第十 京から京都へ
第十 京から京都へ
その年の七月九日正午京都に大地震が襲った。
岡崎に建っていた六勝寺の九重の塔が六重まで崩れ落ち、大寺院の崩壊と火災で京都の町が崩壊した年である。
辰夫達四人は福原に着いた。久しぶりの福原の町はあまり変わっていなかった。少しは賑やかな街になっているだろうと期待していたが、むしろ少し寂れてしまったようであった。
平家がこの福原の町に陣取っていた時は、帝が居を構えた事もあって、仮ではあるが都であった。
公家や公達、それに平家の兵など人が多く集まれば商人も集まり市が立つ。活気だった街であったことは確かである。
今は、その余韻か惰性で人が集まってそれなりに市が立っているが何か街の中心となるものがなく、街全体が寂しく感じる。
管六は、福原が寂びれて行くことを寂しく思うが、それより、ここで辰夫や春一と別れることの方がもっと寂しかった。露骨に寂しいと見せられないため「福原の街は寂しい」と呟いていた。猟師茶屋であった処も今は、小屋だけである。
それでも山の者が下りて来て過ごすことがあるようで、それなりに生活道具は揃えてあった。四人は、福原のその小屋で最後の夜を過ごした。
管六と小夏は、春一と辰夫の会話が聞けなくなることを残念がった。こんな親子の会話は聞いたことも見たこともないのである。
この時代の庶民の子供という者は、親の道具のような物とする考え方があった。その一方、高貴な者の血というものへの狂信的な憧れがあるところもあった。
源義経は、源義朝の第九子、源範頼は六子など血族ということだけで武家の大将と仰がれ親を継いでいくことに峻厳を極めた。
そういった考え方は公家や武家だけの考え方である。
六番目の子供である管六は、須磨村で生きていく中、自分が家族の中で置かれている立場を自然に理解し、それにあった生き方をしていた。
そういった考え方からすれば辰夫と春一の親子関係はいたって不思議であり、面白かった。
二人の行動は、何とも言えない味がある。
旅の途中、一夜の宿を世話になった農家でのことである。春一は、この時代に来てからも平家の一員として、恵まれた中で過ごしてきていた。特に食事に困ることはなかった。
庶民、特に農家などは、支配階級に搾取され、米一つ無駄にできないのである。それを理解できていない春一が、ある農家で食事を粗末にすることがあった。春一の父である辰夫に対しての粗暴な言動や行動が気になっていた農家の主人が、春一に対して怒り出し、春一を家の外へ追い出してしまった。当然非があるのは春一である。
この時代、十二歳にもなれば一人前で一人の労働力であり、追出されたからといって、大人たちは、心配することもない。大人が子供を叱ることは他人であろうとお構いなしで当たり前のことである。管六も小夏も気に掛けることなく見ていたが、春一が表に追出され、一人気を揉んでいたのが辰夫である。かと言って世話になっている主人への失礼は春一に非があり、怒るのは当たり前である。
子供である春一は正当な理由で怒られており、自分が悪かったことぐらいは分かっているのであるが、父辰夫への甘えもあるのか、すねた仕草で出ていった。
田舎の農家で外に出されたからといって何処へ行けるものでもない。家の回りをうろつくのが精一杯である。普通なら誰も心配することもないし、子供のためにもほっておくのが普通である。まして、十二歳にもなる男の子である。
辰夫一人気になり、そわそわしている。管六、小夏は何も気にすることなくこの家の主人と話し込んでいる。辰夫もお愛想程度で話しによるが気が飛んでいるため、空返事ばかりである。とうとう辛抱できずに、厠へ行く振りをして表へ見に行った。
探すまでもなく戸を開ける物音を聞いて春一が見に来た。
半泣きの春一がそこにいた。苦笑いの辰夫と向い合って、強がりは言うが辰夫を怒らすものではない。そこから二人は座って、壁を背にして話し出した。
管六は、辰夫が居ないのに気づき直ぐに春一のところに行った。
案の定二人は話し込んでいる。管六は、その姿を暫く眺めていた。いつもなら、直ぐに話しに寄りに行く管六であったが、何故か星空を眺めて、仲良く話している二人の姿が不思議に思えて仕方がなかった。
この世界の親子の姿には見えなかった。何処か遠い、かぐや姫のように月から来たのかと感じるほどで不思議な思いで二人を見たのである。
いつのまにか小夏も管六の後ろに立っていた。小夏も同じ思いのようで、声を出そうとしなかった。小夏も二人の姿に何かを感じていたのである。
辰夫と春一は、親子である。父は父であり、子は子である。そのけじめはしっかり着いているが、何処か二人の心の間ぬは、この世界で感じることが出来ない柔らかい繋がりがある。その柔らかさの中で春一が父辰夫に甘え、頼る。その光景は管六と小夏を引きつけて止まない。
管六と小夏は、二人をそっとしておくのではなく、二人の息が届く空間に寄りたくなった。
小夏が業と音を立て「自分たちも、心配して見に来ているのだ」を訴えるように、辰夫が気づくように近づいてきた。
「辰朝さん、このまま、摂津を通って京へ行くの」と少し不機嫌そうな声で小夏が尋ねる。
「道はあまり分からない。淀の川を上って行けば京へ着くことを考えればそれしかないかと思っています。」
「暫く須磨で過ごせばどう」
「京へ行かなければならないのです。私達が住んでいたところへ帰るためには」
勿論、管六も小夏の意見に賛成である。
「それは、前に聞いたが、急ぐのか須磨に留まるならこの小屋を使える。」
「今日、明日というほどのものではありませんが、それでも、急ぎます。」
管六は引き止めることを半分諦め「京へは丹波を通って行く方が良いぞ」
「道が、難しいのでは、」
「三郎が行っていた。「京の南は危険だ。」と京へ行くことがあれば、京北を通り、大森から雲ヶ畑の志明院を通って賀茂から入るか、同じ京北から杉坂を通り長坂街道を経て鏡石を通る方が安全だと言っていた。
京北の山は源義経の使いで三郎が何度か足を運んでいるらしくて、鷲尾三郎義久の名を出せば信用してもらえると言っていた。
何故三郎が義経の使いをしているのか聞いたら、法皇から天皇の里御所(天皇家の御所が火災で焼失したため藤原家の屋敷を借りて御所としていること)の建築を頼まれた源義経様の指示で木材の確保のため元猟師の三郎に皇室直轄の京北の山の木を切り出す算段を任されて、よく京北の山に行ったらしいと。
三郎は、そういった仕事を義経様から任されているらしい。」
管六は、別れが惜しいのか丹波周りで京に入るのなら須磨の山を越えて行くことを進めた。
管六が丹波辺りまで案内すると言ってくれた。
辰夫もいざここでお別れとなれば寂しい。みんな思いは同じで、奇妙な空気が漂った。それぞれ思いがあり、何か込上げてくる。それで、ついつい管六の話しに乗った。
四人は、ただ寂しさを先延ばししただけであることは分かっていたが、少しでも一緒に居られればの思いがあった。それに辰夫も今まで話しそびれてしまっていたこともあった。
辰夫は、管六に自分達のことを最後まで言わずに分かれることは、心の何処かに忘れ物をしたような侘しさが残るように感じていた。
「何とかしたい」との思いを持ちながら歩いていた。
本当のことを話して「管六が信じられるか」と考える。
それは無理である。管六と今まで培ったものを思うと「壊したくない。」という気持ちが先に来る。
辰夫は、そういうことを考えて歩いているといつのまにか落ち込んで無口になる。何か哀しく自分を責めたく、やり場のない気持ちが持上げてくる。
春一は、のんきに小夏と話しながら、楽しそうに歩いている。
そんな時管六が声を掛けてきた。
「辰朝さん、どうかしたか。何か苛ついているようだけど、どうした。」
「いや、もう少しですね。篠山を越えると丹波ですね。そこでお別れです。私の気持ちをどのように話せば分ってもらえるか、」
「急に何言っている。辰朝さんは好い人じゃ。分っているつもりじゃ。今思えば楽しかった。恐らくおらは、須磨に帰って、また昔のように猟師の仕事をする。辰朝さんに会うまで、自分が生きているのを実感できることはなかった。会ってから辰朝さんと話をして、心高鳴り、奇想天外のことをやる辰朝さんを応援することが面白かった。無我夢中で生きられた。こんなこと、これからあるかどうか分からない。礼を言いたいのはこっちの方じゃ。」
辰夫は、黙っていられなかった。そして一人、目を逸らし、正面を向き、話し出した。
「管六さん、世の中には、不思議な話しってありますよね。怒らずに聞いて下さい。」
「何を急にどうしたんだ。」
辰夫は、管六の反応を確認せずに話し出した。
ここで、話すことをためらい、話せなかったら一生後悔することになる。
「昔、私と春一が同時に同じ夢を見ました。私と息子春一は、本当は、遠い所から来たのではなく、もっと先の時代から来たのです。原因はわかりません。ただ、なんとなくですが、感じるものはあります。」
管六は、辰朝が急に訳の分からないことを話しだしたことに戸惑い、もう一度聞き直そうと辰朝を見た。
辰朝の目がうつろで、視点が定まらず、何か考えているようであったので、聞き返すとそこで思考が止まり、話が終わりそうに感じたため、そのまま下を向き視線を逸らした。
「源氏と平家の戦いは、源氏が勝ちました。でも、もし私たち親子が居なかったらどうなっていたのか、三郎さんがみんなと同じように平家に仕官していたら、そして、義経に出会っていなかったらどうでしょう。あの鵯越の戦いはなく、一の谷の戦いは平家の勝利で終わったはずです。」
確かに義経が三郎に合わずにいたらあの戦に間に合わず、平家の勝利となっていたことは明白であり、強引に三郎を義経に引き合わせたのは辰朝であったことは管六が一番よく知っている。
管六は、黙ったままであった。
「私たち親子の時代は、源氏が勝利し、源氏の時代が来ます。私達親子が何故来たかというと源氏と平家の戦いは源氏が勝つようにすることです。そのためには鵯越による一の谷の戦いに間に合わなければならない、それを手助けするために三郎さんを義経に合わす役目があり、それを私が担った役目です。その夢は未だに覚めていないようなのです。」
辰夫は、こんな源氏や平家の話はどうでもよかった。
「今も寝ているのか。面白い夢じゃ」
「そうですね、夢は最後まで来ていないので、」
「最後は、」
「最後は、京で終わります。もし、京に大地震が来たら私の夢が覚めたと思っておいて下さい。」
管六は、始め夢の話しだが真面目に聞いていた。辰夫の今までの予言じみたことを重ね合わせると京で大地震が起きる話を少し気持ち悪く感じた。
普通なら、こんな馬鹿げた話し、怒り出されても仕方がないが、管六は、信じた。
今までの出来事をふまえて信じたのではなく、今は辰朝の言うことに嘘はないと信じたのである。
「ほんとに、大地震が起きるのか」
辰夫が伝えたいことは、夢の話に託けて三郎を助けることである。
「はい、三郎さんに会うことが出きれば、そのことを絶対に話して下さい。それともう一つ、必ず義経様と一緒に京から逃げずに何処か一人で隠れるようにと言ってください。」
「なんで、義経様が逃げるのだ。」
「義経様は、鎌倉に居られる兄君の源頼朝様に「鎌倉に逆らう者」として疎まれ、狙われます。」
辰夫自信、話が決まったことのようで、露骨過ぎ、一呼吸措いた。
「わたしの夢の話として聞いてください。」
管六は何か気持ちの悪い趣で、少し心が重くなってきた。
夢と言われても辰朝の話したことは、全てその通りになってきた。今までは、寺の巫女の占いみたいによく当たるものだとしていただけであるし、考えれば予想できる範疇のものもあった。
大地震の予言や今や飛ぶ鳥をも落とす勢いの義経の失脚となると予想もできないことである。それを断言し、三郎に逃げろというのは少し怖くなる。
「分かった。もし地震が起きたら、必ず三郎に逃げるように言う。それはそうと夢が覚めたらどうなる。辰朝さん」
「分かりません。私の生きていた処に戻ればいいのですが。もし、戻れなかったら須磨村へ行きます。その時はまた、宜しくお願いします。」
管六は、最後の辰夫の「須磨村に行きます。」の言葉で心が少し軽くなった。
丹波まで来ると亀山の地である。大堰川沿いを杉坂に向かえば清滝川である。そこまで行けば京は目の前で、山道も不安はない。
別れの儀式は、辰夫の「須磨村へ行きます。」で意外とあっさりしたものになった。
後ろ髪を退かれる思いは同じだが、心のどこかで、「また会える」と思えたからだ。
辰夫は、管六達と別れ不安を取り除くように歩いた。それについて来るのに春一は大変であったが春一も止まることの方が不安だったのか黙って一生懸命に辰夫の後を着いて行った。
辰夫が知っているこの辺りは、北山杉の産地でどの山を見ても杉林で囲まれている。今辰夫が歩く山道は、原生林のようで青々と茂った広葉樹の木々の間を歩いた。日も暮れかかっている。林道の所々に集落が見られ子連れで歩いている辰夫を怪しむ者もなくあまり警戒されず歩くことが出来た。
少々遠回りになったが、管六の言う通り京の南、鳥羽街道から京へ入るよりよかったかも知れない。
春一は、管六達との分かれに相当落ち込んでいた。特に小夏とは話しが弾み飽きることなく話しつづけていた。こんな時代の旅も春一にとって苦痛なくここまで来られたもののここに来て辰夫と二人っきりの旅は、親子水入らずよりも賑やかさがなくなった祭りの後のような寂しさを感じるのであった。
辰夫は、明かりが灯っている家を探し、一夜の宿を願った。親子連れであることと管六から貰った土産の猪の肉が利いたのか、快く屋根を貸してくれた。壁と屋根さえあれば二人は不自由を感じなかったのである。
辰夫は、一応三郎の名前を出してみようと思った。管六の話ではこの辺りの材木の切り出しに三郎が係わっていると言っていた。この辺りに京から義経様の使いで鷲尾三郎様と言うお方が来られたことはないかを訪ねたところ、知っているとのことであるが、家の者の話では、京の公家屋敷では火事が頻繁にあり、木の切り出しを命ぜられることが多く困っている。「鷲尾様は良いお方ですが無理な注文も多くこの辺りの村でも御命令通りには出来ない」と言っていた。
鷲尾三郎の知人ということで信用はしてもらうことは出来たが別段期待したほどの効果はなかった。それでも、鷲尾三郎の名が知れ渡っているということは、数多い義経の家臣の一人として千年先の世の中でも名を見ることができる理由だと思った。
農家や庄屋の家に一夜の宿を借りると朝、出立のとき多くの家が小餅か、握り飯を持たせてくれる。この時代の旅では当たり前のことなのか、辰夫と春一も包んでもらう。
京まで後少し、辰夫は、京北町から京都市内まで国道162号線で何度も行き来したことがある。川を下っていくと嵐山に行くはずで、途中、杉坂から京見峠を超えれば鷹ヶ峰である。辰夫は近道になる杉坂から京見峠に向かう道を考えていた。ただ道が判ればの話である。
辰夫が歩く道は国道でも府道でもない。あまり景色に変化がない山道である。取合えず杉坂辺りまで素直に川沿いの道を進んだ。
景色に覚えはないが山の形と川の流れは、谷川だけあって時を経てもあまり変わっていない。そのため小野郷を越えて暫くして東へ入る山道があり、辰夫はそれが恐らく京見峠へ行く道だと思った。まだ朝も早く、間違ってもまた戻り違う道を探す余裕はあるので気にせずその道に入った。
京に近づくと山道といっても相当通行量が多いのか、獣道のようなものではなくしっかりした道である。行き交う人もあり、とちゅうで確かめることも出来るが、辰夫は、間違いないと確信し、もくもくと歩いた。
京見峠に近づいた時、辰夫と春一は立ち止った。
「春一、もう少しで京見峠だ。京の町が一望できる。勿論自分達が住んでいた時の街ではないが、大文字山や比叡山がある東山は一望できる。前にも言ったが、お前と俺の二人は、地震であの朝堂院の大極殿跡の発掘現場に落ちてこの時代に来た。これからその朝堂院のあるところへ行き、もう直ぐ起きる大地震を持つ、お父さんは元に戻るための最初で最後のチャンスと思っている。」
「本当に、地震はあるの。」
「絶対にある。平家物語の中だけの話ではない。他でも聞いたことがある。義経が京に凱旋してきて暫くしてからだったと思う。」
辰夫は、自信なんて何もなかった。ほんの少しの本の中の記憶で、それしか頼るものはなかった。
春一を助け、春一と二人で生きて行くことが出来るようになればやっぱり家族の元へ帰りたいのである。早苗と春一と三人で京都の町で生きたいのである。
辰夫はあの日の前日、占いの婆さんから言われた言葉で「お前が、一番大切にしているものを失った時、お前は,その失くしたものを取り戻すチャンスが来る。その瞬間を逃すな,時に逆らうな,」の言葉をいつからか思い出していた。
失くしたものとは事故にあった早苗の事ではないか、もし元の時代に帰ることが出来れば早苗を助けることが出来るのではないかと考えていたのである。
そのことは春一には言っていない。
春一は思い出さずにしている。早苗のことは一度も口にしない春一、恐らく平家の中で人の死の無常さをこの年で味わったからかもしれないと辰夫は思った。
春一は、「帰りたい。」と一言言うと唇を噛み締め歩き出した。
辰夫は春一の後ろをそっと付いて歩いた。辰夫も春一と同じ気持ちである。
暫くきつい登り坂を歩くと峠が目の前に見えた。木々が開けたところで、少し足が速まるのを自分でも感じた。次の一歩で見えるのでは、次の一歩でと足を進める。辰夫、春一は急にそこへ向かって走り出す。その場所は、京から京都へ行ける次元の空間に思えた二人であった。
先に峠に立っている春一が大きく手を振り辰夫を呼ぶ。辰夫は気持ちの高ぶりが耳を塞いでしまったのか春一の声が耳に入らない。そして辰夫の目に大きく広がって見えたものは、まさに京都である。全神経が目に集まったかのように全て何も感じなかった。
風の冷たさ、鳥の声、緑豊な木々の匂い、そして震える膝さえ気づかなかった。
まさに、京の町である。大の字はないが、比叡山山頂のアンテナも無いが、東山の山々である。
辰夫は峠から京を眺め、何かに誓いたかった。「自分が行く場所は、はっきりした。何の迷いもない。必ず京都へ帰る。」京の町に言った。
春一は辰夫と違い、何か一点をじっと見つめているようであった。少し悲しそうな目であった。春一にとって、今の京に何があるのか、そのことを何も言わず黙って悲しい目で京を見つめた。
辰夫と春一は、京見峠から長坂を通り、一ノ坂を下り、鏡石街道に出て左大文字の山の麓に下りてきた。当然大の文字はないのである。現代であるならば一ノ坂を下りた辺りで京都市街を感じることが出来るのであるが、左大文字の麓辺りに来てもまだ京の町に入ったようには思えない。辰夫は平安京の地形を確かめるため、その足で船岡山へ向かった。
船岡山周辺は、雑木林と田園とが交差するように風景が広がっており、源平の戦が終わり京の町は平穏に見えた。辰夫が向かっているのは船岡山である。周辺は天皇家が火葬された場所が点在しているようであったが警備が厳しくなされていることはない。辰夫は船岡山への上り口を探しながら京の町を肌で感じようとしていた。船岡山は、山と言うより、丘に木々が生えているような山で、10分も上れば頂上に着く。京都の町は北に高く、京の北に位置する船岡山辺りを少し上れば京都の南の端まで見渡せる。
辰夫は、船岡山の頂上から平安京の中心平安宮(大内裏)を確認していた。
パノラマで映る京都の町を左に見える東山から確認するように眺めた。
「確かに、あれが比叡山、山頂のアンテナ郡が無いと頭を突出し裾野までの曲線が美しい。円通寺が借景したくなるのが分かる。そのまま南へ行き、大文字山、手前に吉田山その奥に法然上人が説法をされている黒谷、その奥が永観堂、八坂神社で清水と、あの塔は、と」辰夫が考え込んだ塔を見て、「岡崎の六勝寺の塔か」一人で解決していた。西に顔を向け愛宕山から南へとまた確認するように名前を読み上げていた。
辰夫が立っている船岡山の眼前に平安宮が東西1km、南北1.5kmほどで宮内には大小の建物が軒を連ねている。人の動きまでは分からないが、空地や壊れた建物も遠くからはっきり見られこの離れた船岡山から見ても、平安宮が機能していないように見られた。
辰夫はその平安宮に用があった。辰夫が行かなければならない場所はまさに平安宮の大極殿の辺りで、千本通丸太町付近で行われていた発掘調査場所である。自分達を飲込んだ場所でもう一度同じ地震で飲込まれることで元の世界へ帰れるのではないかと辰夫は考えていたのである。考えは単純ではあるがそれしか今の辰夫には縋るものがなかった。
辰夫は、船岡山を東へ下り、雲林院という寺院のような屋敷の縁に着いた。ここからは辰夫の住んでいる京都と京の町を重ね千本丸太町付近を目指さなければならない。辰夫の感覚からすればこの辺りは北大路大宮辺りになるはずで、そこからずっと南へ下がって行けば平安宮の東側に当ると進んだ。
10分も進めば、平安宮の北東角端に着いた。辰夫の感覚通りで辰夫の背丈より高い古びた土塀が西と南へと続いていた。辰夫は土塀に沿って歩くと直ぐに上東門であった。
漢字は読めるがじょうとうもんと呼んで良いのか分からず、通り過ぎた。昼間であるが門は閉ざされており中の雰囲気を伺うことは出来ない。
辰夫はそのまま次の陽明門も通り過ぎ、待賢門の前で立ち止った。この字は春一にも読めた。たいけんもん。春一が次に通う中学校の名である。待賢中学校の待賢の文字が二人を止めたと言っても良いのである。
辰夫は焦っていた。何時大地震が来るか知らない辰夫にとって大極殿のある場所は自分達と元の世界を結ぶ場所なのである。その場所に地震が起こるまでに行けなければ元に戻ることは出来ないと辰夫は、信じていたのである。
一刻も早くその場所に行きたくなっていた。京に入り船岡山から平安宮を確認すると無性に危機感に襲われ焦り出していたのである。近づけば近づくほど「ひょっとして、今大地震が起き、元の世界へ帰り損ねることになるのでは」との思いが込み上げてきて気を焦らすのである。
待賢門は、開かれた状態であった。開かれた状態というよりも焼け残った状態であった。そのため大内裏内に入ることは容易であった。
辰夫にしてみれば大内裏に侵入する事自体困難を極めるものと思っていたが、北から大内裏の東側壁沿いを北へ上がって来る道も殺風景で京の中心の建物とは思えない状況に見えていた。そしてこの待賢門の前に立った時、この大内裏は今京の中心ではないと確信し、それは、辰夫達にとって都合がよかった。
大内裏内は、各行政を司る屋敷の敷地を示す境界線代りの板塀があり、下級官吏がつめているものの屋敷内の猫の額ほどの空地はほとんどが農耕地化した状態であった。屋敷の多くは焼けて修復されずにあるため使い勝手が悪いのか明らかに行政の中心から外れたというより、京の中心から外れてしまった状態である。
大極殿のある朝堂院の西側の同じような建物の豊楽院は、1063年に全焼して以後再建されずに放置されたままで、1177年の太郎焼亡では、大極殿をはじめ周囲の省、官等焼き尽した。内裏も御多分にもれず同じように焼失し、後は放置されたままである。
辰夫は、京の中心は何処に行ったのか不思議な感覚に襲われた。
内裏に入るまでは少なくとも大内裏の東側は辛うじて街の様相を呈していた。閑散とはしていたが建物も連なり人の生活の営みが感じられた。しかし、大内裏に入ったとたん塀に囲まれた廃墟の空間になったのである。
大内裏内は、一応官の管理内の建物であり、庶民が大胆に扱うことも出来ない。しかも農耕地としても扱いにくい、何に付けても既存建物と権益が邪魔をしているため人を寄せつけなくなり大内裏内は空虚となりつつあるのである。
後にことであるが、十四世紀に現代の御所の位置に内裏が建てられるまで天皇家は里内裏でずっと過ごすことになるのである。
辰夫は待賢門から真っ直ぐ西に進み朝堂院の北側に位置する大極殿へ向かった。辰夫のイメージでは丸太町通を西に向かっている。
何か胸がドキドキする。自分と春一が落ちた場所に近づいているからである。待賢門から西側を眺めると土塀越しに建物らしきを見ることが出来る。近づくにつれその建物は廃墟となっているのが分かった。朱色の平安神宮のような建物は想像できない。巨大の建物であったことは想像できる。
辰夫は、黒澤明監督作品の羅生門の映画を思い出した。
辰夫は塀を目の前にして「この塀の向こう側が大極殿か」と呟いた。
船岡山からずっと無言のままここまで歩いて来た。春一は辰夫の焦りと不安を感じ取っていたのか全く話しかけようとしなかった。そしてこの場所に立ったとき、「お父さん、到着したの」と声を掛けた。
辰夫の焦りと不安からの開放を春一も分かった。
大極殿は焼け崩れ、その後放置され老朽化していた。二人はその大極殿へ至る崩れた塀を乗り越え北山杉のような一抱えもある柱にもたれかかった。
「ここだね。ここにずっと居ればお母さんに会えるんだね。」
辰夫は、春一の口から出た「お母さん」の一言に一瞬、衝撃を受けた。忘れていたのである。
元の世界へ戻ることばかり考えていて、何時の間にか来た時の状況を失念していたのである。春一はずっと早苗のことを意識していた。
辰夫は忘れていたことを春一に気づかれないように直ぐに返事をした。
「お父さんは、占いをやっていた老婆の言葉をずっと考えていた。「お前が、一番大切にしているものを失った時、お前は,その失くしたものを取り戻すチャンスが来る。その瞬間を逃すな,時に逆らうな,」と言った事、春一覚えているか。」
「覚えていない。ただ、僕達が発掘現場の穴に落ちる時、お母さん車に跳ねられそうだったことは忘れられない。」
「失くしたものを取り戻すと言うことは、お母さんを取り戻すことじゃないかと考えている。お父さんはその言葉を信じてここで待とうと思う。」
「ここに居るとなんだか落着くな」
「お父さんも、もう何処へも行かなくてすむ。ここに居たら帰れそうに思うし、それに、家の近所に居るようで」
「一緒」
辰夫と春一は廃墟となった大極殿で一晩過ごした。大極殿跡では、雨露さえ凌げない状況のためか流浪の者も庇を求めてここに来ることはなかった。一日過ごし辰夫は、朝堂院西側に太政官の大きな門を潜った。門に表札で「太政官」と書かれていたため判るだけで、敷地内は畑だけで、その畑を管理するために建てられたような小屋が存在していた。
太政官の主は、行政の中心の地であったこの場所を管理していることを考えればそれなりの官位の持ち主である。少なくとも以前はである。今は、自給自足に近い畑仕事を強いられていることから人生を諦めたようになっていたが、京の情勢が変わりつつあるのも気になるところであった。
太政官の主が辰夫の姿を見つけ「泥棒か、何も盗るものなどないぞ、」と辰夫の顔も見ずに言った。
「いえ、暫くここで働かせて頂きたい。畑仕事をやらせて頂きたい。暫くでいいのです。子供と二人ほんの少しの食に預かれれば」
「お断り申す。」と辰夫の言葉遣いが何やら気に入ったのか、返す言葉遣いが変わった。この時代情報量が少ない分人を見ることに長けているようで、危険か危険でないかの判断は直ぐ様出来るようである。
「お願い致します。ほんの少しの間でいいんです。御迷惑は掛けません。」
「何処の何方か判らぬ者を、ここは今でこそ田畑となっているが、元は太政官、門にも掲げているであろう。身分もわからぬ者を雇い入れるわけにはいかぬ。」
「このように、書付が御座います。」と言って駄目でももともとのつもりで源範頼の書付を出した。太政官の主は、その書付を読み何が書かれているかは、解ったようであるが本物か偽者かはわからないでいた。
書付に目を通した太政官の主は、自分の感じたものが正しかったことを確認するように話を進め出した。
「お主、福原で源氏方に付き手柄を立てた者のようであるが、名はなんと言う。
「平居辰朝と申します。その書付は、源義経様の道案内をしたときのもの。ホンの少し役に立った程度で手柄というほどのことではございませんが、梶原様の口添えで頂くことが出来ました。
「源義経殿も梶原景時殿もまだ京には戻られておらぬ。確かめようのない書付じゃ」
「われわれ親子は、寝起きが出来る場所とほんの少しの食にありつければよいのです。滞在の間は、この畑で働かせていただければ、」
「私は、中原金丸と申す。この書付の仔細はわからぬが、源氏の大将のものであるならば邪険には扱えぬ。源範頼殿が京へ戻られるまでならここに居てもよろしかろう。勿論働いては頂くが、」
「有難う御座います。」
「私は、太政官で雑務を司っている大舎人少允中原金丸と申す。ここで暮らしている者ではない。東三条院に詰めているもので、役務だけでは暮らして行けぬのでほんの少しでも暮しの足しになればとこのような田畑を作っておる。この場所とあの表札があれば荒らされることも少ない。何れ大内裏も修復されよう。その時までの話しであるが、そうじゃ、あの小屋は床も無い物置じゃ。好きに使って良い。ここの見張り、平居辰朝と申したな。お主に任した。私も見に来るが宜しく頼む。私に用がある時は、朱雀門を出て東へ行けば藤原家の東三条院がある。そこの門番にでも言付けてくれれば後から顔を出す。早速で悪いが後のことは宜しく。」
中原は、直ぐに太政官を出ていった。
中原にしてみれば腐っても中央の役員である。その役人が自ら田畑で働くことは気の進まないことであった。かと言って人を雇い入れるほどの甲斐性も経済力もない。仕方なく田畑に身を置いていたのである。源氏の世が来て京での戦が無くなれば元のようになると考えていた。そのためにも、今、里内裏での職務に携わっていなければならないと焦っていたのである。そこへ辰夫が現われ、ほんの少しでも源氏との繋がりを持つ者でもあり、都合が良かったのである。
辰夫は、大極殿の近くに居場所が出来たことで安心した。後は、ここでじっと大地震を待つだけであった。
辰夫と春一は大極殿を眺める日々を過ごした。京の市中は源義経の凱旋で賑わいを見せていたが、大内裏辺りは閑散としていた。今の京の中心は鴨川を中心として東側は、六勝寺に見るような大寺院が立ち並び周囲に白川殿などの離宮があり、西側には里内裏が置かれた藤原家の屋敷が立ち並ぶ。京の南には、鳥羽離宮があり、一大都市が形成されていた。かつての中心であった大内裏は、大火が続き修復不能状態になり、見捨てられた状態で、庶民の中心も京の東へと移ったのである。
この閑散とした大内裏は辰夫にとって心地良いものであった。春一と二人で安全に居ることが出来るからである。中原も始めのうちは良く顔を出して、獲れた作物を持ちかえったが、最近では使いの者が来るようになった。
辰夫と春一もここの生活に慣れてきて、始めに持っていた大地震への緊張感が緩んできていた。何処か気持ちの中で「まだ、地震は起きないだろう」と思うようになり、春一と二人して街に出るようになった。街に出る時は、畑で取れた野菜を一抱え持ちぶらぶら歩くだけで、特段それで商売をしようとしたのではない。何も持たずぶらぶら歩けば怪しまれそうで、持ち歩いていただけである。たまに呼び止められ物々交換をすることもあり、春一は、そのたびに大喜びをしていた。辰夫から見てたいして得をしたようには思えないのであるが、春一から見れば大儲けしたように思ったのである。
そうした中で街の噂も辰夫達の耳に入ってくるのである。それは、春一の気持ちを塞ぐものであった。「建礼門院が東山の長楽寺に入幸され、出家された。」との噂である。
その噂話しを聞いた時から春一の言葉数が減ってしまった。
小屋に帰ってから辰夫は、春一に話しかけた。「建礼門院様に会いたいか」
「別に」
「東山の長楽寺か、円山公園の上だったな。少し遠いな。そこへ行って地震が起きたら戻れなくなるからな。」
「ここでじっとしてるよ」
「少し、拗ねているだろう」
「拗ねてない。お父さんが「地震が来る」と言うから待ってるだけ」
「お父さんだって、本で読んで知っているだけで、何時来るか覚えてない。」
「だいたい、何時頃かも覚えていないのか。」
「そんなことで、怒っても仕方ないやろ、お父さんも一生懸命なんやから」
「別に、怒ってへん。本を読んだなら覚えとけばいいのに」
「怒るぞ。勝手なことばかり言う」
「もう、ええ」
「何が、もうええね」
心配して春一に話しかけたのに、逆に拗ねられ、その勢いで馬鹿にするように言った春一を辰夫は叩いてしまった。
涙を溜めて泣き声を出さず堪えている春一は、辰夫に叱られて涙を溜めているのか、建礼門院のことを思い涙しているのか辰夫にはわからなかった。
辰夫は、黙って小屋の外に出て夜空を眺めた。京に入り大極殿の側で居を構え二月以上立つ。はじめは、「もう地震が来るのでは、もう直ぐ帰れる。」と日々緊張感と期待で過ごしていたが、最近自分でも信じられないようになってきた。当然春一も同じだろう。ここで過ごす支えとなるものが頼りなくなれば気持ちも揺らぐ、今自分も春一も心残りとなることが大きければ大きいほど、余計に信じるものが信じられなくなる。
辰夫は自分も心残りを解消しよう。勿論春一もと考えた。
何か今日はやたら星が輝いて見えた。夜空に星の輝きを遮るように雲が竜のように立ち昇っているのが辰夫に見えた。「地震雲」と一瞬辰夫の頭を過ぎったが前にも見たことがありそうであったし、何度も春一と変わった雲を見ては「地震雲」と言って大極殿へ走った。
小屋に戻り辰夫は、春一に話しかけた。
「明日、長楽寺まで行ってみようか。お父さんも堀川第と云うところに寄りたい。世話になった三郎という人がそこに居るらしいから」と言った。
辰夫にしてみれば春一の意地を張った気持ちを緩めるため、自分も用があることを一緒に告げた。勿論そのためだけに三郎に会いたいと春一に言ったのではない。辰夫も春一と同じように三郎のことが気になっていた。義経と三郎を合わせた責任が辰夫にある。何とか義経から離さなければとやきもきした気持ちでいたのである。
春一は、素直に首を縦に振った。春一は春一なりに心に重く圧し掛かるものがあったのである。辰夫は、そんな春一を見て、「この小さな身体にどれだけ重いものを抱えているのだ。少しずつ下ろしてやりたい」と思って春一を見つめていると、春一が不意に、
「今日は何日、」と訪ねた。
「何故急にそんなこと聞くのだ。今まで気にしたこともないのに」
「なんだろう。建礼門院様と別れたのが三月の終わりだったから、どれくらい経ったかと。それに、母さんの誕生日がもう直ぐかなと」
「七月八日だ。明日だね」と言った。いざ、この場所を離れるとなると急に不安になるもので、「まさか、一日だけの話しだから大丈夫だろう」と自分に言い聞かした。
朝早く辰夫と春一は小屋を出た。空は、必ず来る今日のための日の光を待っていた。辰夫達は、今日のための日の光を待たず朱雀門を出てまだ暗い東の空を見上げた。そこには一筋の立ち昇る龍のような雲が見られた。辰夫も春一もその雲には見覚えがあったが何処で見たのか思い出せずにいた。それとそのことを口に出すことを止めた。
辰夫と春一は
二条大路を東へ向かった。取合えず鴨川に突き当たるまで歩いた。鴨川まで来ると川辺りを南へ下がり、弁慶と義経で有名な五条の橋へ向かった。橋があるところで渡れば良いとの考えで歩いていた。三条辺りに小さな橋が架かっていたので渡り、後は、東へ向かうのみであった。
辰夫にしてみれば六勝寺の九重塔が目印となっているので歩き易かった。六勝寺は岡崎の京都市動物園辺りにあり、その南側へ少し行くと円山公園である。長楽寺はその円山公園の東側に位置することからこの辺りと見当をつけて東へ向かった。
鴨川を渡り東へ向かうと直ぐその当りから鬱蒼とした森が茂り一筋の道が続いていた。
急な勾配ではない。緩やかな坂道を登ると目の前に山寺の様相で山門が顔を出した。
長楽寺の名が読み取れた。
山緑の木々を背に萌葱色の木の葉が初々しく山門を彩っている。山門の奥には寺院が見える。山肌にへばりつくように何塔かの塔頭が霞むように見える。
建礼門院の境遇を考え見る山は暗く重圧の中に押しつぶされそうな場所に見えた。
日はまだ昇らずとも空を青く染めるだけの光量はあるはずであるが、未だその力はここには及ばないのか光は届いていなかった。
春一には、暗くとも何かが見えるようで辰夫の後ろに着くことなく何かを確かめるように辰夫の先を歩いた。
山門は開かれていた。山門を潜ると読経の声が微かに聞こえる。その声に引き込まれるように春一はその声の震源地へと引き攣られていった。辰夫は春一に声も掛けられないほど脅えてしまった。
春一の後姿が怖かった。今、春一に声を掛けるととてつもなく大きく心に傷をつけてしまいそうであった。
辰夫は、春一と一緒にいて気づかなかった。春一の心の重荷の大きさに気づいてやることが出来ていなかったことを、今、春一の背中を見て気づいた。
心の底に沈めておいた苦しみが涌き出てきているのであろう。どうしようもない苦しみを抱えてしまった春一が助けを求めて来たのではないか。春一自身分からずにいるが身体が自然にあの読経の渦の中心を目指している。
木々のざわめきと小さな滝の音が読経の声にかぶさり、立止まってその暗い小さな滝を見つめている。
滝壷に吸い込まれそうになる。それを読経が引きとめてくれる。
春一は、急に立ち止り固まった。
春一は、清水を弾く小さな滝音をじっと睨みつけ、読経に聞き入った。
「建礼門院様だ。」と言った。
辰夫には分からない。いくつかの声が重なっていることは確かであるが、女性の声は聞こえない。春一には聞こえているのであろう。辰夫は全くそのことを疑うことはなかった。
「春一には分かるのか」と呟いた。
辰夫は春一に「どうする」と声を掛けようとしたが立ち止まった春一には聞こえないように思えじっと見守った。春一は、その微かの声を追った。そしてその声がする塔頭の前に立ち、身動きもせず、何時終わるとも知れないお経の終わるのを待った。
春一は、建礼門院の声を、姿を、確かめたかった。
何時までも続く読経の中で春一の強張っていた顔が次第に柔和な顔へと変わっていった。もう日は昇っているはずなのに光は地に届いていない。太陽の力はこの林の木々の力に遮られているのではない。森厳な仏域を乱すまいと日の光は木々に解け込もうとしているのである。
「お父さん、帰ろうか、建礼門院様は、大丈夫みたいだし。」
春一もこの意味不明な読経の中に解け込み心を落ち着けたのである。そして、諦めとも、悟りとも受けとめられる目で言った。
辰夫は、春一の心が本当には癒されていないと思った。だからと言ってどうすれば良いかは辰夫にも分からない。
辰夫に出来ることは建礼門院と会わせてやることぐらいでしかないのである。その結果春一の心が癒されるかどうかは分からない。ただ、春一が建礼門院に会い、感懐を吐露することで何かしらの思いを遂げられるのではないかと考えるのである。
「春一、一目顔を見てから帰ろう。春一にとって大事な人だったのだろう。建礼門院様も春一の顔を見れば喜ぶかも知れない」
「いいよ、早く帰った方が安心だし。」
辰夫は、少し意固地になった春一にそれ以上「会おう」と強いると春一が可愛そうに思え、その場で言葉を止め立ち止まったままお堂に目をやった。
萱葺きの寺院は、辰夫が日頃見る観光寺院と異なり、建物そのものは貧相であるが慈悲の力とそれを心から信じている力は秘められている。余力のない者が身を削る思いで供えられている物は、何を意味するのか、そこにある心は誰の目にも見える「信じる心」である。
それを受ける仏もまた「信じられる」ものである。寺院には、その力が宿っている。
辰夫は、読経が終わっても動こうとせず慈悲の世界を目に焼き付けようとしている。春一は意固地な心を何時の間にか忘れ辰夫の側に立っている。一度言った「帰ろう」はもう口に出さなかった。
「春一、春一じゃないの」と後ろから声が聞こえた。
春一と辰夫は、不意に掛けられた声に肝を潰すほど驚いたが、その声が子供っぽい女性の声であったことで恐怖を覚えることはなかった。
振向いた春一は、「阿波、阿波じゃないか」と返した。
十七・八のおぼこ娘が立っていた。春一は直ぐに阿波と云う娘に近寄り二人の世界を造った。何やら二人で話し出した。暫く辰夫は二人の間に入らず見ていた。暫くして辰夫が気になったのか阿波という娘が辰夫に目をやりお辞儀をした。
「僕のお父さん。お父さん、屋島まで一緒に船に乗って僕の世話をしてくれたお姉さんだよ」
「春一がお世話になり、有難う御座いました。」と何やらこの時代の会話とは思えない雰囲気のやり取りに辰夫は違和感を覚えたが向こうの阿波と言う娘もただお辞儀をしてことを終わらしたのでそのまま流した。
春一は阿波と二人で帰る方向へ歩き出した。
阿波は、春一が一の谷から屋島へ向かうとき帝の影武者としての春一に就けられた女官である。いつの間にか采女から内侍へと官位が上っていたが春一には意味がないものであったので其のことについては何も聞かなかったし、阿波も何も言わなかった。内侍とは、宮中の女官内の身分の一つで後宮十二司の一つの身分である。元々商家播磨屋の出であるが、藤原通憲の幼女となり、そこから宮廷へあがったもので、商家播磨屋は平清盛の宗貿易での繋がり、そこから宮中への足がかりとして娘の阿波を出した。清盛の繋がりもあり、清盛の娘建礼門院と共にしていた。それで官位を上げ内侍として使えていたのである。
春一には阿波の出生、身分などどうでもいいことで、一の谷から屋島までの船中で落ち込んでいた春一を励まし、何時も陽気に振る舞い春一の話し相手になってくれていたのである。
春一が一の谷から壇ノ浦まで頑張れたのは阿波内侍がいたからと言っても過言ではないぐらいである。
「お父さん、建礼門院様とは会えないよ、見張りの人がいてあまり外へ出られないみたい。帝は溺れて死なれたのだって、それでお母さんの建礼門院様は出家したと言って、お坊さんになられた。でも清宗と能宗が捕まっているけど生きているんだって」
辰夫は、春一が説明する声が少し上ずって無理やり元気を装っているように思えた。
春一は、多くの友を亡くしたことをこの娘から聞いたのであろう。少しの光明を無理やり見つけそれを支えにやっと立っているのである。
「春一、そっちから行かない方がいい、見張りがいるから。建礼門院様が出家されてから見張りも減ったけど、それでも出入り口には番兵がいるから」
「入る時は、どうも無かったな」
「運が良かったんだね。交代する時か、何処かでさぼっていたんでしょ。今源氏の平家狩りは厳しいし、こんな目立つ京に出て来たりしないもの。」
と話していると「お前達、何者じゃ」と番兵と思しき兵二人が声を掛け辰夫達三人に近づいて来た。
辰夫は、源範頼の書付もあり、子連れでもあることから怪しまれることもないだろうと高を括っているが取合えず兵の前では膝を付き、頭を下げ従順な態度を示した。
「私は、建礼門院様の内侍、阿波と申します。この者二人は私の知合いの者で菜の物を持ってきた者です。決して怪しいものでは御座いません。」
阿波は、辰夫と春一が手に持っている野菜を目ざとく見つけ上手く言い逃れを言った。商人的な機転の利く娘で、後に建礼門院が大原寂光院で過ごされたとき、世話になった大原の土地の娘に柴を京で売り歩く商売を教え、そのとき大原女の原型を考えついただけのことはある。
番兵は、辰夫達の格好と子連れであることから、怪しむことはなく素直に阿波の話しを信じた。辰夫達は、そっと立ち上がり顔を上げ、その場から立去ろうと山門の方へ向かおうとした。
「待て、そこの男、お主の顔を覚えているぞ。」
辰夫は急に後ろから大声で威圧的に声を掛けられた。
「赤間の関の戦のとき、お前、おかしな舟に乗って平家の船から子供を攫っていった男であろう。その顔見忘れはせぬ。わしはお前を追って近づいたところ、新中納言平知盛に碇を投げられ船ごと海に投出されたものじゃ、その子はそのときの子供じゃな」
「いえ、私はただの百姓で御座います。」
番兵は、壇ノ浦の屈辱を思い出したのか、いきなり槍を辰夫に向けた。
「お待ちなされ、境内を汚すでない」と透き通るような女性の声が飛んできた。
春一が直ぐ気づき「建礼門院様」と声を出した。
「その者達、そこの親子は平家と何ら関係のない者そのような者を殺してなんになる。もう戦は終わったではないか。これ以上の殺生は誰も望まぬ」
「お言葉ですが、後々の災いは今のうちに断っておかなければなりませぬ。この者達は建礼門院様の仰る通り無関係の者であれば解き放たれましょう。この場で殺すようなことは慎みます。これより堀川の刑部省へ連れて参ります。それで宜しいでしょうか。」
建礼門院も捕われの身、かつてのように清盛の子として、天皇の后として、国母としての力はない。それは自分でも判っている。
「分かった。すまぬが少しだけその者と話しがしたい。良いか」
「少しであれば」と言って番兵は、後ろに下がり若干遠めから二人を見張った。
「春一、何故危険を犯してこの長楽寺に来た。」
「建礼門院様に会いたくて、危ないとは思いませんでした。」
「相変わらず分かり易い子じゃ。お前の無事な姿を見られて嬉しい。お前を見れば安徳の楽しそうな顔が浮かぶ。お前と遊んでいる時、お前のことを話すとき、あんなに生き生きとした安徳の顔は、お前と会うまでは見たことがなかった。春一、お前という友に会えてよほど嬉しかったのであろう。安徳だけではない、平家の若衆もな。私からも礼を言うぞ」
「安ちゃん、可愛そうだね。建礼門院様は、大丈夫」
「私は、この通り生きておる。脱殻のようであるがな。これからは、安徳や平家の者達への供養をしようと思う。お前には分からぬかも知れぬが、念仏三昧の日々を過ごすことになろう。春一よ、お前は生きるのじゃ。ただ元気に大きくなってくれ、そしてまた顔を見せてくれ、お前を見れば安徳の姿が見れそうじゃからな」
「きっとまた、来ます。」
春一は、ぼろぼろ涙を流しながら、何度も同じ言葉を繰返した。「絶対に来るから」と
建礼門院は涙を隠すようにお堂に入り、何か書物を持って直ぐに出てきた。
「春一の父か。よくぞ春一を助けに来た。お前達親子の絆、胸が熱くなりました。仲良く元気に過ごすのじゃ。この文は、「お前達は平家に捕われていた者である」と書いてある。これを見せれば平家と係わりない者と証明できるであろう。持って行きなさい。」
「有難う御座います。」
番兵の一人がその文を辰夫から取り上げ「私が預かる」と懐に入れてしまった。
建礼門院にしてみれば番兵にもこのような扱いを受けることになった我が身が情けなく思ったが何も言わなかった。
「春一、お前がくれた安徳の直衣、このように大事にしておる。礼を申します。これを仏幡に縫い直し寺にお布施として納めよう思っています。よいか。」
「分からない」
「分からないか。その通りじゃな」涙を零した目に笑みがこぼれた。
春一も同じように、建礼門院の笑みに釣られ、涙顔に笑みを見せた。
二人は建礼門院と阿波内侍に深く礼をして兵士と伴に堀川の刑部省へ連れて行かれた。刑部省といっても裁判など行われることはなく、連れてきた兵の言い分で直ぐ様刑を言い渡される。辰夫は、物分りの良さそうな番兵に鷲尾三郎義久の名を告げ会うことが出来ないか願い出た。三郎の名は、下級武士の間では相当名が通って入るのか、もう一人の番兵も知っていた。
三郎は、義経の連絡・交渉などの渉外を一手に引き受けているようである。三郎は鷲ノ谷村のときから機転が利き段取り良く物事を動かすことから、一郎に都合良く使われていた。持って産まれた才能なのか、京においても義経の手足となり動いているようである。京では、義経の兵の世話係のようなことをしており、名が知られるようである。
番兵は、「義久殿だったら知っておる。義経殿の兵の中には悪さをする者もおる。そのたびに刑部省に謝りに来ておるからな。会いに行かずとも刑部省におれば現われるは、」
辰夫と春一が堀川一条辺りの刑部省向かった。一条辺りになると市中から離れた場所のイメージがある、そこから北へ上がると火葬される所になり、忌み嫌われる。
堀川小路を上がっていくと、前から一人の男が歩いて来た。三郎である。辰夫は、思わず大きな声を上げた。「三郎」と言ったとたん晴天のそれに稲妻が走り大きな落雷音が京の上空に鳴り渡った。
「まだ、朝だぞ、雲一つない空に雷か」
辰夫と春一は雷鳴に驚き、番兵の「雲一つない空」の言葉に釣られ雷鳴が聞こえた東の空を眺めた。二人は、ないと思って見た空に雲を見た。確かに見覚えがある。
三郎は駆け足で辰夫の側に来た。番兵に連れられている辰夫達を見て番兵に話しかけた。
「そこの親子は、私の知合いじゃ。捕われるようなことをしたのか」
「そこの親子は、建礼門院様が居られる長楽寺へ入った者、しかもその親子、赤間の関で平家の船から逃げた子を伴っている。見過ごす訳にはいかぬ。」
「そのことであれば、土肥実平様から見たものは口外せぬようにとのお達しがあったはず。それを知らぬか」
「いや、我々までには、届いておらぬが、そのようなお達しが何時出たのじゃ」
「戦が終わり、直ぐさまじゃ。その証拠に誰からも話しが出ないであろう。」
「一度確かめよう」
「確かめると言われるのであれば好きになされればよいが、口外せずにと言われていること気を付けなされ」
番兵は、三郎の言葉に手柄とならず、失態となれば困る。こんなことで咎を受けたら損である。頭の中で損得勘定をしながら、危険回避へ方向転換した。
「この者二人に付いては、建礼門院様からも平家と関係なき者との書付も頂いている事である。お主義久殿に預けても宜しいかな」
「お任せ下さい。」
三郎は番兵に嘘を言っているのではない。実際に三郎は春一が持っていた勾玉を土肥実平に預け、その見返りの形で二人がお構いなしとなったのである。
三郎は番兵が遠のくのを待ち、辰夫に声を掛けた。
「辰朝さん、探していましたよ。管六から辰朝さんが京へ行ったと聞いていたので。」
辰夫は、管六が郵便など発達していないこの時代、どうやって知らせたのか一瞬不思議に思ったが、そのことを詮索している場合ではなく、大事なことだけをと考えた。
「悪い、今は、大事なことだけ話す。三郎さん源義経様から離れてください。もう直ぐ源義経様は鎌倉の頼朝から謀反の疑いを掛けられ追われる身となられる。最後は、源義経様一党全て殺されることになります。その前に源義経の一党から離れ、小夏ちゃんと一緒になって幸せに暮してください。」
「辰朝さん、何を言うのですか」
「三郎さん、もう直ぐ京に大地震が起こります。あの、六勝寺の九重の塔も倒れるほどの大地震です。もし地震が起きたら私の今言ったことを信じ必ず義経様から離れてください。」
「お父さん、急ごう、早く大極殿へ行かなくちゃ。あの雲、あの朝に見たものと同じだよ、鳥達があんなに多く群れをなして飛び、早く」
「このことが言いたくて三郎さんを探していたのです。もっとゆっくり話せればいいのですが、時間がありません。三郎さん、管六さんそれに小夏ちゃん心から感謝しています。本当に有難う御座いました。私は地震と共に私の居た世界へ帰ります。本当です。さよなら、」
辰夫は、一方的に三郎に話し、走り出した。一度も振り向かず走った。
三郎は、辰朝が会うなり早口で、京で流行の陰陽師のようなことを言って急に走っていった。
言葉だけが三郎の耳に残っているが、云った事の意味までは整理できていない。
三郎にしてみれば辰朝が京にいるのであればまた直ぐ会えるだろうと思い、見送った。ただ今まで辰朝の予言じみた事は全て当っている。もし、あの塔が倒れるほどの地震が来たら辰朝の話を頭の中で整理し、小夏と一緒に何処かへ行こうという考えが頭を過ぎったが、何処かばかばかしいように思い辰夫の後を追わずに歩き出した。
辰夫と春一は近衛大通を西へ向かい大内裏の東塀に突当り、大内裏の塀に沿って待賢門を目指した。まだ時間があるのかないのか分からないが、少なくとももう直ぐ起こるであろう事は二人とも予想出来た。だからこそ必死で走ったのである。
距離にして1km若である。死ぬ思いで走った。なりふり構わず、それでも辰夫は春一を抜かすことはなかった。走りながら辰夫は「喜びの気持ち」で胸が高鳴っていたのである。
二人は待賢門を潜り後は直線である。マラソン競技の競技場内に入ってラストスパートのようになり、目の前に大極殿の柱を見つめ、ゴールが見えていた。
二人は顔を見合わせ「間に合った。」と声を出したとたんである。地響きと共に大地は揺れた。
二人は、走る速さは次第に遅くなり、絶望へ向かう一歩一歩のようになった。
顔は、蒼ざめ、全身で絶望を感じ、涙すら流れない。「次がない。」の言葉が辰夫から出た。
大地の揺れの大きさなど何も感じない。
確かに立っていられないほどの「揺れ」のようである。
揺れの大きさを、感じるより、心が折れ、崩れ、そのせいで座りこんだ。
大極殿の柱は、まだ遠い。走れば1,2分だ。
意味はないが、二人は、立ち上がり歩き出した。
時間がかかった。
未来が消えた瞬間は、春一にも理解できた。春一も辰夫と同じように未来がないのに前へ進んでいる自分に苛立たしさを感じた。
二人は、コンサートの終わった大極殿の舞台への階段を上った。もう誰も居ないし何の音も奏でられない。二人の足音だけが聞こえる。
春一も父に向かって何も言わない。普段なら「お父さんが悪い」と詰るところであるが、その言葉も出ない。
二人は大極殿の柱に持たれ座り込んだ。
「こんなところに誰が結界の縄を張ったのだろうな。きっとこの場所でよかったのだろな。」神社でよく見かける注連縄が張られていることへの不思議さも気になることがなかった。
春一が東を眺め、何の意味もないおもいで呟いた。
「お父さん、嘘ばっかり、六勝寺の九重の塔、建っているじゃないか」
辰夫は、顔色が変わった。
「今のは本震の前触れか」
その時、とてつもなく明るい、稲妻のような光の閃光が走ったかと思った瞬間辰夫と春一が座っている所が揺れ出した。立っていられないどころか、座ってもいられない。
もう一度,空に光が放ち大きな音と共に春一と辰夫が落ちた。
「お前達、何時まで寝ておる。間に合わなくなるぞ。」
辰夫と春一は老婆の声で起された。
「へえ、おばさん。僕ここで寝ていたの。夢だったの。」
「夢、そんなはずはない。帰って来たのか。」
真っ暗な部屋の中で老婆の姿は見えない。でも確かに老婆の声で起された。
「何も見えないよ」
「ここは何処だ」
生きているが、人生の続きがわからない。何処と何処が続いているのか、何が夢で、何処から何処までが、本当なのか。
「二人とも、よくやった。時の歪が元に戻ったのじゃ」
「俺達が何をやったというのだ」
辰夫は、暗闇の中で声の主を探り当てようともがくが分からない。
「何故か、平家が優しくなることで強くなってしまった。辰夫、お前が居なければ一の谷の合戦は平家が勝っていたであろう。春一が居なければ、安徳天皇は建礼門院と共に、…よそう、その話しは、辰夫わかるな。お前達も感じたであろう。皆心優しい者ばかりじゃったであろう。」
「どう言うこと」
「夢じゃなかった。歴史を元通り戻した。ということだ」
辰夫は、春一が居なければ「安徳天皇は建礼門院と共に生きた可能性がある」ということが分かった。平家は優しくなることで、人が集まり強くなって、優しくなることで生と死が狂い歴史が変わろうとした。その歪が大きなエネルギーとなり大地震を起すことになった。何故平家が変わったのか、辰夫にはその答えはない。ただ思うに、歴史は恐怖で創られてきた。あの一時期、平家は優しさを持って歴史を創りかけた。文明は、そのことを拒否するのであれば、これからの世の中の行末に不安を感じずにはいられない。
「地震は、もう起きないのか、」自分達にこのような目に遭わせた老婆に敬語を使う気になれずにいた。
「地震は止められぬ。元に戻ることもまた同じ事じゃ」
「お母さん」
「今、前を通ったぞ」
二人は、「老婆と話している場合ではない」とわかった。
辰夫と春一は老婆の声を感じる方に向いていたが、背にほんの暗黒とは異なる暗さを感じた。二人は振向きその暗がりに向かい動いた。
その暗がりの先に向かい、一歩踏み出すと辰夫と春一が毎日のように歩く、千本通であった。
直ぐさま、振向くと辰夫と春一があの朝避けて通った占いの店であった。
あの朝、占いの店がこの位置に変わっていて、気持ち悪く思い千本通を西側へ渡ってしまった。早苗は、日頃と違う行動をした辰夫と春一を見失いそのまま千本通の東側歩道を北へと進み事故に遭ったのである。
辰夫と春一は早苗が自転車で走って行った千本丸太町の交差点を見た。早苗は今、まさに丸太町通を渡ろうとしている。早苗は、信号と千本通を挟んで同じように信号待ちをしている辰夫と春一を見ている。
そんな早苗に向かって二人は早苗の後ろから大声で「お母さん」と呼ぶ。振向く早苗は、横断歩道の真中で「きょとん」とした顔で、千本丸太町の北西側に渡って大極殿発掘場所に立った辰夫達とを首を振り見比べている。そして声のする辰夫達の方へ怒った顔で戻って来た。
早苗の怒った顔と春一達のはち切れんばかりの笑顔が対照的に一つになった。
「人、馬鹿にしてんの。今あそこにいたでしょ。それに二人の格好、時代祭りでも出るの。人馬鹿にして」
夜が明けきらない暗がりの中自分で見誤ってしまったと思ったがそれでも辰夫達がそれを面白がっていることに怒り出した早苗であった。
怒った早苗の上に閃光が走った。そして、地鳴りと共に大きく揺れはじめた。早苗は、怒るのを忘れ、辰夫に抱きつき地べたに座り込んだ。春一も離れたくないという思いで早苗と辰夫の二人の腕を持った。
異様な空気の揺れの余韻の中、物がぶつかる大きな音が響き渡った。その音の場所を見ることなく辰夫と春一は自分達のいる場所が変わらないように祈りながら目を見開いていた。目を閉じていたのは早苗だけである。
通りの向こうでは、トラックがぶつかり、中から運転手が出てきて、壊れた車を眺めている。辰夫と春一は全てが終わったことを確かめるように立ちあがり手を強く握りしめた。
辰夫と春一が早苗の手を握り締めて「その時、大切なものを取り戻すことが出来る。」と言った老婆の言葉を噛み締めた。
気づかなかったのは、地震とともに老婆の店がなくなっていたことだけである。
辰夫と春一の平成7年1月17日午前5時46分の一瞬が過ぎ、時は動き出した。
日本中、いや世界中の多くの人が優しさを持ちより阪神淡路へと集まった。日本中が忘れかけていた心は、その場所で見ることが出来る。辰夫と春一は瀬戸の海が見える長田の街で自分達が今、出来ることをしている。今は、人の生きていることの不思議さと死ぬことの宿命を確かめているわけではない。二人は自分達の人としての心を確かめたかったのである。
ほんの短いボランティア活動であったが春一は何かを取り戻した。多くは無理でも生きて行くことは出来た。辰夫は日常が戻り、時が少しずつ癒してくれたがそれでもふとしたことから思い出す何かに脅えてしまうことがあった。
辰夫と春一は桜の枝にまだ雪が積もる二月の終わり、円山公園を歩いた。後一月もすれば花見の名所のこの辺りは人盛りとなる。この時期、喧騒の祇園石段下からほんの少し山手に入るだけで「こんなに静かなのか」と思わせる。坂本竜馬と中岡慎太郎の銅像の前を通っても辰夫の歴史講釈は出ない。
春一は東山を見上げ、握り拳をつくり、涙に堪えている。辰夫は、そんな身体を震わす春一の背中を見てゆっくりついて歩く。
山の景色も変化はあるが何処か面影は残っている。長楽寺の山門の前に立ち、山肌に立ち並ぶ寺院ではあるが、あの広大な敷地の長楽寺から見るとこぢんまりと小さくなっていた。
春一は、平安の滝の前で立ち止った。自分が立ち止った場所に記憶がある。この小さな滝の前で建礼門院の読経を聞き、「必ず来る」約束を交わし分かれた。
身体を震わし、すすり泣く春一の気持ちは、辰夫にも分かる。「三郎は、小夏は、そして、あの管六はどうしたのか」
春一は、「遅くなったけど、来たよ。」と呟き、平安の滝の音を聞き入った。
あの日のように薄暗くはない。日の光が地上に到達し滝の水飛沫を輝かしていた。
辰夫は「なんて明るいのだろう」と言った。
春一も忘れかけていた日の光に今を感じた。
二人は、その場から長楽寺を後にした。平家物語ゆかりの寺宝を見ることなく後にしたのは、涙を止めることが出来ないように思ったからである。
春一の少年サッカーチーム「FC京紫」はサンガカップ決勝へと駒を進めた。太陽ヶ丘の芝のグランドでの決勝戦である。決勝まで勝ち進めたFC京紫は、個々の実力の高さもあるが春一の主将としての頑張りに寄るところが多かった。
決勝の日、春一は一人芝のグランドに早く来た。誰もいない芝のグランドに立って見たかった。
太陽ヶ丘は、郊外の丘陵地を大規模なスポーツ広場に作った施設である。すり鉢状のグランドに立つと周りの景色は、青い芝生と空の色だけである。
まだ誰も来ていない静かなグランド。春一は一人そっとボールを抱え立った。グランドの真中で仰向けに寝て空を眺める。あの日と同じ空の色、
空は、透き通るような青色であった。絵の具一色以外何も必要としない。目を凝らすと宇宙まで見えるような透き通った青であった。
春一は立ち上がり、手にしたボールを高々と蹴り上げた。
何処からか声が聞こえた。
「春一、ナイスパス、」師盛である。自分と同じユニホームを着てサイドを駈け上がって来た。
何時の間にかグランド一杯に有盛、師盛、忠房の三兄弟、清宗、能宗の兄弟、知章、そして帝と7人が走っている。
みんながパスを回しはじめた。
「みんな何時の間にそんなに上手に」
「攻めあがるぞ」知章が声を出す。
清宗と能宗がサイドに開き、くさびに入った有盛が忠房に返し、そこから清宗へパス。
師盛が大きな声で「春一、安ちゃん、中央へ」
サイドに駈け上がった師盛から中央へボールがほうり込まれる。
そこに帝がスルーし、春一のボレーシュート
「ゴール、」みんながゴール前ではしゃぐ春一に駆け寄ってきた。
仰向けになった春一の上にみんなが圧し掛かり、喜びを爆発させながら、春一へ解け込んでいく。
春一は、透き通った青い空を見つめ、「みんなは、僕の中で生き続けているんだね」
ボールはゴールの中で、
完




