第4章 愚か者、現実逃避をする
朝だ。とてもすがすがしい朝。こんなにも、気持ちのよい朝は一体いつぶりだろうと山根は考える。それは、学生時代の夏休み以来だった。なんなら、窓を開けてうおおおおっと雄叫びをあげたほど気分が良かった。たまたま歩いていた通行人がギョッとした表情で見てくるが、山根は気にしなかった。
山根が会社を休んで今日で二日目。ここ数日の鬱屈した気持ちを解放しようと、長期の有給休暇を取ったのだ。会社の同僚には嫌な顔をされたが、それは無事受理された。しかも間近に迫ったゴールデンウィークまで休みをつなげたので、二週間以上、半月ほどが完全に自由だ。
山根は未だかつて無い高揚感に包まれていた。
有給一日目は、久しぶりに平日の昼間から町をプラプラした。
まずは、CDショップに入る。驚いたのは、ボーカロイドの専用コーナーが出来上がってることだった。ボーカロイドが歌うCDが集められ、等身大のマスコットキャラがお出迎え。派手に店内を彩っている。『あんなのは歌じゃない!!』と言われていた昔は何だったのか。立派な音楽に乗せて、ボーカロイドが華麗に歌をうたう。専用PVまである始末だ。それは、生身の人間と変わらない扱いだった。
次に、売れ筋ランキングを見る。似たり寄ったりのアイドルソングが半分近くを占めていた。また、昔はありえなかったアニメソングや、声優名義のCDがランクインしている。これらは、山根の若き頃、“邪道”とされてきた存在だった。
こんなもの聴く奴は馬鹿だ! オタクだ! そんな風に言われていた。音楽番組とかでは『求められていない存在』とされていた。厳密には売り上げランキングで上位に入っていたとしても、除外して扱われていた。
それが今はどうか。立派な市民権を得ている。ここはアキバのアニメショップではない。ごくごく普通の場所にあるCDショップだ。
中学の同級生で、音楽を聴くのが趣味だったヤツがいた。あいつは、この現状をどう思っているのだろうか。ビジュアル系バンドやはやりのアーティストの歌や詩を鑑賞し、ギターの練習を頑張っていた。
アイドルというどこか浮世離れした架空の存在や、アニメ、声優といった創作物の世界が幅を利かせている音楽業界。時代が変わったとは一言で片付けられない複雑な感情を山根は持った。
次に向かったのは、ゲームセンターだった。正確には、ゲーセンは無いので、アミューズメント施設に行った。
そこのゲームコーナーに入る。平日の昼間だというのに、なぜこんなに暇人がいるのか。
山根もかつてはそうだった。仕事がなく、家にも居づらかった時期があった。そういった時、ゲーセンへ行き夜遅くまで時間を潰していた。親の財布から盗んだお金を使って……。
その時は、オンラインにつないで対戦ができるクイズゲームを長時間プレイし続けていた。ダラダラやるにはそのゲームがちょうど良かった。変に反射神経を求められず、100円で長くプレイできる。経済的だった。
あのときやっていたクイズゲームは……まだ生き残っていた!山根は感動した。
山根が入れ込んでいた頃は、もうそのクイズゲームのブームは、どちらかと言うと終わり始めていた。ネットでは『あのゲームもう駄目だよな』などと評判が悪かった。
だが。長い時を経ても、そのクイズゲームは“まだ生き残っていた!!”
その事実に、山根は感動していた。
今となっては、わざわざゲーセンまで足を運ばなくても、オンライン対戦のクイズゲームなんてのはどこでも出来る。スマホの基本無料のゲームで似たようなやつがある。今の時代、それをやればいいし、他にも楽しいことは山ほどある。生き残るのが大変な時代に、我が故郷とも言える若き青春時代を過ごしたクイズゲームがバージョンアップしながらまだ続いていた。
たまらなくなって山根は財布から、このクイズゲームの磁気カードを探し出し、久しぶりにプレイする。データは既に消えていた。当たり前だ。大体10年近く全くやっていなかったのだ。そもそも磁気カードが使えた事自体に驚いた。
山根の時代にはなかった協力プレイやスタンドアロンで動作するストーリーモードなど、内容がパワーアップしていた。とりあえず、かつて数えきれないほどやった『全国オンライントーナメント』を選ぶ。
「昔はモードセレクトと言っても、これしかなかったのにな」
人数が揃うまで、マッチングが完了するまで自習と称してクイズの演習が出来る流れは変わっていなかった。しばらく出題されるクイズを解きながら待つ。
マッチング完了。
『まもなくゲームが始まります』と表示され画面が暗転して切り替わる。
それと同時に開始のベルが鳴る。
この演出の流れ……! 山根は懐かしかった。感動した。
だがすぐに山根は落胆する。
「全然人がいない。過疎ってるな」
12人のプレイヤーとクイズの点数を競い合うトーナメント戦なのだが、マッチングしたのは僅か4人。残りの8人はコンピュータが埋め合わせする。
その後も2、3回プレイするが、やはり全然マッチングしなかった。多くて4人。2人だけという時もあった。
コンピュータ相手にやったってこんなものつまらない。弱めに設定されてるから、簡単に決勝戦まで行ける。決勝まで行って優勝したって達成感がなく嬉しくない。虚しい。
平日の昼間という時間帯の悪さもあるのだろうが、山根は寂しくなった。
「昔は、平日の昼間でも沢山マッチングしたのに」
これなら、あって無いような物だ……!!山根は席から離れた。
フラッとゲームコーナーを歩いてみる。やたらプライズものの台が目立つ。
かなり広いが、大半はUFOキャッチャーばかり。いわゆるエレメカと呼ばれる、ゲーム台は、その空間の僅かなスペースにしかなかった。
「今はゲームなんて、スマホでやれるしな」
山根の持つゲーセンのイメージと、現在のゲーセンは大きくかけ離れていた。
山根はそれほどゲーセンに愛着など無いが、通いつめていた頃にあった、格闘ゲームの対戦台、難しすぎて一体誰がやるんだ?と言いたくなる弾幕シューティング。そんな泥臭いゲーム台が、フロアの隅っこに存在を消し去るまいと僅かながらに置いてあったものだが。
時代の流れには勝てなかったのか、とうとうなくなってしまったようだった。
山根はゲームコーナーをあとにした。
その後、そのアミューズメント施設にあるほぼ全てのコーナーに入って遊びつくした。ボウリング、バッティングセンター、カラオケ……。山根は思い切り身体を動かし、声を出し、全部を出しきって帰った。
一日目はそうやって過ぎていった。
ただ、山根には心残りがあった。
「どうせなら、ひかりと来たかったな」
だが、その日は平日。夜遅くまで毎日忙しくしているひかりを連れてくることなんて出来なかった。
それを踏まえて二日目。今日は一転して、思いっきり引きこもって遊ぶ。そう決めていた。月額課金制のオンラインRPG「ファンタジーナイン」を始める。
『おっすー。ひさしぶり』
『何? こんな時間から? とうとう仕事辞めて、こっちの世界に専念する決心でもついた?』
山根がログインすると、所属クランのメンバー2人が速攻でチャットを送ってくる。
『有給をとったんだ』
2人の会話にそうやって返す。
平日の朝っぱらから、クランメンバーでログインしている人なんていないと思っていたが、この2人がいた事をすっかり忘れていた山根であった。
今目の前にログインしている2人――アオイヒメとセツナ――は、いわゆるネットゲーム廃人である。この2人はリアルがうまくいかないからと、リアルで生きていくことを放棄して、一日中このネットゲームに没頭している。誰もが羨む強力なレア装備品を集めたり、PvP(対人戦)でポイントを稼いでランク上位を目指し、日々頑張っている。
毎日10時間以上のペースで遊んでいれば当然、レベルはカンスト、クエストはコンプリートと、やることがなくなる。――厳密には、レアアイテム集め、PvPのポイント稼ぎみたいな、ひたすら反復作業を強いられるものはある。ファーストキャラのやり込みに飽きてきたら、今度はセカンドキャラを作って、また1からやり始める。このゲームは、1アカウントで16キャラまで作成できる。アオイヒメは4キャラ、セツナは5キャラ作ってプレイしていると聞いた。
この2人の年齢は、山根と大体同じぐらいのはずだ。……はずだ。というのは、山根は直接歳を聞いたことがなく、相手もはっきりと明かさないから不明なのだ。なにせ名前から分かる通り、立派な廃人でありながら、立派なネカマでもある。――ゲームの中では女性キャラだが、2人共いい年をした男である。
『タカシ。メインクエどこまで?』
『は?』
タカシというのは、山根のゲーム上での名前。山根は、RPGとかで自分の名前を入れてプレイする古風な人間だった。
『だから、メインクエどこまでやってるの?』
さっきからアオイヒメのほうがうるさい。
『えーっと……“世界の最奥で君を待つ闇”までをクリアしてる』
『第七十七章か……。これは、一日コースだね、セツナ』
『ん? なに?』
『これからタカシのメインクエを進めてやろうと思ってんだけど、セツナも来るよね? どうせ、暇でしょ?』
『ちょっと待ってよ!! それはもう決まってんの!?』
最後の悲鳴は山根。
山根はまだログインして10分と経ってない。前にログインしたのはいつだったのか……リアルで何があったのか……普通は近況報告とかしたりしないのか……? いや、こいつらはゲームの世界こそ全てだからそういったことはどうでもいいのか? なんにせよ、自分無視で勝手に話が進んでいることについていけてなかった。
するとセツナ。
『いいよー。昨日ちょうど手に入れた武器で試し切り……したかったから』
『おし、じゃあいこう。この三人なら、楽勝っしょ』
こうして、山根のメインクエストを進めることになった。
さすが、リアル捨てて生きてる二人はすごかった。どんなに屈強で凶悪そうなモンスターが襲いかかってきても、ほとんど一撃で粉砕してしまうのだ。
『ひゅ~~~~!! 1000ダメージ超えおめ!!』
『昨日とった“漆黒の剣”強い。これはみんな欲しがるね~』
『セツナ、あとでPvP行って無双してくる?』
『うん。行きたい』
『これはまた、晒しスレで晒される材料が増えちゃったね』
『わめくだけのザコには興味ない……』
一応、半年ぶりにログインした山根が主役のはずなのだが、二人は道中こんな話をして盛り上がっている。すっかり山根など、そっちのけにされていた。
そこを気遣ってアオイヒメが言う。
『タカシも後でPvP来る?チーム戦で』
『え? でも一番強い職業でも、ナイトのLV91だよ』
『後ろのほうで逃げまわってくれるだけでいいよ。うちら2人で敵は倒すから』
ちなみに、この二人は全職普通にLV99である。LV90以降は上げにくく設定されているのだが、そんなことこの二人には関係無かった。
次にセツナがタカシに詰め寄る。
『タカシ、ストーリー終わったらまた休止するの?』
『う~んどうかなあ……仕事とかが立て込んでてね』
『仕事暇だって言ってたじゃん』
と、アオイヒメ。
『暇というか、まぁ……色々ね!』
山根はごまかそうとしたが、ごまかしきれてなかった。
『一ヶ月まったくやらないこともあるのに、月額払ってんの?』
『うん』
『無駄じゃん。それ、運営の思う壺だよ』
確かに言われたとおりだ。山根は、やりもしないゲームに毎月お金を払い続けるという矛盾する行為をしていた。
そこでセツナが言った。
『仕事キツイの? やめて楽になろう?』
『いや。それは出来ないというかなんというか……』
次にアオイヒメが口を挟む。
『何? まだ仕事のことで愚痴愚痴悩んでたの?』
『うん』
『悩むぐらいなら辞めれば?』
『やめたらやめたで色々問題がね……』
『生活費とかそういうの?』
『うん』
『ナマポすれば? 結構簡単に申請通るよ』
『そうなの?』
『まず、受かりそうにないトコを100社受けて、不採用通知をとっておく。それともう一つ、ハロワの求人票大量に印刷してとっておく。で、貯金なくなってから申請しに行く。おわり』
『そんな簡単に行くわけ無いだろ……』
山根はそう思って反論を続けたが、アオイヒメは一歩も譲らない。
『行くって! でも、ナマポは必要最低限しか支給されないから、豪遊とかは無理だね。それをやりたいなら、普通に働いて稼がないと』
『でもなぁ……』
山根はそこで渋った。しかしアオイヒメは畳み掛ける。
『見栄とかプライドを捨てれば、結構楽に生きられるよ』
『それはそうかもしれないけど……。税金や年金の支払とか、日本には勤労の義務とか色々あってさ』
『そんなの他人が勝手に決めたものじゃん。守れないものは守らなくたって別に生きていける。贅沢はできなくなるけどね』
『う~ん……。俺はそこまで、思い切りの良い人間じゃないからさあ……』
煮え切らない山根に対して、とうとう諦めたのかアオイヒメもこの話題をここで切り上げてしまった。山根にとって一番の問題は、見栄とか金とかよりも、生きていく上でのモチベーションが無いことだった。
例えば、ひかりは絵を描くのが好きでそれを仕事にするぐらい没頭している。今一緒にゲームを遊んでいる二人は、ネットゲーム廃人となって、なんにもならないものに一生懸命になっている。
山根はこの二人に是非聞きたかった。“どうしてそこまでたかがゲームに夢中になれるのか”と。
山根はネットゲームを始める前は、ミニチュアキットを買ってきて、数日かけてそれを組み立てていた。だが、賃貸の狭い部屋。完成させても飾る場所がない。そのうち邪魔になってきて捨てざるを得なくなる。いつか捨てるものを頑張って組み立てたって意味が無いと悟り、やめてしまった。
そのあとだ。山根がネットゲームを始めたのは。場所を取らない、気軽に始められる、金もかからない。山根にピッタリの趣味であった。
だけど、山根は私生活を犠牲にしてまでゲームに夢中になっているわけではない。ただ、余暇時間することが何もないから、適当なものを探してきただけ。それ以上のものはない。それどころか、仮に仕事を失って暇になっても、こんなゲームに今更情熱を捧げるほどの気力もないのだ。
大体、ネットゲームなんていつか廃れてサービスが終了する日が絶対にやってくる。そのとき、何千時間と費やしたことが水泡に帰すのだ。それをわかりきっていて、頑張れるかという話だ。
山根はその疑問に答えて欲しかった。しかし、聞くことが出来なかった。聞くことが失礼だと思ってしまっていたからだ。こんなこと聞いたら絶対嫌われる……そんなふうに思って聞けなかった。
山根の人生は基本的にずっと、何かに追い立てられて場当たり的に生きていた。だから自分がないのだ。自分の意志がないから、みんなと同じことをやっていないと不安になる。それ以外の選択肢がわからない。レールから外れることが怖くて怖くて仕方がない。
と、そこで山根は考えるのをやめた。せっかく有給をとって、頭痛の要因を取り除こうとしているのに、自分からドツボにはまっていってどうするんだと言う結論に達した。
画面上ではずっと、アオイヒメとセツナの二人に言われるがままに連れ回されていた。そして、色んなイベントやクエスト、バトルに参加しておもいっきり楽しんだ。
『あータカシ。これは晒しスレに晒されたねー』
『えっ!? ちょっとそういうのかんべんしてくれよ』
『PvPでうちら2人にこれだけたっぷり寄生したんだもん。しょうがないよ』
『晒されても別に何も無いよ。なんなら先に晒しておこうか?』
『それもそれでやめろよ……』
『セツナなんか晒されてから逆にフレンドが増えたりしてたよ。ねえセツナ?』
『うん……。返り討ちにしてやったら、ファンになりましたって言われた……』
『へぇ~』
山根には、そもそも晒しスレが何なのかよくわかっていなかった。よくわからない匿名掲示板のそれという認識しかない。だからそんなものなのかもしれないと思った。
『さて、と。じゃあもううちら2人は落ちるけど、タカシどうする?』
『えっもう終わるの?』
まだ時計は深夜0時を回ったところだった。
『別に夜更かししてまでやることないし、もう寝るよ』
『意外……というかイメージとぜんぜん違う!!』
山根は、ネットゲーム廃人なのだから深夜こそが本領発揮する時間帯だと思い込んでいた。
『早朝や午前中のほうが人少なくてゲームやりやすいんだよ。混んでる夜に無理してやることって何もないよ』
『そういうものなんだ』
『じゃあおやすみー、また明日』
『タカシ。待ってるから明日も来て』
そういって二人はログアウトした。
山根は一人取り残される。クランメンバーは他にもいるが、それぞれ仲良し同士で出来上がっちゃっているようだった。特に山根もすることがなくなり、クランのみんなに挨拶をしてログアウト。
久しぶりのオンラインゲームは楽しかった。楽しいが毎日やるほどじゃないというのが山根の結論だった。二ヶ月程度の期間に行われる大型アップデートで追加されるストーリー、クエスト、新コンテンツ。それらが追加されたタイミングで戻ってきてプレイして、美味しいところだけ楽しんだらまた休止。山根のオンラインゲームとの付き合い方は、そんな感じだった。
毎日遊ぶほど、やることがないのだ。
ストーリーを見終わったら、後は延々自己満足のレベル上げと、レアアイテム集めをするだけ。それらは、優越感に浸るためだけの代物。持ってないからって困ることはあまりない。
そんな冷めた山根には、オンラインRPGの世界でも友達が少なかった。たまにログインしては、すぐ消えていく人と親しくなろうっていうほうが難しい。しかも、それが何度も繰り返されると、同じクランのメンバーでも、冷たい目で見る人すら出てくる始末であった。
ネットゲームの世界でも居場所のなかった山根だったが、なぜか良くしてくれる人が二人だけいた。それが今日一緒に遊んでくれた、アオイヒメとセツナだ。
なぜこの二人が、親しく接してくれるのか山根にはわからなかった。特にセツナの方は、なんか、キャラが入っているのかもしれないが、山根に惚れてるというような設定で語りかけてくる。あれだけは嫌だった。やめて欲しかった。
この二人のおかげで、楽しく遊べている事実だけがそこにはあった。
有給三日目。この日は晴れてはいるが、肌寒かった。だが山根は構わず、窓を全開にして、部屋を整理していた。学生時代の文集、教科書、写真。思い出の品が山ほど発掘される。そのたびに、昔を思い起こし、懐かしむ。
中学の卒業アルバムが出てきた。ひかりの写真を見る。やはり今とぜんぜん雰囲気から違っていた。
学生時代は、毎日ただ学校へ行っているだけなのに、色んなことがあって、楽しかったと山根は回想する。遠足で山へ登り、球技大会での熱い試合、文化祭、スキー、修学旅行、炊事遠足、キャンプ。色々なことをした。
それが学校を卒業してからはどうだ。毎日同じことの繰り返し。何もない。楽しむ努力をしない自分が悪いのかとひたすら攻めたこともあった。
ところがそんな葛藤をして自問自答をしたって何も変わらなかった。だから身を投げた。力を抜いて楽になった。ただ目の前のことに身を任せることにした。思考停止した。それが学業を終え、社会に出てからの山根という愚か者の全てだ。
ふと山根は気づいた。そういえば、社会に出てからの思い出は何も残っていないな。学生時代の生きてきた証は、部屋の私物から沢山出てくるのだが、それ以降の思い出の品は一向に出てこない。当たり前だ、特に何かをしてきたわけでもない。自分の思い出を残そうともしなかったから当然である。
そんな風に思い出の品を発掘しては、感慨に浸る一日を過ごした。
この日の夜、山根のケータイにメールが着信した。
「ひかりからだ……!!」
メールを開く。
『G・Wのクラス会、5月3日に決まったよ~。山根出席するよね!? 幹事には出席するということになってるからお知らせします。最近ずっと会社来てないんだってね? 風邪か何かかな? 大丈夫? クラス会までにはなおしてね』
山根は落胆した。いまさら、ひかりのメールに何を期待したんだろう。何か、今自分が有給をとってやっていることに水をさされたような気分になった。
別にひかりとは恋仲ではなく、ずっと親しかったわけでもない、ただの知り合いレベルの関係だ。そんな人に、いまさら何を期待したっていうんだろう。
次の日、気分を切り替えて再び山根は遊ぶ。仕事してる頃は、「やってやろう」と思っても、馬鹿馬鹿しくて実行に移さないやりたいこと。それをやってやろうとしていた。
お台場のテレビ局へ観光に行った。上京して都内近辺に住んでいるといっても、仕事でもここへはこない。ガキのミーハーっぽっくて普段は恥ずかしくて行こうとも思わなかったテレビ局とその一帯。ついにそんな場所へ山根は足を踏み入れた。
レインボーブリッジを見ながら、砂浜の近くで買ってきたたこ焼きを頬張る。
なんか、今日が一番“東京にいるんだ!”という実感が沸いた。
それからはスーパー銭湯で、飽きるまで風呂に浸かり、サウナに入る。そのあとは、評判の良い食べ放題飲み放題の焼肉屋へ行き、おもいっきり食べる、飲む。
今日一日、やりたいことをやりつくした。他人からすれば、下品で貧困な発想なのかもしれない。そんな当たり前のことばかりだったのかもしれない。しかし今の山根が一番やりたかったことはこれらである。
なかなか一人では行動に起こしにくかったけど、やりたかったこと。そして普段は、仕事で疲れて馬鹿馬鹿しいと思うようなこと。それはこんな庶民的なことばかりだった。
満身創痍といった状態で、酔ってフラフラになりながら帰宅する。そしてそのままソファーにだらしなく倒れこむ。
その山根の片手には、いつ買ったのか、樹海行きのバスチケットが握られていた。




