〈3、20年前――『ゆうと』と『おねえさん』〉
「ほら、悠人。着いたぞ」
当時13歳の桂木絢斗が、5歳になる弟の悠人の手を放し、その背中を軽く押した。
すると悠人は、けたけたと楽しそうに笑いながら、児童公園の中を覚束ない足取りで走り出した。
絢斗は悠人から目を離さないように気を付けながら、自分は公園のベンチに座った。そこで、不満げに溜め息をつく。
「何でオレがこんなことしてないといけねぇんだよ。今頃杉沢たちとゲームやってたはずだったのに……」
親が共働きである桂木家では、たまに出張が入り、両親がどちらも家を空けるときがある。そんなときは、いつも悠人の面倒は絢斗に押しつけられ、他の約束があったとしても、絢斗は断るしかないのだった。
唐突に悠人が振り返り、ニコニコと絢斗の方に手を振った。
それに気付いた絢斗も手を振り返す。
「ちゃんと前見て走れよ」
と声をかけるのも忘れない。文句を言いながらも、何だかんだ自分の弟は好きなのだ。
また走り出した悠人を見て、絢斗は少し安心して気を抜く。
すると突然、携帯電話が着信を告げた。
見ると、クラスメイトの1人が電話をかけてきていた。
「もしもし? 何だよ、今忙しいんだけど。……はぁ? グループの宿題? 知らないし。何でもいいから勝手に……って、ちょっと待てよ! それはさすがに駄目だって前に言っただろ! 先生も駄目だって! ……いや、そういう訳じゃないけどさぁ!」
あっという間に言い争いになり、絢斗は電話を切るタイミングを逃した。
一方、自分の思うままに走っていた悠人は、ここまで1人で走ってきたということを兄に自慢するため、絢斗の方を振り返った。しかし、見ると絢斗はよくわからないものを片手に、不機嫌そうに怒鳴り散らしている。悠人の方など見向きもしない。
「むぅ……」
悠人はむくれた。むくれるが絢斗は気付かない。
そのまま、悠人はぺたんとその場に座り込む。自分の相手をしてくれる人がおらず、つまらなくなったのだ。
何か面白いものはないかと、辺りをキョロキョロと見回すが、見えるのは見慣れた公園の景色と、未だに怒鳴っている兄くらい。あとは、遠くから飛んでくるシャボン玉が……ん、シャボン玉?と、悠人は首を傾げた。
シャボン玉が、少し遠くの空を、キラキラと光りを反射しながら、ふわふわと舞う。長い距離を飛んで来たのか、すぐにパチンと弾けてしまったが。
「わぁ……!」
『面白いこと』を見つけた悠人は、途端に顔を輝かせた。
急いで立ち上がり、何も考えずにシャボン玉が飛んで来た方向へと走り出した。
そのしばらく後。
「――あ~もうわかった! じゃあ明日! 明日話し合いするから! でも今日はムリ! マジ取り込んでんの、じゃーな!」
やっと無理やり話をまとめ、一方的に電話を切った絢斗は、先ほどより大きくため息をついて座り込んだ。
少しの間、大事なことを忘れたままぶつぶつと不満を口にするが、ふと、なぜここにいるのかを思い出し、悠人の姿を確認するため顔を上げた。
しかし、見慣れた小さな男の子の姿はどこにもない。
「!? 悠人!? おい、悠人! どこ行ったんだよ!?」
ぎょっとして立ち上がった絢斗は、慌てて悠人の捜索を開始した。
悠人は、公園と繋がった林の中にやって来ていた。そんなところまで来たのは初めてだった。
「…………?」
夢中で走った後、ようやく見たこともない場所に来たことに気付き、悠人の胸に不安がよぎる。
しかし、すぐ近くからシャボン玉が飛んで来て、また不安を忘れシャボン玉の方へと走った。
そうして彼は、大きな木の下でシャボン玉を膨らませる少女を見つけた。
少女は、細長い輪っかのついた棒にシャボン玉液を浸し、それを顔に近づけて吹いたり、優しく手で振ったりして、次々と様々な大きさのシャボン玉を作り出していた。
「わぁ……! すごーい!」
悠人は手を伸ばし、近くまで来たシャボン玉に触れる。シャボン玉は静かに弾けて消えた。
すると、悠人の声に顔を上げた少女が、ようやくその存在に気付いた。
「……あ。見つかっちゃった」
少女はそう言って、無邪気に、だが少し大人びた表情で、笑った。
「シャボンだまをおっかけてたら、ここまできちゃったよ」
「そっか。結構遠くまで飛んだんだね、このシャボン玉」
そして、少女は立ち上がって悠人に向け棒を差し出す。
「こんにちは。これ……やる?」
「うん」
悠人はうなずき、その少し変わった棒を受け取った。
もう液に浸けてあるようで、輪に透明な薄い膜が張っていた。
悠人がそれをそっと吹くと、先ほどのどのシャボン玉よりも小さな、でもたくさんのシャボン玉が、パッと空に浮かび上がって行った。
「きれいだね」
少女が微笑みかけ、もう一度棒を液に浸け、悠人に差し出す。悠人がまたそれを吹き、シャボン玉を飛ばす。
楽しい気持ちになった悠人は、本当は迷子同然になっていることを思い出しもせず、けらけらと笑い声を上げた。
「みて! シャボンだま、あんなにとおくまでとんでるよ!」
空を指さし、悠人が言うと、少女も笑った。
「ふふ、そうだね。いっぱいキラキラ光ってる」
言いながら、少女は悠人から棒を優しく受け取り、今度は液に浸けたそれを振って、大きなシャボン玉を作った。
「ぼくもやりたい!」
「いいよ。はい。今みたいにゆっくり、優しく振るんだよ」
「うんっ」
悠人は意気揚々と棒を握り、しかし勢いよく振ってしまったせいで膜が割れてしまった。
2度目は遅すぎて膨らまない。3度目でようやく成功した。
「やったね」
少女が、シャボン玉液の入った筒を持ったまま小さく拍手をした。
「……ぼく、5さいなんだ」
少女が座っていた木の下に、今度は2人で座りながら、何を思ったか、悠人は唐突にそう言って、『5』を表すため片手を広げた。
「そうなんだ。私は10歳」
少女はそう答えて両手を広げる。悠人の年の丁度倍、5歳分年上だ。
悠人はそれを聞き、幼い頭で考え込んだ。
「10さいか……ということは、『しょうがっこう』か『ちゅうがっこう』か……」
兄や母親が話していた言葉から、そう呟くと、少女は驚いたような顔をした。
「まだ小学校だよ。4年生。まだ5歳なのに、そんな言葉を知ってるなんて、すごいね」
それで褒められたと判断した悠人は、はにかむように笑う。
「えへへ。にいちゃんがいるから。いま13さい」
「へぇー。じゃあ私の3つ上だから、中学1年生だね」
「うん。そうだよ」
今度は少女が笑った。しかし、すぐに、
「あれ、ちょっと待って。5歳の君がここにいるってことは、お母さんか誰か一緒だったんじゃないの? ここに一人でいていいの? 心配してるんじゃ……」
ようやく違和感に気付き、少し焦ったように言った。
それで、悠人も絢斗を置いてここに来てしまったことをようやく思い出す。
「あ、いけない! ぼくかえらないと!」
慌てて立ち上がる。が、帰り道がわからない。当然だ。初めて来た場所なのだから。
突っ立ったままの悠人を見て、少女は首を傾げたが、ふいにその意図に気付き、自分も立ち上がった。そのまま悠人の先を歩きだす。
「ついてきて。公園から来たんでしょ? 一緒に行こ」
「うん……ありがと。おねえさん、またここにきてもいい?」
「いいよ。いつもここにいるって訳じゃないけど……また会えたらいいね。でも、今度は道がわかるようにしておくんだよ? ……あ、ほら、もう見えるでしょ? 向こうに真っ直ぐ歩けば公園に戻れるよ。後は一人で行けるよね。私、荷物置いて来ちゃったから、取りに戻らないと。またね」
少女は、その言葉を最後に、悠人を公園の方に送り出し、そのままもと来た道を歩いて行ってしまった。
その後、元の場所に戻った悠人は、それを見つけた絢斗に、怒られるやら謝られるやら心配されるやら、大騒ぎされた。
しかしそんなことはお構いなしに、悠人は今の冒険を思い出しては、にこにこと笑っていた。




