第五 雪見御所で
第五 雪見御所で
話は、春一が辰夫と別れた日に戻す。
昨日から一日中泣いている。春一の従者であった者、辰夫が居なくなったのに気づいてからずっとであった。誰の言葉も耳に入らないようでただ泣きじゃくっているのである。
言葉で説明しようにも聞く耳を持たないほど泣きじゃくっており、幼帝の周囲の女官もただじっと見ているだけであった。
女官から見て、この歳頃の男の子がこれほど大胆に泣いて悲しむのはあまり見ることがないようで、あっけにとられているのである。
春一は、薩摩守平忠度邸からこの山の手の雪の御所と言われる屋敷に移された。この屋敷に来る間もずっと泣いていた。その間、秦嘉平は少し離れたところから春一を見ていた。辰夫からの言伝を伝えるための機会を伺っていたもので、宮中内に居る春一にはそう容易く話しかけることが出来ないからである。
雪の御所は、御所と名前がついているが京での御所とは異なり、北側は須磨山、他三方を平家の屋敷で囲むようになっており、いざ合戦となれば、一の谷の城としての機能を有している。
雪の御所は、平清盛が福原遷都を慣行した際、性急な工事で建てられたものであるが、御所と言うだけにそれなりの様相を呈している。
城に帝が居ることで、御所となっており、政治の中心となるのである。
当然、平家が政治の中心であることから、たとえ臨時の都であってもそれなりの機能は整えているのである。
しかし、多くの公家や女官は、大輪田泊に停泊している御座船を館としており、御所に置いては、平家の屋敷と同じ状態になっている。
一部の勇気ある公家というか、平家の躍進に便乗組というか、平家が京へ上り源氏を蹴散らし以前のような、平家の天下が来たときには、自分達もと考え平家と共に行動する公家達が御所での政務を司っている。多くは、平家の出す命令を勅書として奏文したり、儀式を奉行したりするものである。
幼帝においても安全が確保されているこの時期であるため、御座船を降りてこの一の谷の御所に滞在しているのである。
幼帝も春一の大泣きにはあっけに取られているようで、自分より大きな人、幼帝から見れば大人の男子が人目もはばからず大きな声を出して泣いているのを見たことがないのである。
ものも食べずに泣いている春一を見かねてか、薩摩守平忠度が春一を見に来た。護衛の秦嘉平も当然一緒に付いてきており、薩摩守平忠度に春一の従者からの言伝を春一に伝えることを言い含まれていた。
春一に対する秦嘉平の言葉は、辰夫の命を助けるため、己の命を助けるため、お前達二人の命が助かるための選択であったこと。お前の従者は「必ず迎えに来る」とお前に伝えてくれと言われた事、そして、秦嘉平自身の言葉として、男として強くなれとの付け加えがあった。
春一はどうにか泣き止んだ。男として強くなることはそう簡単に出来ないが、父辰夫と自分が生きるため、「何時か父が迎えに来る」という言葉を信じたのである。それと、大泣きに大分疲れ少しではあるが時間の経過もあり、春一の心の諦めを植え付けたのも一因である。
春一の泣き止むのを一番待ち望んでいたのは、幼帝である。
幼帝は春一と話、遊ぶことにたった8年の人生の中で最大の喜びを得られるように思っていたのである。春一が泣き止んだことを知った建礼門院は、直ぐにでも春一を幼帝の傍にと考えていたが、何の官職も持たない、10歳そこそこの男子を宮中の中をうろうろさすわけにはいかないのである。
平家の総領である右大将平宗盛が、春一に官位と名を与えることとし、「六位蔵人」とした。
雪の御所内においては、ほとんどの官職が置かれておらず、当然官位を持っていてもその官位通りの機能はしておらず、有名無実の状態であった。
そのため、春一の官位に付いても臨時のものとして平家の息のかかった公家達が平宗盛の言うとおり奉文を作成し、簡単の儀式を執り行うだけで、春一の宮中での行動をよいものとした。
右大将平宗盛は、平時忠の意向で幼帝の影武者として春一を連れてきたと聞いており、春一には影武者としての役目があると聞いている。平時忠への配慮もあり、右大将平宗盛として春一をほっておくわけにもいかない。
平家にとって戦時下であり、官位官職はある程度自由に操作することができ、その一連の流れの中に春一の「六位蔵人」の官職がある。
六位蔵人の役目は、宮中での御膳の給仕であり、それなりに適任である。
現実は、幼帝の遊び相手である。
儀式は、春一自身何もわからない間に宮中内を連れまわされて行われた。回りは色々指図をするが、春一自身、言われるまま、連れられるまま動いているだけである。春一自身は何もわかっていない。
ただ、自分の名前は、六位蔵人、ここでは幼帝の遊び相手になること、だけは、わかった。春一自身それなら出来ることで、不安にはならなかった。
父辰夫が居ない事意外は。
一通りの儀式を終え、春一は幼帝の所へと足を運んだ。
幼帝の偉を知らない春一にとって、幼帝の所へ遊びに行くという感覚であり、やっとゆっくり出来ると考えていた。
確かに、「天皇の遊び相手として君は選ばれた。」と急に11歳の子供に言っても、子供にとって「遊ぶ」という言葉だけが一人歩きし、緊張など全く伴わない一つの楽しみにしか感じないものである。
春一も御多分にもれず、楽しいものとして幼帝のところに足を運んだ。
仰々しく、女官を先頭に春一が幼帝の居る部屋へと進む。春一は、気楽な気持ちでいたのにこの緊張した雰囲気は何か、何かたいそうな雰囲気で、「気楽に感じていたのに、無理にでも緊張しなければならないな」と思った。
幼帝が居る部屋の前で春一は女官に跪くよう言われ、座ろうとしたとき中から誰かが走ってくる音がした。周囲の女官が慌てて春一に跪くよう催促した。
春一は女官の指図に直ぐに反応しきれずに立っていると昨日あったあの子供が目の前に現れたのである。
直ぐに幼帝と分かったが、言葉は出なかった。女官や公家から言葉を教わっていた。
始め、座って頭を下げて、それから…・・春一は忘れた。
幼帝は、蹴鞠を手に持ち春一に正対する形で立って居るのである。
春一は思わず、右手を軽く上げ「よお」と声を出してしまった。
それに反応したように、幼帝が「ほい」と声を出して春一に向かって蹴鞠を投げたのである。
春一の体は正直で、その鞠に反応、得意のリフティングを始めてしまった。
春一を連れてきた女官の顔が蒼ざめていくのがはっきりわかった。
慌てふためく女官を尻目に、春一はリフティングを続けている。その横で幼帝ははしゃぎ喜んでいる。
幼帝のはしゃぎぶりから周囲の者は幼帝が春一の来るのをどれだけ待っていたかが伺われた。
その姿を見て、建礼門院は、春一に着いて来た女官を目で合図をして引き取らせた。
春一と幼帝はそのまま庭に下り、二人で遊び出したのである。幼帝は春一から教わることが目新しいものばかりで、その不思議な蹴鞠が楽しくて仕方がないようである。
次々と春一へ注文を出す幼帝、出来ないものは「無理」と一言で断る春一、その子供らしい態度が幼帝には快く感じ、幼帝も言い返す。
春一にすれば幼帝というより、学校でよくある、縦割り教育のように高学年の者が低学年を遊んでやると言ったもので、まさにその雰囲気で幼帝と接している。幼帝は、怒らない。春一が鞠をけっているとき、何か不思議な技が出てくるのではという期待があり、次をねだるといったことで、また春一は、それに応えられるからである。
普段の幼帝であれば、思うようにならなければ苛立ち、自分から遠ざける。
リフティングの遊びに飽きてきた幼帝を見て春一は、次の遊びを探し出した。
名前がわからないことに気づいた春一は、
「名前はなんていうの?」といきなり幼帝に聞いた。
聞かれた幼帝は、今まで人に名前など聞かれたことがなく、自分の名前なのにどう応えていいかわからない。しばらく考えて「帝と呼ばれている。」と応えた。
春一が
「帝」と一度つぶやき、ごく普通に「帝」と呼んだ。その呼び方が何か不自然で周囲に怪訝な空気が漂った。
それは、「ミカド」と呼捨てにしているような言葉の発しかたであったからである。
その空気を取り払うように部屋で控えていた建礼門院が「帝」どうされました。と声を掛けたのである。
「この者が次の遊びを考えているのじゃ」と応えると、すぐさま春一が
「しゅんでいいよ」と言った。
安徳天皇も今まで自分に接してきた者の話し方と春一が自分に掛ける話し方とは何か違うことを感じていたが8歳の子供にとって春一の話し方は親しみを素直に感じるのである。
安徳天皇にとって春一は、兄弟のような感覚に感じている。それは、大人の中にいつも置かれている幼い安徳天皇だからである。
何か自分と同じ目線で言い争ったり、笑い転げたり出来ることを欲していたのである。
母、建礼門院も安徳天皇が感じていることを同じように感じ、春一を見つめていた。
建礼門院は木曽義仲に京を追われ西国に逃れたもののその後平家が力を蓄え、京に向かって進み、この父清盛が作ろうとした福原の都に居ているにもかかわらず、流浪の幼帝の未来に光明が見えないのである。何かしらの不安を常に心に抱き、幼帝を見つめている。
建礼門院にとって春一という存在は、「国母と帝」から「母と子」になれる何かしら心の引き出しのような子供であったのである。
幼帝は、平宗盛から授けられた官職名である「六位蔵人」とは呼ばず、「春一」と呼ぶようになった。そして、春一は幼帝のことを意味は分からないが、「帝」と名前を呼ぶようになった。
鞠でじゃれあっている時間はそう長くはなかった。帝であるからといって朝から晩まで自由なものではない。春一と遊んでばかりいられないのである。帝としての教育はあり、それ自身厳しいものである。
幼帝が、その教育の時を知らされると何を思ったか、春一も一緒にと言い出した。
幼帝は、その帝の教育というものを春一にも一緒に受けさすよう教育係である式部卿藤原隆盛に言うのである。格式からいって帝と同じ席に座ることすら許されない者を一緒に教育を受けることなど許されるものではない。
礼儀作法に厳しい式部卿藤原隆盛、そのための教育係である。たとえ合戦を控えた陣中であっても、日本国の帝としての立居振舞いは美しいもので、何処から迷い込んだか分からないような子供と一緒に教えるわけにはいかない。
建礼門院の言葉でもそれだけは譲れない、と式部卿は頑として断った。
式部卿藤原隆盛にとって自分の存在価値はこの部分で、それを守ることで平家の時代から地位を守れてきたことを知っているのである。
安徳天皇にとって楽しみにしていた春一との時間は、短いものであった。春一と居る時間は、安徳天皇にとって今までにない心地よい時である。
また、明日といわれても、心寂しいものである。
自分が式部卿と部屋に戻るとき春一は帝が立去るまで頭を下げ跪かされている。
幼帝は、その場に跪かされた春一の姿が自分のせいであることは分かっており、幼帝は始めて人が跪いているのを見て心苦しく感じた。春一を早く立たせたい、春一から離れたくない、二つの心に悩まされながら安徳天皇は式部卿藤原隆盛と共に屋敷に上がり部屋に入って行った。
安徳天皇が去った後春一は、その場に取残された。庭先にぽつんと一人座っている自分に気づいたとき、何か空しいものを感じる。父が居ない空間、不安が一気に押し寄せる。
一縷の涙が落ちた。秦嘉平が言った父からの言葉を思い出した。
「必ず迎えに来る」信じよう。大好きなお父さんの言葉を
自分で涙に堪えた。今、自分の周りには甘えるための誰かはいない。
一人で何時までも座っていた。何をしていいか分からないのではなく、じっとしていたかった。一月の透き通った空気の中で息を整え、周囲を見渡すと今まで気がつかなかった景色が春一の目に映り出した。
この庭の美しさや雅めいたものは分からないが、人が作った庭なのにものすごく自然の中にいるように思えた。電柱やコンクリートの壁、遠くを見渡してもビルなど見えないからかもしれないが、もっと他の理由がありそうな気もした。
子供ながらもそんなことを考えていると気持ちが落ち着いてきた。
春一は、自分の部屋にとあてがわれている小屋のような部屋に勝手に戻った。
昨日から泣きながらも、御所の中を引き回され、今日も朝から儀式で引き回されて、歩いてみるとさほど広くない屋敷である。大体建物内のことも分かって、自分の小屋へ帰るのには困らなかった。
女官達は、春一が急にいなくなったため慌てふためいていたようで、息を切らすように春一の居る小屋に走って来た。
女官にとって春一の立場は微妙なもので、女官から見れば身分が低い新参者で何一つ遠慮することはないのであるが、やたらと幼帝や建礼門院が贔屓にしているので扱いにくい。
春一は、勝手に部屋に戻ったことを咎められ、その場合どのようにするかを叱るように言われたが、女官の叱っているようで叱りきれていない言葉か春一には滑稽に思えてしかたがなかった。
その様子を、小屋に前の庭先でくすくす笑いながら眺めている少年が春一の目に入った。
春一は、その少年が余計に気になり女官の叱る言葉が耳に入らなくなり、女官に対して間の抜けた返事を返してしまった。
女官はその間の抜けた返事に思わず怒り出したが、自分達の後ろから何か声がするのに気がついた。
女官は、「平清宗様、平能宗様」と声を出した。
二人は平家の総帥で春一に六位蔵人の官位を与えた平宗盛の息子二人である。
二人は、六位蔵人である春一に会いに来たのだが何やら女官と春一がもめているそのやり取りが面白そうなので黙って見ていた。
女官に気づかれた二人うち年高の方の清宗が、小ばかにしたような態度で、「もう、終わりですか、」と女官に言った。
女官は、春一に対して怒りが収まらない状態であったが、権力者の息子の目の前であまり醜態を見せたくないとの思いがあり、「はい、私どもは何時でも下がります。」と言って春一の開け放たれた小屋の敷居から外に一歩出て、その場に立ち止まった。
「その者と少し話がしたい、いいか」と年高の兄の方の平清宗が暗に女官に「下がれ」と言っているような感じで言った。
女官は、下がることに少し抵抗感があったようだが宮中護衛役の責任者でもある右衛門督を任ぜられている平清宗の顔色を伺い、何も言わず下がることにした。
女官が下がって、入れ違いに平清宗、平能宗兄弟は春一の居る小屋の中に入ってきた。
春一は女官と二人の会話を聞いていて女官の小言に閉口していたところで、ある意味自分にとって助け舟のように感じたが、二人の態度は学校の悪餓鬼っぽい雰囲気を漂わせていたため何か嫌な予感がした。平家の武将の者のようであるのは、ここへ来てわずかの時を過ごしただけの春一にも分かった。
女官に平清宗と呼ばれている兄が春一に近づいてきて
「お前は六位蔵人であるな」と春一を確かめた後
「私は、宮中の警護を任ぜられている平清宗である。我らの父はお前の名付け親じゃ、お前がどこの者か見に来た。」
春一にとってこの平清宗の聞き方は嫌な感じだ。見た感じの歳は自分とさほど変わりはないように思うが、自分に対する接し方は大人の命令口調でなんとも嫌な感じだ。「むっとする。」と思っていた。
平清宗より一回り小さい弟の方は、幼帝と同じくらいの歳のようで、さすがに兄の平清宗のように大人ぶっているところはなく、春一に対してもやさしい目を向けていたが、少しはにかんでいるようで伏せ目がちである。
春一は、弟の方も先ほど女官が名前を読んだが覚えていない。だから黙って、弟の方を見つめていると兄である平清宗が偉そうな態度で接してきているはずなのに、素直に紹介した。
「弟の平能宗である。」
平能宗は後ろ手で何かを持っているようで、もじもじしながら手前に持ち替えた。
鞠である。春一が幼帝の前で見せた蹴鞠の鞠を使ってのリフティングは、平家の中でも噂となって飛び交っている。当然、春一は何者かも含めて話が大きくなっている事柄もあるが、春一と同じ年頃の男の子にとっては興味津々なのは当然である。
大人達の世界では、源氏を追出し京の都を奪還するまでそういった浮かれたことはとの思いがある。公家や平家の公達の間であれほど夢中になっていた蹴鞠も、弓矢に変えているのである。武将や公家達は、春一について興味はあるものの、右大将平宗盛が六位蔵人という官位を与え、大納言平時忠や薩摩守平忠度が推挙していることから誰もこの結果について口を挟むものはいないが眉を顰める者もいる。
ただ、平家の武将といっても平清宗など十二・三の年頃の子供にはたとえ一群の大将を名乗ったとしても子供である。何処から降って来たか分からない、並外れて蹴鞠の上手な子供には一度会ってみたくなるのは当然である。
ましては、十にも満たない平能宗などは、いても立ってもいられないほど、見てみたかったのである。日ごろ弓矢の稽古か乗馬の稽古ばかりでもあり、変化のない日々を過ごしているから当然といえば当然である。
「泣き虫小僧、お前だ、蹴鞠がうまいらしいな、弟の平能宗が見たがっている。一度われらに見せてみい。」
平清宗の物言いは、何と横柄で威張って、嫌味な物言いか。泣き虫小僧だと、せめて「春一君」ぐらいは言えよと春一は思ったが、鞠を差出す平能宗の自分に対する期待に満ちた目が春一の顔をほころばし、春一は平清宗を無視し、平能宗に微笑みかけ両手で大事そうに持っている鞠を受け取った。
春一は平能宗の目が好きになった。同じ子供である春一であるが、安徳天皇といい、平能宗といいこの時代の子供の目は何と素直なのだろうと春一が思うのも何だか不思議であるがそう感じたのである。
春一自身、違う時代に来たことぐらいはわかっている。社会の授業で習った平安時代か鎌倉時代かその辺の時代だろうと考えている。ただこの時代の子供の目が気持ちいい目だと素直に感じられた。春一は平能宗の顔を見て、そんなことをなんとなく感じ取ったのである。
平能宗から受取った鞠を春一はその場で蹴り出した。
二人は、春一が蹴鞠をするために広い庭の方に出て行くものと思っていたのに、この狭い部屋で蹴り出したことに驚いた。
春一の住んでいた家の中には、ディズニーのゴムボールからバルサのマーク入りリフティングボール、おじゃみのようなボールなど家の中は「何処でもリフティング」状態になっており、押入れの布団が詰まれている場所はゴールになってしまっている。春一にしてみれば部屋の中でリフティングをすることは何時ものことで何のためらいもなく始めたわけである。
平清宗と平能宗にしてみれば、こんな狭い部屋で蹴鞠など出来るはずがないという先入観があり、その場所で始め出した春一に対して驚きであった。「こんな狭い場所で蹴鞠を続けることなど出来ない。」と思っているのである。
二人の思いは一瞬にして、「すごい」という驚きに変わった。
春一は、いきなり鞠をリフトさし、頭でのリフティングをするとそのまま首の後ろに回し、右腕を這わすように滑らせて右足に乗せた。
二人にしてみれば蹴鞠の概念から足以外の部位を使って蹴鞠をすることなど思いもよらないことで、ましてやこんな狭い、しかも天井の低いところでするなんて。
平清宗は、春一より一つか二つほど年上で、戦においては一群の将となる。そういった意識は当然春一に対してもっており、平家の総領である父、右大将平宗盛の子であることを笠に着てものも言う。
そんな清宗もやはり子供である。「楽しそうなこと、面白そうなこと」には必然的に無邪気になってしまう。弟の平能宗は年端もないため無条件に無邪気に喜んだり楽しんだり、駄々をこねたりすることが出来るが自分には許されないと思い込んでいる。
そういったことが、彼の心を屈折させてしまっているところがある。
春一と平能宗はいつのまにか春一の小屋を出て一緒に蹴鞠をしている。
平清宗は春一と能宗に付いて庭にでた。さほど広くないが春一と小さな能宗とっては十分であった。
能宗に対しておどけながら蹴鞠をしている春一を少し離れて見ている清宗は、弟と同じようにこの少年とふざけてみたい、という想いと、平家の右大将平宗盛の嫡男として自分に科せられているものを誇りという思いが交差し、自分を無理やり一段高い所に置かなければならないと考えている。清宗は、何時も子供として無邪気さを押し込み、大人のように振舞わなければならないと自分に科せている。
ただ、やはり子供である。自分を作り上げている思いで何も言出せない状態になっていた。
春一と平能宗は、無邪気なものでそんな清宗の心の葛藤から、一人黙り込んでいる平清宗ことなどには関心を示さず遊んでいる。
清宗はもやもやした気持ちに整理が尽かず、二人が無邪気に、楽しそうに遊べば遊ぶほど心のもやもやが怒りとなり、その怒りが内から増してくるのを覚えてきたのである。能宗の兄で平家の総領の嫡男という立場が一方で怒りを増幅さし、もう一方で押さえ込んでいる。
それが、その立場であるがゆえ怒りを爆発させれば、わがまま勝手な言い分で相手を平身低頭さすことができることに気づかずにいるのである。
清宗は、何も考えずに声を出してしまった。
「蔵人、無礼者、お前ごときがどんな技を使おうと、平家の者へのその態度はなんだ、たとえ幼帝の遊び相手として選ばれても、そちなど無礼を働けばこの場で斬り捨ててしまえるのだぞ、我が父平宗盛公が名を与えたとしても、お前など下僕と同じ者じゃ、」
清宗は、言葉と一緒に持っていた馬具の鞭で春一を叩きつけた。
春一は、いきなり怒り出した清宗が分からず、一瞬何が起こったかと思った。ただ、ものさしのような長い棒のようなものでおもいきり叩かれたことだけはしっかり分かった。地べたに這いつくばってしまった春一は、顔を上げて清宗をにらみ返した。
「いきなり、何すね、痛いやないけ」
清宗は、そんな言葉が返って来るとは思わなかった。
最初に見たときから変なやつだと思っていた。普通は驚きおどおどした目で、自分にひれ伏して許しを乞う態度に一変するはずである。少なくとも馴れ馴れしくいい返すことは絶対ない。誰だって自分が平家の長家の筋であることを意識し自分との間に分厚い壁を作って自分と向かい合う。
それが、この蔵人は、同じ高さで言い返した。しかし、そのいい返し方が自分にとって心地良く感じてしまったのである。
清宗は、蔵人に対して次の罵声の言葉を投げかけられなかった。顔が真っ赤にして怒り出したはずなのに、今度は顔が強張って何もいえないのである。
清宗には、何故そのように思ったか、何故怒りが収まってしまったか分からず、その整理が尽かない状態になってしまった。
清宗は能宗に「帰るぞ」と一言言い、一人庭先から出ていった。
残された、能宗は、「また来る。絶対また来るから。」と祈るような目をして春一を見て直ぐに清宗の後を追った。
春一にとって30分ほどの間の出来事ではあったが、心がぽっかり空きそうになった時間での出来事で少し心をしっかり持てそうになった。
ただ、平清宗に殴られたのではなく、物でしばかれた事は心の傷となっていることに春一は気づいていた。平清宗を恨んでいるのではない、この時代に来て平家の中で生きていくためには何処か諦めなければならないと考えていたからである。その諦めなければならない自分、強い者に巻かれる自分、差別的に扱われても辛抱しなければならない自分、そうなったことへの恨みである。
春一は、与えられた暗い小屋に入らず、そのまま庭先で能宗が置いていった鞠を蹴りだした。暗い部屋で一人になるのが嫌だったのである。父のこと母のことを思いだし、叶わないことを考え泣いてしまうからである。でも何時までも庭先で遊んでいることは出来ない。夜になれば布団の中で体を丸めやっぱり泣いてしまうのである。何時までも何時までも。
そして眠ってしまう。起きたら元の世界に戻っているのを願って。
小屋に朝が来た。
自分が今日一日何をするのか分からない。ただ言われるままに、そしてそれが済めばこの小屋で夜を向かえ一日を終えなければならないと思っている。
朝、女官は春一を迎えに来た。いつものように、何処へ行くとも、何をするとも、何も言わず春一を誘導する。春一はそれでいいと思っていた。どうせ聞いても同じ事だと思っていたからである。
春一は昨日幼帝が居た部屋に通され、部屋に入ったところで座らされた。女官にここで待っていなさい。と言われたのでじっと待つことにした。
そう、待たされることなく男が入ってきた。春一にとって嫌なやつ、藤原隆盛である。
春一は心に感じたことが直ぐに顔に出るタイプで、思わず嫌な顔をしたのを藤原隆盛に見られた。
藤原隆盛は、春一の嫌な顔を無視し、黙って正面を通り過ぎ向かって部屋の左手に座った。
かれは黙ったままである。春一は自分が嫌な顔をしたのを見られていたのは分かっていた。だから何か一言言われると思っていたのに何も言わずに黙って座っている藤原隆盛に不気味さを感じてしまった。
かれが入ってきてから直ぐに女官や何人かの公家が廊下側に陣取ったと思ったら、安徳天皇と建礼門院が入ってきた。
春一は昨日と少し違うなと思ったが、今度は何人かで蹴鞠をするのかと考えたぐらいで、まあ、どうでもいいかと思っていた。
すると、藤原隆盛が急に話し出した。
「春一よ、お前は右大将平宗盛様からの推挙で上様から六位蔵人の官位を授かった。が、官位のみで全く宮中での作法など知らない。そのことを危惧された建礼門院様が春一にも作法などを教えなければならないと言われた。今のままでは六位蔵人として宮中での給仕などの働きに差し支える。であるので今日からお前に私じきじき、作法などを教えることにした。」
藤原隆盛は、話し終わった後、建礼門院に向かって「これでよろしいかな」と一言言った。ようは、春一を幼帝の教育係である藤原隆盛が教育すると言う事を宣言したわけで、これで、春一は昼間、藤原隆盛と一緒に行動することになるのである。
幼帝の教育係の藤原隆盛の昼間はほぼ幼帝の傍で行動をする。その藤原隆盛の傍には藤原隆盛から教育と手伝いの名目で六位蔵人の春一がいる。昼間幼帝の傍に春一がいることになるのである。
こんなことを考え付くのは、建礼門院か二位の尼の考えのようで、藤原隆盛は、下げずんでいる春一に教育など全く必要とは思っていない。しかし、嫌とはいえなかったのである。
建礼門院は、独り言のように藤原隆盛に話しかけていた。
「男の方は夢を見るのが得意、女子には、先が見えません。ですから怖いのじゃ。今の我が子のことを考えずしてどうする。この子にはあの蔵人が必要なのじゃ。」
藤原隆盛は、聞いていたのか、聞かづか、少し肯くように顔を動かした。
春一にとっては、大変なことで思ってもいなかったことが起きたのである。藤原隆盛は苦手な大人である。
春一は、自分を教育するといっても幼帝のように手取り足取りと丁寧に指導するわけはなく、自分をこき使うだけではないかと思って
この日から春一の一日は忙しくなった。春一にとって何の役にもたたない行儀作法を教えられると共に、藤原隆盛の召使のように扱われるときがありヘキヘキした。
行儀作法は、春一一人に教えるのではなく、安徳天皇の目の前で行われた。安徳天皇にとって春一が困り果てているのを見るのが面白いようである。安徳天皇にとって春一が困っているのを見ることが楽しいのではなく、行儀作法については、春一に自分が教えて上げられることに喜びを感じているのである。
春一がどうすればいいか分からなくなっているとき、安徳天皇は春一の傍に来て手取り足取りと教えるのである。
この時ばかりは、安徳天皇と春一の歳の差は逆転しているようで、安徳天皇がまるで春一のお兄さんのようになってしまうのである。
安徳天皇が春一と遊ぶときは春一が次から次へと色々と遊びを考えだし、春一が安徳天皇を遊んであげているかっこうである。この行儀作法の時間で春一が安徳天皇の相手をしている形から安徳天皇が春一を世話する形へと逆転する。安徳天皇と春一との間にある心の重りはこれでバランスがとれ、五分五分ではないにしろ持ちつ持たれつのようになった。
この時代普通なら、天皇とただの子供の関係でありバランスが取れるどころか天と地ほどの開きがあっていいものであるが、春一はこの時代の感覚を持ち合せていないため理屈抜きで子供対子供と思っている。ただ回りの雰囲気で天皇は大事にしなければならないと感じているため、所々に遠慮を混ぜて安徳天皇に敬意を払っている。
所々にしか敬意を払わない春一が困り果てている姿は弱々しい。そんな時春一は、春一より年下である安徳天皇に助けを求めるような顔をするのである。
安徳天皇の満足げな顔は、二位の尼をも喜ばしていた。
他の公家や平家の武将と異なり、まるで自分より年下のように素直に困った顔をしているのである。地位があることや男子であること、大人の仲間入りをしている者であるといったことは全くない。何ともいえない人間らしさを感じているのである。その人間らしい子供である春一は安徳天皇が始めて出会った一緒に居ていて楽しい者である。
春一にとって行儀作法の時間は、小学校4年の時行っていた英語の塾見たいである。
塾では、一歩部屋に入ると話や会話は英語ばかり、外人に慣れる、英語の発音になれる。といったことが「売り」らしいいが、教えている外人教師が日本語を話せないだけで、それで金儲けをしているのである。
部屋に入って意味も分からず、アッポオやパーポルなど声を出しているのと、宮中での歩き方の勉強と同じようで言われるまましているだけで何も分からない、だから身につかずにいる。
春一はこういう意味の分からないことのくり返しの勉強は全く覚えられない。だから同じ失敗を繰返す。藤原隆盛に叱られ、安徳天皇に教えてもらうそんな繰返しである。
福原の御所と連なっている平家の屋敷では、安徳天皇の遊び相手として変わった少年が居ると噂となり、平家の中でも十代の若武者にとっては代わり映えのない日々の中で興味を引くことである。当然その噂に連れられて、御所へ警護の理由で向かう。
いつのまにか、御所では、幼帝である安徳天皇と春一ともう一人平能宗も加わって遊んでいるのである。平能宗は、春一とほんの少し遊んだことが忘れられず、父、右大将平宗盛に願い出御所付の警備となって毎日通っているのである。10歳そこそこの平能宗に警備が勤まるわけがなく、誰もが名目のみで実際は幼帝の警護だけでなく平能宗の警護も必要になったと考えているのである。
平能宗の兄平清宗は、元々御所警備を司る右衛門督に任ぜられており、同じ年頃の平家の仲間を連れて御所にやってきた。
もともと平家の嫡流であり、唯一平清盛の暴走を抑えられ、周囲からの人望も厚かったが若くして病で死んでしまった平重盛の子平有盛16歳、平師盛13歳、平忠房11歳と平家一知将で軍事面での中心的存在である平知盛の子平知章の4名を引き連れて春一の前にやってきた。
五人の平家の若武者が雪の御所に集まってやってくることなど有事の際ならいざ知らずまずはない。ましてや軽装で入って来ることもである。御所の警備人にしてみればただ事でない雰囲気に一瞬見廻れたが、平家の五人の者が十歳そこそこの若武者ばかりである事から、御所の警備の者は幼帝と六位蔵人を見に来た者と分かった。御所の中は一瞬のざわめきの後、直ぐに静まった。
この福原の街全体の空気であるが、もう直ぐ源氏が兵を進めてくるであろう、この街が戦場となるだろうと皆が考えているからである。
ほんの少し平家の動きに異変があると、周囲は敏感に反応し、騒ぎ立てるのである。
ある意味、平家の若武者はそういった中ですごしているのである。
五人は、幼帝、平能宗と六位蔵人春一の三人が遊んでいる庭に入ってしばらく三人の遊びを眺めていた。
三人は、蹴鞠の鞠で遊んでいるようだが、蹴鞠をしているようではない。鞠が宙に浮いていないのである。普通蹴鞠は鞠を優しく宙に浮かべ相手が蹴りやすい様にして、突いていく遊びである。どう見てもそれとはだいぶん異なっているようだ。鞠を足で転がしているのである。考えて見れば鞠は丸く転がすことは道理である。
春一が足で転がしている鞠を幼帝と平能宗が二人掛りで奪おうとしている。しかも、足だけである。その動きは蹴鞠のような優雅でゆったりとしたものではなく、春一の動きには、激しく、強く華麗に見えて、見ている者を引き込んでいるのである。
五人には見たこともない鞠の遊び方である。
それと同時に幼帝と平能宗と春一の遊んでいる姿に驚いた。
幼帝や春一が遊んでいる姿は、真剣そのものである。三人の動きの中には、天皇だ、平家だ、家人だといった境はまったく感じられず、一つの鞠の中に吸い込まれるように熱く動き回っているのである。
宮廷で過ごしてきた者には理解できない光景である。
しかも、中心となる鞠は春一の足元にある。
幼帝と平能宗は春一からなかなか鞠が奪えないでいる。春一は二人に挟まれたかと思うと鞠と共にするりと擦り抜け、二人から離れ、また二人が奪いに来るのを待つ。
五人は、幼帝と平能宗が春一からなかなか鞠が奪えないでいるのが分かる。それをじっと見ている五人は、自分なら春一から鞠を奪えると思い始めた。
「何をしている。何故春一は幼帝に鞠を譲らないのか、」と始めは、怒りすら感じていたが、それを眺めているうち実力で奪いたいと五人は体中むずむずしだすのが分かった。
特に平知章は今にもとびだしそうになってきたのである。
たとえ武将といえども、14歳の少年、遊びの本能は隠せない。
平知章は、五人から抜け出し三人のもとへ駆け出した。そして、春一から鞠を奪おうと春一に向かった。春一は一瞬、何かと思ったが、「鞠の奪い合いに一人増えたな」と思ったのみで、三人を相手に鞠を蹴りながら逃げ出したのである。平知章は今春一たちが行っている遊びが、「足だけで鞠を奪い合う遊びであろう」と感じとっていたので春一に足だけで挑んだ。
春一は、三人の間を擦り抜けようと平知章と幼帝の間に体を寄せていった。知章と幼帝は、春一に目が向いた。鞠が平知章と幼帝の目から一瞬消えたのである。
春一が擦り抜けようとした間に鞠を通さず、平知章の左側に鞠を通し春一は平知章の右側を擦り抜けたのである。それを見ていた平師盛が飛び出してきて、鞠を奪ってしまったのである。
平師盛が鞠を奪った瞬間、春一が「参った、もう、限界、しんどい」と言って地べたに座り込んでしまった。
平師盛は、陽気に笑って、足で鞠を操りだした。春一の真似をしだした。鞠を足でこねくり回してみたがうまくいかず、それを今度は平有盛が簡単に平師盛から奪った。
平有盛が、この遊びによってきたことにより五人の平家の若武者は気兼ねなく遊ぶことが出来た。普通なら「平家の者がこのような六位蔵人ごときの者の遊びに寄るものか。今遊んでいる幼帝を助け、平能宗を叱らなければならない。」と理屈で感じていたのである。
それをしなかったのは、五人が皆、幼帝、平能宗、春一の遊びに魅力を感じていたのである。そして、五人の中で長となる平有盛が遊びに寄っていった。
平有盛については、名目上の大将ではなく、平家の中で、一軍の大将として扱われる存在だからである。その平有盛が春一の遊びの続きを始めたことは、他の平家の武将が心に持っているわだかまりを消す役目がある。
平有盛の参加は、残る平清宗、平忠房をもその輪の中に吸い込んでいった。
輪の外でへばっていた春一も、また立ち上がって輪の中に入っていった。
平家の五人は何でこんなことに夢中になっているのか、
天皇とこのような激しい遊びをしていいのか、
この中で一人鞠を支配している春一という者と一緒にこのようなことをしていていいのか、
疑問と不安に駆られているが、みんな少年である。楽しいことに夢中になってしまう本能がある。
みんなが汗を掻き、激しく体を当たりながら一つの鞠を追いかけているのである。
急に春一が「4対4でやろう。」と大きな声を出した。
一瞬動きが止まって、春一の方をみんなが見た。
「何を言っているのか。」である。
春一は周りの平家の武将である少年達が心に重くのしかかっているものなど全く気に掛けることなく、話を続けた。「4人と4人に分かれ、試合をしよう。枠とゴールを作るから4人と3人の組を作って。」
平清宗が何か言おうとしたが、安徳天皇が「わかった」と一言、それを聞いた春一は落ちていた木の棒で線を引き出した。ちょうどフットサルぐらいの大きさの四角い枠の線を引きゴールになる何か目印を探し出した。
平清宗は、「こんなことは出来ない」と言いたかった。が、何か楽しそうなことが起こりそうな気がしてたまらなかった。春一の何の屈託もない、誘いに自分達が心地良いものを感じていることはわかっていたのである。
こんな気持ちは平清宗だけではない、みんなも同じである。だから平清宗が話そうとしてやめたことに黙って見ていたのである。
安徳天皇と平能宗がいつのまにか勝手に四人と三人に分けていた。
安徳天皇、平能宗と平忠房の年少3人組と平有盛、平師盛、平清宗と平知章の四人と分けたのである。
年少三人組には春一が入るのが分かっているので、これで決まりとなった。
春一の実力はみんながわかっていることで、いまさらとやかくは言わなかった。が年長四人組は心の中では密かに春一を負かしてやろうと考えていた。
そういう気持ちになること自体が、少年達の心を高揚させていることにほかならないのである。
春一が庭にフットサルコートほどの四角い線を入れ、周りをうろうろと何かを探しているように歩いていると、安徳天皇が春一に声を掛けた。
「春一、何か探しているのか。」
「ゴールになる目印で、何かいいものないかなと思って探している。」
こんな春一と安徳天皇との会話を聞いた五人は、春一に対して嫌悪を感じると同時に何か羨ましさ感じた。五人はこの春一の幼帝に対する態度を誰かが咎めるのではと思ったが五人が五人とも誰かがの思いがあるのか、誰も咎めるものは居なかった。
幼帝は、春一に問い返した。
「どんなもの」
「コーンのようなもの」と春一は言いかけてやめて、「何か目印になるもの。」と答えた。
安徳天皇は、どこからか黒いコーンのようなものを持ってきた。それを見た春一は
「グット!」と一言、安徳天皇は何かまじないの言葉かと思ったが春一の笑顔から想像してきっとこれでいいのだと感じた。
黒いコーンのようなものを両サイドに置いてコートの出来あがりである。
黒いコーンのようなものが何かは、春一以外は皆知っていたがそこは皆、子供だから遊び優先の感覚からか、黙っていた。
春一は7人を集め、これからすることを説明し出した。皆は春一の国でしている蹴鞠であろうと考え、自分達が知っているものとさほど変わるものではないと思い春一の説明を聞いていた。
「まず、この四角い枠がコートと言う。両側に黒い物が置いてある。あれに鞠を当てるとゴールと言って一点、鞠は、手以外のどの場所を使ってもいいから仲間四人で協力して点を入れあう。3点先にいれた方が勝ち、とりあえず試しに一度やってみよ、」
「帝と能ちゃんと君名前誰だっけ、」と春一が平忠房の方を向いて言うと、平能宗が「平忠房」と応えたので、春一は直ぐに「忠ちゃんと僕」と言って「四人がこちら側、あとの四人がそっち」。
幼帝と平能宗が補佐しながら春一が次から次へと段取りを決めていくのを他の平家の五人はただ呆然と聞いてしまったのである。
春一の話す言葉の中には平家の公達の中で聴くことがない言葉ががよく出てきて、戸惑うが、それより、春一が話しているのを聞いていると、この者は自分達の世界と違う所から来た者と思い、身分の違いを無視した言葉や行動を平気でする。
ただ、その言葉や言い回しに何故か不思議に腹が立たない、というよりか心地よいものを感じる。
平家の若武者達は、今まで感じなかった話し言葉の力をみた。
全く同じセリフを話しても、人によって変わってしまうのである。恐らく「春一だけであろう。」と皆は判っていた。
身分の壁を平然とすり抜けている。
それに幼帝である安徳天皇が春一と同じ高さに立っていることである。権力を持っている自分達の位置は子供ながらも分かっている。その自分達が崇めなければならない天皇と同じ目線で話す春一。
許してはいけないことであるが、肝心の天皇やその母、建礼門院などが許してしまっている。
とりあえず、この雰囲気の中で春一が話す遊びが始まったのである。
「始めは練習な、勝ち負けは関係なしでやろう、」と春一は言って鞠を蹴り出した。
みんなは、春一が一人で鞠を転がしていくものと思っていたが、春一は直ぐに「帝!」と呼んで鞠を帝に向けて転がしたのである。
受けた帝は鞠を足で転がして黒いコーンのゴールに向かった。春一とだいぶん遊んだのかそれなりにドリブルになっているのを見て春一が、「忠ちゃんにパス」。帝はパスの意味を知っているようで、平忠房に鞠を出した。平忠房は自分の足元に来た鞠を始めどうしていいか分からなかったが、とりあえずあのゴールに当てれば1点であることが分かっていたので、それに向けて蹴った。ビギナーズラックというものか、ドンピシャに当たった。
一番びっくりしたのが本人であるのは、どの世界でも一緒で「ゴール」の声を出して走り回って平忠房のところに春一と帝が走ってきた。
帝に肩を叩かれ「1点」と言われ、平忠房自身高揚してしまった。忠房の走り回っての喜ぶ表現は自然発生的なもので、全員を一瞬にしてこの遊びにのめり込ませてしまった。
面白くないのは年長組の平家衆である。始めは練習と言っていたものの、やはりこう鮮やかに点を取られると何かやり返さなければ、年上の面目が立たないと思ってしまった。
「練習は終わり、」と平知章が鞠を持って真中に置いた。
「さー始めるぞ、次はおれらからだ。」と言って、一人で蹴り始めた。春一は始めっからディフェンスに徹するつもりでいたらしく、直ぐに後ろに下がった。帝と平能宗と平忠房の三人が平知章から鞠を奪いにいった。
鞠を足で転がすという動きに慣れていない平知章は、やる気満万の平忠房に取られそうになる。平知章は取られたくない思いで黒いコーンめがけて鞠を蹴るがゴール前では春一が待ち構えており、鞠を取った春一は、手を広げ「両サイドに開いて」と言って、不思議なもので、初めての言葉でも自然と二人は両サイドに開き、右サイドに開いた帝に鞠を渡した。帝は直ぐに平能宗に繋ぎ、また平能宗は平忠房に渡そうと鞠を蹴った。
もちろん、さっきのようにうまく行かない。
平有盛は、さすがに年高もいっているだけあって、春一の動きをずっと見ていて、春一の真似をするようにゴール前に張り付いていた。
春一に少し教えてもらっただけの安徳天皇や平能宗の実力では、ゴール前に一人張り付かれてしまえば、そう点は取れない。ましてや始めてやった平忠房では無理である。
ただ年少組は、春一が鞠を持てば必ずゴール前に走って行く、その繰返しは確実にチャンスが生まれ、逆に春一が鞠を持ったら、年長四人組はピンチになるということである。
帝と平能宗は、何度も繰返す攻撃に慣れてきて、二人とも一点ずつ入れた。
平忠房も帝と平能宗の真似をする形で少しずつゴールに近づいているようであった。
年長組は、一方的な攻撃にいらいらが募ってきて乱暴になってきたのである。
始めは安徳天皇がいるため怪我をさすようなことがあってはいけない、と考えていたが、そこはやはり子供である。そんな意識は勝負が始まりだし不利になるとだんだん薄れてきて、相手が安徳天皇や年少であることなどお構いなしになってくる。
何かいらついた雰囲気になって来た時、春一と同じようにゴール前にいた平有盛から声がとんだ。
「幼帝が居る。むきになるな」と後ろから声を掛けられた。それと同時に
「鞠をみんなで持っていけ、蹴鞠は得意だろう」と声が掛かった。
自分一人で鞠を転がすことばかり考えていた年長四人組は、自分達は、少なくとも春一を除く三人より蹴鞠は得意であることを、考えた。
「蹴鞠は、みんなで鞠を蹴り上げて続けていくこと、この遊びはとりあえず相手のゴール前に鞠を運ぶこと。」
そうして考えていくと、単純に四人で蹴鞠のように鞠を蹴り上げ、繋げていくことで相手ゴール前に運んでいけばよいので、そのことを一人、二人とやりだすと自然に鞠は繋がりだした。
こうなれば、蹴鞠では劣る帝や能宗、忠房、鞠を上手に頭の上を越されゴール前まで運ばれる。春一が上手く一度二度とゴールを防ぐが、そう何度も防げない。
平師盛がゴール前に上げた鞠を清宗と知章が同時に突っ込んできた。二人とも自分が点を決めたいという気持ちが先立っていたため周りが見えず足だけで突っ込んできた。
それには春一もたまらず逃げてしまい、二人同時にゴールを決めたのである。
二人は大はしゃぎでコートの中を走り回った。今までにない達成感を味わったのか、能宗や忠房のような年下に先を越されたことで、相当鬱憤がたまっていたのか、おそらく両方であろう。
人を剣や弓矢で倒すこと、すなわち人を殺すことが彼らの役目である。そのために稽古や修行がある。若い彼らには平家の世界を維持するための手段で楽しいものではない。当然そういったものに心が熱くなることがない。
それが、この遊びで彼ら自身、知らず知らずのうちに気分が高揚し今までにない喜怒哀楽を感じていたのである。心が熱くなるのである。
この1点は、清宗と知章を相当気分よくしたようで、次からは面白いように鞠を回し、チャンスを作っていくのである。
春一は、今まで自分が特別上手く、少し手を抜くぐらいで十分戦えると考えていた。このゲームが始まってからの春一の態度は、確かに少し鼻につくところがあり、そういった態度がよけいに清宗や知章を駆りたてたのである。
今は、防戦一方で、必死になってディフェンスをしなければならず、帝や能宗すら当てにならず、ましてや忠房は完全に機能していないのである。
元々蹴鞠で鞠扱いには慣れている清宗、知章に加え今まで後ろから鞠を前に蹴っていた平師盛までもがゴール前に入ってきて、春一を翻弄するように鞠を三人で回し、ゴールを狙ってきた。
春一は師盛に競るが師盛の見様見真似のフェイントに翻弄された。
春一は思わず「一体何処で覚えた。凄い」と声を出した。
春一が情けないほど振られ三人にゴールされ二対二とされて、今まで負けてもいいかと思って遊んでいた春一が完全に本気モードになってしまった。
春一が開始早々、「能ちゃん、鞠を後ろに回せ」と春一が鞠を要求した。この遊びが始まって春一は一度も鞠を要求していなかった。一番後ろでディフェンスに徹しており、そこから前を眺めていたのである。
春一自身、みんな始めてする遊びで、春一から見れば小学生低学年程度のことしかできないだろうと高をくくっていた。
しかし、よく考えてみると鞠で遊ぶということは、この時代の者が一番慣れている道具で遊ぶということで、必然的に遊び方が分かればそれなりに出来るということである。
帝や平家の若衆六人も蹴鞠で身につけた技術がある。蹴鞠ではただ鞠を蹴り続けて落とさないというだけの遊びで、何処か公家や高貴な身分の者の嗜みのようなところがあり、若い者には、体が踊るような楽しみがなかったが、春一が教えた遊びには、爽快さと悔しさが盛り沢山、自分の技術を駆使し相手と争い勝つ、一人だけでなくみんなで勝つ、勝った時の爽快さ、負けた時の悔しさ、そこに心踊る思いがあるのである。
悔しければ悔しいほど。
爽快さと悔しさを一番強く感じているのが平清宗である。
春一が平能宗から鞠を受けると、一人でドリブルをしだした。鞠が浮いていると平清宗などは得意であるが、春一のように転がして行かれると平家の者には不慣れで思うように春一に立ち向かうことが出来ない。
春一の動きを止めるためにはどうしても体で止めにいってしまう。春一も体で止めに来られても、一人二人と交わすことが出来たが、春一がいつも使っているサッカーボールではない蹴鞠の鞠である。春一自身真剣にドリブルしだすと思うように行かない。そこに激しく体が来る。春一自身ついつい鞠をキープするために激しくなってくるのである。
春一が二人を抜き去り、ゴール前で平清宗が立ちふさがった状態になった。
平清宗の激しい当たりに春一も負けずに体で返す。平清宗にとって体での勝負なら負けないとの思いで春一により激しく返す。
平清宗は、春一が体できたことに対抗し、体で返しだし鞠を奪うことを忘れてしまったのである。
春一は、サッカーでの体の使い方は一枚も二枚も上である。体できた平清宗を今度はいなし、すり抜けた。擦り抜けられた平清宗は、大きく転倒、転倒と同時に春一に軽く交わされたことに悔しさに溢れてしまった。
思わず「おのれ」と言う言葉と同時に春一の体を後ろから足で蹴ってしまったのである。
春一はもんどりうって転がった。
平清宗は、あまりの悔しさに春一を蹴ってしまったのである。蹴られた春一はまさかここまでしてくるとは思っておらず、蹴られた痛みと「何をするのだ」との気持ちで平清宗を睨んだ。
今までその場所に漂っていた遊びの精神、スポーツ精神と言うものかが一瞬にして無くなり、険悪な空気が漂ったのである。
平清宗は、春一が睨み返したことで悔しい気持ちの増幅が止まらなくなってしまい、「お前はいつも、でしゃばり過ぎるのじゃ、平家の者を何と心得ているのだ。」と言って、立ち上がり、もう一度春一を蹴ってしまったのである。
平清宗が振り上げた拳は、何もなくそう簡単に下げられない。誰かがそれを止めなければ、と周りは思った。
年長である平有盛は、あまりこだわりを持たない静かな男である。平家の年若い者の中で一番年長という位置だけで、平家の若い者を束ねる役目があるが、実際には、流れに任せる方であまり口を出さない。
周りは、平有盛に期待した。何か言ってくれることを、当事者である平清宗自身も心の何処かで、誰かに止めて欲しいと思っていたのである。
平清宗自身、幼い時には後白河法皇に寵愛され、京を離れてからも父右大将平宗盛の威を借りてわがままをよく言っているが、後でいつも心の何処かで後悔している。
今も同じ心向きである。
その後悔が心の何処かで「誰か、この振り上げた拳をおらさしてくれ」と叫んでいたのである。
春一と平清宗が対じして止まってしまった。平有盛は何か言おうと思うが何も言えず止まっている。一瞬どうしようもない時間がそこに留まっている時である。内裏の建物の奥から大きな声で「誰か、私の烏帽子を知らぬか」と声が聞こえた。
藤原隆盛である。
隆盛の声が内裏の春一が作ったコートが見渡すことが出来る廊下のところまで来て、春一達が遊んでいるコートを見て急に顔が紅潮し、目が釣りあがり、体が震え言葉を失っていたのである。
平家の若武者は、藤原隆盛の怒りの理由はうすうすわかっていた。
春一は、藤原隆盛のことなどどうでもよい、平清宗とのことが先である。
鞠を取れなかったからといって暴力に訴え、自分を蹴ったことに腹が立ったのである。
個人対個人の関係に置かれると春一は弱い立場であるからである。何も言えず下を向いて絶えなければならないからである。
春一は、平清宗がこのまま平家を振りかざすのであれば、じっと下を向いて我慢しようと思っていた。しかし、この試合の決着はまだ着いておらず、試合を続けるのであれば何か一言ぐらい言おうと考えていた。だから、周りが藤原隆盛の方に気を取られていたのに春一は平清宗を注視していたのである。
藤原隆盛は、帝と他居並ぶ平家の若武者、そして六位蔵人の春一を見て、迷うことなく春一を目掛けて歩いて来た。倒れている春一の前まで来たら、手に持っていた扇子のようなものを振りかざし何も言わず春一に打ち付けた。
「お前であろう、私の烏帽子を地べたに置いて、あのようにぼろぼろにしたのは、えいお前でなくとも、お前がこのような遊びを考えたのであろう。全てお前のせいだ。」
春一は何を言われているのか分からなかった。骨まで届くような打ち方で叩かれた。その痛みが耐えられず、ただ泣くのみであった。
事の成り行きなど春一にとってどうでもいい。この痛みから早く逃れたい、鬼のような形相の藤原隆盛から離れたいの一心であった。
泣きながら、何も分からず
「ごめんなさい、ごめんなさい、すみません、すみません、もうしません」その場から逃れる言葉を繰返した。
春一は怖くて怖くて、ただ謝り泣き続けたのである。
春一は,遊びに夢中になり,今自分が何処にいるのか忘れていたのである。ここには自分を護ってくれる人は一人もいない,自分が生きていた時代と全く異なった時代で,異なった場所に今いること,その現実に一気に引き戻されたのである。
それに気付いた事による恐怖と容赦なく打たれる恐怖が春一を追いつめたのである。
12歳の子供に出来ることなど何もない。ただ意味もなく謝り続けていくことしかない。
そうすれば逃れられるように思ったのである。
藤原隆盛は春一が謝り泣くことで自分の怒りが,正当化され、より激しく怒り出した。
今まで心に思っていたこの少年への忌々しさ,それを一気に晴らすようにたたいたのである。
春一が苦痛に満ちてなく声は,内裏中に響き渡った。
そのとき、平忠房が声を出した。「帝、どうなさいました。」
安徳天皇が急に泣き出したのである。平家の者達は何も言えず、傍観している自分達を恥じていた。「何かきっかけが欲しい、何かきっかけがあれば言い訳を言えるのに」と思っていたのである。
烏帽子をぼろぼろにしたのは春一一人ではない。みんなである。今春一一人が打ちのめされている。さっきまで春一と敵対していた平清宗までもが泣きそうな顔になっていたのである。
「私が、烏帽子を持ってきたのである。春一を責めるな。」
安徳天皇は泣きながら必死になってこの言葉を言ったのである。安徳天皇も子供である。大人の怒り心頭な顔を見れば怖くなり黙ってしまう。藤原隆盛のそのような顔を見たとたん、怖くて自分が烏帽子を勝手に持ってきたと直ぐ言えなかったのである。
他の平家衆も同じようなもので、武士といえども子供である。大人が怒り心頭な顔で来られればたじろぎ、萎縮してしまうのである。
でも、各々は分かっていたのである。自分も責任があることを、それなのに春一一人が責めを負っていることに苦痛を感じていたのである。
烏帽子を持ってきた安徳天皇はそれでも言わずにはいられなかったのであろう。
藤原隆盛は、安徳天皇の言葉は聞こえてない振りをした。
春一を痛みで気を失うまで打ち付けた藤原隆盛は、気絶した春一を見て何か満足したようで、今までの鬱憤を晴らしたような顔をしたのである。衛府に小屋まで春一を運ばした。
藤原隆盛は、「帝、時間ですぞ。」と一言だけ言って、平家の者の誰とも目を合わさず内裏の奥へと入っていった。
安徳天皇は,藤原隆盛の後を着いてきた女官に促されて,内裏に入っていった。
藤原隆盛は,帝への教養の時間を知らせ,何もなかったような態度で消えていった。
血を滲ませた衣服が痛々しい春一は,気を失ったまま戸板に乗せられて運ばれていった。
それを見ていた平家の面々は何も言えずただ良心の呵責に耐えて,立っているのが精一杯でその場から暫く動けなかった。
平知章が「武士としてしなければならないことがある。」と一言言って,動き出した。
庭に描かれた四角い線,両サイドにぽつんと置かれた烏帽子を恨めしく見つめながら,蹴鞠の鞠を拾上げ,烏帽子を取上げた。
平知章が言った言葉は,各々がそれぞれの想いで受け止めた。
春一は自分の小屋に閉じこもったままであった。この時代にきて初めて知った恐怖から立ち直れずに閉じこもったままである。
身体の痛みを理由に幼帝の御前に出ることを断っていた。
建礼門院の使えの女官から催促され,二日目に内裏に出ていったが,春一は完全に萎縮してしまい,身体が角へ角へと行き,幼帝を避けるように離れて,言葉使いも畏まってしまったのである。
安徳天皇は,そんな春一を何とか元のような春一に戻ることを願って,春一に気さくに声を掛けるが,春一の視界には藤原隆盛が入り顔を上げようとしない。
藤原隆盛もあえて春一が宮中に出向いてきたときは顔を出し威嚇するのである。
宮中においてはしきたり等藤原隆盛が一手に統括しており,建礼門院も藤原隆盛を下がらすことが出来ないのである。
二位の尼は,蹴鞠も出来ない,幼帝の相手も出来ない,そんな六位蔵人である春一など必要がないと思い,本来の六位蔵人の役目でもある宮中の雑務をさすように言い出したのである。
「そこの子よ,お前はもうこの場所に来るのはよい,蔵人頭のところへでも行き雑務でも申し受けよ。」
建礼門院は,何か助け船でも出したかったが,今の春一には仕方がないのでは,と感じていた。幼帝は,辛かったのか下を向いて春一を見られず,寂しそうな顔をしているだけである。
藤原隆盛は,二位の尼の言葉を聞いて,この宮中内に居る春一を睨み付けた。そして,直ぐ女官に「そこの小僧を早く連れていけ」と促した。
春一にとっては,何をどのように言われてもかまわなかった。この息苦しい場所から離れられさえすればそれでよかったのである。
二位の尼の言葉を素直に受け取り,女官に促されることなく,その場所から出ていったのである。
安徳天皇の思いは異なっていた。9歳の子供として春一が出て行くのを見ていたのである。
春一と出会って5日ほどしか立っていないが,安徳天皇が生れてきて初めての子供らしい気持で過ごせた5日間であった。
春一が一人叱られたことへの「悪い」という気持。春一が離れていく寂しい気持,そして春一と遊ぶことが出来なくなる辛い気持が一緒になり,心を覆っている。
安徳天皇は,自分に出来るのは建礼門院にすがることのみであるが,建礼門院も二位の尼に従っている。
唇を噛み締め心の中で「なんとかなってほしい」と思うのみである。
春一がこの部屋から出て行き,この部屋に戻ることがなくなり藤原隆盛は意気軒昂としているように思えるほど大きな声で安徳天皇に講義を始めた。安徳天皇と周りの雰囲気などお構いなしである。春一が居た時のたった三日間程の講義は、何故かその場の空気が違った。今の講義と完全に空気が異なっていた。
安徳天皇だけが感じているものでなく,その場に居たものは、はっきり感じた。
春一の呆けた質問や必死にやっているのに間の抜けた行動は周囲を和ましてくれた。藤原隆盛以外は。
藤原隆盛の講義は淡々と進んだ。
春一が出て行きしばらくしてからである。諸衛佐(宮中の護衛を司る役人)が右大将平宗盛の昇殿(宮中に昇る事)を言いに来た。
藤原隆盛が「何事でございましょう。政で御座れば,わざわざ昇殿されずともよいもの。あの方子煩悩で御座いますから,平清宗様か平能宗様の何か頼みごとで御座いましょう。」といつもの事のように話した。
平宗盛は,自分の子供の事となれば善し悪しの見境へがつかないほどで,平清宗は若くしての正三位,右衛門督への異例の出世など典型的な例で,二男の平能宗も従五位上の位を頂いており,何かと子供に構ってしまう。
右大将平宗盛は平家の主流派の嫡男として総領の地位にあるが,戦の事に就いてはあまり口を出さず,自分の家を護りたいという思いと,子供の幸せな顔を見る事に生きがいを感じている。
そのため,子である平清宗や平能宗の動向は常に気に掛けており,その事は平家の中でも宮中でも有名である。
平宗盛から発する帝や公家への要求のほとんどは、政治的若しくは軍事的な要求はなく、そのため平家としての在りようとしての大流にはさほど影響もなく害もない。
平家の家中では笑って流している。
宮中ではそうはいかない。公家の中では、宮中での権威をないがしろにされ、官位を私物化しているところがあり、清盛の傲慢さほどではないにしろ藤原隆盛からすれば不愉快なことであった。
ただ、藤原隆盛にしても今の状況は、平家の傘の下に居ることは確かでこの傘から離れることは死を意味するものと思っていた。
その事から,藤原隆盛の言葉は,皆のものが「当たらずとも遠からず」と思っていた。が、それは藤原隆盛が平家に対してできる小さな失笑であった。
右大将平宗盛は、帝の前に出て決まりきった挨拶を始める。周囲のみなのものが笑いをこらえるほど挨拶が下手で、当人の平宗盛も分かっていた。そのため平宗盛が昇殿するときは決まって頼みごとで、皆がいう「当たらずとも遠からず」はこのことであった。
とりあえず、帝の前であり、下座で口上を述べているが、とりとめもない話が続き何を話しに来たのか分からない。藤原隆盛も平宗盛の機嫌を損ねるようなことは言えず、口を挟まずいらついていると、痺れを切らしたのか二位の尼が、平宗盛の話に口を挟んだ。
「そなたは、六位蔵人の春一の処遇を話しているようじゃが、春一は今六位蔵人としての役目があり、下がっている。その春一をどのようにせよと言っているのじゃ」
さすが、平清盛の妻時子であり、平宗盛自身の母である。
二位の尼の一言にたじろいた平宗盛を見て、二位の尼の宮中での力を周囲は感じた。
平宗盛は、ようは、春一を今までと同じように自由に宮中で遊ばして欲しいと言いたいのである。宗盛の子、平能宗の願いのようで、平清宗も同じようなことを父である平宗盛に話しているのである。
しかし、自分の子供が六位蔵人である春一と遊びたがっているから、六位蔵人の役目をほったらかして、遊び相手に欲しいとは言えず、ましてや春一の役目は帝の影武者としての立場もあり、どのようにすればよいか宗盛自身分からず、とりあえずこの場所に来たのである。
平宗盛は子供に対していつも気に掛けており、我が子はもちろん他の平家衆の子供に対してもである。子供の遊ぶ姿を眺めているのが好きで、自分が平家の棟梁として頑張るのは、この子らを幸せにしたい。苦しむ顔は見たくない。の思いが常にあり、行動の基準もそこにあるのである。
木曽義仲が京に攻め上って来た時も戦うことより、まず安全の確保を優先し、西海へ行くことにした。瀬戸内海の制海権は平家にあり、源氏には船の一隻もない。
まず、平家の安全を確保するところからの発想で事に当たるため、平家の中では弱く、優柔不断に思われるのである。確かに少しはそういったところがあるが、平宗盛の本質は、自分の子、自分の家族、平家の仲間、そういった家族思いの優しい男なのである。
二位の尼は自分の子である平宗盛のことはよくわかっている。何が言いたいかも。
平宗盛が「どうでしょう、六位蔵人を我が屋敷へ遣わしてくださることは、成るまいか、我が屋敷において教育し、立派な影武者とします。」
それを聞いて直ぐに帝が声を出した。「それはいけない、春一はこの屋敷に置いておくのじゃ、私の影武者である者がよそに行くことは成らん、」
帝の言葉は周囲をびっくりさせた。これほどはっきり威厳をもって事を否定されることはまずないからである。10歳の帝、幼帝と言われる帝である安徳天皇の言葉として周囲のものを驚かすと共にその言葉の重みも含めて春一は、平宗盛に預けることはないと判断された。
それは、平宗盛もそのように受け止めたのである。
一言「御どもにお預け頂けぬか」
そこに、蔵人頭である平資盛の参内が女官によって告げられた。
静まり返った部屋に女官の声が流れたため、止まった空気が流れ出した。
二位の尼が一言。
「今日はよく客が来ること」
蔵人頭平資盛も平宗盛と同じようなことを話し出した。平宗盛と異なるのは当代一流の歌人と言われただけあって、理路整然と話しをした。
「蔵人頭の職として六位蔵人である春一の所業の責任と教育の役目は当方平資盛の責任とされ、そのため春一は平資盛の屋敷で預かりたいと考えますが御了承を」
幼帝には、平資盛が何故春一を預かりたいと言いに来たか分かっていた。春一と一緒遊んだ平有盛、平師盛、平忠房の三人は平資盛の弟である。
その三人に言われて、春一を助けに来たのであろう。あの時春一一人が折檻を受け、全ての罪を被せてしまったことに対する罪悪感、卑怯さは自分も含めて平家の若衆も心に傷を受けている。と安徳天皇は思っていた。
だからこそ、安徳天皇自身、自分がその罪滅ぼしがしたいと考えていた。
同じように平家のみんなも同じように考えていたのである。
急に建礼門院がくすくす笑い出した。
「平家の若衆も立派な武士として頼もしく私は見ていました。戦に行って手柄も立ててきた者もいると聞いています。もう立派な大人として見ていたのですが、平家の若衆と同じ年頃の春一という子は、全く大人の雰囲気を持っていない。どちらかと言うと幼帝に近く子供子供しています。あの子は天真爛漫と言うか、周りのことにあまり気を使わない、帝を帝として見ることなく遊ぶことに夢中に成れる子供です。
そんな子供子供した、春一を平家の若衆が皆で取合いするとはの。私は、皆まだまだ子供の心を残していて安心もし、喜びを感じます。
我が子、帝もそんな春一が好きでたまらないようで、近くに置いておきたいようです。
どうでしょう、二位様、春一を今まで通り自由にさしてあげては、この屋敷の中での行いを自由にしてやってはどうでしょう。そうすれば、平宗盛も資盛も納得するのでは」
藤原隆盛が思わず口を挟んだ。
「それでは、周りに示しがつきません」
建礼門院の口調がかわった。
「ですから、この屋敷の中だけです。」
隆盛も惹けなかった。
「たとえ屋敷内といえども他の者も出入りし六位蔵人を見ます。あの者が自由に屋敷内で遊んでいれば、平家衆の士気にも悪い影響があると思われます。」
と藤原隆盛が話している途中に、
「隆盛殿、平家の士気が落ちるとは、ちと口が過ぎますぞ」と平宗盛が珍しく藤原隆盛の言葉を遮った。どちらかとといえば日頃口ではやり込まれている宗盛である。それに、あまり我を通さない性格であるが、今回は、違った。
「武士のことに口を挟まれるか、何をもって平家のものの士気が落ちると言われる」
隆盛は言い返す言葉は、いくらでもあったが、すべて飲み込んだ。飲み込まざるをへなかった。
よくよく見て、考えれば、周囲は平家一色の中にいることに
一瞬の沈黙であったが、皆がその沈黙を長く感じていた。
それほど、宗盛の武士らしい発言が、皆を驚かした。
二位の尼の言葉で全てが落ち着いてしまった。
「しかたがないの、平宗盛と平資盛に詰め寄られては、」
そのとき春一は雑袍(普段着)に着替えて、御所内の雑務をする者に薪割りを教えてもらっていた。はじめは下手糞で怒られながら蒔き割りをやっていたが、春一が楽しそうにするものでいつのまにか下手糞でも陽気な雰囲気であった。
春一にしてみれば、屋敷の隅で気がねなく薪割りでもしている方が、気が楽なのである。例え蹴鞠のような事をして遊んでいても窮屈であった。どこかに威圧を感じるものがあり、たまらなかったのである。
平家の若衆六人は屋敷の外で控えていた。みんな春一に対して引け目を感じていた。今、春一と面と向かって目を合わすことなど出来ない。
平家の若衆は普段であれば、春一のような身分の低いものに対して何一つ遠慮などするものではないが、何故かみんなが春一に対して「身分」とは違った気持ちを持っている。
普段平家の者意外の者が自分達を見るとき畏敬の念をもって自分達を見る。当然平家の若衆も幼い時からそのように扱われてきたため、それが当たり前として受け止めていた。
春一は違った。自分達に畏敬の念など全く持っていない、だからと言って敵対するわけでもない、蔑むわけでもない、あまりに普通なのである。平家衆自身今まで感じたことのない、普通に対じしてくるのである。
自分達が少し忘れかけていた子供の心で対峙してくる春一に対して、自然に対等になってしまうのである。だから春一に対し罪を被せてしまったことに引け目を感じるのである。
外で控えていた六人は、平宗盛と平資盛の使いの者から春一が屋敷内で自由に遊べることの話しを聞いて、屋敷内に入り春一を探し出した。
当然幼帝も話の結果は、理解できた。
春一は、小屋で巻き割りをやらされている。
その知らせが来て、一斉に春一のところへ走る平家の若衆の姿は子供そのものである。
親に遊びを禁止されていた子供が親の了解を得て喜び勇んで走って表に出て行く、まさに籠から解き放たれた小鳥のようであった。
六人が春一の前に揃った。揃って見ると何か奇妙な感じをみんなが感じた。六人は春一と目を合わせて見て、「さあ、なんて言おう」と思った、何を言ったらいいのか思いつかない。
春一は、突然六人が自分の前に現れて、「何事か」との思いと、この世界で頼りになる友達が戻ってきてくれた時の安心感みたいなものが「ふー」と感じた。
少しの時間の沈黙の後、春一が右手を上げて馴れ馴れしい態度と声で「やあー」と一言言った。
馴れ馴れしい態度ではあったが少し硬さがあり、ぎこちない「やあー」でもあった。
六人は、春一と顔を合わせ、始め沈黙の時、「一言誤ろうか」との考えがよぎったりしたが、それも何か拘りがあるように感じた。
春一の「やあー」の言葉に今まであった平家の武士としての自尊心、その自尊心からくる他の者へのわだかまりや自分達で背負い込んでいる閉鎖性、「自分達平家の者は他の者と違うのだ」とする大人から引き継がれたものから何か開放されたようなものを感じたのである。
平家の公達として六人は何故この身分も確かでない何処の子供かもはっきりしない「春一」という子、に今まで見たことも、感じたこともない、清清しいものを感じ、自分達はまだ子供なのだということをわからしてくれるのである。
今だかつて、自分達より身分の低い者からわだかまりもなく「やあー」と同じ目の高さで声を掛けられたことがなかったのである。
六人は素直に子供特有のいろんな思いでの「まあ、いいか、」の思いに浸れた。
平能宗が春一に声を掛けた。
「またやろう」と
春一は、かえした。
「もう、嫌だ。あの人怖いし、ここで薪割をしているのも、まあ面白い。ここに居るよ」
平清宗が「もう、心配するな、お前は自由だ、この清宗が保障する。」
春一は、平清宗が相変わらず「えらそぶっている」と思いながらもこの男に下僕と言われ打たれた時のことのわだかまりは消えていた。
六人の平家衆はとりあえず、春一を囲みながら蹴鞠をする庭の方に向かった。
庭には安徳天皇が蹴鞠をして待っていたのである。
立場上春一を迎えに行くわけにはいかず平家の者が来ていると聞いてこの場所に春一を連れてくるだろうとの思いがあった。
安徳天皇にとって春一が来るのが思っているより遅く感じたようで、「遅い」と少し怒っていた。その怒りには自分だけが春一の元に誘いに行けなかった苛立ちも含まれていた。
そこでの風景は、公園に集まる子供たちがいた。ただ楽しいことをみんなで始めよう、面白かったことは、またやろう。ただそれだけの風景である。
部屋から眺めている建礼門院や平宗盛、平資盛は、戦のない京であればとの思いの中でほほえましく眺めていた。




