木街道を下っていくのである。ただ最後の明石に入る手前の大歳御祖神社付近で分かれることになる。

道は基本的にはこの一本である。辰夫達三人の徒歩の者であったなら他にも選択肢はあるがこの雪道で多くの馬を乗り合わせての軍行となれば別で、平家であろうと源氏であろうと山陽道から三木街道を通っての道のみである。源義経の少数の軍を見つけるには、大歳御祖神社の手前付近で待っていれば出会うことが出きると考えたのである。

辰夫達は、平家の残兵が行き過ぎてから暫くして寺坂村を離れた。道は管六に任せて三郎と辰夫は付いていくのみであった。

平家の残兵の後を付いていく道は辰夫でも分かり易く、多くの人馬が通った跡は雪が踏みしめられており、張り出た枝が折れ散らばった道である。これなら、素人の辰夫でも平家を追って行けると考えた。三人は、急げば直ぐに平家に追いつき、緩めれば後ろから来ているであろう源氏の兵に追いつかれ出会うことにもなりかねない。その緩急の付け具合を管六が上手く、付かず離れずに歩いていた。そう言う才は管六の持って生まれた物だろうと三郎も感心していた。

辰夫達は、完全に明るくなった空であるが昨日の満点の夜空とは打って変わってどんよりした雲が広がった空の下を歩いた。管六が言うには、「昨晩は、満点の星空に月明かりというものがあったので夜道も歩けたが、今日のような曇り空だったら一歩も歩けなかっただろうな」と話していた。その後「歩いたよな」とか「帰れなかったな」と言った会話が三郎と管六の間で話されていた。三郎と管六の会話はいたってシンプルでお互い何をどう思っているのかわかって話しているようで横を歩いている辰夫にはさっぱり分からないことがある。辰夫に隠し立てをしているような会話ではなく主語がいつも飛んでいて「何が」がないので辰夫には分からないのである。二人より倍ほどの歳をとっている辰夫にとってそれが微笑ましく本当の親友とはこう言ったものかと思っているのである。

この時代の多くの者は字を書くことが出来ないのが普通である。そんな彼らは必ず顔を合わせ言葉で意思を通じ合わせている。そのとき彼らは一つの言葉に色々な物を乗せているのである。言葉の抑揚、顔色、目つきといったもので言葉では足らないものを一緒に伝えている。その延長線上に三郎と管六のような会話が出来あがるのである。

現代で生きてきた辰夫にとって「春一にも一人でいいからこのような友ができ、機械を頼りにした会話ではなく、話すなら顔を見て話したい友を作って欲しい」と考えていた。普通ならこの寒い冬の山中、こんな辰夫にとって薄着(毛皮も着ているので三郎達には普通のようである)でも慣れると意外と寒さを感じない、食事も管六がいるおかげであるが余り不便も感じない、今が自分の居た時代より不便と決め付けることは出来ないように思った。

辰夫は、長い山歩きの中でこれから始まる本格的な戦、一の谷の合戦を一時忘れ一人物思いに耽りながら歩いていた。


峠を越えたところで急に風の匂いが変わった。それは辰夫にも分かったのである。少し潮の香りのようなものを感じ、森の中を通って来た風ではないように感じたのである。管六が「もう直ぐだ。ここから分かれる。」と言い、人が余り通っていない道へ入っていった。

辰夫が、思わず「これ、道ですか」と管六に尋ねるほどの険しい道のようなところに入っていったのである。

「これは道じゃ、獣道だけどな。平家の武将のように足跡だらけで本道を行くわけにも行くめえ、」と軽く知恵者ぶった。

いくら源氏に付くといっても、足跡をはっきり残して歩くことは危険であることに変わりない。さすが猟師、獣相手にいつも戦っているだけのことはあると辰夫は感心した。

暫く茂みを歩くと直ぐに開けた場所に出た。布施の村である。ここは須磨村から近く、管六にとっては庭見たいなもので知合いも多く居るところである。「ここで、休んで源氏の兵を待つ」と管六は言った。ちょうどよい頃合である。日は傾きかげんではあるが夜までにはまだ時間がある。辰夫の足は、もとっくに限界が過ぎていた。三郎も「やっと休める。」と一言言ったので、休みたいと思っていたのはみんな一緒と辰夫も少しだけ安心した。

三郎と辰夫が座り込んでいる間に管六は知合いのところに何か頼み事をしに行った。何をどう段取りしに行ったか分からないが辰夫は、疲れて完全にへたってしまっていた。一旦休むと急に疲れがどっとくるもので、管六に何も聞く気になれず、「管六におんぶに抱っこ状態」であった。

管六が帰ってきて、一軒の家へ案内してくれた。管六の話では、ここの者は戦に出かけ空き家になっているので使ってよいとのことで、三郎と辰夫はこの空き家に案内された。つい最近まで住んでいたようなので、家の中は温かみを感じることが出来た。辰夫は部屋に入り囲炉裏の傍で横になった。いつのまにか囲炉裏に火が入れられ部屋全体が暖かくなるに連れ眠気を誘い辰夫は眠ってしまった。眠るまでは源氏の兵が来るのを見逃すわけにはいかない。余り休んではいられない。ましてや完全に眠ってしまってはいけないと思いながらも意識が朦朧となっていき、眠ってしまった。

辰夫にとっては、久しぶりの暖かい部屋での休息である。今までの疲れが一気に押し寄せてきた。食事すら忘れて眠ってしまったのである。何かこの布施村に着いてから眠るまで、辰夫の記憶から抜け落ちた。その時その時はしっかりしていたのであるが、今はただ熟睡の中に落ちている。

あとの二人の三郎と管六は、日常のことのように、目覚めていた。

日は落ち完全に夜になってしまっても辰夫は起きてこない。三郎と管六は二人してこの眠っている辰夫を眺めていた。不思議な人物である。何がどう不思議なのか、もちろん言っている事は信じ難いことを言っているが、そう言ったことではなく、始めて会った時から同じ日本人であり、同じ人間であるにもかかわらず何処か違う者を感じるのであった。それが、何なのか二人にはわからない。それを考えじっと辰夫を見ている二人であった。

眠りが浅くなったのか、何か視線を感じたのか、辰夫は、急に飛び起きた。何かを感じたのか、誰かにじっと見られているように思って飛び起きた。起きてみると誰かではなく三郎と管六であった。起きて、思わす大きな声で「すみません」と言った。辰夫は自分一人休んでしまったと思ったのである。完全に寝起き状態で今が「何所で」「何時か」全く分からず取合えず一人寝ていたと思ったのである。三郎と管六は思わず噴出し、笑い転げた。それを見て辰夫は少し安心したと同時に腹も立った。

管六が「飯食え、辰朝さの分じゃ」と声を掛けてくれたことで、今を理解し、我に返った。

辰夫は顔を洗って目覚めの頭をすっきりさしてから、話し出した。「私一人休んでしまっていたのですか、」と聞いてみた。

「おらも休んだし管六も休んだ。みんなで休んだから安心せい」

「それでは、源氏の兵は見失っていませんか」

「心配ない、辰朝さんの話通り一の谷へ源氏の兵が向かうのであれば、必ずこの布施の村は通る。土地の者なら他にも行く道を知っとるじゃろうが、関東の者が他に行く道など知るはずがない。それに村の者に侍が来たら知らせてくれと言ってあるので大丈夫じゃ、少々村外れを通っても村の者なら直ぐ分かる。まだ来てねえ」

「私、どれぐらい寝ていました。」

そうだな、二時ほどかな、よく寝てた。」

「すみません、これ、いただきます。」と言って、三郎が差し出したお椀を受取り、目の前の囲炉裏に掛けられた鍋から粥を掬い食べた。辰夫にとってほっこりする一時であった。

辰夫は急に外を歩きたくなった。この布施村に着いてからの記憶が飛んでしまっており、この村がどんな村なのかさっぱり分からない、夜になってしまって外に出ても分かりにくいかも知れないが少しでも見たく思った。

辰夫は三郎を誘い「外に出よう、村を見たい」と言った。三郎も管六同様にこの村を知っている。三郎は、管六を誘わずに二人で表に出た。

寺坂村は、村には寄っていないため、見たのは、金心寺だけであった。三草山の集落は街道沿いに散らばった村落であった。それらに比べ布施村は一所に家々が固まって軒を連ねており、まだ日が落ちたところでもあることから家々に明かりが灯っていた。その明かりだけでも歩くことが出来た。

辰夫と三郎は、月明かりもない曇り空の天気であるため提灯を持って外へ出てきたが村の中心部ではその提灯の明かりもいらないぐらいであった。辰夫は、何か人の住む集落であることが実感できた。辰夫が村の真中を通っている道に出て、村の端まで歩き出した。三郎は辰夫が一人で歩いていくので仕方なく付いてきた。さすがに店や旅篭といったものはなく、家々の明かりはあるものの外に人影を見ることはなかった。辰夫は、家々に明かりがあることと道に人影がないことで安心して歩けるように思ったので、ついつい三郎が着いてきているかを確かめず一人先を歩いた。

村外れまで着た時である。一軒だけ集落から離れた家が見えた。その家にも明かりが灯っていたため辰夫は安心してその辺りまで行って引き返そうと考え歩いていた。

その時である。辰夫は、その離れた家と集落の間に立っていたお堂に何か動く者を感じた。風で何かがゆれただけなのか、それとも獣か何かいるのでは、と背筋が寒く感じそのお堂を通り過ぎた所から何か不安になり、もう少しのところにある家までは行かず直ぐに引き返そうと振り返った。

辰夫は、三郎が一緒に着いてきているものと思っていたのに、振り返って見ると誰もいないのである。集落の明かりが見えるのであるが、今まで直ぐそこだろうと思っていた集落の明かりが遠くに見えるように感じた。辰夫は、三郎も見えない、何か人の暖かさを感じる集落から離れてしまった。背筋が寒く感じるような嫌な気配を感じる。思わず早歩きになり出した時である。三郎の声がしたのである。「辰朝さん」三郎がお堂の影から出てきた。

「三郎よせ」と振向いた辰夫の後ろから声がもうひとつ飛んできた。

辰夫は、「三郎」という名前が不思議な感覚で響いてきたのに戸惑ってしまった。

三郎と言う名を呼ぶ言葉が一塊の音となり辰夫と目の前の辰夫が知っている三郎の身体を通りすぎたのが分かった。

辰夫は、その声に威圧を感じ手に持っていた提灯をその声の主に翳すことは出来なかった。それでも影だけで大男であることが分かった。三郎は恐らく逃げられない状態に置かれている。当然自分も刃を当てられてはいないが向けられているように辰夫は思った。この時代にきて始めて感じる恐怖で、殺されるかも知れないと感じたことは今まで何度かあったが、今回のように、次の瞬間には生きていないかもしれないといったことはなかった。

ほんの一瞬の時であるが静まり返ったその時間の長さは、辰夫を限りなく臆病者にした。辰夫の身体は震えだし足が竦み何の言葉も発することが出来ないまでになっていた。

その大男は振るえきって足が竦んでしまっている辰夫の前を通り過ぎ三郎の前へ出た。辰夫はその男の姿形だけは確かめることは出来たが顔を見ることは出来なかった。その男は僧侶のような格好で腰には刀を差していた。そして影だけではなく実際に辰夫が顔を上げなければならないくらいの大男であった。

大男は三郎に話しかけた。「お前はこの村の者か」

「違う、よその村の者じゃ、それより後ろの男に背中に当たっている物を退かすように言ってくれ」

「三郎、離してやれ、」

「わしも三郎じゃ、ややこしいの」

「お前も三郎と言う名か、わし等はこの辺りの山に詳しい者を探しておる。だが押っ開には探せん。それに急いでおる。」

「お前ら何者じゃ、先に聞かせ」

「お前、わし等が怖くないのか、お前の連れは口も聞けないくらい怖がっておるのに」

「わしも怖いが、話しはしないと殺されそうじゃ」

「なかなか肝の座った男じゃ、わしは源氏の御曹司源義経様の家臣武蔵坊弁慶と言う者じゃ、後ろの者は同じく伊勢三郎と言う。これでよいか」

「わしは、鷲尾村の三郎と言う猟師じゃ、お前らが探しているこの辺りの山に詳しい者じゃ。そちらの人は」と言いかけて三郎は言葉が詰まった。

三郎は辰夫が話していたことが本当になっていく事に驚きを感じたのである。何故この男は自分の運命を知っているのか、そしてそのことをこの男達に話すことも出来ないことで言葉が詰まったのである。三郎には直ぐに嘘でごまかすような芸当は持ち合わせていないのであった。

伊勢三郎「お前は、」と辰夫に話しかけた。

辰夫「私は、平居辰朝といいます。琉球国の使者の付き人として福原に来た者ですが船に乗遅れ三郎さんに世話になっています。」

変わった話し方をするこの男に二人はあまり興味を示さず、ただ猟師の三郎だけが必要であった。

弁慶は、よほど急いでいたのか素性も確かめようとせず「鷲尾村の三郎、わしらの道案内が出きるか」

「出きる。」と三郎も自分の運命と確信しての一言であった。

弁慶は、辰夫も連れて行く事にした。ここで殺せば三郎は言う事を聞かなくなるだろうし、逃がせば策がばれる恐れがあるからである。

辰夫は、弁慶と三郎の話しを聞きながら落着きを取戻した。辰夫は武蔵坊弁慶という人物を小説やテレビ等の媒体からの知識で心優しい強い男のイメージを持っていたのである。頭の何処かでそんなイメージは払拭しなければならないと思っていたが、どうもイメージをだぶらしてしまう。三郎と弁慶の会話が進むに連れ恐怖から少しずつ解き放たれるた。

辰夫と三郎は弁慶と伊勢三郎とに前後で挟まれ歩いた。辰夫達二人は黙って弁慶の後を付いていくだけである。

辰夫は、歩きながら一人満足していた。自分がこの時代に来たのは三郎を源義経に会わすために来たと考えているからである。自分が福原の街で見たものは平家がこの戦に勝つ状態のように思われた。歴史を知っている辰夫にとってどのように見えても結果は、源氏の勝利で終わると信じていた。三郎が源義経の家来の鷲尾三郎と気づくまではである。

一の谷の合戦は、源義経の鵯越の奇襲があって始めて源氏の勝利へと導くもので、その奇襲を成功さすためには鷲尾三郎が義経の味方として居なければならないのである。その鷲尾三郎がどうしたことか平家側に付いてしまった。辰夫は福原に来たときから何か歴史に異変があるように感じていた。その感じたものと三郎の行動が一致し、辰夫自身自分がこの時代に来たことの役目は三郎を源義経に合わし歴史通りの一の谷の合戦にすることと考えたのである。

ただ、何故過去の歴史がこんなことになったのか、あの鷲ノ谷村で聞いた夜の虹のようなもの、おそらく見えるはずのないオーロラが見えたことに何かあるのかなど考える辰夫であるが分かるはずがない。

どう言う理由にせよ、三郎と源義経を会わし歴史通り一の谷の合戦が進めば良いことである。三郎と義経を会わすことが辰夫に科せられた役目であるならばそれをやったことにより役目は済んだことになる。

辰夫は三郎がこれから義経に会うことになるだろうと考え、これで自分の役目はすんだと思った。自分の役目を終えるということは元の時代へ戻ることが出きるように思ってしまう。辰夫は、「後は、春一を助けたら元の時代に戻れる」と考えた。気になるのは自分の役目は済んだが春一にも役目があるのだろうかと言うことである。

三郎は、前を歩く武蔵坊弁慶という人物の後姿を見て心の高鳴りを感じていた。人を見て強さを感じたことは今までなかったがこの人物は違った。見ただけで「強い」を感じる。力だけではない。人が持つ色々なものの強さである。あるときは力であり、ある時は辛抱、全てにおいて三郎は敵わない人物に見えたのである。

武蔵坊弁慶と言う名は三郎も耳にしたことがある。義経の家臣であることも知っている。噂話は知るものの、そんな言葉にいくらか眩まされているところがあるかも知れないが直に接して大きさを感じ強さを感じたのである。

三郎は思わずその大きな後姿に声を掛けてしまった。声を掛けたのではなく掛けてしまったのである。何かに誘われるように、その何かとは武蔵坊弁慶そのものである。

「わしも戦う。武蔵坊弁慶について戦う。」

いきなり後ろから声を掛けられた弁慶はさすがにびっくりした。こんな夜、しかも山中で大きな声で後ろから「わしも戦う。」と声を掛けられたのである。

弁慶は、「黙っておれ、着いてから話す。それまで静かにしておれ」と一言返した。

三郎は、「戦う」と言った言葉に後悔はしていない。むしろ今まで心の何処かでもやもやしていたものを吐き出したようにすっきりしたのである。三郎自身義兄の下で自分を押さえていたものがあった。三郎は自分の力が兄達より劣るとは思っていなかった。むしろ上であると思っていたのである。力というより能力というべきものであり、そして戦う能力である。

三郎の性格そのものは、特に好戦的な性格だとか喧嘩早い性格といったものではない。自分自身を開放する手段を戦いの中に見出したのである。三郎が自分で心を押さえていたことを辰朝と会って分かり出したのである。辰朝が話す自分の運命が自分の心を開放さす方向へ向けさしたのである。だから辰朝の話しを嘘だと思っても信じたのである。

辰夫は、三郎の後ろを付いて歩くように三郎と伊勢三郎の間に挟まれ歩いた。この暗闇の中を提灯の少しの明かりを頼りに歩いている。さすがにお互い顔がはっきり分からない。そのことがかえって辰夫には良かった。辰夫自身弁慶と会ってから気持ちが萎縮し、弁慶の目を見るどころか顔すらはっきり見られないほどであった。ただ暗闇を歩いているうちに自分の役目を終えたことが気持ちの落着きをもたらしてきた。

辰夫は、これから自分がどのようにして戦いの場から逃げるかだけである。これからの役目は春一を助け出すだけで、一の谷の合戦に参加することはない。どう考えても辰夫が一の谷の合戦に参加するそのような勇気も度胸もないし、ましてやその戦いで命を落とすようなことがあれば春一を助け出せない。辰夫にしてみれば絶対に戦いの場に入って危険な目に会ってはいけない、たとえ、「臆病者」と罵られてもである。

辰夫は、逃げることを安易に考えていた。今、義経達に必要なのは一の谷への道を知る三郎で、その三郎は弁慶に「一緒に戦う」と言うほど好意的で誰かを人質にとって道案内をさす必要はない。つまり、義経の前まで行き三郎の協力的な意思を示すことによって必然的に足手まといとなる辰夫は開放されると考えていたのである。少なくとも義経が一の谷の合戦に対する秘策の漏洩を考えて直ぐに開放されなくても、合戦直前には開放されると自分に都合よく考えていた。

後から考えると、楽天的な考えであった。

ただ、辰夫が恐れているのは、源氏の兵である。今までに接してきた兵は、平家の武者達である。辰夫が見てきた平家の武者達は何処となく品を感じる。将のみではなくその末端までもである。着ている物の煌びやかさ、豪華さがそう辰夫に見せているところもあるが、薩摩守平忠度の屋敷での事や、平資盛の軍を見ても何処か優しさを感じてしまう。

兵に優しさを感じるというには奇妙ではあるが、きっとそれは平資盛達の話の中で「春一」のことが心地良く出てきたからだと思うが、それにしても、あの若武者達は、何の役にも立たない春一を受け入れるだけの度量は持っており、それは力のみを必要とする文化ではなく力以外の文化を受け入れられるだけの器があるのである。

辰夫にとって源氏の兵は今、目の前に居る弁慶と伊勢三郎である。義経を含むまだ見ぬ源氏の兵はどのようなものか、その部分で辰夫は恐れている。

弁慶達は、夜道を歩くことになれてしまっているようでどんどん進んでいく。もちろん辰夫も弁慶の足取りに着いていくだけの脚力と慣れは身につけていたので足手まといになることはなかった。薄暗い間道を歩いていると風による木々の揺れと供にときたま落ちてくる葉に積もった雪玉、逃げ始めた頃はそういったことにも怯えていたが、今、源氏の囚われ人となったにも拘らず、怯えることはなかった。

イメージとは怖いもので、弁慶は、強く、心優しくいい人と思ってしまっている。

それが原因で囚われ人であるにもかかわらす気持ちよく歩いていた。

歩き出して1時間程経っただろうか、木々の向う側で人の気配を感じるようになってきた。人の気配という微妙なものではない。誰でもわかるよう、あからさまに人の気配を出して居る。辰夫は「近づいてきた。」と。

弁慶達は、着けられないよう間道を歩いたが本陣の屯となればそういう訳にもいかず、大所帯ともなれば間道では動きも利きにくい。

三郎は何処に向かっているのか分かっているようで、そこから道なき道の茂みに入り込んでも、勝手知ったる道のごとく歩いた。

少し開けた場所に出てきた。

三郎が「大歳御祖神社か」と一言呟いた。それはただ言ったのではなく、辰夫に「知らせた」のと管六が話していた通りであったことを言ったのである。

三郎以上に辰夫は興奮を覚えた。「義経に会える。」が現実のものになったのである。

辰夫の時代では、日本の歴史上、戦国の信長、秀吉、家康に次いで有名な人物と言って良いのではないかと思われる人物と対面することになるのである。別に望んでいたわけではないが、やはり歴史好きの辰夫にとって興奮は押さえられない。辰夫は身の危険を忘れていたのである。

大歳御祖神社境内には、馬が多く繋がれていたが、道々での人の気配からは少なく思え、五・六十名ほどの人員に思えた。夜であることも手伝って、境内の軒下で休んでいる兵の姿ははっきり見ることは出来ないが、何処か山賊を思わせるように辰夫には感じた。境内の正面の一箇所だけ、篝火かがりびが焚かれていた。その篝火に向かって真っ直ぐ弁慶は歩いて行った。そこに司令部である義経がいるのであろうと想像するのは容易だった。

弁慶は、その篝火の手前で止まった。「お前達はここで待て」と言うと直ぐにその篝火の輪の中に吸い込まれるように入っていった。弁慶ともう一つの影が篝火から放たれる光に照らされた。源義経である。

周囲の武者達は三郎と辰夫に気づいていたが動こうともしないし、二人についての話しすらすることなく静かに休んでいた。二人についてなんら興味を示さないその静けさが余計に篝火の中を神秘的にした。

「自分達は、義経に従って、戦をするのみ」とあたかも言っているように思えた。

弁慶が篝火の中から伊勢三郎に手招きをした。伊勢三郎は辰夫と三郎を後ろから突つくように前へ押出し、篝火の明かりの中へ追いたてた。その中は昼間のように明るく感じ、辰夫は初めて炎の眩しさと、熱さを感じた。

一瞬その眩しさで目が眩むように感じるくらいで、俯き顔を逸らした。辰夫は思っていた。この顔を上げたらそこに義経がいるのであろうと、あの悲劇の英雄。

「お前達か、一の谷の城への近道を知る者は」

辰夫が顔を上げる前に声が降ってきた。普通の声である。高くもなく、低くもなく、何か威圧するような重圧があるものでもなかった。あまりに普通の声で話し掛けられたことで、辰夫は素直に顔を上げることが出来た。そこには、確かに義経が存在した。確かに源義経である。神社のお堂を背にして、篝火の明かりを正面から受け、周囲の武将と全く異なった平家の若武者と同じような煌びやかな鎧を着た若武者がいた。周囲の武将とは一人異なった若武者である事が源義経を証明するように思えたからこそ、辰夫は確かに義経と断定したのである。

三郎は、辰夫と異なり始めから顔を上げ睨みつけるようにしてこの篝火の輪の中に入ってきたようで、義経の正面に立っていた。

「わしなら一の谷の城の裏手に案内できる。」

「朝、日が昇るまでに着けるか」義経と三郎の掛け合いは、何の主従関係が成立していない。確かに現時点では、三郎は、義経の家来でもなんでもない。

それでも、格の違いは歴然としている。

三郎は、友にでも話しかけるように

「急げば間に合う」

「日の出と共に城を攻める。間に合わせろ。」

「分かった。わしも戦わせてくれ」

「弁慶から聞いておる。弁慶に付いて戦うが良い。その横の者はお前の供の者か、その方も戦いたくば戦って良いぞ。すぐさま出発じゃ。みなの者に触れをだせい。」

義経との会話はそれで終わった。三郎は経った数個の言葉を交わしたのみであったが、篝火に照らされた顔は、今まで辰夫と供に歩いて来た十八才の三郎の顔ではなく武者の顔に変わっていた。辰夫は三郎のその凛々しい顔を見て、この男は今まで自分が一生懸命に打ち込めるものを探していたのだと思った。そして、今その自分が命を掛けてまでも打ち込みたいものを手に入れたように三郎の顔は映っていた。

「お前も三郎と言う名だな、どうもわしと同じでややこしい、お前の父は」と伊勢三郎が訪ねた。

三郎は、「親は、鷲尾庄司と言う」

弁慶が「鷲尾三郎か、それでは、鷲尾と呼ぶ」と言い、横に突っ立っていた。辰夫の方を見た。

「お前の名は」

「平居辰朝と言います。」

「お前は、役に立ちそうもないな、ここで我らに切られるか、福原で平家に切られるかどちらにする。」

「着いていきます」と言って、答えは一つであったので迷うことなく答えたが、いつのまにか役者のようになっている自分に驚いた。剣を渡されても何も出来ず臆病に逃げ惑うのが精一杯であるにもかかわらず、芝居の世界に入り込んだように答える自分に驚いた。「この雰囲気は何だ。」能舞台のように静寂の中に主人公のみが篝火に照らされ、歴史の一つ一つを演じているような雰囲気は、そしてその中に迷い込んだ辰夫は主人公ではなくともその主人公をその舞台に立たせる役目はあった。そして辰夫自信がその舞台から降りられずにいる事が役者にしてしまったのである。

「いつ自分はこの舞台から降りられるのか」と辰夫は一人でその場に佇みながら考えていた。

立ち止っていた辰夫を尻目に回りがざわめき動き出した。義経の行動は早い、すぐさま三郎を先頭に一の谷へ軍を進めた。辰夫はその動きに乗遅れまいと必死に三郎を探し横に着いて歩き出した。このときどさくさに紛れて逃げることも出来そうであったが、ここで逃げる勇気は辰夫にはなかった。

兵の数は見込み通り五十名ほどで二十騎ほどの馬が引かれ、三十名ほどの歩兵が連なった。夜間の山中の行動であるので馬は全て引かれていた。明日の戦いに備えているのも含め馬の疲労を考えての行動でもある。

三郎は、大歳御祖神社から一旦戻るかたちで妙号岩の方面に向かった。焦る気持ちがある義経軍は、始めて見る三郎の案内に不安を感じたが、義経は一向に気にしないようで三郎の後を着いていた。後ろの方から野次らしき声が飛んでいるようであったが、そんなことは意に介さない義経を三郎は気に入っていた。三郎の足はどんどん速くなる。兵は野次を飛ばすどころか着いていくに精一杯になっていた。義経という男小柄な割に疲れというものを知らないのか平気な顔で三郎についてくるのである。軽装の三郎や辰夫はよいが兵としての隊は途中から着いていく事ができなくなり出した。弁慶が兵の休息を唱えたが、義経は聞こえぬ振りをして三郎に進むように促した。

夜道の鵯越はさすがに難行した。馬の手綱を離さぬようにしながらで、ある時は馬の手綱が支えとなるほどで、各々の松明の明かりだけが頼りの道であった。

今までの山中は、うっすらと雪化粧をした中での山歩きで、月明り、松明、提灯といった少ない光源でも道が見易かったが、この鵯越は、ごつごつした岩の合間を縫うように進み、今まで照り返しがあった雪も岩肌には付かず足元のみの明かりである。

当然、ゆっくりとした軍行に義経は苛立ちを感じていた。

少し開けた岩肌にさしかかったところで三郎は止まった。左手は崖のようにそそり立った岩肌で、右手には何も見えない真っ暗な空間を感じた。松明を翳しても光が届かず、長く見つめると吸い込まれそうになる暗黒の空間に感じた。日の出までにはまだ時間がありそうで、三郎が止まったことに義経は「何故進まぬ」と明らかに不満を口にした。

兵は、理由を問わず、ただ軍行が止まったことでみながその場に座り込んだ。

「鷲尾、何故進まぬ」義経の激が飛んだ。

「ここは、鵯越を越えたところ、ここから先へ進むには、松明の明かりだけでは危険過ぎる。もう少し時が経てば日が昇り出し道も見えるようになり、それからでないと前へ進むことは出来ん。」

義経は、声を荒げ「危険なことは百も承知、そこを進み一の谷へ入るのが我が兵の役目じゃ、進め」

「無理なものは無理で御座います。ここからは、道と言うには程遠いもの、獣がやっと通るほどの道、我ら猟師の者でこの道を知る者はわし等ぐらい、そのわし等ですら闇夜に歩くことなど無理と申します。その道をそのわし等が進めぬと申します。もう少しすれば空が白み出し目の前が開けてきましょう。それまで休息をお願いします。」

三郎は話し方を変えた。義経との主従をはっきり表した。三郎の冷静言葉が義経は目の前の暗闇を睨みつけ、暫く黙ってしまった。

「ここは、どの辺りになる。」

義経の質問はいつも短く問うもので、短く答えるのであれば短くてすむ。義経が何を何処まで聞いているのか、義経はその答えで人を計っているように見えた。

「ここは、一の谷の西側山手に辺り、ここから崖を降りれば直ぐ一の谷のお城の上に出ます。この崖を降り一の谷のお城の上に着くまで、空が白み出してから降り出せば日が出た時にはお城の上辺りに着きましょう。」

「六日の朝日の出と共に総攻撃と決まっておる。それまでに間に合わせ」

「出きる限り」

義経は総攻撃に間に合うか心配であったが、三郎の答えに満足していた。義経の質問には、一の谷の城にいつ頃着けるかが肝心なことで、三郎はその意図がわかったように「着く時間、着かなければならない時間」がわかった形で答えていたのである。義経が思うように進まぬ軍行に対する腹立たちさを癒すように義経の質問に答える三郎を義経は心の中で家臣にすることを決めていた。

兵はこんな不安定な場所での休息にも喜んでいた。東の空が白み出すまでのほんの一時の静けさの中でであった。やがて始まる一の谷の合戦、日本の歴史を左右する合戦である。

義経の軍と同行している三郎と辰夫は軍行の中で義経の話す事に驚いていた。源氏の兵の数である。三郎や辰夫も平家の兵の数はおおよそでしか知らない。福原に居た時には平家の兵の数二万と聞いており、信じられる数であった。それに対して源氏の数は木曽義仲を攻めた数がそのまま京に留まっていると考えられ、一万五千ほどと思われていた。が義経の話では、源氏には一万もの兵すらいないとのことでそのため法皇からの平家追討の院宣が出なかった。それに、源氏の調べでは平家の兵が三万と膨れ上がっており、当然平家の本隊と源氏の本隊である源範頼の隊がぶつかる福原の東側生田の森では、数での戦いでは勝算がないのである。

義経と一緒に来た兵の数が千程であり、その数で西側の明石から攻撃するとのこと、いくら平家の兵が手薄にしている西側の攻撃であっても五千の兵は配置しているであろうと思われている。

この源氏と平家の数的比較に三郎と辰夫は驚くと共に、三郎自身は自分の役目に何か興奮を覚えていた。

辰夫は、辰夫で三郎を義経に合わせたことの重要性に興奮していた。

各方面の数的不利を打開する策が義経の一の谷の奇襲である。それを演出したのが辰夫であり三郎である。

東の空がほんの少し明るくなってきたようで、山並みの美しい曲線が確認でき出した。休んでいた兵は自分達の運命がこれから始まる戦いで決まる事を感じとってか、少しの休憩で回復したのか、寝ていた兵が誰の指示も受けず立ちあがった。

義経は、休むと決まったら完全に寝てしまうほどの勢いで休んだ。周囲のざわめきすら気に掛けることなく、休むことに専念しているようであった。一旦空に明かりを感じると見る見るうちに空が白み出した。まだ足元までには明かりが届いていないが、うっすらと見えるというより何か迫り来るものを感じた。

朝日と共に気力の高まってきた兵は、足もとの崖のような下り坂が映し出されると共にこれからの難関を思い知ることになるのである。

義経は、辺りが白み出すと「すくッ」と起きチラッと崖下を見て「者ども出発じゃ」と一言言いその後、「鷲尾三郎、そちに任した。案内せい」と言葉を続けた。

三郎は、黙って歩き出した。辰夫は三郎の後ろをしっかり着いて歩いた。

辰夫はもともとアウトドアー派の人間である。山登りについてもロッククライミングとまではいかなくとも岩肌を登った経験はある。京都の大原に江文峠というところがあり、国体の競技にも使われるロッククライミングに適した岩場があり、日頃は、練習場所となる金毘羅山がある。辰夫自身学生時代友人に誘われてそこで何度か岩肌を登った経験があり、それに比べれば「まだましか」と思うがただ安全管理がなされていない分慎重にはなった。

馬を連れている多くの兵はそういう訳にはいかない。恐る恐る馬を引っ張りながら自分も降りていかなければならないのである。岩肌を登った経験があるものであればよくわかるが、登ることは思ったより楽であるが、降りるとなれば別である。登ったコースを逆に降りることはまず出来ない。降りるコースを先に確認しながら登っておかなければ後で後悔する。この場合三郎が降りるコースをしっかり決めている。このコース以外を逸れると大変なことになると分かっている。

辰夫は降りながら、「三郎さん、よくこんな道、見つけましたね。」と聞いた。

「鹿を追っていたら、見つけた。鹿や猪の通り道になっているようだ。獲物をこの場所で見つけて、このまま福原まで降りて俺立ちが住んでいた猟師茶屋で捌く、何度か降りている場所だからな」と答えた。それを後ろで聞いていた弁慶が「鹿や猪が歩いているか」と一言呟いた。

「鹿も四足、馬も四足、鹿に降りられるものが馬に降りられぬはずがない」と義経が大声で言った。

辰夫は、このフレーズ平家物語か何かで聞いたことがある。

この道を知る三郎にとってはさほど困難と思わないのかも知れないが、始めての者にとっては降りると言うより、落ちるという感じである。義経も確かに足元が見えない中で降りられるようなところではないことがわかったのか、三郎に「良くぞわたしに逆らい、兵を止めたな」と言った。ただ、日が昇りだし足元が見えるようになってからは明るくなるのが早く、そこから福原の街と大輪田泊が見え始めた。

兵は、あまりに間近に見えるのに驚いていたが、それと同時に今から攻め落とす平家の城が目の前にあることに気持ちの高鳴りを感じていた。そのことがその崖のような一の谷を降りる勇気に変わって兵の士気が上がっていた。

士気が上がっていなかったのは辰夫のみで、今まで生きてきて感じたことのない恐怖を感じていた。何と言って良いのか辰夫自身言い現せない胸が詰まる恐怖であった。

辰夫自身は高みの見物ではないが、この戦の中に入る事はないと信じていた。

しかし、福原の街を見下ろせるようになってからは戦を想像できるようになった。人と人が殺しあうことは現実に行われるのである。それは避けて通ることが許されないことで「歴史を変えるようなことになってはいけない、だから戦には参加しない」の理屈が通りそうにない。そのことが分っている辰夫にとっては胸が詰まる苦しさを感じるのである。

源氏方の攻めは、本隊の源範頼軍が正面の生田の森の東側から正攻法で軍を進め、義経軍として1000の兵で搦め手からの攻撃のはずであったが義経が鵯越の奇襲のための100人程の兵を割き、別動隊とした。義経の参謀的役割の土肥実平との申し合せで七日朝、総攻撃の約束事がある。

土肥氏は頼朝の挙兵当時からの家臣で、義経の補佐でもあるが、目付けでもあった。

兎に角、それに間に合わなければならない。自分が見下ろす福原の東側から火の手が何時上がるか気になっていた。それまでには一の谷の城を攻撃できる位置に入りたいと考えていた。福原の街は眼下に見下ろせる。直ぐそこまで来ているのが分るが思うように進まない中、太陽は顔を出し始めている。

「鷲尾、まだか」義経が急かす。

「あと少し頑張って頂かなければ」と三郎が返事をかえすが、そのやり取りも板についてきた。

「もう日が昇った。戦は始まっている。今のところ双方が名乗り合っておろう。本格的な戦は始まっていまい。蒲殿(源範頼)は戦をするのに形にこだわっておるからな。生田の森はどの辺りになるのじゃ、三郎、答え」

「あの辺りで御座います。」と指を指した。

「実平の兵の方が心配じゃ、我が隊が一の谷の城に火を放ちそれを烽火(戦いの合図・のろし)と見、攻める段取りになっておる。我が隊を待ちきれずに攻めれば、兵の数からして不利になる。この戦どうしても我が隊が一の谷へ急がねばならぬ。三郎後ろのことは気にせず急げ、」

「分りました。」

雪の残る岩肌を三郎が急ぎ出すと辰夫も付いて行けなく三郎に離される。当然辰夫の後ろに付いていた弁慶は馬と共にもっと送れる形になってきた。それでも義経は「待て」とは言わず必死に様相で追従していた。その時岩陰から管六が「ひょい」と出てきた。三郎達と義経が離れるのを待っていたようにである。弁慶は一瞬殺気立つような仕草をしたが直ぐ義経に「あの者の友のようです」と言い、その後は、何も言わなかった。

義経が京を発ってからの道中、素性の分からぬ者が棒切れ一本を持参して義経の兵に何人か加わった。多くが、いつの間にかである。管六もそういった輩の一人として弁慶やらに見られた。

義経達にすれば今はそんなことを詮索しているより、一刻も早く一の谷の城の上に出ることが肝要で辰夫や三郎の友が急に現れたとしても構っていることなどできないのである。

義経達には三郎の姿が見えなくなり、少し送れてついている辰夫の姿を追う形になった。義経達にすればあの頼りなさそうな男でもこの場では見えていなければ困る存在になっていた。

弁慶の前を歩く辰夫が岩肌から生い茂った林に入った時である。三郎の大きな声が下から聞こえた。「着きました。もう少しです。」

「大声を出すな。」と弁慶が前を歩く辰夫に言った。辰夫もその前を歩く管六に言い、三郎へと伝わった。三郎は自分の目の前にある一の谷の城のことを忘れてしまっていたことに恥じていた。

次々と兵が生い茂った林の中に入る。今まで視界から消えていた福原の街が木々の間から見える。

一の谷の城は目の前に建っている。辰夫は知らないがこの一の谷の城は、春一が過ごしていたところである。この雪見御所や平家の屋敷の屋根には雪をかぶり最後の美しい姿を見せている。

この城の周囲は辰夫も知っている。薩摩守平忠度の屋敷や新三位中将資盛の屋敷など平家の将の屋敷が建ち並び一郎に連れられ、平家への仕官のために歩いた場所だからである。さほど遠くの出来事でもないのに何故か辰夫には遠い昔のことのように感じながら雪の積もった屋根を眺めていた。

そんな感傷的に眺めている辰夫とは違い、源氏の多くの兵はこの戦に自分の人生を賭けているのである。林の中に集まった武将は黙って息を整え目の前の城を見つめて、義経の下知を待っている。そこには命を賭けた戦いが始まる者の顔が見られた。

辰夫はこれから始まる戦いをこの場所から見ることになるのであろうが、義経達の兵の顔を見て、この戦いを心でしっかり見なければならないような使命感のようなものを感じた。本当に血が流れる戦いであることは分っている。だからこそとの思いである。

辰夫は、驚くほどに言葉がないのに気づいた。敵に気づかれないようにするためだけではなく、何かこの後に及んで言葉は要らないといったものである。

互いの眼が見えるようにみなが顔を上げている。今まで辰夫は気づかなかったが、一万や二万の兵と言っている中でたった100人足らずの兵で攻めるのである。平家の兵達が生田の森や明石にいっているといっても本陣である城に五百や千の兵とは考えられない。何人の兵がいるか分らない中へ突っ込むのである。辰夫は歴史を動かすということはこういうことかと思うのである。

この林に入る前、生田の森辺りでは煙が上がっていた。さすがにのんびりと戦を始める蒲殿であっても日は昇ってから相当時が経っている。それなりに戦いが動いているであろうことは義経も意識していた。ここまで来ると義経にも焦りがなくなった。戦いの戦況が決まるまでに到着することが最低目標と考えていたからで、そのことから考えると戦いが始まってまだ間がない時間に到着したことは、義経にとっては良しとしなければならない。

義経は、動き出した。静まり返っている城に向かい、後ろは見なかった。義経の兵は今何をするのか判っていた。義経の言葉がなくとも動き出していた。一部の者を除いてである。

「今じゃ、矢の者、火を放て、城と屋敷に火を着け烽火とするのじゃ」

矢の者十人ほどが前に並び矢の先に火を着け一斉に矢を放たれた。放たれた矢は、唸るような音を立てて廊下や板塀に突き刺さった。

辰夫は「始まった」と一言呟いた。

日が昇り小一時間ほど経ったぐらいである。

火矢は次々と放たれ、少し離れた山手から見ている辰夫にでも分るぐらい城がざわめき出したとき、義経の「行け」の下知が飛び、馬に乗っている者が一斉に雪の積もった山を駆け下りていった。城から出てきた武将はほとんどが無防備の状態で、多くにものが大声で兵を呼んでいた。まさしく襲撃を予想だにしていなかったのが伺える。

城は見る見るうちに火の海となり、多くの兵を有する平家の軍であるが屋敷に囲まれ迷路のようになった狭い道では機能することが出来ず、やっと隊は組んでも屋敷の迷路の中で敵を探しきれず、そのうち屋敷に火がまわって右往左往するなか源氏の兵の餌食と化していくのが辰夫に見えた。

意味もなく涙が出るのを辰夫は初めて知った。悲しいとか苦しいとかではなく、何故か涙がでるのである。止まらない涙が出るのである。

一時間ほどの戦いが過ぎた頃である。源氏の兵を恐れて屋敷の中に残っていた兵達が火に追いたてられて飛び出して来た。戦うために飛び出してきたのではない。逃げるためである。平家の兵は、海の方へ一目散に逃げ出したのである。しかも数え切れない数といっていいほどの平家の兵の数であった。

辰夫の後ろで同じようにこの戦いを眺めていた者がもう一人いる。管六である。管六は戦を眺めると同時に辰夫も見ていた。

一人唇をかみ締め涙を流しているこの男を見て自分の心が不思議な気持ちになるのを感じたのである。「途中で会ってから三郎とも辰朝とも余り話さなかった。」と思っていた。源氏の兵の中に急に紛れ込んで歩き出したからだけではない。ほんの少し離れていた間に三郎は何処か遠くに行ってしまったような、急に大人になってしまったようになり話しづらくなった。辰朝は辰朝で寂しそうに何かに思いつめているように感じたのが本当の理由であった。

管六は、辰朝が大事にずっと背負っていた板を辰朝の背に押し当てた。

辰夫は、涙を拭うこともせず振向き管六が押し当てた板を見た。

辰夫は、何故このスノーボードのような板を今まで大事そうに持ち歩いていたのか分っていた。辰夫は多分こんなボードを大事そうに持ち歩いていたのは自分が生きていた時代で好きだったものを持ち歩くことで自分が生きていた時代を忘れないようにしたいと思っていたのである。

一の谷の城を見下ろす山肌で戦況を眺めているのは、ボードに乗った辰夫と管六だけである。

この一の谷の戦いは、義経が考えていた以上の戦果があった。ここまで平家が崩れるとは思っても見なかったのである。義経は焼け落ちた一の谷城の庭に至り、馬から降り、庭石に座り兵が戻ってくるのを三郎と待っていた。

辰夫はその姿をボードの上で山肌から眺めていた。木の陰で何か動いたと思った時である。木の枝に積もった雪がバラバラと大きく音を立て落ちてきた。義経も気づいたがその時にはすでに遅く義経に向かって槍が突き立てられていた。刀を納めていた義経にとっては息を飲むしかなかった。「しまった」と思ったが、遅いのであった。

義経の側にいた三郎は、刀は使えないが槍は使える。猟師としても槍は猟の小道具の一つである。三郎は槍を持って義経の後をずっと一緒にいた。猟師である三郎は義経がこの曲者を気づく前に気づいていた。三郎にとって平家は獣でいつ何処から攻めてこられても準備は出来ていた。

そして、雪が落ちる前に「何かがいる」と察知していた。

三郎はこの時無我夢中になった。「何かがいる」と感じた時、武将としての三郎と猟師としての三郎が重なり、槍を握りなおし、一瞬にして反応したのである。

三郎の槍はその曲者の槍が義経に届く前にその者の胸を突き抜けていた。

「助かったぞ鷲尾、その方わしの家臣となれ、わしの名一字を使え、義久と名乗るがよい。鷲尾三郎義久じゃどうじゃ付いて参るか。」とまくしたてた。

三郎は、「はい」と一言答えただけで、人を殺したことと源義経の家臣となり武士になれたことで頭の中が放心状態となった。

三郎の心の中では「今、わが槍で突いたのは獣ではない」、握った槍の柄から人の温かみが一瞬感じられたが、三郎は、その伝わってきたものを心で拒否をした。

戦場での殺し合いがなんとも感じない義経からの褒美の言葉で、人を殺したことへのわだかまりを帳消しにしようとしている自分がいる。

「これが答えだ」三郎は、一人つぶやき、武士への覚悟とした。

その様子を少し上の山肌で見ていた辰夫と管六は、全く声も出なかった。完全に固まっていた。「あの三郎が」の思いが二人同時に思い、自分たちから遠く離れたと分かった。

「あの三郎が」には、武士になると言った三郎なら当然戦い人を殺すことになる。それは分かっていたが自分達の目の前でそれが起こったことに対する驚きと三郎が自分達の手の届かないところへ一気に行ったことへの気持ちとである。

その後の義経と三郎のやり取りも何か聞こえるようである。そこには武士になった三郎が映った。

少し高いところから見ている辰夫にははっきり分った。平家の兵が我先に海へ向かって逃げていくのが見えるのである。山沿いの一の谷の城付近はいつのまにか、戦いの雄叫びや叫び声、馬の蹄の音、そして甲冑の軋むような音が消え、遠くでのざわめきだけになった。今も戦は続いているにもかかわらず、この一の谷の城の付近は、戦いの後の静けさが漂っていた。辰夫は不思議な静けさを感じ、いつのまにか「安全な場所」のように勘違いしてしまっていた。

それは、辰夫だけではない。

そこに馬の蹄の音が聞こえてきた。義経と三郎は平家の武将がまだ残っているとは考えつかないほどの、この辺りの状況であり、蹄の音は見方の者と考えた。

辰夫もそのように思い蹄の音がする方をゆっくり見た。そこには明らかに源氏の武将ではなく煌びやかな武具を纏った者が居た。平家の者である。「源氏の大将と見受けられる。御命頂戴仕る」と言って馬を走らせてきたのである。義経も刀を抜き構えたがその前に立っている三郎が矢面に立たされている事は上から見ていてよく分った。義経は刀を抜き戦う準備が出来ていた。

三郎も一応、向かってくる者への準備は出来ていた。が今度は相手も三郎を見ている。

先の戦いとは違った。相手は、先に三郎を倒し、義経に挑むつもりである。

誰が見ても三郎に勝算はない。

何も考えずに向かってくる敵に無我夢中で挑んだのと異なり、今度は、戦うことを意識してしまった三郎は、屁っ放り腰で槍を構えているだけで、勇猛果敢に襲ってくる馬上の武将には勝てる道理がない。平家の武将は三郎に向かっていた。三郎は槍を構えるが、やはりぎこちないもので馬上の武将とは違った。さっきのように義経を襲った者を横から無我夢中で槍を突き立てたようには行かない。

その時、辰夫は思わず「おぉぉぉ」と雄たけびを言ってボードを滑らせた。

辰夫が急に何故そんな行動に出たのか管六は驚くばかりで、声も出ず見ていた。

辰夫自身もわからないだろうが、ただ「三郎が危ない」の思いだけがそこにあって、「自分に助けられそう」と感じたのである。

辰夫は大声を出した。「おぉぉぉ」というただの叫び声であったが、声でも出さなければ身体が自由を失いそうであったからである。その声に驚くように、平家の武将も義経も三郎も辰夫の方を見た。

不思議な光景である。両足に板を付け、岩と雪を選びながら滑り落ちてくる者がいる。その者は木の板に乗って雪の上を滑っていたかと思えば、斜面からまるで羽根があるように雪間から飛びあがり、岩や枝の上を滑り落ちてくる。陽の光を背に受けてその者が滑り落ちてくるその光景は、馬上の平家の武将も馬を止めてしまった。同じように義経も三郎も辰夫の叫び声に気を取られてしまったのである。

馬上の武将は、自分に向かって来るその不思議な者を見て「見事な」と一言発した。さすが平家の武将、どんなときでも雅を忘れないようで、自分に向かってきているにもかかわらず、その者の美しい舞のような動きに感心し、見惚れてしまった。

確かに両手に何も持っていない。

辰夫の動きに殺気はない。

馬上の武将は、自分に向かってきているが、きっと通りすぎていくのだろうと思っていた。

何よりも、その者が楽しそうであった。

辰夫がスノーボードに乗り落ちてくる時間は一瞬のことであるが馬上の武将のみならず義経と三郎も時間が止まったように辰夫のボードの滑りに目を奪われていた。

辰夫は自分のイメージ通りのコースを滑り降り、雪が盛り上がっている所で飛び出した。

恐らく地面まで5メートル程の高さで屋根の庇が辰夫の目の高さにきていた。

「ワンメイク…・」と一言言ってボードを回転さしながら右手でボードの先端を持ち、ボードのような板を盾のようにし、馬上の武将の上に圧し掛かった。

辰夫にしてみれば、そのまま馬の鞍の上でワンクッションし着地をするつもりであったが、武将に圧し掛かった瞬間馬が動き武将と共に地上に落ちてしまった。辰夫は着地の瞬間まで足元を見ていたが、山肌と違い地面にはほとんど雪らしきものがない。スノーボードにしてもスキーにしても気持ちよく滑っているときは怖さを感じず滑るため嫌なこけ方はしないものであるが、滑っている時に「怖い」と思った瞬間は危険である。そんな時は止まって仕切り直しをするが、飛んでしまった後ではどうしようもない。辰夫は、着地の瞬間「怖い」と感じてしまった。案の定平家の武将を鞍上から落とした後、着地に失敗大きく転倒してしまった。身体に痛みは感じなかったが頭を強く打ったようで意識が遠のくように感じた。目の前に武将が転がっているのだけは確認できたがそこまでである。辰夫は何か不思議に心休まる想いで意識が遠のいて行く、「少し疲れた。ほんの少し、このまま休もう。」という思いで眼を閉じる自分を感じた。意識を失う瞬間、無意識に「春一」と叫んだ。


春一は、福原沖に停泊している唐船の船上から福原の街を見ていた。傍らに阿波と言う娘が春一の世話係のようについている。阿波は、福原での豪商播磨屋の末娘で17歳になる。平家がこの福原に来たとき采女うねめとして宮中に差し出された者である。阿波の父は、この福原の街に大輪田泊を開いたときからの商人で平清盛との繋がりから宗貿易を一手に引きうけており、春一が乗っている唐船も阿波の父からの寄贈のものである。

阿波が宮中に上るために一旦藤原通憲の養子となり、宮中に差し出された。

阿波は、御座船には乗らず春一と同じ囮用の唐船に乗せられている。この船は父が宗の国から取寄せたもので御座船より一回り小さいが外洋へも出られるだけの大きさの船である。

阿波は、帝への給仕を役目とする采女であり、平家との繋がりが深い豪商の娘でもある。身分の壁は厚く、藤原通憲の娘とされていても、元々は商人の娘であることが災いし、帝が乗る船ではなく囮用の春一が乗る船に乗せられている。そのため春一の付き人としての女官となっている。阿波本人はかえって堅苦しい御座船より見た目だけ着飾った唐船の方が良かったと考えている。

それに、帝と異なり春一はあくまでも自分と同じ身分の六位蔵人で、好い話し相手になっている。だから退屈な船上では、春一と一緒に居ることが多くなっているのである。

春一が船に乗ってからは、静かに過ごすのみである。御座船に乗っている帝とは会うこともなく、もちろん戦に出ている平師盛や清宗、能宗兄弟など平家の若武者には会えるはずがない。唯一この商人の出の阿波が春一の話し相手になっている。阿波も宮中の堅苦しさから開放されたこの船での生活の方が楽だと感じている。

毎日船上から眺める福原の街は変わりなく見えるが、今日は少し様子が違った。朝から船の中を人が慌ただしく行き交い、船の位置も少し沖の方へ動いている。春一達には何も知らされていないようだが何かが起きたことは春一達にもわかる。阿波と船の上に出ると福原の東の方で煙が見えた。春一が阿波に「あの煙、火事、福原のどの辺り」と聞いた。

阿波は、「生田の森の辺り、船の中が騒がしく、先ほど公家の一人が「戦が始まった」と騒いでいたわ。戦が始まったみたいですね。私達は船の上にいるので大丈夫ですが新三位中将様(平資盛)はこれから大変、この戦、平家の勝ち戦といっておられましたがやっぱり心配ですね」と答えた。阿波は一つ問うと問うた事以外のことまで答える癖がある。要はおしゃべりが好きなだけであるが、退屈な船の上では春一にとって大事なことである。阿波のおかげで雪見御所にいた時よりずっとこの福原の町のことや平家のことの知識を春一は阿波から得られた。

阿波は平資盛のことが心配なようであるが、春一はやはり蹴鞠をして遊んだ平師盛達のことが気がかりであった。特に平師盛は幼いながらも互いに引かれ合い、一緒に居て心地良い相手であった。口に出して確かめ合うことはなかったが春一は、師盛も自分を友と思っていると信じていた。

春一の乗っている船は大輪田泊が直ぐ目の前に見える位置で春一が過ごした山手に建っている雪見御所も正面に見ることが出来る。煙が立ちあがった生田の森の辺りは春一の船から見て大分東に位置し、海側から見ることで確認できる程度の煙であった。そのため阿波が「戦が始まったみたい」と言っても子供の春一にとっては遠くでの出来事のように比較的落ち着いて眺めることが出来た。それに師盛達は山の向こうに行っていると信じていた春一にとってあまり自分とは係わりのない人達の喧嘩のように思っていることも他人事のように眺められた。

ずっと見ていた春一は、生田の森で煙が立ち上がるのを見た。戦が始まっても暫くの間これといって変化が見えないことで退屈になり、船の中に入っていった。春一以上に好奇心が強いのか阿波は、春一が部屋に戻ってもずっと船の上から福原の街を眺めていた。阿波は春一とは異なり戦の恐怖を身体で感じたことがあった。

以前父に連れられ京の播磨屋の屋敷に居た。その時、木曽義仲が京に攻め上って来たが、平家の者達は一斉に京を離れ残された者は、平家と係わりがある者ない者など関係なく木曽義仲の兵達に襲われた。かろうじて父と共に逃げることができこの福原に戻ることが出来たものの、警護の者として雇われていた浪士の数人は犠牲になった。阿波にはその京から逃げる時の恐怖が今でも残っている。

阿波は、船の上からあの煙の中で何が始まっているかを想像している。心の中で「小さくなれ、小さくなれ」と祈って見つめていたのである。街の煙の大きさは災いの大きさと考えている。どう考えてもその通りである。阿波の祈りとは反対に煙は大きくなっていく。暫くして生田の森の煙が収まりかけたときである。目の前の雪見御所で今は一の谷の城として使っている屋敷から煙が上がりだしたかと思うと、周辺の平家の屋敷が次々と煙を上げ出したのが見えた。阿波は直ぐに春一を呼びに行った。

春一と阿波の二人は船の上から燃え盛る雪見御所を見ていた。唐船に乗っている他の者は恐怖に駆られ、喚いている者まで現れた。ある者は船をもっと岸から遠ざけよと叫ぶ者もいた。警護で乗っている兵士に抑えられ船の上の騒ぎは直ぐに収まった。二人は船の上の騒ぎより福原の街が燃えていることに気を取られていた。海から陸地まで数百メートルである。矢が届く距離ではないが陸地の様子ははっきり見える。大輪田泊に停泊している平家の船に向かって平家の者が走っている姿が船からはっきり見えるのである。馬を持たぬ兵士は蜘蛛の子を散らしたように逃げており、身分の高そうな者は、泊の船に乗っている。

明石の方でも煙が上がるのが見えた。春一と阿波は何か嫌な予感を感じたのである。新三位中将資盛と師盛は同じ用に行動している。この福原にはいないと思うがもしかしているとすれば、生田の森ではなく明石の方にいるだろうと考えたからである。春一は阿波の話から想像するだけであるが、師盛から平家の若い武将は最前線となる生田の森から離されていると聞いていたからで、最前線の生田の森が東の端ならば一番離れた場所は、明石方面になる。

そのため、生田の森より比較的離れた場所の明石方面からの煙は春一と阿波に嫌な予感をさせる。平家屋敷などから散らばった兵士が明石辺りまで逃げると今度は明石から大輪田泊に向かって逃げ出すといったかたちになってしまっている。春一達にも多くの兵が大輪田泊に向かってきているのが見えた。

何か夢でも見ているような感じに見えた。春一にしてみればテレビや映画といったものではなく夢の世界のような景色に見えたのである。海の上から見ている福原の街、人が戦っている姿を見ることは出来ないが、確かにそこには人と人が戦っている。その結果人が追いかけ、人が逃げる。

春一の見ている景色は少し違った。逃げる者は多く見ることができるが、追う者はあまり見受けられない。と言うより追いかけている者が見えない。海の上から見ていると誰にも追われていないのに逃げ惑う姿が見えるのである。海岸沿いを逃げる者は顔の表情まで見える。春一からすれば声を掛けたい「誰も追いかけていないよ」と言って安心させてあげたい。そんな世界が目の前に広がっていた。

ただ、時が経つにつれ海岸の表情は変わってきていた。

平家の小船が平家の武将を助けるため海岸沿いへと集まり出したのである。春一達が乗っている唐船のような大きな船は浅瀬の海岸沿いに助けに行くことは出来ないが、小船は武将を見つけては岸に近づき助けている。

春一と阿波は煌びやかな武具を纏った武将を探し始めていた。

春一が過ごした雪見御所は煙の中に包まれている。と言うより福原の街全体が煙の中に入ってしまった。福原の街が煙の中であることは、春一にとって見えなくて良いものを見ずに助かっている。煙の中では、人と人が殺し合いをしているのである。春一が見ているのは海岸沿いに逃げてくる平家の兵士のみである。戦の残酷さは春一に眼には入ってきていない。

それでも春一は心の何処かで戦の景色を描いている。その証拠に阿波に何も聞かない。「あの煙の中で何が起きているか」を、

春一は興味を持ってこの唐船から福原の街を見ているのではない。いつのまにか祈るように見ている自分に春一自身気づいた。「早く終われ」何度も呟きながら見ている。

何かやりきれない悲しみに包まれていくのがわかる。誰を助けたいとか何かを救いたいといった具体的な物に対して思うものではなく、何かが壊れていくことに対する悲しみが春一の心を覆っている。ただその悲しみは自分自身を襲っていないことに春一はまだ気づいていない。

春一の願いとは反対に煙に包まれていた福原の街が今度は炎に包まれ出した。屋敷と屋敷の境がわからなくなるほど炎は大きく、一つの塊の炎として天をも焦がす勢いで燃え出したのである。春一は、時間の感覚が無くなっていた。何時の間にか、春一にとって現実の世界として受け入れられなくなってきていたのである。映画のように二時間という現実の時の中に幾多の時と場所が流れる世界のようになって見えていた。春一の心の中では、福原の街がスクリーンのように感じ、現実から遠ざけていたのである。

現実から遠ざかっていくはずの世界が、春一の心を引き戻す出来事が目に入って来た。

平家の武将の中でも特に煌びやかな鎧を纏った集団の馬が駈けて来るのである。その先頭を駈けているのが武蔵野守平知章である。春一は思わず手を上げた。自分でも気づかれることは無いだろうと思いながら少し遠慮がちに手を上げてしまった。春一の心の中に知る者の一人を目の前で見たことで「手を上げた」というより「「手を上げてしまった」という方が正しい言い方である。

春一には、知章の顔を見ることが出来る。海岸から離れていて、はっきりとではないが知章の顔を見ることが出来る。知章の後ろを走る武将に急かされ逃げているようである。春一の知る知章は顔色を全く変えない。何時もディフェンスに回り、春一のシュートを止めていた。春一が苛つくほど冷静にしていた。その知章の足の速さは春一を驚かした。何時の間にかゴール前に駈けてきてシュートされたこと、味方として戦った時はその足の速さを生かして、春一が出したパスに反応しゴール、春一が久しぶりに味わったラストパスの醍醐味。その知章の顔色が蒼ざめているように春一には見えた。険しく、自分と遊んでいた時の知章の顔ではなかった。そこに見える知章の顔は、武将で、大人の顔をしていた。後ろから急かされているにもかかわらず前に急ごうとせず時折振向き後ろを気にしているのが船の上からでも分った。

知章達二人から少し離れたところに、もう一騎平家の武将と思われる者が逃げてきていた。知章は明らかにその武将を気にしている。武将達は海岸沿いの砂浜の上では思うように馬を進めることが出来ないようで、船の上では「新中納言様」の声を聞くことができた。

この春一が乗っている唐船に逃げてくるように船上の者が手招きをしている。

平知盛で、平知章の父である。知章は父である平知盛を気にしている。迎えの小船に着いた知章は、源氏の武者に追いつかれようとしている父を見て引き返した。知章と共にいた郎等は監物太郎である。監物の制止を振り切り知章は、父知盛を助けに引き返したのである。知盛が後ろから来る源氏の武者に襲いかかられようとするとき、引き返してきた知章に助けられた。知章、監物太郎の二騎の馬は、知盛と交差するようにすれ違いざま源氏の武将を倒したが次ぎから次ぎへと襲いかかってくる。要するに源氏の武将と向い合う形になった知章、監物は戻る体制になれば敵に背を向けることになり襲いかかられることになり、戻るに戻ることが出来なくなったのである。知盛はそのまま馬の駈ける勢いで小船へと乗り込んでしまった。そして振向いて見ると知章と監物は敵を引き連れるようにして岸から離れていく。知章等は、必然的に敵に囲まれてしまったのである。馬を離し、小船からじっと敵の兵の中に埋もれていく知章を見つめる平知盛がそこにいた。

春一はその一部始終を唐船からじっと見ていた。源氏の兵の群れに埋もれていく知章ともう一人の武将、堪えきれない震えが春一を襲いかかっていた。春一にはあの群れの中で何が起こっているかは見えないが、想像することは容易であった。敵を引き連れ岸から離れていった知章によって一時、眼の前の海岸沿いに静けさが戻った。岸辺直ぐに浮かぶ平家の小船。海岸沿いに逃げてくる平家の武将を待ち、小船を海に浮かべている。

春一は、多くの平家の武将は小船と共に沖合の船へと逃げてしまっているように見えた。きっとその中に師盛もいるだろうと考えていた。生田の森の方から勝ち鬨が聞こえてきた。何がどうなったのか春一には知る由も無い。源氏の兵を見たのは始めてであった。今まで平家の者が逃げて来るのみで、春一が乗っている船から見る状況は緊迫したものではなかった。それが知章のことで春一にとって戦が目の前で起こっているということに直面してしまったのである。多くの平家の武将がこの辺りの海岸沿いから逃げていることで春一は、平家が負けているということが分かった。春一は不安ばかりである。

「新三位中将様」と言う奇声が飛んだ。春一の横にずっといた阿波である。

その声で、どうかは、分からないが、小船が一斉に浜に向け漕ぎ出した。新三位中将資盛達を助けるためである。馬を駈けて走ってくるのは新三位中将資盛以外に数騎いた。その中に平有盛や平師盛もいるはずである。明石方面から逃げてくる平家衆である。

何時の間にか春一の乗っている船に平知盛が乗り込んでいた。子の知章を亡くした悲しみなど微塵にも見せずに船上で大声を出している。「あの者達を救うのじゃ、矢の者、前へ出よ。矢を放つ準備をしておくのじゃ」

春一は、始めて自分も戦の中に居ることに気づいた。今まで戦そのものを悲しんでいたがこの船は矢が届く距離にいるのである。もし岸に源氏の兵が押し寄せ、火矢でも放てば春一自身危険にさらされるのである。幸い今まで岸にまでは源氏の兵が押し寄せてきていない。

春一にとって新中納言平知盛の指揮は頼もしく見えた。知盛の声は遠くの小船にまで届き知盛の指示通り動き出した。今までそれぞれの小船が岸と大船との間を往復するだけであったが、知盛の声を聞くことによって、みなが黙って従って動き出したのである。見ていて気持ちがよく感じるほどである。春一は、チームと一緒だと感じていた。今知盛が指揮をとっているのは平資盛達、明石から逃げてきた平家の武将達を助けるためのものである。

その中に師盛達がいる。友がいるのである。春一は、「師盛とは話しの続きが残っている。師盛とは話したいことがまだたくさんある。早くこの船に来い。」と心で叫んでいた。

平資盛達の後ろからは、源氏の武将達が迫ってきている。この浜まで明石から逃げてこられるのは馬を持つものだけなのか平家の兵は資盛達馬持ちの武将のみである。そのため手柄を欲しがっている源氏の雑兵達にとっては格好のターゲットとなる。鎧兜を身に着け馬に乗る武将は平家の重鎮と思われ危険を顧みず、首欲しさに狙いにくる。そのため逃げ惑う平家の雑兵には見向きもせず、平資盛達のような馬持ちに集中して追ってくるのである。

知盛の号令のもとに弓矢の者が一斉に矢を放った。源氏の兵にしてみれば今まで勢いだけで攻めて、平家は逃げるだけであった。それが急に反撃に合うことで逆にうろたえる羽目になった。源義経の家臣として丹波まわりで同行していた畠山重忠は、直ぐに兵を立て直し、「矢には矢を」を叫び源氏の兵に矢を放たてた。

春一は、船の上の甲板の手摺からじっと師盛を探していた。知盛は「女、子供は邪魔になる。中に入れるのじゃ」春一と阿波は急き立てられるように襟首を引っ張られた。そのとき春一の眼に師盛が映った。師盛は、まだ馬に乗っている。春一は思わす「師盛、早く」と叫んだ。師盛の耳には届かない。その声は春一を急き立てた役人を驚かすのには十分であったようで、春一を引っ張る手を離し暫く呆然の春一を眺めた。

春一はもう一度甲板の手摺まで戻り、「師盛、早く、こっちだ。こっち、こっち」と大きく手を振り叫んだ。今度は師盛に聞こえたようで一瞬ではあるが師盛が声のする方を探している仕草をした。ただ師盛は逃げることに一所懸命であり、そんな仕草は一瞬であった。

師盛は、自分が逃げ送れていることの不安で焦っていた。それでも回りには数人の者がいたのである。ただ師盛はまだ子供である。矢が降ってきたことで完全にパニック状態に落ちてしまったのである。少しでも敵から離れたいという気持ちが身体を先へ先へと思い、馬に乗ったまま海に入ってしまった。資盛や有盛は自分のことで精一杯であった。他の武将も同じ事で、飛んでくる矢を避けることより、早く小船にのり沖にでることを考えていたのである。始めは資盛等数名の武将であったが源氏に追われ逃げてくる者が膨らんできた。回りでは矢に射貫かれた者も出て恐怖を煽った。

師盛は、当然まわりの惨事だけが目に入り鎧兜で身を固めていることすら忘れてしまっていた。多くの小船が助けに来ていることが目に入らなくなり、目の前を出ていく小船に乗遅れまいと師盛は馬のまま海に入ってしまった。その小船は師盛に気づかず沖へと、付近の小船の者も逃げてくる平家の武将を助けることと矢で応戦することに夢中で師盛のことに気づく者がいないのである。暫くは馬が泳いでくれたが、乗馬が上手い師盛でも馬に乗って泳ぐとなると話しは別である。

師盛は、馬が絶えられなくなってきたのに気づき引き返そうと手綱を岸に向けた。その時である。馬がバランスを崩し横に傾き、乗っていた師盛を海に落としてしまった。手綱だけは放すまいとする師盛を馬が蹴る。周囲には小船があるのに師盛のことに気づかずにいる。

春一はずっと叫んでいた。春一の声は風の音、燃え盛る火焔の音、そして戦場で獣と化した人の声にかき消されていた。春一はずっと師盛を見ていた。戦場の中の師盛を見ていた。「どうしようもない事はない。自分の声が届けば誰かが師盛を助けてくれる」と信じ叫び続けていた。その姿を誰も気づかずにいる。阿波は船の中である。海の中の師盛のことも船の上の春一のことも、誰も二人に気づかずにいる。

師盛が馬の手綱を持ちながらも必死に泳いでいる姿、春一と同じ年頃のこどもである。春一には師盛の顔がすごく悲しそうに見えた。顔色までわかる距離ではないが春一には見えた。春一は船の手摺を握り締め今まで出したことのないほどの大きな声で叫んだ。それでも自分の声がそれ以上大きくならない事に怒りを覚えながら、諦めず叫んだ。春一の顔が修羅のような形相になっていた。そしてその修羅の顔から涙がこぼれ出した時声が小さくなり出した。

涙がぼろぼろこぼれだし、鼻水を垂らし、膝をつき声にならない声で叫んでいる春一がそこにいた。

膝を付き崩れ落ちながらも船の手摺にすがり付いて掠れた声で叫んでいる春一に知盛が気づいた。少年が「師盛を助けてくれ」と叫んでいる。この始めて見る子供が何故平家の武将の名を呼捨てにして叫んでいるのか訝しげに思うと同時に海に目をやり、この少年が言う師盛を探した。海には師盛の馬が岸に向かって泳いでいる。馬上には誰も乗っていないことに気づいた。知盛は直ぐさま部下に平師盛を探すよう命じた。

「小僧、師盛殿は何処じゃ」と知盛は聞いた。

春一は何も答えず指だけを海に向け指した。

膝を抱え、涙で埋もれた顔、もう声も出ないほど叫んだ体で海に向け指を差しそして下を向いた。何故かこれだけ多くの小船が浮かんでいるのに少年が指を指した海面には、小舟も無く、音も無く、規則正しく打ち寄せる波だけがあった。

知盛は師盛を探す事の遅さと自分の子が自分を助けるために敵の中に入って行き、帰らぬ者となったことを同時に心に映しだし、自分の悲しい思いと同じものをこの少年が背負っていることを感じ取った。

知盛には、今やらなければならないことがある。この少年と同じように崩れ落ちていられない。知盛は少年をそっとその場に置いて、静かにその少年の場所から離れた。

春一はその場にずっと座り込んでいた。船の中は逃げてきた武将や兵士で慌ただしく動いているが、春一が座り込んでしまっているその場所だけは何故か周囲の動きとは異なり止まったように静かだった。知盛の「あの子供、暫くそっとしておいてやれ」の指図が出されていたことと春一の様子を周りの者が見かねている部分とがある。

何時の間にか船は岸から遠く離れ海の色も変わってしまった。春一が師盛を見つめて叫び続けていた海面はもう何処だったか分らなくなった。透き通った空気が海の上に重く圧し掛かって、街を燃やし尽くした煙が福原の街の上空に何時までも留まっている。

春一は「こんな時は暗く、雨でも降って全てを隠して欲しい」と思った。あまりにも綺麗な海の景色はいつまでも戦いの状況を映し出していて、次ぎから次ぎへと映像を浮かび上がらせてくる。その度に胸が痛み、涙が込み上げてくる。どうしようもない事である。

春一にも分っている。何時の間にか春一の横で並んで黙って座り込んでいる阿波と、たまにそっと目をやってくれる知盛の姿がある。

春一は、甲板の上で横になったまま体を丸めた姿で空と海を眺めていた。横向けに見る景色は春一にとって新鮮に感じ、右側に海、左側に空と、その境が何かこの世のものとは全く関係のない世界に見えてきた。それと同時に自分がこの世界に来る時の記憶がよみがえってきた。

「何故なんだろう。今、何でこの場所に居るのだろう。」振り子のように水平線が振れる中で、「お父さん、お母さん、僕、帰りたいよ。」と呟きながらそのまま眠ってしまった。

深い眠りの中が唯一の春一の逃げ場所のように、春一は瞳を閉じたのだろう。

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