「甘噛み」 柚乃 詩音様
「ヤヨイ……ヤヨイ」
私を呼ぶ声を返事もせずにただ聞き流す。寝起きはなかなか頭が回らない。あぁ、呼んでるな、とは思っても返事をする気は起きなかった。
「ヤヨイ」
今度はすぐ近くで声がした。本当に近く、すぐ、耳元で。
「……」
無言で私を呼ぶ彼を見据える。たぶんぱっと見ただけじゃ――というかしっかり見てもまだ寝ぼけているようにしか見えないだろう。でも、彼は私の意識がしっかりと覚醒していることを敏感にも空気で読み取ったようだ。
「よく眠っていたな」
どんな時代の技術をもってしても表現できないのではないかと思うくらいの美しい顔が視界いっぱいに見える。ここまで近くにいられると逆に表情がまったく分からない。元々、この人間離れした容姿の男の表情から感情を読もうなんていうのは無駄な話なのだが。
彼が人間からかけ離れているのは容姿だけではない。そもそも人間ですらない。彼はヴァンパイアらしい。正直信じがたい話だ。実際私はそんな非現実的な話信じてはいなかったのだが、実際に吸血行為を行われては否定する要素が格段に減る。彼が人の首筋に噛み付いて鉄っぽい味を下の上で転がすのが好きな変質者ではない限りはきっと本当にヴァンパイアなんだろう。
「それにしてもむごい」
「?」
「オレは一日以上、なにも口にしていないのだぞ? なのに一人ぐっすりと眠るとは……」
人聞きの悪い。私は寝ていたんじゃない。気絶していたんだ。しかも原因は彼――ルイだというのに。
「オレの花嫁は隣に伴侶となる男がいても気にせずに眠れるやつだというのは用句わかった」
花嫁、というのは私のことらしい。私はなにやら特殊な体質らしくヴァンパイアの第一王子であるルイの花嫁としてここに迎えられた。ということらしいが正しくは攫われた、だと思う。突然そんな状況に置かれて混乱するより先に花嫁という立場を意識できる人間はいるのだろうか。
「私が気絶して、どのぐらい経ったの?」
「2時間ぐらいか。馬鹿が。もう夜は明けている」
つまり今は朝ということか。そうなると彼らヴァンパイアには辛い時間帯になってくる。一般的なイメージに反して十字架もにんにくも平気な彼らだが太陽だけはどうも相性が悪いらしい。
「ルイ、朝なのに平気なの?」
「オレほどの力があれば多少は大丈夫だ」
ここにいる限り、私の立場は「花嫁」なんだ。元の場所に戻っても、ヴァンパイアの狂気から守られる「黄金律」の少女だ。さて、どちらのほうがいいのやら。ここにいて日常的に吸血行為をされるくらいなら不本意ながらも守られる立場にいたほうがいいのかもしれないとも思えてきた。
「月夜達はここには来ないぞ」
ルイは私の考えていることを読みとったかのように言う。月夜、というのはヴァンパイアを狩るハンターの一人だ。彼らが私を守ってくれていた。ルイに誘拐されるまでは。
「ここはヴァンパイアしか入れない特殊な空間なんだ。あいつらは人間だろう?」
「じゃぁ、なんで私はここにいるの?」
「花嫁だから。それで充分な理由だろ」
その言葉が刺すのは「黄金律」だから――。そこまでにこの体は特殊なんだろうか。そんなにも人とかけ離れた能力が潜在しているのだろうか。
「そんなことよりも――食事を取らせろ」
つまりは吸血。彼にとっては私は花嫁というよりかは「食べ物」なんだろう。断ったらばどうなるだろう。殴られる? 無理矢理にでも血を吸われるだろうか? どちらにしても私によい方向には行きそうにない。もちろん吸血行為を承諾した場合もだ。
「嫌ならばいい」
長い私の沈黙にルイは乱暴に言い放った。
「え?」
その発言は予期せぬもので、でも私にとっては最良の状況だった。
「その代わり、しばらく動くなよ?」
言葉と共に、返事を聞くことはせずにルイは私との距離を縮める。首に当たる牙の感触に体が硬くなる。
「今、嫌ならいいって……」
「言った。だから、血は吸わない」
じゃぁ何する気だ! などというような気丈な性格は持ち合わせていない。それ以上のルイからの説明も期待できない。この状況は最良とは真逆の状態だ。素直に吸血されていたほうがよかったかもしれない。
首を這うざらりとした感触。時折軽くたてられる牙。
「花嫁は食いもんとしてつれてきたわけじゃない」
低く呟かれた声。私が「食べ物」でないのならば何なんだろう。必要最低限の説明すらもすっ飛ばす彼に聞いても答えは来ないだろう。でも、何故だか知りたくてたまらない。私に「食べ物」や「黄金律」として以外の意味を持ってここにいるのならば、そんな事思ってしまう。
私らしくない。何に対しても無感動で、無関心でいればいいんだ。触らぬ神に祟りなし。関わらなければ被害はない。知らなければ悲しまずにすむことも多いはずなのに。感情を捨てた私に、何かを知りたいと思う日がまた来るとはないはずだけれど、また、人間らしい感情を持つことができるのだろうか。
とりあえずは、彼の傍に「食べ物」としていて見るのもまた一興。助けが来たらばそれはそれ、だ。彼の牙跡は、じわじわと私の心に刻まれていく。