もう一つの平家物語 第2 阪神淡路大震災
第2 阪神淡路大震災
京都市では,毎年2月に京都市内の小学生を対象に小学校対抗駅伝が開催される。この大会は市内を各ブロックに分けそこを勝ち抜いてきた18チームによって右大文字山の麓の衣笠小学校前から大文字山に程近い錦林小学校をゴールとする9区間,17.05キロメートルを走る。
各チームは小学校単位で男女5名ずつの10人が選ばれ優勝を目指す。今年は第10回目の開催となり,京都の冬の風物詩となりつつあり,小学生のみならずその父兄も力が入る大会となってきている。
京都の小学生が6年になったときその地域の大文字駅伝の予選突破に向けての練習が本格的に始まり出す。ここ2年ほど御所西小学校は予選落ちである。噂では,昨年新しく来た校長先生が運動好きで,なぜか大文字駅伝に力を入れており,そのために他校からマラソン指導に長けた教員を一緒に連れてきたとのことである。
春一にとっては願ってもないことで,大文字駅伝のメンバーがそれなりに揃い12月の予選は1位通過で2月にある本線に向け練習に力が入って入るのである。力が入っているのは春一だけではなく,辰夫はもちろん早苗に至ってはわが子の活躍が多いに期待できることで,サッカーの試合同様やや興奮気味に力が入っているのである。
正月明けからの早朝練習には家族揃ってのランニングで,もちろん辰夫と春一は走るが早苗は自転車である。別に早苗が運動嫌いなのではなく,ジョギングというものが生に合わないのである。ただ走るという運動に競争心が沸いてこず,球技など倒すべき相手が目の前にいなければ嫌なのである。早苗はスポーツが得意で、それ以上に勝負に強い女性といっていいだろう。
朝のランニングコースは春一が走る第1区のコースである。早苗のたっての希望で,区間賞が一番はっきりわかり,こと勝負がはっきり分かることから,応援するほうも分かりやすいし,何といっても一番目立つので早苗は春一に1区1区とけしかけていたのである。
当の走る春一は,賀茂川河川敷のコースは、車が走っている道路のコースより,気持がいいようで,それに平坦であることが気に入っていた。
春一が手を上げた分けでもないが早苗の希望通り大文字駅伝は第1区を走ることになった。
「なんと,早苗の執念で一区になった」と家族で笑っていた。
第1区は西大路通りの衣笠小学校前からのスタートで,西大路通を北へ向って走るとき正面に左大文字山が見える。まさに大文字駅伝の名前にぴったりのスタートラインである。
1月17日の朝,いつもどおり春一が最初に起きた。何故か子供のくせに朝が早い,小学校1年生からいつもである。もちろん学校に着くのも1番である。世の不登校とは縁が遠いようで,学校大好き少年である。あまり早く来て校門の前で待っているものであるから,ある時校長先生が,「危ないからもう少し遅く来て」とお願いされたほどである。春一にとって1日24時間のうち寝ている時間がもったいないようである。
その日は辰夫も春一についで起きた。いつもならなかなか起きない辰夫だが,昨日の占いの老婆の言葉が気にかかっていたのであろう。目が覚めた瞬間には、昨日の大極殿跡公園の出来事が頭に浮かんだ。
衣笠小学校前のスタート位置まで行くのに大極殿跡公園の前を通るのである。ただそれだけであるが,なんとなく心に引っかかりがあり,「すうっ」としない。こんな朝に占い屋台が出ているはずがないし別段その場所を通ったからといって気にすることは何もないのである。
この「すうっ」としない気持は辰夫だけではない,春一もである。春一もおそらく辰夫とよく似た気持であろうが,ただ辰夫と違うところがあるとすれば,占い婆さんが行った「大事なものを亡くす」と言う言葉が気になってしかたがないのである。何か部屋に閉じこもっていたいような気持になってしまっているのである。
しかし,毎日のことでもあるため,自然に起き,いつものように朝のランニングの用意をしだしているのである。
早苗は,辰夫や春一から見れば大変能天気で一人張り切っているようであった。そのギャップに早苗は気づいていないのである。まあ仕方ないと言えば仕方ないのであるが。
冬の朝はなかなか日が昇らず真っ暗である。朝の5時40分頃だと真夜中と変わらない。京都の日の出は東山の大文字山の肩口から太陽が昇ってくる。日の出前の東山は透き通った真っ暗な空間に稜線だけがシルエットとして東に浮かんでいる。「枕して,寝たる姿は,東山」の言葉とおりである。その「寝たる比叡山の肩越しに空か明るんで来る」と京都は朝を向える。この時期だと6時半頃までは空が静まり返っている。
春一たち家族が家を出て二条城のお堀沿いの道路から大きな空を眺めた。
この付近は二条城があるため,景観と二条城の中が丸見えにならないようにとの配慮から高層ビルが建っていないのである。そのため大きな通りに出れば空が大きく見ることが出来る。
まだ,真っ暗だというのに空がざわめいている。夕方の蝙蝠の飛び交うざわめきとは異なり,鳥が何時もより多く飛んでいるのである。鳥は鳥目で夜の真っ暗なうちは飛ばないというのは,うそである。特に都会では街全体が夜中でも明るくなっているためか,御所の上から賀茂川にかけ夜中でも鳥がよく飛び交っているのである。
誰でも鳥の飛鳥においては、規則的なものをいつも感じているのである。その規則的なのもが何かと問われれば答えられないが、いつも目にする自然なサイクルである。
春一たち家族は,その規則的な鳥のとび方とは,何時もの雰囲気とは違うぞと感じていた。
それは,早苗もである。早苗が「今日こんな夜中なのに鳥,多くない?」と最初に気づいたからである。
真っ暗な東の空には、一筋の立ち昇る龍のような雲が見られた。辰夫と春一は何気なくその雲を見つめた。鳥の群れは、そんな雲に脅えているかのようで、静止したままであった。
春一と辰夫は,何か胸騒ぎを感じながら歩き出した。二条城北側お堀を西へ歩きながら千本通へ出て,少しずつ歩くスピードを上げていく。早苗は,自転車に乗って春一や辰夫と平走している。早苗は33歳にもなって暗い道の一人歩きを怖がり,こんな朝方のときでも辰夫の歩いているところから離れずいる。辰夫がいなければ春一でもいい,本当に怖いのか,一人が嫌なのかはわからない。
ある時,早苗が親元から帰って来たとき,夜の10時頃であったが,辰夫が仕事で家にいないので僅か11歳の春一に地下鉄の駅まで迎えにこいと電話を掛けてきた。本人もそれが正しとは思っていないのであるが,なぜか仕方ないと割り切っている。辰夫にすれば,春一に迎えに来させるほうが危険と思うし,納得できないものがあるが、よく考えてみれば平居家の天下人のなせる技と無理やり納得した。
そんな寂しがりやの早苗であるから,春一や辰夫の早歩きの側を自転車に乗って走っている。
辰夫と春一が少しスピードを落とした。早苗はそのままで自転車を漕いでいたため二人の少し前に出てしまった。
そのときである。
いつもなら春一と辰夫は,千本通の東側歩道を歩いて上がっていくのだが,何を思ったか,二人は急に千本通を横断してしまった。
千本丸太町の信号を少し下った西側の大極殿跡公園前の小さな空き地に昨日見た占いの店がある。
辰夫と春一は本能的にその店の前を通り過ぎようと考え、千本丸太町の交差点に着く手前で急に西側へ渡ってしまった。怖いもの見たさではない、
夜が明けていない朝の暗がりの中、辰夫と春一の行動は、はたから見れば、気に留めるほどでもない出来事である。
早苗は信号を守ろうと千本丸太町の交差点で信号待ちしている。早苗にしてみれば千本通を挟んで東と西に離れたが、一人の不安に対しては、目の前にいるのであまり気にならないが、除者になった感じだったので、じっと信号を睨み付け,それと同時にさっさと渡ってしまった辰夫と春一をも睨み付けていた。
辰夫と春一は,あの占いの店が気になっていたのである。だから二人の足が何時もと違った行動を取らしたのである。
春一と辰夫が交差点の西側歩道の信号を南から北へ渡っているとき,早苗は千本通を挟んで東側歩道の信号を南から北へと渡っている。丁度春一と辰夫が渡っているとき,早苗はそれと平行して渡っていることになる。
春一と辰夫が渡り終わり,発掘現場の前に来たとき,その奥の大極殿跡公園の占いの店がない。「いつのまに移動したのか,」と考えようと思ったときである。
発掘現場の様相が昨日と少し変わっている。占いの店が置かれていた場所だけ発掘現場が見える。囲いがなくなっていた。なのに霞んで中が見えない。
二人は、中を覗こうと近づいた。早苗は信号が変わったのを確かめてから、前方を睨みながら二人に向かってわたってこようとしていた。
その時である、空気が変わった。
街全体がスピーカーになったような,重低音の音が響き出したかと思うと急に空が光り,街全体が揺れ出したのである。空にとてつもなく明るい、稲妻のような閃光が走った。季節外れの稲妻でも音はするはずであるが音はない。
時間の空間というのがあれば、いまこの瞬間と辰夫は思った。
二人は発掘現場から道の真ん中で座り込んでいる早苗を見た。と同時に千本通を北から下がって来た大型トラックが二人の目に入った。揺れている,街が、道路が、早苗が,その瞬間全てが止まっているように二人には見えた。異なる空間を覗き込むように見ている自分たちがいる。
早苗に起きることは二人に共通したイメージであった。制御不能のトラックと交差点で動けなくなった早苗。
「トラックがぶつかる。」春一は,声が出ない,辰夫は叫ぼうとしている。早苗は,座り込んで逃げられない。二人は金縛りに遭った状態で一コマ一コマ、時間が進んでいくのを感じている。
そして,次を見ることなく春一と辰夫は,その揺れに立っていられなくなってきた。
もう一度,空に光が放ち大きな音がした。春一と辰夫が発掘現場に落ちた。落ちたというより,奈落の底に突き落とされた感じである。
春一と辰夫は,今まで感じたことのない空間にほうり込まれた。ただ,ほうり込まれる前の自分たちの置かれていた空間が,自分たちにとってあまりにも悲惨な状況が待っているようであり,そのことが気がかりとなり自分たちが今置かれた状況を考えることが出来ない状態であった。
と、同時に、お互いを確かめることが出来ないでいた。
「しかし,自分たちはどうなのか、無事なのか。」分らないが,二人にはやはり体内の時間は過ぎ周囲を見渡し始めている。
二人が存在していることは確かなようである。何が正しくて何が間違っているのか,何が事実で何が虚像なのか,時間が過ぎているのか過ぎていないのか,二人にはわかりようがないのである。その中で何かに落ち着き出すものが見えてくる。それが正しいというのではなく,そこに落ち着いてしまうのである。二人がそれを感じたとき,時間が動き出したのである。
春一と辰夫が落ちたところはたった今までいたところとは全く異なった場所であることは春一にも辰夫にもすぐ理解できた。自分たちが落ちた瞬間から今までのほんの僅かな体験だけでも尋常な状態ではないことがわかるからである。ただ,その不思議な場所がどこなのかはさっぱり分らない。当たり前のことではある。
辰夫と春一は単純に,地球か,日本,何処とあまりに選択肢の多い場所の候補に恐怖を通りこしてしまっていた。
心配なのは,ほんの一瞬前の出来事の続きである。「早苗は」の思いが辰夫と春一の心の多くを占めていたためで自分たちの置かれている立場にまで恐れていることが出来ないのである。少なくとも春一と辰夫は生きている。それはお互いを見つめ合うことで確かめられるからである。
辰夫と春一は動けなかった。その場所が夢なのか幻なのか。時間は動いているがまだ確かでない。動けば元に戻れないような気がしたからである。二人とも黙ってじっとしていた。話すことさえ怖かったのである。
動かずにじっとしていれば、自分の家の寝床に戻れるのではと思いたかった。
ただ、その思いも、満点の星空で無理なこととわかった。
満点の星空である。ついさっきまで見ていた空とは違った。星は、異常な程多いのが気になったが,そう恐怖を覚えるほどのものでもない。
周囲は生い茂った場所であるが,目の前に真っ暗な広い空間が広がっている。月明かりに照らされて光る水と,海岸で聞く波の音で真っ暗な広い空間は水面のようである。周囲の生い茂った草は芝生程度で松林の中に居るようだ。人工的に手入れされた場所のように感じられ,春一と辰夫にとってはその人工的な場所が幾分安堵感を味合わせてくれた。
ただ,自分たちが居た場所とは全くかけ離れた場所であることは確かのようである。
まだ,二人から声が出ない。お互い夢であることを願っているようで,ただこのまま寝ていけば,元に戻れるように思っているからである。自分たちの家の布団の中に戻れるような,だから早苗についても,あのことは夢の中のことで、なかったことになるから。
二人は,何を考えればよいのか、わからない状況に陥ってしまった。自分たちが今経験したことは異常なことであることは確かである。SF映画のように時間を飛び越えたのか場所を飛び越えたのか,そういったものであることはなんとなく感じてしまっている。認めたくないがそのようである。二人は暫らくの沈黙のなかで認めたくないが感じてしまっていることを話さなければと思い始めた。父親と子供という年齢さなど全く関係なく心細さは同じようであった。ただ,二人一緒と言うことで話せるようになってきた。
辰夫が春一に落ち着いて話し始めた。父親としての精一杯の見栄と勇気である。
「何かが起ったけど,助かったようだ。まるでバックトゥザフューチャーのようなことが起ったみたい。」春一には一番理解しやすい比喩であった。春一が面白くて何度も見た映画で,机の上にはデロリアンの模型まで飾ってあるからである。
辰夫は,落ち着いて言おうとしたことと,春一に対する余裕を見せようとしたことであまりにも軽く話してしまったが,春一は,ことの重大さがわかっていたようで泣き出しそうな顔になっていた。
「これからどうするの。お母さんはどうしてしまったの,」その言葉を言って春一は一気に泣き出した。辰夫も泣きたかった。
辰夫は今置かれた状況で早苗のことを忘れた分けではないのである。一瞬でも頭の片隅に追いやりたかっただけである。堪えきれない辰夫も泣き出した。何もわからない者がそれを見ていたら変な親子に見えるだろう。それでも辰夫と春一は泣いていた。
真っ暗の世界が,辰夫と春一の回りを取り囲んでいた。木々が静かに揺れる音や波の音、そんな感傷に浸っていられない,ただ悲しくて悲しくて辰夫と春一は泣いていたのである。辰夫は,もう今は泣いてもいいと開き直って泣き続けた。
そして,少しずつ空が明るんできた。
二人が啜り泣き,肩を落している目の前に突然何か棒のようなものが突き出てきたのである。
辰夫は,驚いた,というより頭の中が真っ白になってしまったのである。それもそのはずである。ものすごく汚い身なりのテレビの時代劇で出てくる足軽兵のような数人の兵達が急に目の前に表れ,棒を突き立て脅してきたのである。
足軽兵の一人が何か言ったが聞き取れなかった。言葉が分らないのではなく,耳から入って来る音を理解できないでいただけである。それでも辰夫にとって一番大事な春一だけは守ろうという意識ははっきりしていた。
しかし今は何も出来ないし,今置かれている状況が全く分らないこと,棒を持った数人の兵は,殺気だっているようには見えず、今すぐ自分達に危害を加えようとしていないことから,辰夫は自分達親子のためにも成り行きに任せようと考えたものである。
兵の一人が走り、立ち去った。
伝令か何かのようであるのは辰夫にも分かった。
辰夫と春一は,兵に急き立てられ立ち上がった。いつのまにか明るみ出していた。日が昇り出して周囲の景色がはっきりわかるようになってきていた。辰夫は今置かれている状況がわかり出した。この兵,目の前に広がる海に浮かぶ船,嵐山の三船祭りに出てくるような船が浮かんでいる。明らかに時代が違う。
日の出とともに明るみだして見える周囲の景色の中に海がある。どう考えても変である。
しかし,海は広がっている。そして大きな船着場のような港がある。無数の船が沖に漂い船着場からは一隻の大きな船が帆を揚げて出港していくところがはっきり見えた。
先ほどの伝令が戻り、何かを伝えた。
辰夫と春一は,兵士のなすがままに動いた。こつこつ歩いている間に辰夫は兵士の話す言葉に注意を払う余裕が出てきた。その言葉の中に「薩摩守」や「宮中」などの言葉が聴き取れた。
辰夫にはっきり分かっているのは,平成の時代ではないこと,京都ではなく海の近くであること,そして兵士の言葉や周囲の山々そして空気の匂いが日本であることは確かであると感じた。
海岸沿いには街道と思われるものが見え,街道を中心に木造の家々が建っている。みすぼらしい家もあれば,土蔵と思われる蔵を構えた家なども見え,それなりに街を形成しているのが見えた。
辰夫は,考えた。春一や自分が生きていくためには状況把握だと。これは辰夫がまがりなりにも警察官であること。仕事の中で自分が身に着けてきた能力を発揮しなければならないと感じた。
辰夫は独り言のように,「集中」をつぶやいた。
辰夫は小さな声で兵士に話しかけた。
「ここは,どこですか」
兵士は辰夫が始めて声を出したことに驚いているようであった。
「お前,話せるのか,お前たちこそ何者だ,どこから来た。」
辰夫は返事ができない。
兵士は身なりが変わった辰夫たちを見て,自分たちで辰夫たちが何者かを決めていたのである。
兵士の一人が周囲の兵士に説明しだした。
「今,福原の港から出て行く船があろう,ほれ,あそこに浮かんでいる大きな船よ」
辰夫も始め海を眺めた時に気づいた大きな船のことである。
「あれは,宋の国から来た船じゃ,こいつらあの船の者であろう,乗り損ねて帰れなくなり,あんなところ泣きじゃくっていたのだろう。」
「一往,平家にとっては客人,粗末に扱うわけにはいかないだろう」
「この者達の身なりも妙な物じゃ」
「ただ,話せるようじゃ」
辰夫は,「宋の国」と言う言葉から中国の宋の時代で宋貿易と考えれば平清盛を想像してしまう,たださっきの薩摩守と言う言葉とのつながりが分からない。
海から少しずつ山手に向かって歩きながら山手の方を見ると周囲と異なった屋敷が見える。屋敷というよりどちらかといえば,京都の御所の簡素化さしたような建物に見えた。
ただ下から見上げて見たのではっきり分からない。
もう一度辰夫はつぶやいた「集中」。
兵士には,「集中」という言葉が日本語に聞こえないのであろう。
辰夫は,警察官の捜査の中で電車のキセル犯を捕らまえる捜査に同行したことがあった。
その時,先輩刑事から薩摩守と言う隠語のような言葉を言われたことがあった。後から聞いた話であるが,隠語でも何でもなくただのジョークであったが,その薩摩守という言葉がなんと的を射た言葉であったので面白く思っていたのである。
それは,薩摩守忠度である。要するにキセル犯のことを「タダノリ」と言うのに薩摩守の隠語のような言葉を利用していたのである。
そして,辰夫はひょっとして薩摩守とは平忠度のことで「宋」の船が出入りする港は,福原,福原京であるのか,ここは神戸なのかと考えを行きつけていた。
そして,春一と辰夫が向かっているあの山の上の御所のような建物は,平清盛が建てた雪見御所,辰夫はそこまで考えが行き着いたが,どこかで「まさか」ということと,「何故,何のために,ただ偶然,おかしい」など考えが混乱し始めていた。
春一は,沈黙を通している。言葉が出ないのである。辰夫は春一があまりのショックな出来事で話せなくなったのではと思うほど黙りとおしている。
辰夫は春一にそっと話しかけた。
「春一,大丈夫か!今俺たち夢の中じゃないのがわかるか」
春一はすぐに答えずにいた。辰夫は心配しながらも無理に春一から声を出させようとはせず,しばらくそっとしておこうと感じていた。すると春一が話し始めた。
「お母さんのこと・・・」と言って後が詰まってしまっている。春一は次の言葉をためらっている。辰夫に助けを求めているのである。気休めでもいい,今の現実と少し前の現実,夢のような出来事の「何故,何のために」の理由を知りたがっているのである。しかし,答えは誰に聞いても分かるはずがない。だから春一自身気力を失いつつどうでもいいという状態になってきているのである。
「ヤケクソ」じゃなく「投げやり」である。
辰夫は春一に言った。ただ春一と共に生きていくために,「大事のものを取り戻すために頑張ろう」。
春一の顔色が変わった。あの占いのお婆さんの言葉は、春一も記憶に残っている。不思議に思った言葉である。辰夫に「大事なものを取り戻す」の「大事」が何か分からない。ただ、今は、すがる想いでその言葉をくり返した。
占い婆さんの「大事なものを取り戻す」の言葉と「お母さんをとりもどす。」の繋がりは分からないが、春一の気持ちの中に子供ながらも使命感のようなものが湧いてきて,今は生きる,生きなければならない、目的がはっきりしたように感じたからである。
辰夫は,春一の心を感じた。日頃家の中では、子離れできない親と親離れできない子でじゃれあっているが,春一は,サッカーの試合の中では完全に一人の戦士となって戦う少年である。どんな状況でも,たとえ後ロスタイムの時間でも顔を下に向けることなく必死にボールを追う姿,そして,目的を達してしまう精神力,こんな小さな体のどこにそんな力があるのかと親ながら思うことがある。
まさに,春一にとって今がその時のように辰夫には感じたのである。
「お母さん、助けられる!どうすればいいか分からないけど、頑張れば何とかなる。」
心の弱い辰夫は、また、涙が出てきてしまった。春一はその涙は、悲観的なものとはとらえず希望の涙として受け取っていた。
「春一、そうだよな、助けられるよな」と辰夫の精一杯の返事である。
二人の様子を見ていた兵士たちは、この良く泣く親子が可笑しくも、かわいそうに感じていた。この可笑しくも、かわいそうな親子を見て兵士たちは、この親子が平家に敵対するものとは感じなかった。
辰夫は、ほんの小一時間ほどの間に少しずつこの「時」の雰囲気に慣れてきて、兵士にも言葉をかけることができるように思った。
「あの、これから何処へ行くのですか、あの建物はどなたのお屋敷ですか、」
兵士はそんなことも知らないのかという様な顔をして、「天子様のところよ」
「御所ですか、ここは福原」
「やはりお前たちは、宋の国から来たものだな、道理で言葉も服装も異国風なのだな」
「皆さんは、平家のお侍ですか」
辰夫は、次々質問を始めた。自分たちが置かれている立場、これからどうなって行くのか知るために。
兵士の一人が、笑うように話した。
「お侍だとよ、わし等はかり武者じゃ、山城の国から借り出された者よ、わし等の村じゃ男手の半分も借り出されたのよ、だからわし等みたいな百姓のかり武者にはこんな棒切れぐらいしか持たされないのじゃ」
辰夫は、彼らが京都の何処かの百姓でその村から無理やり集められ、平家の武装集団の中に組み込まれたものであることが分かった。そういった者達であるから道に迷い泣きべそを掻いている自分達に危害を加えようとせずにいるのだと考えた。
「あっちの村こっちの村とわし等のようなかり武者が何千と居るわい、そんなわし等が天子様の居られるお屋敷まで行くことはない、わし等は、薩摩守様の家来じゃから薩摩守様のお屋敷へお前たちを連れて行くだけじゃ、そこでお前たちがどう扱われるか決まる。まあ、お前たちがどうなろうとわし等の知ったことじゃないがな、戦と不作がこう続きどこにいても死人の山じゃ、今さら何が起きても驚くことはないが、お前さん達にはそうはいくまい。」
辰夫はその通りである。と思った。
辰夫は、もう一つ知りたいことがあった。福原に天皇がいたのは、平家の清盛が福原に都を移した時と木曾義仲に追われ京都を追い出された後の一の谷の合戦の時のどちらかしかない。そのどちらかを知りたかった。
「誰が攻めてくるのですか」と辰夫が聞くと、兵士が
「源氏よ、源頼範と源義経とか云う頼朝の兄弟が一万もの大軍で攻めてくるとの噂じゃ、もう京を出たと聞いた。東国から来た者達ばかりじゃ、まだまだ平家の敵ではないじゃろう。木曾の山猿も瀬戸では散々に平家にやられて逃げ帰ったからな。」
辰夫は一の谷の合戦の時であることが分かった。そしてこの場所は神戸の長田区か須磨区辺りだと考えていた。神戸は辰夫が要人警備の応援できたことがあり、確か兵庫県警機動隊の待機所の山の手辺りに鵯越の名所があった記憶があるからである。
それはそうと、「この時代百姓までもが東国をばかにしているのか」と、どうでもいい事を思っている自分に少し冷静さを取り戻していると気づいた。
これで辰夫は自分達が置かれている状況が分かった。時代は、鎌倉時代へ入ろうとする時代、すなわち、平家が一の谷の合戦で敗れる時である。そして今いる場所は、神戸市長田区辺り、そしてこれから、平忠度のところに連れて行かれるところである。
辰夫は自分がここまで状況確認をしたことに満足しており、刑事もできるかなと考えていた。ほぼ間違いない状況確認であると信じていたからである。辰夫自身そのことに自己満足をして気持ちが少し高揚していることに気づいて、直ぐにそれでどうなのか、状況確認はできたけれども状況判断が出来ないと気づいて一人で醒めていた。