〈4、名前〉
「いいか悠人。今日は勝手にどっか行ったら駄目だからな! どこ行くんでもオレと一緒だからな!」
1週間ほど後のこと。
あの後、親にこっぴどく叱られた絢斗は、同じ児童公園で悠人にそう言った。
「えぇ~!」
「えぇ~じゃない。怒られるのはオレなんだから……勘弁しろよ」
自分が悠人を放っておいて電話していたことは棚に上げ、厳しい顔をする絢斗。
悠人はぶーっとむくれた。むくれたからどうなるという訳でもなかったが。
しかし。悠人が絢斗の隙をつく機会は、意外とすぐにできた。というのも、その公園を、絢斗の同級生が何人か通りかかったのだ。
「おー、桂木! 何やってんだよそんなとこで!」
「あっ、杉沢! よー! 弟の世話してやってんだよ、お前らはどうした?」
絢斗が、同級生たちの方に駆け寄る。
普段なら大人しく待っているか、絢斗について行く悠人だったが、今日は違った。
兄を含めた少年たちが他所を向いている間に、とてとてと走って行ったのだ。向かう先はもちろん、あの林である。
数分後、少年の一人が気付き、絢斗の方に向き直った。
「あれ、桂木。弟は?」
「え? あ……あー! しまった逃げられた! 悪い、探してくる! またな!」
絢斗は慌てて少年たちに手を振ると、公園の中の方に駆け出した。
「おー! また明日な!」
杉沢と呼ばれた少年が叫び返した。
「おねえさんっ」
「……! 君は……」
木の下で本を読んでいたあの少女は、幼く甲高い悠人の声に顔を上げた。
「こんにちはっ」
悠人はにこにこと笑いながら、楽しそうに走って来る。
「あ、あああ、そんなに急ぐと転んじゃうよ」
その危なっかしい様子に、少女は慌てて立ち上がる。
しかし、悠人は転ぶことなく少女の傍まで辿りついた。
「ねぇねぇ、おねえさん。きょうはシャボンだまもってる?」
「えっ、あぁ……ごめんね、今日は持ってないの」
そう答える少女の顔は、笑ってはいたが、どこか寂しげだった。
まだ幼い悠人は、そんなことには気付かない。
「なによんでるの? おもしろい?」
少女が手に持っている本を見て、悠人はそちらに興味津々になっていた。
「お話だよ。でも、君にはまだちょっと難しいかな。……それより、今日も一人? いいの?」
「いいの。にいちゃんはまたぼくをほっといて、おともだちとしゃべってるから」
「心配するんじゃない? お兄さん」
「へーき、へーき」
「いいのかなぁ……」
「いいの!」
悠人は強い語調で大きくうなずく。少女はそれ以上何も言えず、苦笑した。
「……でも、さ。もうここに来ちゃ駄目だよ」
しばらく、黙ったまま木の下に座っていた少女が、いきなりそう告げた。
「え……? なんで?」
「来ても意味ないから。もう、私はいないから」
「…………?」
訳がわからず、悠人はただ遥香を見上げる。
少女は、「5歳の君に言っても難しいかな」と前置きしてから、ぽつりぽつりと話し出した。
「……私のお父さんとお母さん、とっても仲が悪いの。いつもケンカしてるの。……それでね、お母さん、もうお父さんと一緒に暮らしたくないんだって。だから……私はお母さんと一緒に、『東京』って所に行かないといけないの」
「……とーきょーって、とおいの?」
「遠いよ。電車に乗って行くの。簡単には行けないの」
「そんなぁ……」
「……もう、明日行くんだ。明日は土曜日だから、丁度いいんだって。もうここには来られなくなっちゃう。ここ、私の大好きな場所だから、最後に来ておきたかったの。君が来るってわかってたら、シャボン玉持ってきたのになぁ」
少女は残念そうに呟き、それを最後に話を止めた。
悠人は、少女の言葉の全てを理解した訳では、もちろんなかった。だがそれでも、そこはかとない悲しみが胸に広がっていった。
そんな悠人の思いに気付いてか、少女が申し訳なさそうに笑う。
「ごめんね、こんな嫌な話しちゃって」
「むぅ……」
悠人はむくれているのか何なのかわからない声を出した。
突然、少女の鞄から音がした。携帯電話の着信音だ。
少女は携帯電話を操作し、画面に目を通してから、荷物をまとめて立ち上がった。
「引っ越しの準備があるから帰って来いって、お母さんが。2回しか会えなかったけど、楽しかったよ。ありがとう。バイバイ」
「あ……」
悠人は何か言おうとした。しかし、5歳児の頭に、こんなときに何をどう言えばいいのか、考えは全く浮かばなかった。だから、彼は、
「――おねえさんっ!」
少女を追いかけ、その手を握った。
「!」
「あの……あのね。ぼく、ゆうと。かつらぎゆうと。おねえさんのおなまえは?」
「え?」
予想外な質問を必死でする悠人に、少女は訝し気に首を傾げるが、悠人があまりにも真剣な目をしていたので、その意思をくみ取れることなく、返事をする。
「私は……はるか。楠木遥香って言うの」
「ありがと」
「どうして?」
「だって、おなまえしってたら、またあえたときにわかるでしょ?」
「……!」
少女――遥香は、悠人の意図を知り驚いた。
『また会える』……なんて、考えてもいなかった。
そんなことが起こりうるとも思わなかったが、それでも遥香は悠人に向けて微笑みかけた。
「そうだね。じゃあ、覚えておくね、ゆうと君」
「うんっ!」
遥香はまた歩き出す。
悠人は、その背中に向かって、力いっぱい手を振った。
「ばいばいっ! はるかおねえさんっ!」
絢斗が悠人を探し始めて、10分が経過した頃。
彼は、公園のそばにある林の前に、悠人が一人で突っ立っていることに気付いた。
「悠人っ! バカっ、勝手にどっか行くなって行っただろっ!」
絢斗が怒鳴りながら悠人に近付く。
すると、悠人がいきなり大声で泣きじゃくり始めた。
「うわっ!? な、泣くことないだろ!? 泣きたいのはむしろこっち……って、悠人! 泣くなってば! ごめん! ごめんな!」
ぎょっとして、わたわたと焦りながら悠人をなだめ出す絢斗。
悠人は、絢斗のせいではないというように首を振りはしたが、ずっと涙を流しながらしゃくり上げていた。
公園のベンチの上に、絢斗と悠人が座っている。
しばらくして落ち着いた悠人に、絢斗が水筒のお茶を飲ませてやりながら、
「……ごめん。目離したオレが悪いんだもんな。――ケガ、してないか?」
と尋ねた。うなずく悠人。
「あのさ。お互い、母さんと父さんには内緒ってことでいいか? 代わりに欲しいもん何でも買ってやるからさ。悠人、何が欲しい?」
かと思いきや、絢斗はいきなり悠人を買収にかかる。
2回も悠人を行方不明にしてしまったと親にバレたら、叱られるだけではすまないと思ったのだ。
悠人はそんなことは気にせず、水筒から口を放し、それから小さな声で答えた。
「……シャボンだま。シャボンだまがいい」
と。