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1000文字小説

キャベツ・タイム

作者: 池田瑛

 トントントン


 母が台所から奏でるこのリズミカルな音が大好きだった。

 包丁とまな板で、規則正しく、一定のリズムで鳴り続ける。


 私は明日、生まれ育ったこの家を出て、夫の家に入る。

 大手とは言えないが、鉄道関係などある程度しっかりとした顧客を持っている広告会社に勤めていた私は、帰りも遅いことも多く大学を卒業して以降は、母が台所に立ついるところを見る回数は極端に少なくなっていた。それどころか、家族で食事を一緒にすることも稀になっていた。


 トントントンという規則正しい音が止まり、台所から母が呼びかけた。


 「直子、明日の荷物の支度はもうできているの?」


 「準備できているよ」


 「じゃあ、ごはんとお味噌汁を装ってくれないかしら」


 「いいわよ」

 

 私は台所に入り、食器棚からお茶碗と味噌汁碗を三つづつ取り出した。


 「しゃもじ、どこにしまってあったけ?」


 「左の引き出しよ。直子、これを食べてみて」


 母はそう言って、キャベツの千切りを箸で一掴みした。


 「キャベツの千切りを?味見?」


 「まぁ、いいから」


 私は、お茶碗を炊飯器の横に置き、左手を出した。母はその左手にキャベツの千切りを置いた。


 「食べてみなさい」


 そう言われて私は、千切りキャベツを口に頬張った。


 「味はする?」


 「キャベツの味がする。ドレッシングもなにもかけていないでしょ」


 「そうよ。ほんの少しだけど、甘みがあるのは分かるかしら?」


 「甘み?野菜の味しかしなかったけど」


 「じゃあもう一回食べてご覧なさい。今度は目を閉じて、ゆっくりなんども噛んでみて」


 そういって母は、また箸でキャベツの千切りを箸でつまんだ。今度はさっきより量が少し多い。私は、またキャベツを口に入れると、言われた通りに目を閉じて、何度も噛んだ。


 目を閉じて、キャベツの味に集中すると、確かにほんの少しだけれど甘みを感じた。


 「ほんのり甘みがあるかな」


 「そう、よかったわ。その甘みを覚えておいてね」


 「この甘みを?どいうこと?」


 「私のお母さんがね、同じことを私に教えてくれたの。幸せを感じることというのは、このキャベツの甘さを感じることに似ているって。羊羹のような甘さではなくて、本当に意識を集中して感じないと分からないくらいの甘さなんだって。胡麻油をかけたり、ソースをかけたり、ドレッシングをかけたりすると、この甘みはすぐに分からなくなってしまうわ」


 「明日から、大好きな夫と一緒に暮らすことになって、これ以上にないってくらい幸せいっぱいなんだけれどね。もちろん、お母さん、お父さんと離れて暮らすことは寂しいけれどね」


 「家庭を築いていくということはいろいろな苦労があって想像以上に大変よ。いろいろなことが振りかかってきて、幸福が感じられなくなってしまうということもあるわ。もし直子が自分が幸せか分からなくなってしまったら、この話を思い出してみて。台所に立って、キャベツを千切りにして、それを食べてご覧なさい。そして、直子自身に何が振りかかっていて、何が問題となっていて、幸せが感じられなくなっているのかをゆっくり考えてみなさい。幸せは本当に些細で、すこしの調味料をかけただけで、分からなくなってしまうものなのだから。幸せを感じることができなくなっても、それは幸せがなくなってしまっているということではないのよ。別の何かの味で、直子自身がその幸せの味を感じられないだけなの」


 母は、それだけを言うと、また包丁を握り、キャベツの千切りをし始めた。


 私がご飯とお味噌汁を装っている間、トントントンという包丁とまな板の音が止むことはなかった。


======================================


 あの日、母と台所に立ってから、20年もの月日が流れた。


 息子は、明日から東京の大学に行き、一人暮らしを始める。夫、息子、そして私の3人で暮らしていた18年間も、今日で最後となる。息子も大学卒業後のことは考えてはいないだろうが、息子は大学を卒業したあとも東京で仕事を見つけ、この家に帰ってくることは稀となるだろう。


 とんとんとん、私はキャベツの千切りをする。


 「母さんのとんかつが食べたい」


 明日から東京に行くのだから、食べたい料理はないかと聞いたら、迷わずとんかつという返事が帰ってきた。育ち盛りでお肉が食べたいのだろうとも思いながらも、とんかつという返事に、まだ高校生から抜け出せていない息子を東京に送り出す一抹の不安が胸の中に残りもする。


 とんとんとん。


 明日、夫と一緒に育てあげた息子を送り出す。まだ大学の入学式もまだで、一人立ちをするのはまだ先のことであるが、この家から巣立つのは明日となる。一人の息子を育てあげ、頼りなさげではあるものの、巣立っていく息子を見送る。一人の母親として息子を育てあげたという充実感も感じる。


 とんとんとん。


 私は千切りしたキャベツを少しだけ摘み、口に運び目を閉じた。


 ほんの、ほんの少しだけの甘みが口に広がった。

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