第2章 最高最大の幸せは感受性豊かな君だけの中に
「お前はアレだな……下手な愛想笑いだけはずいぶん上手になったモンだな」
「そ、それって、どういう意味ですか……!」
下手な愛想笑いが上手になったって、一体どういうことだろう、と山根は思った。
午後から、山根と高田の二人は、取引先の会社を回る外回りの仕事を始めていた。やっていることは、お付き合いのある会社に出向いて行って、納品書と伝票にハンコを押してもらう。そして、「これからもウチをよろしくお願いします」という軽い営業トークをするだけ。
山根は、今の会社に入社してからずっと、この仕事をやっていた。
よくわからない人にひたすらペコペコ頭を下げて、当り障りのない会話を繰り返す。その取ってつけたような社交辞令にウンザリしていたのだった。
なんてやり甲斐のない、つまらない仕事だ!! と思っていた。しかし山根には、社会で通用する武器なんて何も持っていない。不服があろうとも、この仕事を嫌々でも続けるしかなかった。
既に時刻は午後3時を回ろうとしていた。この日の予定は7件。この時点で3件を消化していて、残り4件の進捗状況だった。前を歩く高田が立ち止まり山根の方に振り返って言う。
「あっ俺、コレ行くわ。残りは、お前一人で行けや」
腰のあたりに片手をおき、何かを掴んで時折ひねっているような仕草をしながら高田は言った。
「は?」
山根は何のことやらわからない。困った顔をして聞き返す。
「ホラァ!! コレだよコレ! ったくしょうがねえなあ!! パチンコだよパチンコ! パチンコが俺を呼んでいる……ってな!!」
高田のパチンコ病が始まった。退屈な仕事に耐え切れなくなると、今のように発病する。
「どうせこんなの律儀に男二人で行ってもなんにもならねぇよ。終わったらケータイに連絡入れろや」
そう言うやいなや、高田の姿は人混みの中に消えていった。山根は深い溜息を付いた。
高田は40過ぎた妻子持ちのおっさん。これが自分と同じぐらいの歳かちょっと上ぐらいの人間がやることなら、まだわからんでもない。しかし10歳以上歳の離れた人間のやることかよ……と、つねづね山根は思っていた。
社長に言ったこともある。だが、「まあ仲良くやってよ」と諭されるだけ。社長ののんびりとした性格では、檄を飛ばすなどは期待できなかった。
次に、相談したのは経理の村田のおばさんだった。「それ知ってる。外で好き勝手やってもいいけど、会社の中でダラダラするのだけは許さないよ。仕事のジャマだから」との事だった。
共通しているのはみんな“仕事をサボること”そのものには怒らない。村田のおばさんだって例外じゃなかった。事務用品とか必要なものの買い出し以外は基本会社の中での仕事。――それすらも外回り担当の山根と高田にお使いさせることもある。社長はほとんどゴルフと釣りでいないし、いても社長室で静かにしている。つまり、普段の村田は、あの事務室で一人、ラジオを聴きながら、のんびりと仕事をしている。冷暖房完備だから、夏は涼しいし冬は暖かく居心地が良い。仕事といったって、外回りほど楽ではないだろうが、やはりシャカリキに忙しいってほどじゃない。暇な時間が出来て、高田のように結構サボったりしているのかもしれない。いや、サボっているのだろう。人には見えないように上手に隠れながら。
山根はこんなことでいいんだろうか……と思いながらも、一人残された仕事を片付けていく。高田が山根一人に仕事を押し付けて、サボることは日常茶飯事だ。今日が特別なわけではない。
取引先を一人で回るが、「高田さんは?」なんて聞かれたことなど一度もない。つまり、相手方にとって二人で来ようが一人で来ようが、それどころか誰が来ようがどうだったいいのだろう。もっと言うと、零細企業の人間が『ハンコください』とやってくる事自体、あってもなくてもどっちでもいいものなのだろう。注文を受けた商品自体、運送会社に配達してもらっているから、ますます存在意義が怪しくなってくる。
しかし、山根に拒否権はなかった。
『この仕事しかないんだ。この仕事しかないんだ。この仕事しかないんだ』
自分に言い聞かせて、毎日頑張ってきた。その事実だけが着実に自分の人生を刻んでいる。
毎日何百回と伝票と納品書を作り、何百回とお得意さんを訪問してハンコをもらってくる。それを繰り返すだけの単調な日々。それだけが社会での存在意義だった。
山根は電車を待つ間に考える。
この先何十年と世界が変わらなかったら、平和なままだったら、価値観をひっくり返す出来事が起こらなかったら……。いずれ高田が定年退職していなくなる。その後はどうなるのだろう。俺がこの会社に入ってきた時のように、後輩が入ってきて若いのとおっさんの二人でこのつまらない仕事が続いていくのか?
そうしたら、俺が常日頃高田に思っているように、『だらしないおっさん』『うざいおっさん』『体臭臭いおっさん』『歯が黄色くて汚いおっさん』とか思われながら一緒に外回りに行くのだろう、きっと。笑えねぇ……。
事務の子は、その間に何回入れ替わるのだろうか。平野さくらとかいう子も、おばちゃんと呼ばれる歳まで会社にいるのか、どこかで結婚して若いうちに会社を去ってしまうのか?
それより社長は!?社長はどうなる!? 俺が定年退職の歳まで生きているのか!? 今の社長が倒れたら、会社はどうなる!?
それは山根にはわからなかった。そして考えたくない事象でもあった。そんな、今から考えても仕方のないことを考えながら、仕事を進める。
それにしてもほぼ毎日こうやって取引先の会社をまわっていると、東京都内には会社が有象無象、海千山千と存在していることに驚く。ビル一個まるまる同じ会社と言う超リッチな、誰もが知ってる有名な大企業もあれば、オフィスビルの小さな一角を借りて従業員数2人とか言うウチよりも小さくひそやかな零細企業もある。ココは何やって生計を立てているのだろう?と疑問に思うマニアックな会社も沢山見てきた。山根はまるで、仕事を通じて社会見学でもしているかのような感覚だった。
取引先の4件全てをまわり終えて、高田にメールで連絡を入れた。返事はすぐに来た。
『会社近くのいつもの公園で待ってろ』
返信の内容は山根の想定内であった。
「こりゃ、負けたんだな……」
山根がボソリとつぶやく。高田がパチンコで散財して苦虫潰した顔をしながらメールを書いている姿が容易に想像できてしまい、一瞬気持ち悪くなった。
山根にとって高田は、ただの職場の同僚であり、プライベートでの付き合いは全くない。間違っても友達にしたいとは思わない。二人はそんな割りきった関係だ。
高田みたいにだらしなくていい加減な人間でも、立派な家庭を持ち、生きていけるというこれまたいい加減な社会の構造を目の当たりにして、山根はいつもウンザリしていた。
山根は会社近くのいつもの公園に着いた。大通りからちょっと中に入ったところに位置する静かな公園だ。まわりはオフィス街なので、子供の遊び場として使われることはほとんど無い。サボリーマンが仕事をサボりに来て、ブランコに座ってケータイいじってたり、お菓子食べてたり。あるいは、ホームレスが時間を持て余して隅っこでゴロッと横になってたり、あまり良い使われ方はしてないとても残念な公園。
そんなくたびれた公園に来て、山根はいつもどおり、しみったれたベンチに座って、高田を待つ。反射的に腕時計を見ると、時刻はまだ17時ジャストだった。
「どっちみちすぐは帰れないな」
山根はぼやいた。中途半端な時間に会社へ戻ると、村田のおばさんに煙たがられる。だから、外回りの仕事が早く片付いても、すぐ会社には帰らない。帰ったって日報を書くぐらいで、やることがない。それどころかめんどうごとを押し付けられて退社時間がその分遅くなるかもしれない。馬鹿正直に帰っても損をするだけなので、余った時間はいつもこうやって寄り道をして時間を潰している。……これらは全て、先輩上司である高田の受け売りだが。
「よお!」
声がした方を見ると、片手を上げた高田が目に入った。
「いや~、負けちまったよ全敗だよ全敗!! たった1時間ちょいであそこまで負けるかよってぐらい負けた! ケチなパチ屋だよあそこはヨッ!!」
からっとした愚痴をひとしきりこぼしたあと、高田は山根の横に座った。高田は間をおかず早速スマホを出して、ハマりにハマってる「にょたコレ!」をプレイし始めた。
毎日いつも、退社時間まで外で時間を潰していた。山根はそのことに違和感があった。何をやっているんだろう……?と思ってしまうのだ。
普段はこんな公園ではなく、行きつけの喫茶店とかで時間を潰すのだが、高田の財布がピンチ状態となると、金のかからない場所で時間を潰すことになる。さっきまで高田がやっていたパチンコ。勝っていれば喫茶店。しかし大負けしたために、惨めったらしいホームレス公園になってしまった。
高田の時間の潰し方は、いつも決まっている。たいていスマホをいじって、基本無料のゲームをやっている。――いい年齢の、しかも歳の離れた男二人が、べっちゃべっちゃおしゃべりをして仲良しこよしで過ごすなんてことは絶対に無い。
特にお気に入りで肩入れしているのが「にょたいかコレクション!」という人気ゲームだ。欲しいカード目当てに一万円単位でつぎ込むことも珍しくない。しかしそればっかりやっていられない。スタミナが切れたら別のゲーム。そのゲームのスタミナも切れたらまた別のゲーム。そしていよいよ、ゲームに飽きたら今度はLINEをはじめるのだ。
『最近19の可愛い子と知り合ったんだよ』と興奮気味に自慢していた。山根は呆れた。40過ぎて、妻も子供もいるのに、若い子に手を出してるどうしようもないエロオヤジ……。この、怠惰の象徴とも言えるべきだらしない高田を見ていて、やるせない気持ちがこみ上げていた。
『こんな中年オヤジでも立派に社会に出て働いているといえるのか?』
山根は疑問を持った。だが、それは山根自身にも心当たりがあった。立派に働いているかと言われると、自問自答してしまうような仕事。山根は“同じ穴のムジナ”という言葉を連想して嫌な気持ちになった。
高田は、こんなゆるい仕事でも、自分の子供には“とおちゃんなぁ、昼間は一生懸命働いてるんだぞ!!”などと胸を張って話しているんだろうか?山根は、“自分には無理だ!”と悲鳴にも近い思いになった。
「おい、帰るぞ」
高田に唐突に声をかけられ、腕時計を見ると17時30分を過ぎていた。もう、そんな時間になっていた。山根は山根で、いつも暇な時間は、こうやってぼんやりしていることが多かった。
会社へ戻る。高田が扉を開けると。
「おかえんなさい!!」っと精一杯のお出迎え。
……これは勿論、新入社員の平野さくらだ。村田は知らんぷりでもう帰りたそうにしていた。
「ただいまぁ~」
高田はいやらしそうなネチネチとした声で返す。
「ただいま」
山根は、疲れたがどこか誠意を込めたトーンで言う。
どうか。どうか神様、この子はこの会社の空気に染まらないで欲しい。汚染されないで欲しい。山根は天に願いを込めていた。山根には、まだ平野が穢れ無き天使に見えていた。ひたむきな姿がいとおしかった。平野を見つめる山根の目つきには、高田と同様の嫌らしさがあったが、本人は全く気がついていなかった。
日報を書き終えたらちょうど18時。さぁ帰るぞと席を立ち上がった時だった。
「あっ山根。帰るのか?」
「はい。なんですか」
「ちょっといいか?」
そう言って高田に呼び止められる。ここでしてはまずい話なのか、部屋の外へ出るよう促されていた。二人一緒にタイムカードを押して、部屋の外へ。
廊下に出て、高田とふたりきりになる。不思議とひそひそ話のような格好になって話しかけてくる。
「明日だけどヨォ? 山根。俺有給取っから。オマエ、俺の代わりに面接の試験官やれや」
「ええっ!? 俺そんなのやったことないですよ」
「いいからいいから!! お前はただ社長の横に座ってるだけで適当に相槌だけ打ってりゃいいから。簡単だろ? 詳しくは明日社長に聞いてくれ。じゃあな!!」
好き勝手まくしたてて、高田は帰っていった。
山根は肩をすくめた。高田は今日一日もかなりの割合で仕事をサボっていたのに、明日有給をとってさらに休むというのだ。家族に恥ずかしくないのだろうか? しかも、面倒くさそうなことをまた押し付けてきた。
だがまぁ、これも仕事だと割り切るしかなかった。とりあえず今日という一日は終わったのだから。
これが、山根という一人の愚か者の、退屈で空っぽな『虚無なる一日』だった。退屈だろうが空っぽだろうが、平穏無事な毎日を過ごせるだけでも幸せということがわからぬ愚か者。山根隆。知らず知らずのうちに掴んでいた幸せを彼は認識できないでいる。背伸びをして、身の丈に合わないものを欲している男。山根隆。
今日という日は終わり、非情にも明日はやってくる。