コンビニエンスラビリンス
足利フラワーパークの駐車場にて私が放ったなんとも頼りない「好きです」という言葉をきっかけに私たちのめくるめく薔薇色ライフはスタートしました。一緒にいろんなところへ行ったり、べたべたしたり、もうそれこそありとあらゆるカップルがするであろうすべてのことをしたものです。以前の私を知っている人であれば、おそらく、そんなことあるわけがない、でっちあげ、奇怪幻想の類だ、と言うことでしょう。それは本当にごもっともなことだと思います。かくいう私自身未だに信じることができませんし、偶然にしては出来すぎています。しかしながら事実は小説より奇なりという常套句があることからもわかるように、現実というのはあっけなく私たちの想像を越えていきます。故に、私にだってそのような薔薇色ライフを享受する権利はあるのでした。楽しかった。嬉しかった。毎日がとても幸福でしたーー。もしもこの幸せが迷宮であるのならば、一生ここで迷っていたい、そのようにおもっていたのです。
しかしながらーー証明不可能とされていた問題がある日突然解かれてしまうように、迷宮入りの事件が突拍子もなく解決するように、その日はあっという間にやってきました。全てが終わったあと。私はなにゆえ彼女が私のことを嫌いになったのかについてぼろぼろと涙を零しながら、それこそ嗚咽をあげながら反芻したのですが、心当たりがあり過ぎて余計に辛くなり、精神のどん底へ真っ直ぐに繋がるマントルへずぶずぶと沈んでいったのでしたーー。
あれからもう、二年。
空風吹き荒ぶ真冬のコンビニエンスストアー駐車場。私はそこで彼女の仕事が終わるのを、じっと待っていました。時刻は夕方の四時四十五分。気が狂ってしまいそうなほどに緊張しています。掌からは汗がどくどくと溢れ出し、心臓はばっくんばっくんと鳴っています。もし仮に実は私も佐山くんのことが好きでした。と言われたらどうしようかーーと、ついそんな甘ったるい妄想をしてしまうのですが、しかしそんな夢想を抱いたところで、なんの価値もないということくらいは分かります。わかってはいるのですが、つい考えてしまいます。私はどうやら情けない人間のようでした。見事なまでに。緊張をほぐすために、私は祈るような気持ちで空を眺めました。茜色に染まった夕焼け空。いつもと変わらない夕焼け空。でもどこか違うような気もする夕焼け空。私は君のことが好きです、と、ストレートに言ってしまおうか。いやいや待て待て。それでは勢いに任せて告白をしたような感じになること必定だし、ましてや私にはこのマジックアイテム、そうーーラブレターがあるのだから、ここは焦らず慎重に行くべきだ。たとえばーーそう、「お返事はあとでも大丈夫です」とはにかみながらこの渾身のラブレターを差し出す、というのも言いでしょう。この方法ならばその場で返事を聞かなくてもいいので、ひとまずその場から逃げ出すことができます。もちろんそれで首尾よく付き合うことが出来れば万々歳ですし、それになにより後日振られたとしても傷は浅くなるのではないかと、おもうのです。私は心臓の前に手のひらを持ってきます。すると自分でも引いてしまうくらいにバクバクバクバクという音が伝わってきて、やっぱり告白なんてしない方が懸命だろうか。と、空風に紛れて臆病風が自分の胸の内側でうずまきます。ピューピューピューピューうずまきます。そもそもの話、彼女は私のことを知りません。いや、もしかしたら知っているかもしれません。自分の勤務時間にやってくる少しだけ挙動不審なあの男性客のことかーー、と。本当は彼女の前で堂々と振る舞いたいのだけれど、しかしながらダメなのです。彼女を前にすると、平静を装うことに関しては他の追随を許さないこの私でさえも喉の奥そこから「ぎゅえっ」というようなうめき声のようなものが溢れだし、満足に会話をすることさえできなくなるのです。ああめくるめく恋の不思議……
「おい」
「うわあっ!!」
突如として私の背後から女性の声がしました。聞いたことのない女性の声でした。私はどうするべきか迷います。このまま後ろを振り向くか、それとも脱兎のごとく逃げ出すか。二つに一つです。むろん脱兎のごとく逃げ出すのも悪くはない選択です。なぜならば向こうの第一声が、「おい」だからです。最初からこうも高圧的な態度をとるような人間とまともにコミュニケーションなどとれるでしょうか。その答えは否です。断じて否です。なのでここは三十六計逃げるに如かずという言葉にあやかりつつ、これにて御役御免とばかりにこの場から煙のごとく消え失せるのがよいでしょう。
「だ、誰ですか!?」
しかしながら私はついそう言い放ってしまいました。
反射的に振り返ってしまいました。
するとそこには見たこともない女性が立っていました。
私は思わず、彼女のことをじっと見つめてしまいます。腰のあたりまで伸びた柔らかな黒髪と、黒縁メガネの奥からこちらをじっと見つめるうつくしい瞳。スラリと伸びた長い足。ジーンズがとても良く似合っていました。
「何の用だ」
「え、あの…………ちょっと……その……告白……?」
私はどぎまぎしながら言いました。初対面の人に対して何を言っているのでしょう。
「ふうん」しかしながら彼女はそんな私とは打って変わってつれない反応をしました。少しくらい驚いてくれたっていいじゃないかともおもいましたが、しかしながらその泰然自若とした態度が逆に私の心を鷲掴みにしました。なぜかはわかりませんが、その「ふうん」を聞いた私の心に暖かなものが広がり、有り体に言って、余裕、のようなものがうまれました。はたして今自分はどんな顔をしているのだろう。ぽかんと脳裏に浮かんだ疑問を解消するべく、コンビニエンスストアの窓をちらりとみると、そこにはふやけた昆布のような顔をした男がぽつねんと立っており、なるほどこれが自分なのかとおもうと、なにやら気恥しいような、そんな気持ちが足元から徐々に競り上げてくるのを感じました。それは彼女に自分の想いをしっかりと伝えたことによる安堵だったのかもしれません。が、そんな安堵は首筋に繰り出された目を見張るような早さの水平チョップによって一瞬のうちに掻き消されました。それと同時に私の意識も徐々に掻き消えていくのでした。薄れゆく意識の中、仰向けに横たわりながら空を見上げる私のことをじっと見つめる彼女が見えました。そしてそのとき私は見たのです。彼女の口元に浮かんだ凶悪なまでの微笑みを……
そこは見知らぬ部屋でした。少なくとも私の部屋ではありませんでした。部屋には何もかかっておりませんし、部屋のど真ん中に鎮座されてある炬燵とその横にまるで寄り添うようにして設置された藍染模様の布団にもまるで見覚えがありません。こたつの上には蜜柑と太宰治の小説が数冊置かれており、本棚の上からは数体の招き猫がこちらをじっと見つめていました。
茶色のフローリングの上に横たえられていた体をゆっくり起こし、頭を軽く振ります。首筋には未だ痛みが残っており、さきほどの出来事が夢つつつの類ではない、ということだけは明白でした。なにゆえこんなところに私はいるのだろう、と、そうした疑問が脳裏を軽やかに駆け巡りましたが、おそらく彼女に私は拉致されたのだろうという結論に至るまでそこまで時間はかかりませんでした。それが何故かについては、未だ判然としませんが。
「ようやく起きたか」
と、そのようなことを考えていたところ、背後から声をかけられました。驚いて振り向くとそこにはさきほどの女性が壁に凭れながらがこちらを睥睨しておられました。着替えを済ませたのでしょうか。さきほどのデニムのジーンズとワイシャツ姿からは打って変わって、ゆったりとした黒いパーカー姿をしていました。
「あの、えっと……こ、ここは?」
焦燥に駆られながらも私は努めて冷静に彼女にそう問いかけます。すると彼女は満面の笑みを浮かべながら、
「むろん私の部屋だ」
と、おっしゃいました。なにがそんなに楽しいのか皆目検討もつきませんが、しかしながらその笑顔からは一周まわって純粋なまでの邪気を感じざるを得ませんでした。煮るなり焼くなり好きにしろとはよく言いますが、もしかしたらこの後本当に煮るなり焼くなりされるのではないかという迷妄が頭の中でぐるぐるぐるぐる渦巻まいてまいりまして、私は震えそうになりました。しかしこんな完全アウェーな状況で会話のイニシアチブまで取られてしまったら本当になすすべがなくなると思った私は「むろん! むろんですか! これはまいった!」と、なけなしの空元気を発揮してこの局面をなんとか乗り越えようとるのでした。
「ところでお前さん、名前は」
楓さんはあぐらをかくと、そう言い放ちました。超クール。
「……佐山、と言います」
「佐山か。特徴のない名前だな」
「よく言われます」私は頭を掻きながら言いました。
「私は一ノ瀬楓、という。楓さんと呼べ」
「楓さん」
「That's right」
帰りたい……
「ところで……楓さんは何者なんですか?」
楓さんは頬杖をつきながら無作為にチャンネルを回し、「まあ、そうなるわな」とぼやきながら「ボディーガードみたいなものだ」と言いました。
「ボディガード? それは彼女に頼まれて?」
と。
楓さんはこちらの問に少々たじろいだあと、ふっと鼻で笑うような仕草をしました。そして厳かにこう言ったのです。「黙秘したいのはやまやまだが、しかしながら彼女に好意のようなものを寄せている君には正直に言わざるをえまいな。あの娘正体について」
私はつい小首をかしげそうになります。なぜならいまさら彼女の正体について知るべきことは何一つとしてなかったからです。私の綿密な調査によって彼女の正体はつまびらかになっていたのです。休日の過ごし方や趣味、好きな料理からなにからなにまで。むろんその調査は合法的な手法によってのみ明らかになったものであり、いわゆる昨今問題になっている、盗撮やストーキング行為のようなものでは断じてないと私は言います。そもそもの話、見ず知らずの女性に対して「へい、彼女!」と話しかけるような軽佻浮薄な人間に私はなろうとも思いませんし、もし私がそんなことをして彼女が不快なおもいをしたらどうしようと、思慮深い私はそう考えるのです。むろんさきほどは勢いあまって告白してしまいましたし、そもそもあの場所で彼女を待ち伏せていたのは、クリスマスという告白成功率が格段に上昇するスペシャルボーナス的な日に乗じて彼女のハートを攫ってしまおう、という魂胆があったからで、なにも恋によってわけのわからなくなった男が錯乱状態で特効した、というわけではないのです。その結果として謎のこわいお姉さんに拉致されてしまったことはたしかに予想外ではあるのですが、しかしながら千の失敗の上にのみ成功は成り立つという祖父が残した格言からも分かるように、私は胸を張って言うべきなのです。
「はたして楓さん。私がこれ以上、彼女のなにをーー」
「…………モンスターだよ、あいつは」
うっすらと明るくなった東の空をじっと眺めながら私は手を擦り合わせながら息を吐きだします。白い吐息は空中へ溶けだし、文字通り雲散霧消とあいなりました。ため息の数だけ幸せは逃げると言いますが、こうして何の気なしに吐息を出すことでも幸せは逃げていくのでしょうか。であるのならばなるべく私は呼吸をしない方が良いと思うので、そろそろ私は死ぬのかもしれません。
と、まあ、つまらない思考を捏ねくりましながら歩きます。コンビニエンスストアの近くにある田園地帯を一人ぽつぽつと。ホーホーッホッホーホーホーッホッホーという鳥の声が聞こえはしますが、その鳥がなんであるのか私には分かりませんでした。そして楓さんが何者であるのか。そして野沢さんはなにゆえモンスターなのかすら皆目検討もつきまけんでした。
あのあと。熱燗をぐびりぐびりと飲みまくった楓さんは炬燵の上に突っ伏すとそのまま高いびきをかいて寝てしまいました。むろん楓さんと言えどもーーと言っても私は楓さんについて詳しいことを全然知りません。身長が恐ろしいくらいに高く、そのリーチの長い腕から繰り出される水平チョップは常軌を逸した破壊力をもっているということ、そしてお酒には飲まれるタイプであるということ、そんでもってなにやら野沢さんとなにかしらの関係があるということくらいしか分かりませんでした。なにもわかっていない、といっても過言ではありませんーー女性、ではあるとおもうので、そんな初対面の女性の家にいたらなにかしらの間違いが起こるかもしれない、そうおもった私はそそくさと帰り支度をしーー楓さんに拉致されたときに持っていた荷物は、玄関にあった靴入れの上にぽつんと置いておりましたーー楓さんの家から出ました。最初はどこにいるのか皆目検討もつかなかったのですが、近頃のスマートフォンの力を使えばなんてことはありません。余裕で帰れるのです。そんな、文明に抱っこな私ではあるのですが、しかしながら彼女へ積もり積もったこの想いだけはなんとしてでも届けたい、それがたとえアナログなやり方だとしても! と、固く誓い、こうして歩いているわけです。
「はやくおうち帰ってお風呂入りたい」
そんなこともついつい漏らします。誰も見ていないし、聞いてもいないのて言いたい放題です。なので少しだけ見栄を張ります。
「野沢さんとおてて繋ぎたい」
と。
おててを繋ぐ。二十五を過ぎた男が何を言ってやがると思われる人もいるかもしれません。しかしながら私にとってはおててを繋ぐことこそスタートラインに立つということですし、スタートラインに立つということはゴールをしたことに限りなく等しい、ということでもあるのです。自慢ではないのですが、一度だけ恋人を作ったことがあります。それはお前の努力不足だ。反省しろ。と言われたらもうそれは本当におっしゃる通りだとおもいます。故に、私はこれまでの人生を間違え続けてここまで来てしまいました。どこで間違ったのかさえ分かりません。気付けば二十五歳になり、女性とどうコミュニケーションを取ればいいのかすらわからないまでに、私の女性恐怖症は深刻な域にまで達していたのです。トラウマと言ったら聞こえはいいのですが、ようするに臆病になったのです。完膚なきまでに。さきほどは楓さんと丁々発止のやり取りをしましたが、あれは例外と呼べる類のものです。冷静を装ってはいましたが、もしかしたら殺されるのではないかという疑念が心中の奥深くでぐるぐると渦巻き、私をつかの間、正常な成人男子に変えたのです。
彼女とやらしいことをしたいーーそう思っていないと言ったら嘘になります。しかしそれ以前にまず私は彼女のおててを繋ぎたいのです。彼女の体温をこの掌で感じてみたいのです。とんどロマンチストとおもわれても仕方ありませんし、正気の沙汰じゃないとおもわれてもいいです。私は私の信じた道を行くのです。異論は認めます。でも歩きます。
と、そのとき。ポケットの中でスマートフォンが振動しているのに気付きました。悴んだ掌をズボンでゴシゴシと擦り合わせ、ゆっくりとポケットの中へ手を入れ、取り出します。そこには見知らぬ電話番号が表示されていました。何も考えずにボタンを押します。
「ーーはい」
『どうやら君は酔いつぶれた女性を置いてさっさと帰って行ってしまう類の人間のようだね』
「すみません……」
『まあいい。そういえば佐山。明日って暇か?』
「明日、ですか」明日は月曜日。仕事……
「忙しいです」
『お前の働くコンビニで会おう。明日の夜七時に。とても大事な話がある』
楓さんは矢継ぎ早にそう言うと、通話を切った。なんともまあ強引な約束をする人ではあるよなと少しばかり思った私は、ふと、楓さんと話しているときは緊張していない自分に気付くのでした。この感情はなんなのだろう……と、ごにゃごにゃとした思考をねりねりしながら今度こそ私は帰路へつきました。これが仮に恋なのだとしたら、少しばかり厄介だなあと人事のように思いながら。
カーテンの隙間からこちらに向かって光がさしているので朝です。いつの間にやら朝になっていました。泥のように疲れている、とはよく言いますが、今の自分はまさにそれにあたるのかもしれません。ベッドからずるずると這いずりだし、目覚まし時計のアラームを止めます。時刻は午前七時二十分。あと二十分ほどで支度をせねばなりません。私は寝る前に読んでいたディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を本棚にしまい、少しばかりのベットメイキングを施し、階下へおりました。
階段を降りてゆくと、徐々にいい匂いが立ち込めてきました。母親の料理です。私はこの匂いを嗅ぐたびになんとも言えない罪悪感に襲われてしまいます。二十五歳になっても全然全くまるで自立できていない自分を恥じてしまいます。しかしながら怠惰の誘惑に耐えきれない私はこうして母親の手料理を食べに向かうのです。
「おはよう」
「……おはよぉー」
味噌汁の匂いが立ち込める台所にて私はそう挨拶をします。そしてそのままこたつへと続く道をのろのろと前進し、そのままこたつの中へ潜り込みます。母親はそんな自分のことを「もぐら」と称しますが、あながち間違った比喩だとは思えませんでした。今日の朝ごはんは納豆にベーコンエッグ、味噌汁に、白米、といったシンプルなないようではあったのですが、どれもこれも美味でありました。納豆にいたってはなにやらオリーブオイルのようなものまで入っていますし、白米はつやつやとしていて綺麗でした。それらを口の中へぱくぱくと詰めながらニュースをみます。なんでも日本のどこかで女性がストーカーに刺された、とのことです。私はついつい顔をしかめてしまいます。好きが嫌いになるのはわかります。しかしながら好きが憎しみに変わる、という思考の過程を理解することができません。いや、正確に言うなら憎しみが殺意に変化するまでの思考の流れが、です。女の子は神様だとおもうのですが、それはやはり行き過ぎた考えなのでしょうか。
「あんたさっきからなにをぶつぶつ喋ってんの……」
母親氏はそのように言ってこちらを訝しげなまなざしをみつめています。なんでも、婚約破棄をされてから私は独り言が増え、目は虚ろになり、さながらゾンビのような存在になった、らしいのです。自覚は全くないのですが、キャッカンテキに見てそう見えるのであれば、それはおそらく事実なのでしょう。私自身も自分の生活からどんどん力が抜けていくのを感じていました。それはさながら空気の抜けた自転車のチューブのように。
母親氏の正鵠をいた発言に若干たじろぎながら「なんでもないです」
辛うじて私はそう言いました。「ごちそうさまです」と挨拶をして食器を流しへ持っていきます。そのついでに「洗おうか」と声をかけましたが、「大丈夫」と言われたので結局洗いませんでした。
「ーーというようなことがあったんですよ」
「はじまった」
バイトリーダーの園山さんははなから私の話など信じていなような口調でそのように言いました。
「しかしながら私が野沢さんに片想いをしていることは厳然たる事実です。そのことについては真実以外のなにものでもないです」
「だかその楓さんとやらは本当に実在しているのかい? 君が脳の中で作り上げた都合のいい妄想なのではないかい?」
「それはーーないです」
「絶対?」
「絶対です!」
私がそう言い切ると、園山さんは意味深に口角をにやりと曲げました。不吉です。不吉以外のなにものでもありませんでした。大きな体をゆさゆさと揺らして笑っています。
私が野沢さんの勤める職場で働きはじめのはつい最近のことです。当初は同じ職場で働き始めれば自然とふたりの距離は縮まり、それこそお手手を繋いでお疲れ様でしたーみたいなこともできるのではないかと夢想したのではありますが、しかしながら実際にこうして同じ職場で働いてみると、緊張して何も話すことが出来ない自分の存在に気づき、精神世界の底部へ叩き落とされてしまうのでした。
「しかしそうまでして恋がしたいのかね」
レジスターの下で週刊少年マガジンを読みながら園山さんは言いました。仕事中にそんなことをしていいのかとも思いましたが、かくいう私も持参した文庫本を読みながら適当に仕事をしているので人のことは言えません。「恋よりも有意義なことがこの世にはいっぱいあると思うんだけどねえ」
「野沢さんとおててを繋いでオリオン通りをデートしたり宇都宮城を巡ったりすること以上に有意義なことなどこの世界に存在しません。そうやって純粋無垢なる魂に邪念を吹き込むのはやめてください。たしかに恋愛というのは一種の精神の錯乱状態であるということは厳然たる事実なのでしょう。しかしながらだからといって恋をせずにのうのうと暮らしいていくことだけが全てなのでしょうか。いらっしゃいませー。いいえ、違います。こうして今私たちがこの世界にいるということは数え切れないくらいの恋があったからこそなのです。だからこそ私たちはそうした恋という名の襷を全身にぐるりと巻き付け、走っていかねばならんのです。そうとも。故に私が野沢さんに恋をするということはさながら天明、ということにもなるのです。だからこそ私はこうしてコンビニエンスストアでアルバイトに勤しむわけです」
「なるほど。君の言いたいことはよく分からなかった。ナチュラルにおかしいとおもうぜ、君。ケケケ」
「なんとでも言うがいいです。たしかに野沢さんに恋をしてしまったせいで私は今まで勤めていた会社を辞めてまでこのコンビニエンスストアで働くことを選択しましたが、家でうじうじと親の脛をかじり尽くして生活をするよりもなんぼかましです。それに、高校卒業と同時に倉庫で働いていたのでそこそこの貯金はあります。もしも野沢さんに告白をしておっけーをもらうことができたらそのときはもっとましなところで働こうとおもいます。むろん私には漢字検定準二級と危険物乙四の資格くらいしかありませんが、いらっしゃいませー、しかしながら長い倉庫仕事で培ったこの忍耐力を駆使すれば、意外や意外、どんなところでも生きていくことが出来るはずなのです。なので私は、このコンビニエンスストアで働きながら野沢さんとの距離を少しずつ縮めることに情熱を燃やそうと、そのようにおもっているのです。異論は認めます。しかしながら私の鋼の如き意思を曲げさせはしません。そう、絶対に! ありがとうございましたー」
「なるほどね。まあいいや。恋というのはなるようにしかならんからな」そう言って園山さんは遠い目をしてコンビニエンスストアの外をじっと眺めました。私もそれにつられて外を見ます。私の目からは走り続けるたくさんの車しか見えませんが、園山さんには別の何かが見えているのかもしれません。私よりも十年長くこの世界にいるのですからなにかしらの淡い恋の思い出もあるのかもしれません。私は園山さんのことをよく知らない。本当に知らない。
「ところでその楓さんとやらだけど、もしかして目つきの悪い背の高い女じゃなかったかい?」
窓の外をじっと眺め続けていたところ、園山さんが思い出したように言いました。
「ええと、そうですね。たしかにそんな感じでした。めっちゃ強そうでした!」
「だとしたらーーそうだな。一つだけ心当たりがある」
園山さんはそう言い終えると、その巨大な体躯を小気味よさそうに揺すりながら笑いました。「まあ信じる信じないは君次第だけどね。だからぼくは君の命運を祈ってるよ。もっとも、もし君が振られたとしたらそれはある種当然の帰結なのかもしれらいね……くくく……いらっしゃいませー」
なにやら含みのある感じではありましたが、どうやらそれ以上園山さんはこの話について語ることはないようでした。マガジンに視線を落とし、大好物の『生徒会役員共』を読んでニヤニヤしています。なんというかこんな人がバイトリーダーでこのコンビニエンスストアは大丈夫なのでしょうかと、つい不安になってしまいます。しかしまあ少しばかり店内が賑わいだしたのでここいらで閑話休題とします。私は割り箸とスプーンを整え、ホットスナックの温度を調整し、おでんの汁を注ぎたし、来るお昼のラッシュに備えるのでした。
午後十六時四十二分。そろそろ運命のときがやってきました。私は全神経を集中させ、そのときを待ちます。ちょうどこの時間になると来店するお客さんの数がまばらになるので、精神を集中させることができます。ーー私は深淵なる宇宙に生誕した茫漠たる混沌ーー光がーー光が見えますーー
「足、震えてるけど」
「震えてませんけど!?」
私はそう言いつつ、背筋をピンとします。茶色い前掛けが邪魔です。ああ、今すぐにでもこの場所から逃げ出したい。しかしそんな感情とは相反した想いーーすなわち、野沢さんと一言二言でもいいので話してみたいという気持ちがむくむくと積乱雲の如く発生し、私はもうカウンターの中をうろうろうろうろしていました。そんな私のことを園山さんはじっと見ています。口元には例の不吉な微笑みーー
「おはようございます」
だから彼女にそう挨拶をされるまで、私は気付くことができませんでした。ゆっくりとーーさながらゼンマイのように首を動かします。ゆっくりと……そう、ゆっくりとーー。
するとそこには野沢さんが立っていました。
野沢さんーー野沢華さん、その人がーー。
「おはようございます!」私は口元に柔らかな微笑みを浮かべながらそう返します。一見動揺していないように見えると思います。もしも私が彼女だったらおそらく動揺していないようにみえるはずです。しかしながら私の精神はさながら断崖絶壁でサンバを踊るが如く、極めて危険な様相を呈していました。おそらくーー彼女がこれ以上のコミュニケーションを取ろうとすれば、私は致命的な失敗をしてしまうでしょう。それだけは避けなければなりません。無論わかっています。逃げてばかりでは何一つとして進捗しないということくらい。しかしながらここで彼女に対して一体全体、なんと言えばいいのでしょう。今日は三つ編みなんですね! と言うべきなのでしょうか。いや、もっとナチュラルな感じでそれでいて不自然ではない、アプローチをするべきではないだろうか。いや、しかしもしも彼女が仕事中に無駄なことをする人は嫌だと思うようなタイプの人間だったらーーと、考えてしまうと何一つとして言葉が出なくなるのです……
「もしかして髪型変えた?」
と、そんなことを延々と考えたいたところ、園山さんが野沢さんに対してそのようなことを言いました。
「わ、わかります? あんまり長さは変えてないんですけど」
「んー前髪が少し短くなってるよね。ほんのちょっとだけど。似合ってるとおもうよ」
「ありがとうございます! 誰も気付いてくれなかったからちょっとだけ寂しかったんですよね……さすがバイトリーダー。よく人を見てますね」
「まあね。じゃ、今日もよろしくー」
「よろしくお願いします……」
園山さんとそうした初々しいやり取りを終えた野沢さんはすたこらさっさとバックヤードへ向かうのでした。茫然自失とはまさにこのことかと私はおもいかけますが「レジお願いしまーす」というお客様の声が店内に響き渡ったことによりそうした思考はシャットアウトされてしまうのでした。レジスターの下でこちらに向かって逆手でピースサインをする園山さんのことを私は生涯忘れないでしょう……
それから約二時間後のことです。
私は楓さんとの約束通りに、コンビニエンスストアの駐輪場で壁に寄りかかりながら待っていました。ときたま野沢さんがひょこひょこと店の中から出てきてはゴミ袋の交換などをします。彼女は仕事に一生懸命取り組んでいるようなので、こちらにはどうやら気付いていないようでした。もしこれで無視されているのだとしたらこれほど辛いことはありませんが。
と、そのようなことをとりとめもなく考えていたところ、真っ赤なスポーツカーがギャギャギャギャという音を立てながら駐車スペースに勢いよく侵入してきました。私は慌てて自転車から降り、駆け足気味に赤いスポーツカーの近くへ向かいます。黒いスモークによって覆われた車内は外から見ることはできませんでしたが、中に誰が乗っているのかはなんとなく分かりました。こちらを照らすヘッドライトの灯と、ヴヴヴヴというエンジンの唸るような音が、辺り一帯に響いています。その無言の圧力が、乗れよ、と言っているのだと察するまでにそれほど時間はかかりませんでした。私はおそるおそる助手席のドアを開けました。
「待たせたな」サングラス姿の長身女性がハンドル片手に言いました。「乗れよ」
それからしばらくの間、無言のドライブが続きました。びゅんびゅん車窓の外の風景が流れてゆきます。メーターを見ると、なんと九十キロも出ています。驚きの数値です。
楓さんがようやく口を開いたのは環状線に乗り始めたころのことでした。彼女は重々しい口調でこのように言ったのです。
「佐山よ。わるいことは言わないからあの女からは手を引け」
「あの女ーーとは野沢さんのことですか」
「そうだ」
そう言いながら私に語りかける楓さんの口調はどことなく諭すような感じでした。そしてこんなことを言うのです。
「これを読んでほしい」
そして懐から一通の手紙を出しました。
わたしは一体何なのでしょうーー
仕事をつつがなく終えたわたしはとぼとぼと家路を急いでいました。今日も今日とてわたしはミスばかりしました。ピザまんはどんどん落とすし、小銭はばらまくし、握力の調整を間違え、おにぎりを握り潰してしまいました。わたしはどうしていつもこうだめなのでしょう。いつからこんなにもどんくさい人間になったのでしょう。
佐山くんが私のことを好きなのはとっくの昔に知っています。しかしながら私は佐山くんがわたしに話しかけられないことを知っています。彼はとても奥手な人間です。平静を装ってはいますが、わたしが話すと頬が赤くなり、目はきょろきょろします。そんな佐山くんを見ていると少しだけホッコリとした気分になるのですが、でも、もし佐山くんがこんなどんくさくてだめな人間だと知ったら、きっと幻滅することでしょう。世間一般ではわたしのようにどんくさい人間に対して、保護欲を掻き立てられるような男性もいるとはおもうのですが、でもなんというかわたしはそうした愛情が苦しいんです。わたしはただただだめなだけでだからこそこうして惨めな気分になるのです。街灯の灯が私の影をゆっくりと照らしています。この影の中に飛び込んでしまいたい。わたしはそんなことを考えます。人に嫌われるのがとてもこわく、だからこそわたしは八方美人になりました。それほどまでに人に嫌われるのがこわくなったのです。まさかわたしの些細な一言であんなにも彼女たちを怒らせることになるとは思わなかったのです。それから私は壁を作りました。徹底的なまでの壁を。どんな男性からアプローチされても頑なにノーと言いましたし、友達もあまり作りませんでした。知り合わなければそれ以上傷つくこともないのですから。そしてやがて流れ流れたどり着いたのがこのコンビニエンスストアでした。しかしここでも私はミスばかりしてしまいますし、おどおどおどおどしてしまいます。きっと迷惑ばかりかけてしまうのです。こらからもきっとそう。と、このようにわたしの心の中をずるずると吐き出してもきっとなんの意味もないのだとおもいます。ごめんなさい。こんなものを読ませてしまって。でもやっぱりどうしても佐山くんにはわたしの全部を知っていて欲しかったんです。なんで佐山くんにこんなことを伝えようとしているのかは自分でもわかりません。ちょっとだけ楽になりたかったのかもしれません。書くことは精神的なリストカットみたいなものだから。
長くなりました。きっとお姉ちゃんならわたしのことをうまく説明してくれるとおもいます。口下手ですみません。自意識過剰ですみません。こんな私でよければーー
「おそらく華は話し相手が欲しいのだろうと思う」
パーキングエリアにて楓さんは言いました。私は缶コーヒーを飲みながらぼんやりと楓さんの言葉を聞いていました。夜空には無数の星が瞬いていました。「でもあいつはなんというか」
「不器用ーーなんですね」
「有り体に言ってしまえばそうだ。たくさんのトラウマによって華は縛られている」
「トラウマ」私は楓さんの言葉を反芻します。私にもあるたくさんのトラウマ。それはたとえば婚約破棄をされたことだったりします。あれ以来私は自分のカラに閉じこもりがちな人間になってしまいました。言葉がこわくなりました。自分の言葉によって誰かが傷付くかもしれない。そんなことを考えるといてもたってもいられなくなるのです。だから野沢さんが八方美人になってまで他者との交流を断絶しようとする気持ちが痛いほどわかりました。そう、痛々しいほどに。
「あいつがコンビニで働くと言ったとき、私は正直言って不安だった。華は高校のころから学校に行くのをやめてしまったんだ。それ以来ひきこもりのような生活をしていてね。でまあ私はほんとにほんとに華が大好きでかわいくてかわいくて仕方がない、そんなお姉ちゃんでね。だからこうして華のボディガードを好きでしているんだ。だからもしーー」
楓さんは溢れんばかりの眼差しを私に向け、こう言いました。「華を攫ってくれないか」
空風吹きすさぶ真冬のコンビニエンスストア駐車場。私はそこで彼女の仕事が終わるのを待っていました。緊張します。しかしながら心のどこかで私はどことなく安らかな気持ちなっていました。
少なくとも、私一人が面倒な人間ではない。
そうおもえたからです。
もしもーーもしも彼女がふたたび道に迷ったら。そんなときが来たらーーそっと隣にいてあげよう。と、こんなことを付き合ってもいない女性にたいして思うのは、烏滸がましいことなのかもしれません。私はまだ彼女のことをほとんど何も知らない。楓さんが見せてくれた手紙にしたって、あれが彼女のすべてではないのだから。