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もう一つの平家物語  作者: 鷲谷 隆
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第三 薩摩守平忠度邸

第三 薩摩守平忠度邸


かり武者に連れられた辰夫と春一は山の手に見えていた大きな屋敷とは違ってその手前に見えていた屋敷の門の前に連れてこられた。

かり武者が話していた平忠度の屋敷である。さすが、平清盛が京から都を移しただけあって、町並みといい、屋敷といい見栄えのするものばかりである。平忠度の屋敷の門構えは時の権力者だけあって、周囲の屋敷の中でも特に大きく構えているのが一目でわかった。

辰夫と春一は、門のところで衛府(高貴な屋敷の護衛を司る役人)に引き渡された。かり武者は衛府に対して、辰夫と春一が宗の国の船に乗り損ねた宗の国人であると決め付けて説明しているようであるが衛府の身分では戸惑うのみで対処に困っているようであった。

衛府は、二人で相談しても決まらないことを二人で相談、最後には上役の右兵衛の督(宮中の警護を司る長官)に聞くために一人の衛府が屋敷の中に入っていった。

辰夫にとっては大まかであるが、結果がわかっている時代であることは確かなことである。

屋敷の中からやや太り気味の右兵衛の督がやってきて、辰夫と春一の姿を見て眉をひそめしばらく二人の頭の先から足の先までじっと見ていた。大まかの説明は衛府から受けていたものの異質な者を目の前で見、処遇を判断することはこの男にも困難のようであった。

だから、この男も衛府と同じ質問をかり武者にしていた。面白いことに、衛府も右兵衛の督も二人に直接質問をしようとせず、かり武者に質問していることである。

かり武者も辰夫と春一の格好から素性を思い込み、二人に確かめもせず、決めてかかていた。話しの内容は大体分かるが、辰夫と春一から見て不安であるのと同時に滑稽でもあった。

ただ右兵衛の督が衛府と違ったのは、いつまでも人目のつく門前に二人を立たせておくことが良くないことだけはわかったようである。

かり武者の話を聞いた右兵衛の督は、衛府に

「この二人、まずは害はなかろう、とりあえず奥へ連れて行け」と自分についてきた家人に指図をし、自分も誰かの指図を受けるために何処かに行こうとした。

そして、自分が先頭にたち屋敷内へ入って行こうとしたときである。

人臣を数名従えて入ってくる馬上の人がいた。

「そのもの達は何者だ。」

その一瞬、周囲に緊張が走ったのが辰夫達にもわかった。右兵衛の督が素早く(ひざまず)ついて頭を下げた。そして一言「大納言殿」と

「はい、宗国の船に乗り損ね、生田の森で二人して泣いていたところを見回りの者が見つけ、これに連れてきたものです。」

辰夫は大納言が誰かわからなかったが少なくとも平家の家系の者の一人で、大納言だから相当えらい人だろうと想像ができた。この周囲の緊張感はただものではないと思った。

ただ、辰夫は、自分達が今この世界では危険な人物とは思われていないことは、幸いである。かり武者に見つかったとき泣きべそを掻いていたことが幸いしひ弱そうな人間に見られていることが自分達の安全を確保しているように思えた。

しかし、大納言が次の言葉を言うまではである。

「宗国の船に乗り損ねた者とか、わしはそのようなことは聞いておらぬ、いつのことか」右兵衛の督はいつのことか直ぐ答えられず、衛府に聞いて、

「今朝方で」

その質問は明らかに辰夫に向けられたものである。

辰夫は思わず「はい」の言葉を言ってしまった。

大納言は、「おぬし言葉がわかるのか」

衛府と右兵衛の督も同時に驚いていたようで、いまさらこの者が話せることを知ったとは言えない衛府と右兵衛の督の二人でもあったので下を向いたままであった。

「大体」と辰夫は短く返事をした。

そのとき、大納言の目は春一の方に向いていた。辰夫は今までの安心感が引いていくのがわかった。

「なぜ、薩摩守のところへ連れてきたのじゃ、今日は幼帝が行幸されて居る日ではないか、もうよい、奥へ連れて行きその服を着替えさせて待たせておけ」

大納言の言葉には、内容とは裏腹に怒りはなく、急に門のところであっただけの異国人のような人物を屋敷内へ連れて行かせる命令を出したことに辰夫は何か不安を感じずにはいられなかった。

辰夫にしてみればそれまでかり武者や衛府など、棒以外の武器は持っておらず、右兵衛の督にしても腰に刀を差してなく対じしている辰夫と春一にしてみれば若干の恐怖心はあるもののまだ心の何処かに殺されるといった切羽詰った恐怖心はなかった。

しかし、大納言の馬上での装飾は、甲冑こそ身に着けていないものの、抜くことが出来るのかと思うほどの長い太刀と背中に弓と征矢(そや)(弓をいれる物)を持ち、馬持ちに馬を引かせ、その前後に槍を持った親衛隊のような武者を従えている。

そのような武者に対じされると、一瞬にして気に食わなければきられるのではないかと死というものを感じる恐怖が辰夫と春一には感じられていた。

大納言の「中へ連れて行け」の言葉は、自分で何も判断できなかった右兵衛の督もほっとした様子で、急に他の衛府に対し自信を持った言葉で指図を仕出した。

門の前でのこのやり取りにいつのまにか数人の見物人ができていた。その中に猟師の集団がじっと見ていたのが、辰夫は気にかかった。

屋敷の中に連れて行かれた二人は、まさに俎板に乗った鯉であった。白砂の庭を横切り屋敷を回りこむようにして屋敷の裏側へと連れて行かれ、構えが雑な台所だけの屋敷を通り抜け、外に出てまた別の屋敷のくぐり戸を入り、狭い部屋というより物置のような四畳半位の正方形の板の間に通された。

辰夫は今まで日本に住んでいて味わった事のない空間の部屋である。戸板で三方が仕切られ一方は前面開けっぴろげといった感じで、その開けっぴろげがなかったら、真っ暗な部屋になってしまう。部屋には全く何も置かれてなく殺風景な部屋で、現代人的感覚では独房のような部屋と感じる。

やはり辰夫は不安が募っていくのがわかった。辰夫がそうであるのだから、春一はもっと不安がっているはずである。辰夫が春一に声を掛けた。

「今は言うこと聞いておこう」と以外にも春一の声は元気に「わかってる」と返ってきた。春一の「わかっている」という返事はいつものえらそうな態度の時に出る言葉で、不安より次に起きる出来事への興味の方が勝っているのかと辰夫は感じた。

二人は部屋で数時間待たされた。その間女官が部屋に数回出入りし、二人の様子を見にきた。辰夫と春一は便所に案内されただけで、ほとんど二人は言葉を交わすことがなかった。

言葉を交わさないのは、二人が暗黙のうちに自分達が話さないことで安全を確保できるように感じたからである。女官に便所を尋ねたときもそうであった。「トイレ」という言葉を春一が発した時の女官の異質な者を見るような反応で、他を排他的に扱うようであったからである。

どれだけの時を過ごしたかわからなくなった頃である。女官が衣服を持って部屋に入ってきた。女官が持ってきた衣服は折りたたんであったものの、この時代の衣服であることは当然のごとくわかった。ただこれを着ることで何か後戻りできなくなっていくようでなんとも言えない気分で、女官が持っている衣服を二人して眺めていた。

衣服は、女官が狩衣と話していた。狩衣はそれなりに高級なものらしく、確かにここに来るまでに会ったかり武者や衛府の衣装より高級に見えた。

部屋では狩衣という襟が丸く袖に括り(くくり)があるごわごわした着物に着替えさせられた。辰夫は、女官のような女性に手取り足取りと世話を焼かせながら着ることに一瞬ではあるが今まで感じたことのない心地よさを感じたが、同じように着替えさせてもらっている春一の着物を見て驚いてしまっている。辰夫は、春一も自分と同じ物を着ているものと思っていたが、なんと煌びやかな衣装であることか、これは何故と辰夫は理解ができなく迷ってしまった。迷ってしまっても俎板の鯉である以上、流れに任す以外仕方がなかった。

着替え終わった辰夫と春一、春一から見た辰夫は国語の教科書に出てくる昔話のおじいさんの服のようで春一は明らかに笑いを堪えているのがわかった。

春一はといえば、町内のお祭りに出てくる安もんのお稚児さんみたいな服ではあるがそれなりに似合っていたのには、辰夫はひそかに驚いたが、大人気なく自分の服装を春一に笑われたので誉めることはしなかった。

辰夫と春一は着替えが終わるとこの部屋から出るよう促された。女官は、二人の沈黙から言葉がわからないと思い込んでいるようで、口ではなく手話のように手で指図をした。

「やっと」この部屋から出られるかと思った二人だが、女官の後を付いていき、次第に自分達が何処にいるのか考え出し、大変な状況なのであることに気づき出した。

そうなると辰夫は、足が竦み出し歩幅が次第に狭くなる。春一はなかなか能天気に女官の後を付いていっている。辰夫は、春一から離れるわけも行かず、また、元の速さに戻し歩き出している。辰夫は、まな板の鯉で、開き直ろうと考えてもやっぱり足が竦む自分に情けなさを感じながら女官に付いていっているのである。

一つ一つの屋敷が、渡り廊下で繋がっている。武家屋敷ほどではないがそれなりに迷路のように入組んでいる。その廊下の向こう側に明るい空間を感じた。その場所に行くのかと辰夫と春一は感じた。

辰夫と春一はその廊下には行かず、手前の建物から下の石畳の上に降りた。足は草履のようなものをあてがわれたが、春一が後ろの女官が持っている靴をすっと取り履き出した。女官は何か言おうとしたが、あまりに自然にしかもさっさと履いてしまったので黙ったままで通した。辰夫も春一に習った。

靴を履いたお公家さんと従者の形になった辰夫と春一である。足元さえ見なければごく普通であるが、本人達は下手な芝居役者のように感じていた。

 辰夫と春一は女官の後を付いていく、廊下の先の建物の表側にあたる庭先へと行くように、女官は歩いている。

 建物の周り廊下の角から人の影が出てきた。門前で会った大納言平時忠である。

 辰夫と春一は女官の後ろを歩きながらやや右上からこちらを見ている視線に目を向けられず歩いていた。上から見下ろされる目線、門前では感じなかった威圧感で辰夫も春一も萎縮し思考回路が止まってしまったのである。


陽の光が庭全体を照らしその隅っこに光と影の境目でそのまぶしい光の方へは入りたくないと感じながら、ぎりぎり影の所で止まって待っている二人の姿がそこにあった。

それを待ち構えていたのは、大納言ただ一人であった。

辰夫と春一には庭全体を見回すことが出来ない位置にいたが、庭先の向こう側から聞こえてくる数名の声の様子から相当広い庭であるように思われた。子供が遊んでいる声もしている。

女官は、私達二人に跪くようにいった。テレビで見る時代劇のような行動を直ぐに頭に浮かべてしまい、跪いてしまったのである。何でこんなことが芝居のように出来るのか自分達自身不思議に思っていながら、「時代劇ドラマも役に立つな」と変な関心をしていた。

辰夫自信の頭の中は何がどうなっていくのかわからず、状況把握などさっぱりでどうでもいいことばかりが頭をよぎり、肝心の周りを見ることが出来ていないのに気づいていなかった。

しばらくの間沈黙があった。ほんの数分だったと思うが、辰夫にとっては自分を取り戻すのにちょうど良かった数分の沈黙であった。

そして、今度は心の中で「集中」とつぶやいた。

大納言は女官に向けて、春一をたたせるように指示を出した。

頭をたれて、跪いている春一は、父の辰夫の方をじっと見ている。春一自身今の大納言の言葉が聞き取れたからである。

春一の目が潤んでいるのが辰夫にわかった。春一自身今まで辰夫のそばから離れることはなかったし、そういった気配もなかった。それがここに連れてこられて、父と異なった服を着ることで、何かしら春一なりに父と離れるのではないかという気配を感じはじめたのである。

ここに来て、大納言という偉そうな大人が自分に何か注目しているのがわかり、益々春一自身心細くなってきてそのやるせない気持ちが泣きそうな心持になってきているのである。

辰夫はそんな春一に何の助け舟も出せない自分が歯がゆく、春一が悲しくなると同じように辰夫も悲しくなる心が、動き出したのがわかった。

大納言は、女官の指示で何時までも立たない春一に痺れを切らしてしまったのか、今度は大納言自身直接、春一に向かって「小僧、立つのじゃ」と言った。

声は荒げた感じのものではなかったが、春一が辰夫の方を見て、「助けて」と心で叫んでいるように見つめ、堪えきれず泣きべそを掻きだし、独り立ちあがった。辰夫はその春一の涙を見て何も出来ない自分自身が歯がゆく、泣いている春一ががむしゃらに可哀想になり、どうしようもないのに、悲しい心が動きだし、今度は止まらなくなった。

辰夫は、世で言う「泣きべそ」である。弱虫ではないのだが、映画や小説など感動の場面では、堪えきれず泣いてしまうタイプの人間である。ひどいときは、映画音楽を口ずさみながら歩いていて、感動の場面まで思い浮かべてしまい道の真中で涙を流すといったことがあるほどである。

こんな小さな胸を傷めている春一を見ていとおしくなり、辰夫自身も胸が熱くなってきてしまうのは当然である。

辰夫は跪きながら、下を向いてぼろぼろ泣き出したのである。

小さな子供が泣きべそを掻いて立っている。その傍らに大の大人が小さな子供と一緒になって泣いている姿は、周囲の者から見れば滑稽である。大納言にしてみれば何故泣かれるのか不思議な事のように思っていた。

平家の者はこの二人が弱く、今のところ平家には、全く害のない人物に映った。

泣かれた大納言は、手を妬いた様子でしばらく黙って立っていた。

大納言は腕組みをし、一旦庭先の方へ行ったと思ったら直ぐに戻ってきた。

いつのまにか、大納言の周りに、庭先にいた数人の者が集まり出してきた。

集まり出した数人の者は、皆が春一の方を見ている。その中の一人が「確かに似ている」と一言言った。

言ったのは、この屋敷の主人である薩摩守平忠度である。

「その方ら、そんな隅っこにおらず、もっとこっちの広い所へ来なさい。」

薩摩守平忠度が言いながら庭が広がっている方へ進み出し、それについて周囲の者達も薩摩守平忠度の後に着いていった。

辰夫と春一は女官に促され、影の部分から日が当たる場所へと歩き出した。

辰夫と春一は日の当たる場所に出て、建物に沿って左へ曲がるとそこには今まで辿ってきた風景とは全く異なる広く変化に富んだ庭があった。

訪れる者を萎縮さすだけの権力者の庭であった。

建物から見て、中央に広くとられた何もない白砂の空間、左手から奥にかけ小川が流れその先には池が作られていた。右手には木々が植えられ、その先に続く道が作られていた。

辰夫と春一は中央に広く取られた白砂の空間の少し手前で止められた。縁側には薩摩守平忠度が縁側に座り、自然その前辺りが辰夫と春一の止まった位置である。辰夫と春一はさっきまで二人して泣いていたが大納言といい、平忠度の態度といい殺気だったものは感じなかったことと、この場の雰囲気に若干なりとも馴れてきたことで少し平常心を取り戻した。そのため泣くこともなく二人して周囲を見ることが出来た。

辰夫と春一が居る白砂から一段高い位置に建物の周囲をめぐらした廊下があり、その廊下の内側に広い部屋が見える。部屋の奥にまた一段高くなったところが見え、その前には簾が下ろされており、そこに誰か居ることがわかった。

部屋の中には、数人の女性が見え、ひな祭りのお雛さんの人形が部屋の中に置かれているような雰囲気であった。

辰夫と春一と女官、その他に数人の公家さんのような人が白砂に居て、廊下の上には大納言平時忠、平忠度、もう一人、同じような格好をした少年のような武将が立っていた。廊下には平家の武将三名の他に少し離れたところに真っ白い顔をした武将には見えない煌びやかな服を着た者が座していた。白砂に居る公家のような者と格好は似ているのでおそらく公家の中で地位の高い者であると辰夫には推測できた。

その地位の高そうな公家が、少年のような武将に「敦盛様」と声をかけていたのが辰夫の耳に入った。

敦盛との名前を聞いて辰夫は、平家物語であまりにも有名な一話、一の谷の合戦で平家の敵将熊谷直実が平家の大将を何としても討ち取り功名を上げようと焦っていたとき、大将姿の平家の武将を見つけ追いかけ組み臥して顔を見たとき、「容顔まことに美麗な若武者」我が子と同い年ほどの敦盛の顔を見て何とか助けようとしたが、自分の味方が迫ってきたため、逃がすことが出来なくなり泣く泣く首を取ったという話を思い浮かべた。たしか笛の名手でも有名であった事も思い浮かべそっと横目で腰当たりに笛を指していないか見たがなかった。

辰夫の悪い癖でどうしてこんな場面でどうでもいいことについ気を取られるのか自分でもわからず、後で後悔していた。

廊下に座っていた公家の一人が春一の顔を見て、

「確かに、似ている。年恰好といい、市井に住むものとは違いますな、お顔に品が見うけられます。宗の国のお人という事らしいが、わが国の者と見た目は変わりませんな。」

「何処の国の者でもそれなりに品は身につくものですわ。こうして従者をつけて居られる者には」

 

公家の中で話が盛り上がっている。しかも話の中心は、春一のことである。父親の辰夫はいつのまにか春一の従者になっているようである。

辰夫は、話の内容を聞き漏らさないように、耳を尖らせていた。

平家の武将は、黙って公家の話を聞いていた。

「そこの子、立ってみ、名を何と言う。言葉は分かるのか。」

春一は、話の話題が自分のことと勘づいていた。公家が話していることは意味不明であったが確かに自分のことを言っている。早く話している話題が自分のことから離れてくれないかと祈るように聞いていたら、最後には自分に話し掛けてきた。

春一は自分達が宗の国の者と勘違いされていることは分かっているが、だからとて自分で何かうそをつき通し何か策を労する事が出来るかといえば11歳の春一には全く無理な注文である。後ろに座っている父辰夫に何か頼るにしてもどうすることも出来ないように思った。

春一は、学校の先生やサッカークラブの先輩に接するときと同じようにしか出来ないのである。

「はい」

春一は子供なりに開き直って元気に返事をしながら立ちあがった。

話し掛けた公家は、返事が返ってくるとは思っていなかったし、ましてや言葉がわかるとも思っていなかった。なのに大きな返事が返ってきたことに驚いて、次の言葉が出ずに黙ってしまった。

大納言平時忠と薩摩守平忠度はこの者達が話せることは先に知っていたため、公家たちの驚きを見て、何か人が未知のものを見て驚く姿を横から眺める愉快さで笑っていた。

そのときである。奥の部屋の簾がゆれたかと思うと、中から年恰好が春一と同じような子供が出てきた。

その子供に付き添っていた女官がその子の袖をつかみも一度簾の中へ行くよう促している。

その子は素直に女官の言う事を聞き元の場所に戻ってしまった。

一瞬の出来事であったが、辰夫と春一はその子が見えた。春一と年恰好が似ているというのは、あの子のことかと辰夫と春一にはわかった。

平敦盛が部屋の中のざわめきは、なかったがこどく大納言に話し掛けた。

「影武者は、要りますか」

日ごろから無口なのか、初めて声を聞いた。その涼やかな声を聞いて周囲に立ち並んでいた公家達は話を止めてしまった。

少年である平敦盛に威厳や言葉に重みがあると言うのではない。何か神秘的なものを漂わせている。いつも物静かな者が話をするようで、周囲が一瞬注目するのである。

大納言は、敦盛に返答する。

「攝津と瀬戸の海で木曽の山猿を打ち破り、今や、源氏など恐れる事はないが、法王の欲する三種の神器と共に幼帝は源氏の的である。そのためにも、幼帝をお守りすることに、少しの油断も出来ない。しかとて、幼帝の影武者となれば誰でもと言うわけにはいかない。影武者を知る者がいては困るのである。」

「そこの子を知る者は恐らく誰もこの国には居るまい。どういう経緯で、この国に来たかは知るまいが、あの二人を見つけた者の話では、生田の森で迷い、二人して泣いていたということではないか」

「どうじゃ、この二人この国に知る者も居らず、幼帝と年恰好も似ている。最適と思うが、」

一気に話終えた大納言は、一息ついている。

薩摩守平忠度がすぐに、

「源氏には、すぐ見破られるのではないか!」

 大納言平時忠が人を見下したように答えた。

「坂東の田舎侍に幼帝の顔を知るものなど一人も居るまい。京から攻めてくるといわれる源範頼や義経といったものにしても京に居たことがあるのか分からないものである。ましてやその家来どもに幼帝の年恰好が分かるはずがなではないか」

「確かに、」と平敦盛が答えた。

薩摩守平忠度の従者の一人と見られるものが辰夫と春一の後ろから声を出した。

いつから,ここに居たのか辰夫も春一も気がつかなかった。ひっそりと静かに控えていた者を見て,何か本物の忍者見たいに辰夫も春一も感じてしまったのである。

「一時期,京で平知盛とももりに使えていた熊谷直実が源氏の御家人として今度の戦に出向いていますが,知盛殿が源氏の御家人は不義者が多い事と嘆いておられました。」

薩摩守が

「石橋山の戦では大庭景親に使え頼朝を攻撃する軍に参加していたあの者か,なかなか武勇に優れ,先陣争いをしておったが、東国の田舎の御家人,幾ら京に居たとしても幼帝の御姿など見る事などある者か,気に留めるほどの事ではない。」

辰夫は、今まで心の奥で不思議に感じていたことが、やっと分かったと共に事の重大さと春一の命が危険極まりないことに顔色をなくした。

辰夫は、全身の血の気が引き、成り行きに任すわけにはいかないことになったことが心を動転さした。

当の春一はさっぱりわからず、大納言の話を聞いており、聞き終えた後も立ったままの姿で、周囲を何気なく見渡している。気後れするどころかだんだん、馴れてきて、よそ見をし始めているのである。

この世界がテレビで見る時代劇の世界と同じではないにしろ、何かしら権力者が人の生死握っている世界であることは確かである。

辰夫は、このそわそわし出した春一の態度も気になり、無礼があると殺されるのではないかと不安を感じていた。

ただ、周囲の平家の武将や取巻きの公家達の態度はテレビの世界ほど堅苦しく、仰々しい事はない。そのため、春一の態度に対しても寛容であるのかもしれない。

平敦盛が大納言の言葉に対して

「その子、影武者になれますか、」

一言、それに対して大納言の言葉は、

「無理であれば、殺すのみ」

「無体なことを」と微笑みながら平敦盛が言葉を返した。

辰夫と春一は、この世界に来て初めて「殺す」と言う言葉を聞いた。

辰夫は、今までどうしたらここから逃れられるか、うまくこの場から出られるかといったレベルの考えで対処しようとしていたが、「殺す」と言う一言で考えを一変しなければならなくなったのである。

今、どうすれば生きられるかというレベルである。どうすれば良いか、少なくとも今、春一と辰夫は平家の屋敷に居り、平家の真っ只中にいるのである。平家が必要とするか、しないか、必要とすれば生きられる。必要でなければ死が待っている。彼らが要らないと思ったときには殺されるということである。

平家に必要とされること、すなわち、大納言が望むように春一が「幼帝の影武者」となれるかということになる。

さっきまで、幼帝の影武者は春一の命を危険にさらすことと思っていた。何故なら、幼帝は壇ノ浦で死んでしまうからである。歴史的事実を知っている辰夫にとっては、幼帝の影武者となることは、壇ノ浦で幼帝の身代わりとなって死ななければならないかもしれないからである。若しくは、これから起こる一の谷の合戦や屋島の合戦で身代わりとなって殺されるかもしれないのである。

少なくとも平家から見て敵方の源氏のターゲットは、平家滅亡とそれと同じぐらい大事な幼帝と伴にある三種の神器なのである。

しかし、それは先のことで、今、春一が平家にとって必要でなければ、春一は平家に殺されるということである。

辰夫にとって選択の余地はない。取敢えず春一は影武者でも何でもなって、この場を生きなければならないのである。

辰夫の人生の中で本当に危険な目に会うということは、過去においてはウインドサーフィンで流され、半日ほど浮いていたときぐらいで、警官時代においても「生きる。死ぬ。」といった現場は一度もなかった。

と、言うより、辰夫の生きていた時代で「生きる。死ぬ。」を考えなければならない局面に出会うことは、普通の生活の中ではまずなく、ましてや、人に剣を突きつけられて選択を迫られるようなことはありえないのである。

実際に剣を突きつけられているわけではないのであるが、辰夫にとってそれと同じ位の感覚で身に迫っているのである。

辰夫は春一の後ろでどのようにすれば良いかこれといった名案はでず、あせりの色を深めてしまっているが、当の本人である春一はこの場の雰囲気にすっかりなれてきて、急に庭に立っていた公家の一人に声をかけたのである。

「おじさん、手に何を持っているの」

公家の一人が返事をする前に、平忠度が声をかけた。

「小僧、蹴鞠が出来るのか」

公家が持っていた物は、宮中での遊び道具である蹴鞠の鞠である。

「蹴鞠、リフティング用ボールみたいな物に見えたから」

春一が話した外来語、周囲の者が感じたのは宗の国の言葉と受け止めていた。

そして、春一の堂々とした態度に何処か高貴のものを感じていたのである。

平家一門にとって、平家以外の者が足元にひれ伏すこともなく、堂々と目を見て話す、それ自体が何か不思議なものに感じていたのである。たとえそれが子供でも今までこんなことはなかったのである。

春一が目を見て人と話すのは、平居家の教育方針のひとつで、テレビゲームや携帯電話といった人と接することなく物事が進み、終わってしまうことが多い世の中になり、いつのまにか人が人とコミュニケーションを取るのに人の顔すら見ずに話す若者を見て、春一には堂々と人と話せる人間になって欲しいとの気持ちから小さいときから何時も「人と話す時は相手の目を見て話なさい、自分に自信があればしっかり見ることができる」と言ってきたことである。その延長線上に人とのコミュニケーションが大事なスポーツ、少年サッカークラブがあるのであるが。

辰夫にしてみれば、その堂々とした春一の態度がある意味横柄な態度にも見え、平家の機嫌を損ねないかそちらの方が気になってびくびくして見ているのである。

辰夫はここでは春一の従者であるようなのであるから、春一に対して偉そうな言葉は言えない、しかし何とかしたい、何をすれば良いのか分かれないけど、辰夫にとっては焦るのみで、一人心が詰まった状態になってしまっているのである。

大納言平時忠が熊谷直実の事など気にも留める事なく話し出した。

「今まで其方があまり話せないと思っていた。名すら聞かずにいたが,小僧,名を何という」

春一はここに立っていても,平家の会話など全く気にする事なく周囲を眺めたり,女官と目が合えば笑顔を作ってみたりといつのまにかリラックスをしているのである。

そこに,大納言平時忠に声を掛けられたため一瞬詰まったものの,すぐ気を取り直して返事をした。

「春一です。」

辰夫は,その春一の返事を聞いて,現代に返った感覚になるぐらい今風で,戸惑ってしまっていた。

「春一というのか,どのような字を書くのじゃ」

「はる,夏秋冬の春一です。」

「おお,春一はるか,何と気持ちが明るくなる名じゃ」

辰夫は自分も次に聞かれると思い心の準備をしていた。名字も言うべきか,辰夫だけ答えるべきか,と考えていた。

しかし,いっこうに辰夫の方には話がこない,自分は完全に無視されていることに少し不安を感じ始めた。

平敦盛が春一に向かって名を呼んだ。

「春一,その方の国でも蹴鞠をする様だが,その様な身分のものか,」

(そもそも、蹴鞠という遊びは、六百年頃仏教などと共に中国から伝わってきたもので、「大化の改新」で有名な中大兄皇子と中臣鎌足とが蹴鞠で知り合い親密になっていったと語られている。その後も日本独自に発達していき、鎌倉時代に至っては、『蹴鞠の長者』といわれるほど蹴鞠を愛好された後鳥羽天皇の頃(1208年)、非常に盛大なものになっていた。蹴鞠に関する儀式や制度がおおよそ完成の域にたっしていたといわれ、特権階級のたしなみの一つであった。)

春一には,何を問われているのかさっぱり分からない。当然父である辰夫に聞こうとする。

すると,「そこのもの助けてやれ」と後ろに控えていた平忠度の従者が辰夫言った。

「身分」と問われても、うかつに答えられない。突っ込まれても答えられなくなるからである。

面接試験の返答のように,面接官に突っ込まれて答えられなくなり「失敗した。」ですまないからである。

だから,辰夫は直に答えようとはしなかった。じっくり考える事を,それと「集中」である。

後ろから,「早く答えぬか,話されている事が分からぬのか。」

辰夫は,従者の「分からぬのか」の問いかけに,「そうか,あまり分からない振りと相手の知らない事を並べて答えれば良いのでは」と考えた。

辰夫は,あまり長く黙っていると平家の者が怒り出すので,一旦もう一度聞き返した。

「もう一度,お願いします。」

今度は平忠度の従者が相手になった。

「おまえ達はどこの国の何者で宗の国の船で何しに来たのじゃ。分かるか。」

辰夫は「はい」と答えた。

春一は,何時もと違う父を何か不思議そうに見つめていた。

辰夫は大体頭の整理が出来た。

「私たちは,宗の国の海を隔てた琉球からきました。宗の国から琉球国に交易のため来た船に乗り込みここにきました。

商人の出ではありませんが,琉球では師範の家柄のものです。

こちらの国では蹴鞠といわれていますが,

我が国ではリフティングといいます。」

辰夫は,「どうだ,言っている事の半分も分からないだろう。」と心で思いながら,神妙に答えた。

辰夫の嘘はこの時代では通用するかもしれないが、近くで聞いていた春一でさえお粗末な嘘を言っていることが分かった。ある意味あまりのお粗末な嘘に小学6年生の子供の春一でさえ嘘と分かり、その嘘に付き合うことが出来た。辰夫も春一も沖縄には去年の夏家族旅行で行っており、琉球と言う言葉も春一には理解できたのである。

確かに、平家や周りの公家などには、辰夫が同じこの国の言葉を話しているという事はわかったが、どう言うことかがわからずにいるのである。ただわかるところといえば、この二人は、琉球という国から宗の船でやってきた。そこで蹴鞠のようなものを教える家柄で商売人ではない。というくらいしか理解できていない。

「琉球は、何処にある。」と従者が後ろから問い掛けた。

「九州の南で薩摩から船で3日程進んだ島国です。」と辰夫は答えた。

大納言平時忠は、「もう良い、」と言って何か言おうとしたが言葉が出てこなかった。

公家の一人が「蹴鞠ができるなど、ありえません、このような高貴な遊び、そうできるものではありません。ましてや鞠そのものを手に入れることなど不可能なことです。」と言った。おそらく殿上人の蹴鞠の師範のような人であろう。

薩摩守が

「確かに蹴鞠ができるなど、公家か平家一門のもの意外に居るとは考えられない、もし、蹴鞠ができるのであれば影武者としてだけではなく、幼帝のお相手としても、うってつけであろう、第一できるはずがない」

同調するように公家が、

「蹴鞠を市井で行っているなど、聞いたこともありません。居れば直ぐ噂など聞くものです。」

「まあ、ここでとやかく言うより、一度やらしてみては。」と平敦盛が云った。

大納言が「その鞠を渡してやれ、」と公家の一人が持っていた鞠を見て言った。

公家から鞠を渡された春一は、じっと鞠を見つめ公家の威圧的な言葉と態度から身体が震えだした。

春一は、怖くなり、身体がいうことを利かなくなりだしたのである。

こんな小さな身体にこんな大きなプレッシャーが掛けられて、そう簡単に絶えられるはずがない。春一は春一なりに今自分と父である辰夫が置かれている立場を理解しており、この鞠を使ってリフティングをうまく出来なければ殺されるかもしれないということぐらいは、なんとなくわかっているのである。

春一自身、自分が今この場所に立っていることに疑問を抱くことを忘れていたが、こう言う局面に合い、何故自分がこの場所に居てこんなことになってしまったのか、大きなプレッシャーと大きな疑問が交わり、得体の知れない気持ちが春一の胸いっぱいに押し寄せてきたのである。

そんな春一が、鞠を持ったまま泣き出しそうな顔になりその場に崩れそうになったときである。奥の部屋の方がざわめき部屋の中にいた女官や公家達が一斉に立ちあがったのがわかった。

春一は泣きながらも同じように気持ちが「ふーと」奥に部屋に向いた。

何かを遮ろうとする女官の声が聞こえた。

そんな女官の制止など気にすることなく、一人の子供が部屋から出てきた。春一と本当に年恰好が似ており、煌びやかな服装で確かにテレビや絵で見る格好と同じ服を着た子供が廊下に出てきて、立って春一の方を見つめているのである。

その圧倒的品格の良さは、子供の春一にもわかった。

この子が、「幼帝」と言われている子供だと春一や辰夫はわかった。

春一より年下であることは一目でわかったが、その子の目は自愛に満ちており、春一に対しても威圧するのではなく、ただ春一に近づき「話がしてみたい。」そんな目で春一を見つめているのである。

幼帝は今まで自分で何かを進んですることはなかった。全てのことが建礼門院、二位の尼や幼帝安徳天皇の実質の教育係である藤原隆盛の「言うがまま」であった。その幼帝が全く周囲のことなど構わず自分の意思で春一に近づいて来たのである。幼帝のこの行動は周囲を驚かすとともに幼帝が次に何を自分から話し出すのか、周囲に興味を抱かせた。特に建礼門院はじっと幼帝の後ろに控え幼帝が自由に好きなことを話せるよう見守っていたようである。

建礼門院は幼帝が京を出てから九州、山陽道と旅を続けその間何一つわがままを言わず、戦の中に静かに身を置いて、平家についてきたことに、我が子が不憫に思いずっと胸を傷めていた。幼帝はやさしい子であることが尚のこと建礼門院を悲しくさせたのである。その幼帝が今まで見たこともない輝いた顔つきで、自分の前に立っているのである。幼帝は何を思って自分から進んでこの場所にきたのか、建礼門院は知りたくなったのである。

それは、二位の尼も同じである。

幼帝は春一に向かって話し出した。

「そちの名は何と言う。」

春一はさっきまでの身体の震えは止まったものの、目には涙を溢れんばかりに溜め安徳天皇を見つめ一言「春一」と答えた。

普通ならば、周囲から「控え」と頭を押さえつけられ、直接話す事など許されないものであるが、周囲が春一のあどけなさと幼帝の思いを汲んでか何も言わずじっと見ていたのである。

幼帝の周りの男の子は、12歳にもなれば弓矢を扱い、子供の癖に大人っぽくなってしまう。幼帝一人男の子としても取残されているようで、子供ながらも自分は何者かがわからなくなっているのである。

平家の公達は、男の子として生まれたからには、戦をしなければならないと目的を持った意識があり、それは幼い時から言われつづけている。それに今現在源氏との戦の中にあり、その中から逃げることも許されないのである。

幼帝にしてみれば、平家の男子は、全く異質なもので、一緒に居ても子供同士であるのにどこか違和を何時も感じていた。

幼帝は春一を見て、周囲に誰が居ようと何をしていようとお構いなく、身体を震わし涙を溜めている子供に自分に近いものを感じたのである。

自分も春一のように周りを気にせず、身体を震わし泣いてみたいと思った。そして、そんな春一を助けてやりたい、その身体を震わし涙を溜めている春一を何とかしてやりたいと思ったのである。

幼帝自身今までこんな気持ちになったことがなかったため、どのようにしてよいかわからないが、春一に近づき声を掛ける以外に思いつかなかった。

幼帝は、春一の名を聞いた後しばらく春一を見つめていた。

幼帝の後ろに控えていた建礼門院には幼帝の気持ちがわかるようであった。建礼門院自身にも春一の無垢な幼さが愛しく感じ、戦続きの行幸の中で何か心が癒されるようであったのである。

黙ってしまった幼帝を助けるように、建礼門院は、声を出した。

「遠いところからの旅、さぞ疲れていることであろう。そのように幼子に大人が取囲み急に蹴鞠をしろとは無体なこと、もそっとやさしく話してください」

平家一門の一人、平徳子ではあるが天皇の御生母である建礼門院の言葉でもある。大納言平時忠、薩摩守平忠度は言葉を控えざるを得なくなった。

「春一とやら、おまえはその鞠が好きか、おまえがここに来たときからその鞠が気になって仕方なかったようであるがどうじゃ、」

春一は幼帝に話し掛けられ、今度は綺麗で優しそうな女の人から優しく話し掛けられ、子供特有の立ち直りの早さで返事を返した。

「このボール、家で使っているリフティングボールと同じ大きさだけど、すっごく綺麗、こんな柄のボールは見たことなかったから、」

言い終わった時には春一はあの身体が震えて涙を溜めた顔から立ち直っていた。

それを見ている幼帝は、春一が鞠の話をするときの顔が楽しそうで、春一が言うリフティングなるものが何か見たくなってきていた。

幼帝は、春一に「その鞠を蹴ってみて」と一言声を掛けた。

その瞬間、春一の顔は笑顔に変わった。「リフティングならいくらでも出来る、いろんな技も見せられる、僕の自慢のひとつ、小学生の京都府トレセン代表で誰にも負けたことがない」そんな自慢の言葉を心の中で話していたのである。

子供というものは今行う行動の先を考えない、思いついたら直ぐ行動に移るものである。

春一も同じ子供で自分が自慢できることは何のためらいもなく直ぐ行動に移すのである。

春一は手にしている蹴鞠のボールを手から「すー」と落とした。そのボールを春一は器用に両足の間のくるぶし辺りに挟み込み、辰夫の方をチラッと見て、「にこっ」と微笑んだ。

辰夫も春一のリフティングの実力はよく知っている。自信に満ちた春一の顔を見て春一と同じように心が弾んでいた。辰夫は春一が少年サッカークラブで時々親を「ドキ」とさすようなプレーを見せてくれる、そんな期待が辰夫の胸を弾ませているのである。

春一は、足に挟んだボールをそのままヒールリフトで鞠を上に上げリフティングを始め出した。その一瞬の鞠の上げ方だけで周囲の平家の武将や公家の目を奪った。何より目を輝かして見ていたのは、安徳天皇であった。

「今、この子は何をやったのか」と周囲を驚かしたのである。

春一は始めリフトした鞠を膝下で右、左と交互にリフティングを続け出した。この程度の鞠蹴りは公家や平家の者でも出来る。春一は鞠の跳ね具合を感じているのである。ほぼいつも使っているバルセロナのマーク入りの小さなボールと同じであるが、重さは少し重いようである。気にするほどではないと感じていた。

周囲の者が「この子の蹴鞠は、始めだけか、後はさほどでもない」と感じ始めたときである。春一がリフティングの曲芸を始め出したのである。春一は鞠を高く上げた瞬間、頭を鞠の下に入れ首の後ろに乗せ、そのまま肩口から後ろに落とした鞠をインサイドでチャールストンの踊りのように鞠を上げた。そして次々と目を見張る技を出していく春一のリフティングに周囲は完全にサーカスでも見るような、何か自分達では手の届かないすごいものを見るような感じになっていた。

春一が蹴鞠をすることに、公家の一部は「なにばかばかしい、こんな子供に蹴鞠のような高貴な遊びができるものか」と見下していた者も、完全に言葉を失っていた。いやみの一つも言おうと思っていたのだが、今は春一の蹴鞠に次はどんな技が出るのか期待して見ているのである。

それは、公家だけではなく平家の武将も同じである。

特に安徳天皇は純粋に新しい世界を見るような心持ちになっていた。今まで大人や大人ぶった子供、それに女官がいつも自分の世界にいて、そこでの世界は自分を中心としているようで全く自由を感じない世界であった。しかし、目の前の春一の蹴鞠は自分と同じ子供が自由に鞠と共に飛び回っているようで、それに何より春一自身の輝いた目が羨ましく、何故そんなに楽しく出来るのか知りたいと感じていた。

春一はリフティングをしているうち、最後に思いっきり蹴りたくなってきた。庭の端には弓矢の的があるのが春一の視野に入っている。しかし、春一を囲むように公家が立っている。春一はいつのまにかサッカーをイメージし始めていた。春一の頭の中では、矢の的はゴールで周囲にいる公家は相手ディフェンダーになっており、リフティングをしながらどうして抜こうかと考えていた。春一はいきなり一人の公家の目の前に鞠を叩きつけた。公家が一瞬驚いたが鞠は公家の目の前から消えたのである。周囲の者は見えているが目の前で鞠を叩きつけられた公家には鞠が消えたように感じたのである。その瞬間春一は公家の横をすり抜け公家の背後に回りこみ、公家の目の前で叩きつけた鞠が公家の頭を越え落ちてきた。公家の背後に回りこんだ春一は、落ちてきた鞠をおもいっきりアウトサイドで振りぬいた。鞠は的の前に立っていた男の横を回り込むように曲線を描きながら的に当たった。春一はいつのまにか一人でガッツポーズをして、辰夫にハイタッチを要求していた。

春一の周囲は一瞬時間が止まったように人も空気もすべてが動かなかった。動きがあったのは、春一と辰夫の二人だけである。

鞠が生き物のように春一の身体の周りを流れるように舞い、踊り弾んでいる姿を平家の武将、公家、女官そして安徳天皇とその母君である建礼門院が言葉を失って見ていたのである。今まで見たことのない鞠を使った舞に見えたのか、蹴鞠をしていたのか周囲の者には定かでないが、そのことについてはどうでもよい、ただ、すごいと感じたのである。

春一の行った蹴鞠をどう表現していいのかわからなくなってしまっていた。ただ「素晴らしい」や「蹴鞠が上手だ」などの言葉では当てはまらなくなっていた。だから春一の周りで時間が止まってしまったのである。

春一と辰夫は、そこまで大それた事をやったとは思っていなかったが、周囲の雰囲気は、自分達が思っていたものよりショッキングに見えたようで、それがひしひしと二人には感じた。でも春一は上出来のリフティングで最後はインサイドのカーブを掛けたシュートが決まり気分上々であることには変わりはなかった。

辰夫と春一は静まり返った周囲の雰囲気に合わせおとなしくなった。その止まった時間に会わせたのである。

その止まった時間を動かしたのは、春一に頭越しに鞠を越された公家の一人である。

「この、ばか者、貴様のような囚われ人が、何をする。このわしを愚弄しおって、ここを何処と心得ている。恐れ多くも薩摩守平忠度様のお屋敷であるぞ、まして、幼帝安徳天皇の御前である。控えんか」

春一は、その大きな声に驚いて完全に落ち込んでしまったが辰夫は、あまりにテレビの水戸黄門の番組で最後に悪人をひれ伏さすために言う台詞に似ていたため一瞬噴出してしまった。ただ辰夫自体この場の中ではほとんど目立たない存在であったため辰夫のそばにいた女官以外は誰も気づかなかった。

辰夫は少し調子に乗ってリフティングをやり過ぎた春一を止めなかったことに後悔し始めた。確かに最後のシュートは、やり過ぎだと辰夫も春一も思ったのである。だから春一は反省を込めて落ち込んだのである。春一は自分が悪いかなと思うときは泣くことはしない、たとえきつく叱られてもである。春一が泣かないことは辰夫も少し安心で、周りの動きが見えてくるのである。辰夫は、どのようになるか少し様子を見ようという雰囲気になっていた。

自分で声を荒げてしまった公家は、その後誰も声を出さないため、誰かに同意を求めるように周囲を見渡した。平時忠や平敦盛、当家の平忠度の平家の武将は静観している。見かねたように幼帝の教育係の藤原隆盛が「この者どもどうするべきか、この者を連れてこられた、大納言殿、役に立つとは思えませんが」と何か奥歯に物が詰まったような曖昧な言葉を発した。

平敦盛が「確かに過ぎたるはおよばざるが如し、と申す。ちと出過ぎておりますな。」と公家に一票投じた形になった。

すかさず、庭の公家は「そら見ろ」という顔をして何か言おうとしたが、そこが公家の会話術、自分に有利なときは黙って言葉の成り行きを見ているのである。

ここの公家にとって、生きるも死ぬも平家次第である。

辰夫と春一にとっても生きるかどうかの思いはあるが自分達は、何も言えない事ぐらい分かっている。せめた誰か見方になってくれる者はいないか、目で訴えることぐらいしか出来ない。

春一を影武者に仕立てようと考えていた大納言平時忠は、黙ったままである。事の成り行きを見ているわけではなく、自分の周りがどのような意見を出すかを観察しているようであった。

平忠度は平家の実質的指導者である大納言の意図がわかっていたようであるが、平敦盛の茶化すような言葉に公家達が乗ってきたことに、しばらく様子を見ていたのである。

藤原隆盛は、横柄な態度でしかも、誰よりも蹴鞠が出来る春一に対して異質なものを感じ、ある意味憎悪的な感情が沸いた。官職は低いものの幼帝の教育係であることから平家との繋がりもあり、実質的な公家のトップといってよい立場である。春一の公家を愚弄するような最後の蹴鞠の技は立場上この者を排除する側にならなければならないが、それにも増して感情的にも春一を排除する立場を鮮明にしだした。

「平敦盛様も言われるようにこの者の蹴鞠は蹴鞠にあらずでございます。蹴鞠とは技を競うものではなく相手をいたわり、楽しく鞠をつく気品に満ちた高貴な遊びございます。あの者のする蹴鞠は、技のみを見せつけ相手へのいたわりのかけらもなく、何よりも品が全く見られません。天上人の遊びとは程遠いと見うけられます。あの者が幼帝の替わりなどできようはずがありません。あの者が幼帝の影武者となること、わらわは賛成できかねます。」

春一に遊ばれた公家がこれぞとばかりに話し出した。

「あの者、氏素性など信用できる者ではありません。見たところ頭といい、顔かたちといいどこかおかしなものを感じます。源氏の回し者かも、誰も知らぬ者など幼帝に近づけることなどもってのほか、さりとて生かして、当家から離す事どうかと」とそこまで話し続けていたとき。

「その者を殺すな、わらわの友じゃ、友にするのじゃ、」と泣くような声が聞こえた。

安徳天皇自身の声である。

その声につられて、幼帝の後ろに控えていた、建礼門院が、大きな声で

「でしゃばり過ぎじゃ、黙らっしゃい」と言った。

「こんな小さな童を、品がない、源氏の間者だのと責め立てて大人気ない、少しは慎みなさい。」

国母であり相国平清盛の子である建礼門院の言葉は、公家を黙らすには十分であった。

辰夫と春一は、自分達が邪魔者となり殺されるのではないかと少しずつ青ざめてきていたが、安徳天皇の言葉で状況が何かややこしくなってきたようで、急に自分達の心配事がどこかに行って、他人事のように状況を眺めるような感覚になってきた。

建礼門院は、幼帝が涙を溜めて公家の話を聞いていたことに、今まで見たことのない幼帝を感じた。京から離れ旅の中でも、借り御所の住まいにおいてもあまり表情を変えず、ただ黙って周りの者の言うことを聞いていた幼帝を不憫に思っていたのである。

その幼帝が涙を溜めて目の前の童を救おうとしている。そしてこの童に何かを感じているのである。

そんな幼帝を目の前にして母として建礼門院は、黙っていられないのは当たり前である。

「隆盛殿、少し度が過ぎるのではありませんか、」と建礼門院は話していた公家に言うのではなく、隆盛に話しかけた。

「こんな小さな童を追い詰めて何になる。元はといえばそちたちが鞠をその子に渡し、身分を示すために蹴鞠をやらしたのではないか、その童は言われたとおり蹴鞠をして、その果てに、そちたちに揶揄されたのでは、おかしかろう」

藤原隆盛は反論なら出来ると考えていたが、国母である建礼門院に言われてここで素直に引き下がらなければ自分自身が苦境に立たされることになると考えた。

「確かに、建礼門院様のおっしゃるとおりでございます。つい童に蹴鞠を越された直基の嫉妬に乗ってしまい自分を見失ってしまいました。お許しを」

藤原隆盛は、先ほどから春一を咎めていた公家である直基に罪をすべて掛け、トカゲの尻尾切のように引いてしまった。

引かれた公家の直基は青ざめた顔になっていた。

「出過ぎたことで申し訳ありません。」と一言のみ頭を深深と下げて言った。

こうなると建礼門院も「これ以上は」と考え言葉を発しなかった。ただこの一連の成り行きは春一の処遇がほぼ確定したように辰夫は感じた。

今まで静観していたこの屋敷の主である薩摩守平忠度が、口を開いた。

「幼帝が、この春一と言う童を求められていることは確かなようじゃ。それに平家の女子衆は懲りもせず、お心が優しい、頼朝のように生かしておいたがためにこのようになったものを、またしても、童をお救いになられるとは、まあこの童、大納言殿が元々幼帝の影武者として連れてこられた者、間違いはあるまい。」

「幼帝の遊び相手としてもちょうどよい、この童なら監視役を一人つけておけば十分であろう。」

大納言平時忠は、幼帝の顔をじっと見ていた。そして落ち着くとこに落ち着いたという感じで話し出した。

「天皇といえども、まだ幼い、遊び相手の一人も必要じゃろう、それとて誰でもというわけにはいかない、この童なら遠い南の国の者でもあるし、縁者も近くには居るまい。影武者としても役に立つ。一石二鳥である。どうじゃ」

大納言は、初めから春一を影武者としてではなく幼帝の遊び相手として連れてきたのではないか、ただそれにしても何故ここに来て急にそのようなことをしたのか、薩摩守平忠度は疑問に思っていた。

平敦盛が「収まりましたね」と一言のみ言って、またいつもの物静かな平敦盛に戻った。

奥の方では大納言の下した処置に幼帝が久しぶりのうれしそうな顔で建礼門院に話しかけており、その後ろで建礼門院の母であり、平清盛の妻時子そして大納言平時忠の妹でもある二位の尼が静かに前を見つめていた。

二位の尼にとって孫に当たる幼帝安徳天皇は、目に入れても痛くないほどの存在である。京を離れ平家と共にさまよう幼帝、どこか寂しげな幼帝の姿にいつも心を痛めていた。二位の尼にとって幼子の寂しげな姿は絶えられないようで、昔、源頼朝の命を助けるよう平清盛に懇願しており、今回も二位の尼の意向が兄大納言平時忠に伝わり、平時忠の計らいで春一が幼帝の遊び相手となったのである。

春一の従者としての扱いを受けている辰夫は、周りが落ち着きを取り戻しだす中、一人自分の立場が宙に浮き出していることに気になりだした。

周囲の公家は、春一に対しての態度が一変し、春一に対して厳しい言葉を投げかけていた公家の直基はいつのまにか後ろの方に下がり、目立たぬようにそっと姿勢を低くし黙ったままで、他の公家は、やはり春一のリフティングに興味を盛ったらしく春一の周りに集まり出した。

春一はそのまま公家と女官に囲まれ、その塊に身を任せた形で塊が動く方向に春一も動いていくといった形になっていた。春一は周りの雰囲気に飲まれ完全に有頂天になっていた。

辰夫は、春一に附いて行こうと立ち上がろうしたとき、後ろで控えていた大納言の従者が「そちは、控えておれ」と威圧するような声で辰夫が立つのを制した。

その威圧する言葉に辰夫は竦み立てないばかりか声も出せなかった。「春一、何処へ行くんだ。お父さんはまだここに居るよ」と春一に伝えたい。でも伝えられない。

「春一を守らなければならない」という気持ちと春一と離れてしまうという何とも言えない寂しさが交差し、腰が浮き、体が震え、飛び出したくても飛び出せない。そんなもどかしさの中で後ろに控える武者を恨めしく思っていた。

薩摩守平忠度が部屋の中に入って行く際、辰夫の後ろで控えていた武者に何か一言二言指図をして行った。

辰夫は、春一が公家に囲まれ中に入っていく時感じた。

「これで離れ離れになるのではないか」という思いは、薩摩守平忠度が武者に話している指図で現実となっていくことがわかった。

薩摩守平忠度の広い庭から少しずつ人の気配が消えていく、もちろん春一の声も聞こえなくなった。今までのあの騒々しさは何処へいったのか、あんな経験でも近くに春一が居たことで心は常に張りがあった。

「春一を守ろう、春一に悲しい思いや恐ろしい思いは絶対にさせない、」だからいつも春一と一緒に居るんだ。春一のためなら何時でも身代わりになることは出来る。命を掛ける自信はあった。だから一緒に居るんだ。

そんなことを思いながら、完全に人の気配がなくなった。庭で、辰夫は「春一が居なければ寂しい、春一、近くに居てくれ、一人にしないでくれ寂しい。」と口ずさみ、泣き出した。

辰夫が座ったままの姿勢で泣いた。頭を下に向け顔は見せていないが、白砂の庭には、辰夫の涙が、ぽつりぽつりと落ちていた。

「よく泣く、御仁だ。さあ、立たれ。そちの役目はもう済んだ。どこへでも行かれるがよい。事の成り行きは分かっておられよう、そちが事を荒立てるようなことをすれば、あの春一という童が傷つくことになる。まあ、幼帝のお相手をなされている間は心配ない。安心してそちの国にでも帰られよ」と武者は言った。

辰夫は、広い庭を眺め何も答えなかった。

辰夫は今まで気づかなかったが、「この庭、何と静かな庭なんだろう、白と黒だけで描かれた水墨画は、こんな庭を描いているのか、こんな庭を描くのだったら確かに白いキャンパスに黒い墨だけで十分かと思った。」

「白い砂に、あんなのがあったのか。水が流れていたことに気づかなかった。」

辰夫は今まで何も見えていなかったことに気づいた。

春一は、心浮かれ、殿中に入っていったが、自分がいないことに気づきもっと寂しい思いをしているんだ。自分よりもっと危険な中に入っていったことも気づかず、ただお父さんと離れ離れになり、お母さんの運命を思い浮かべ、きっと泣きじゃくっている。

今、自分に出来ることは、春一をどうすれば悲しませないように出来るか。を考えなければ、と辰夫は思った。

武者は、じっと待っていた。辰夫が動き出すのを

辰夫は、武者に名前を聞いた。

「お名前をお聞きしてもよろしいでしょうか」

「秦 嘉平じゃ、いつも薩摩守様に従事している。」

辰夫は初めに声を掛けられたときに比べその優しい物言いに心が少し落ち着いてきた。

「秦様、春一に会われますか、会われたら言ってもらえますか、パパは必ず迎えに行く、だから辛抱していろ、絶対、体に気をつけろ、必ず会える。だから、」と「そして、泣くな」と、

と、言いながら辰夫は大粒の涙を流した。

自分のことを「お父さん」と言わず「パパ」と言ったのは周囲に自分が父であることがばれないためである。その中り辰夫は放心状態に陥っていなかった。

秦 嘉平にとって辰夫のような者は今までに見たことのない人間像であった。

主人に使え、主人を守る姿は、源氏でも平氏でも天上人においてもそう対して変わるものではない。しかしこの男には、春一と言う主人に対して家来としての身分を越えて何か親子のような繋がりを感じてしまう。それに、主人を守るという事は武力によってのみ達成できることであるのに、この男はその武力というものが全く見られない。それどころか、女々しく、よく泣くのである。

この場合、従者を主人である春一から引き離してしまうことは、後々平家に害を与えることになるのではないかと考えるのが普通であるが、この男に関してはそれが全く感じられないのである。ものを言えば萎縮し、子供と一緒に泣き出す。何もできないと考えてしまうのは当たり前であった。

しかし、秦は、この男のもつ何か得体の知れない未知の部分が気になっていた。

自分達にない何か、未知のものであるが結え想像できない、だから言葉にもできないものをこの男が持っているもの。ただそれは、平家に対し害をなすもののようには、感じなかった。

それとこの男は、始めて会ったはずの平家の者達のことを何か知っているような、気味悪さが秦には気になっているのである。

この時代、高貴な者、公家や平家の身内の者には相当の悪行が在ったとしても殺すことはまずせず、島流しといった罪状を言い渡していた。遠くの島の高貴な者と思われる子供の従者を殺すと言う発想はなかったようで、平敦盛が言った「殺してしまう」という言葉は単なる脅しか冗談のようであった。

もちろん辰夫には平家の真意はわかるはずもなく、その場その場の平家や公家から発せられる言葉を鵜のみにして反応しなければならない。

その結果、春一と離れ離れになることは辰夫にとってつらいことではあるが、ある意味、この時代の平家の囚われ人になっても生きていることを良としなければならないのかもしれない。

辰夫はそっと立ちあがり裏門へと案内された。春一と一緒に歩いたところを今度は一人で戻らなければならないことにどうしようもない脱力感が辰夫に迫ってきて、小指でちょいと押されたら、一気にその場に崩れ落ちてしまいそうであった。

そして、表門と比べ小さな裏門と思われるところまで来た。

秦嘉平は、辰夫のことが何処となく気になる男だったが薩摩守平忠度様の指図とあって屋敷内から追い出した。

「二度とこの屋敷やお前の御主人である春一という童に近づくのではないぞ、親方様の厚意じゃ、お前の御主人は不自由なくここで過ごすことが出来る。それだけでもありがたいと思うがよい。心残りはあろうが今に忘れる。お前もこの国でそっと暮らす事じゃ、さあ、立ち去れ」

「このお屋敷で、使ってくださることは出来ませんか。」

と、辰夫が気持ちを奮い立たせて言ったが、

「お前があまり駄々をこねると、春一とやらの童の命が危ないぞ、お前も分かっていようが、春一という子供が幼帝と一緒にいる事を話せば、あの子の命が危なくなる。それでも敢えてお前をお助けになるのじゃ、つくづく平家は御優しいの。これ以上甘えるのは止せ。」

辰夫は黙ってしまい、全ての言葉を飲み込んだ。春一の命のことを出されれば何もいえない。

辰夫にとって今、唯一の春一との繋がるこの男、秦嘉平に最後の言葉、「春一をお願いします。」と言って、その小さな門から遠ざかっていった。


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