〈2、絢斗兄さん〉
家に帰ったのは、もう11時を回った頃。いつもなら9時くらいには帰れているけど。
ネクタイをゆるめながら、一人で暮らしているアパートの部屋に入って行くと、
「おう悠人。来てるぞ」
「…………」
30代のおっさんが、ウイスキーの入ったグラスを傾けながら、俺に向かってそう言った。
「勝手に来てんじゃねぇよ……兄さん」
ため息と共にそう言うと、おっさん改め俺の兄の桂木絢斗が豪快に笑った。
「悪い悪い。出張で近くに来たもんで寄ってみたぜ」
「寄ってみたぜ、じゃないから。せめてメールくらいしろよ」
「まぁまぁまぁまぁ……とりあえず飲め、な」
「な、じゃないって。何をごまかしてんだよ。飲まねぇよ。それ俺が買った酒だし。何勝手に飲んでんだよ。そんなことより、とりあえず客用の布団出してくるから」
「お、そんなもんあんのか。用意がいいなぁ。というかさらっと俺がここに泊まるのを認めるあたり、相変らずのお人好しだな。俺はまだ何も言ってないぞ」
「どうせそうなるだろ。外で事件起こされても困るし」
「起こすわけねぇだろ。こっちは事件諌める側の仕事してんだぞ」
「でも起訴じゃなくて弁護だろ」
「関係ない関係ない」
なんて喋りながら、俺は寝室に入り押し入れから布団を引っ張り出してきた。
ちなみに、さっきの会話でわかるかもしれないが、絢斗兄さんは弁護士だ。俺と8歳違いということもあって、兄さんは昔からかなりしっかりした人だった。勉強も学校でトップ、大学もすごい学力が高いところの法学部だった。そんなわけで、仕事もなかなかうまくいっているようだ。依頼を受けては、日本中を飛び回っている。
用意が済んだ後で、絢斗兄さんの所に戻ると、兄さんは、
「会社勤めってのはこんなに遅くなるもんなのか?」
と、また酒をグラスに継ぎ足しながら言っていた。いつの間にか貰い物の燻製チーズ勝手に開けて食べてるし……。
「残業してたんだよ。というか勝手に食べるな。これ買おうと思ったら超高いんだから」
「何だよ、別にいいだろ。一緒に食えば」
「そういう問題じゃない。今そういう気分じゃないし」
今度休みの日に、テレビで映画見ながらワインと一緒に楽しもうかなー、なんてらしくないこと考えてたりもしたのにさぁ。そんなこと言いだせないけど、絶対。
「いやぁー、しかし残業か。会社員してるな」
「それ、どういう動詞だよ?」
「会社員しない会社員します会社員する会社員するとき会社員すれば……」
「うるさい。五段活用しなくていい」
「はっはっは。可愛げがない奴だな。昔はもっと素直で良かったのに」
弁護士のくせに、何でこんなふざけた自由人になってるんだろう。兄さんじゃないけど、それこそ昔はもっとしっかりした人だったような。
兄さんがグラスを傾けながら、突然思い出話を始めた。
「ほんと、昔は手のかからない奴だったよなー。親に言われて子守りさせられるなんて日常茶飯事だったけど、何にも苦労なんてしてな……いや、ちょっと待てよ」
「な、何だよ……?」
「そうだ。俺が中1……だからお前が5歳のときか。何回か……2回くらいかな? めんどくさいことになったっけ」
「めんどくさいこと?」
「そ。お前を公園に連れてってやったことが何回かあったんだけどさ。たまにどっかになくなるんだよ。で捜し回ってたらいつの間にか帰って来てて。めっちゃ嬉しそうに空白の時間について話してやがんの」
「……それはどうもすいませんね」
全然覚えてないけど……。
兄さんが喋り続ける。
「その話の内容も、まぁ嫌みな奴でさ。『お姉さんと遊んでたー』とか言うんだぜ。『シャボン玉で遊んだー』とか、『いっぱいお話ししたー』とか何とかかんとか。確か名前も言ってたな。何だっけ?」
それを聞いて、なぜか俺は、残業中に思い浮かんだ風景を思い出した。
まだ何か聞けるかと思ったが、
「ま、いっか。それより悠人。まだ酒あるか?」
兄さんは思い出すのを諦めたようで、その代わりに、空っぽになった瓶を振りながら尋ねてきた。
「まだ飲むつもりかよ」
呆れた……。
1時間後には、兄さんは、勝手に俺のパジャマを着て、俺が出した布団に潜り込んで、高いびきをかいていた。こっちはうるさくて寝られやしない。というかうるさすぎて近寄れない。
そういえば、昔それが原因で喧嘩になったこともあったな……なんてくだらないことを思い出しながら、ニュースしかやっていないテレビの画面をぼんやりと眺める。一応兄さんが起きないように、音量は抑えてある。でも、だから何を言ってるのか全然聞こえない。
それにしても……兄さん、よくそんな昔のこと覚えてたな。
でも、確かに、よくよく考えれば、そんなこともあったような気がする。
さっきの兄さんの思い出話を思い出し、俺は改めて記憶の糸を手繰り寄せてみることにした。




