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三十路OL、今日も心の中で百人一首。

作者: さざ波和音
掲載日:2026/11/03

 序章 わたくし、三十歳。恋も仕事も崖っぷち?


 東京都内某所。


 大手でもなく、零細でもない、何とも中途半端な規模の会社に勤める女性がいた。


 名前は、花村(はなむら) 美咲(みさき)。


 三十歳。独身。会社員。営業事務。


 趣味はカフェ巡り、ネットショッピング、休日の二度寝。


 特技は、上司の理不尽な発言を笑顔で聞き流し、帰宅後にその怒りを和歌に変換すること。


 彼女には秘密があった。


 それは、日々の不満をすべて和歌にして日記に書き残すことだった。


 日記の表紙には、こう書いてある。


『令和女流・怒りの百首』


 本人いわく、


「人生は短い。怒っている時間もったいない。でも、怒りは記録しておきたい。できれば五・七・五・七・七で美しく!」


 そんな彼女の一日が、今日も始まる。


 第一章 月曜日の朝は、だいたい敵である


 午前六時三十分。


 スマートフォンのアラームが鳴った。


 ピピピピッ!


 美咲は布団の中で目を開けた。


「……あと五分」


 五分後。


 ピピピピッ!


「……あと三分」


 三分後。


 ピピピピッ!


「……人類はなぜ、月曜日を発明したのだろう」


 結局、起床したのは七時二十分。


 朝食は食パン一枚。化粧は五分。髪は適当にまとめ、駅まで全力疾走。


 駅に到着した瞬間、目の前で電車のドアが閉まった。


 美咲はホームに立ち尽くした。


 そして、手帳を取り出す。


 本日の和歌・その一


 月曜日

 布団の魔力に

 勝てぬ朝

 遅刻の恐怖と

 走る三十路よ


「うん。なかなかの名作」


 自分を褒めることも忘れない。


 次の電車は八分後だった。


 第二章 上司よ、あなたの記憶はどこへ行く


 午前九時。


 会社に到着。


 課長の田中(五十二歳)が、すでに眉間にしわを寄せていた。


「花村さん、先週お願いした資料、できてる?」


「はい。金曜日にメールでお送りしました」


「え? 見てないなあ」


「件名は『月次売上報告書・最終版』です」


「うーん、メール多いからなあ」


 美咲は笑顔を保った。


 心の中では、般若が太鼓を叩いていた。


 さらに課長は続ける。


「あと、これ今日中にお願いね」


「こちら、今日中ですか?」


「うん。簡単なやつだから」


 課長の言う簡単な仕事は、なぜか三時間かかる。


 美咲は静かにパソコンのメモ帳を開いた。


 本日の和歌・その二


 上司殿

 簡単と言うた

 その仕事

 やれば三時間

 言うのは三秒


「素晴らしい。これは後世に残すべき」


 もちろん、課長には見せない。


 見せたら、翌日から社内で有名人になってしまう。


 第三章 昼休み、コンビニ弁当に人生を問う


 正午。


 美咲は近くのコンビニへ向かった。


 お弁当売り場には、唐揚げ弁当が一つ残っていた。


「やった!」


 手を伸ばした瞬間、横から男性社員が現れた。


「あ、それ僕買います」


 ひょい。


 最後の唐揚げ弁当は消えた。


 美咲は呆然とした。


「……人間には譲り合いという文化があるのでは?」


 仕方なく鮭弁当を購入。


 会社に戻り、電子レンジで温めた。


 ところが、温めすぎて鮭が熱々。


 口の中を軽くやけどした。


「もう、今日は何なのよ!」


 それでも、彼女は箸を置き、日記帳を開いた。


 本日の和歌・その三


 唐揚げを

 取られて鮭を

 食べる昼

 人生だいたい

 思うようにならず


 さらに一首。


 熱すぎる

 鮭に涙の

 昼休み

 恋も仕事も

 冷める暇なし


 美咲は満足そうにうなずいた。


「うん。文学って、こういうところから生まれるのね」


 第四章 午後三時、甘い誘惑には勝てない


 午後三時。


 眠気が襲ってきた。


 パソコンの画面には数字が並び、課長の声が遠くで響いている。


「花村さん、ちょっといい?」


(ちょっと、という言葉ほど信用できないものはない)


「はい!」


「この数字、昨日と違うんだけど」


「昨日の資料は課長のご指示で修正しました」


「ああ、そうだったっけ?」


(そうだったっけ、じゃありません!)


 美咲は給湯室に逃げ込んだ。


 自動販売機でカフェラテを購入。


 一口飲む。


「生き返る……」


 そして、また一首。


 本日の和歌・その四


 午後三時

 眠気と上司と

 にらめっこ

 勝てる気がせぬ

 カフェラテ頼み


 彼女は思った。


「会社には、給料と休憩と甘いものが必要よ。あと、まともな上司も」


 最後の一つは、少々贅沢な願いだった。


 第五章 恋愛アプリは、現代の歌垣か


 午後七時。


 ようやく退社。


 帰宅後、夕食を済ませた美咲は、スマートフォンで恋愛アプリを開いた。


 三十歳。


 周囲の友人たちは結婚し、出産し、住宅ローンの話をするようになった。


 一方、美咲の恋愛事情はというと、昨年のクリスマス以来、ほぼ冬眠状態だった。


 アプリで一人の男性とマッチングした。


 プロフィールには、


「趣味:旅行、映画、カフェ巡り。真剣な出会いを希望」


 と書いてある。


 美咲はメッセージを送った。


『こんばんは!旅行がお好きなんですね。最近どこか行かれましたか?』


 三時間後。


 返信が来た。


『今、何してる?』


 美咲は画面を見つめた。


「……会話のキャッチボールって知ってる?」


 さらに男性からメッセージ。


『写真もっと見せて』


 美咲はそっとアプリを閉じた。


 そして日記帳を開く。


 本日の和歌・その五


 恋したい

 されど会話が

 続かない

 写真を求める

 その前に話せ


 もう一首。


 三十路でも

 恋の季節は

 まだ来るか

 アプリの画面に

 春風は吹く


「よし。明日も生きよう」


 第六章 美容と健康、そして財布の危機


 火曜日。


 美咲は美容院に行った。


 美容師さんが尋ねる。


「今日はどうされますか?」


「少し若く見える感じでお願いします」


「かしこまりました!」


 一時間後。


 鏡の中には、前髪を少し短くした自分がいた。


 美咲は思った。


(若くなったというより、昨日の自分とほぼ同じ……)


 お会計、十二千円。


 いや、正確には十二千円ではなく、一万二千円。


 帰り道、財布の中身を確認する。


「今月、まだ二十日もあるのに……」


 帰宅後、また和歌。


 本日の和歌・その六


 美容院

 若さを求め

 席に座る

 帰りに軽く

 財布が老ける


 さらに、


 美しく

 なりたい願い

 いくらでも

 お金を食べる

 美容の神よ


 美咲は自分の財布に向かって手を合わせた。


「どうか今月も生き延びてください」


 第七章 水曜日、会社に現れた救世主


 水曜日。


 会社に新しい男性社員が入ってきた。


 名前は佐藤悠人(さとう ゆうと)。


 三十二歳。営業部。穏やかな性格で、笑顔が爽やか。


 しかも、挨拶が丁寧だった。


「花村さん、よろしくお願いします」


「こちらこそ、よろしくお願いします」


 美咲は久しぶりに、心の中で小さな花火を打ち上げた。


 その日の午後、佐藤が美咲の席に来た。


「この資料、助かりました。ありがとうございます」


「いえいえ!」


「花村さんって、いつも仕事が丁寧ですね」


 その瞬間、美咲の脳内に桜が咲いた。


(え? 褒められた? 私、褒められたの?)


 帰宅後、彼女は日記帳を開いた。


 本日の和歌・その七


 ありがとう

 その一言で

 花が咲く

 今日の私には

 春が来たよう


 さらに一首。


 目が合えば

 なぜか笑顔に

 なってしまう

 仕事の資料も

 恋の予感か


 美咲は枕を抱きしめた。


「いやいやいや、まだ早い。まだ何も始まっていない!」


 しかし、口元は笑っていた。


 第八章 金曜日、ついに怒りが爆発する


 金曜日。


 課長が突然言った。


「花村さん、来週の月曜日、休日出勤できる?」


 美咲は固まった。


「月曜日は祝日ですが……」


「そうなんだけど、ちょっと資料をまとめたくてね」


「その日は予定がありまして」


「予定って何?」


 美咲は一瞬考えた。


 本当は、家で一日中寝る予定だった。


 しかし、それは立派な予定である。


「私用です」


「そっか。まあ、考えといて」


 課長は去っていった。


 美咲は静かに深呼吸した。


 そして、日記帳を開いた。


 本日の和歌・その八


 祝日を

 休む権利は

 どこにある

 布団と私の

 大事な約束


 さらに、渾身の一首。


 働けと

 言うならまずは

 休ませて

 人の心に

 定休日なし


「これは傑作だわ……」


 彼女は自分の才能に少し感動した。


 第九章 日曜日、三十歳の小さな幸せ


 日曜日。


 美咲は昼まで眠った。


 目覚めると、窓から柔らかな日差しが差し込んでいた。


 洗濯をして、掃除をして、近所のカフェへ出かけた。


 お気に入りのケーキと紅茶を注文する。


 スマートフォンを見ると、佐藤からメッセージが届いていた。


『花村さん、今度よかったらランチでも行きませんか?』


 美咲は紅茶を吹き出しそうになった。


「えっ……!」


 何度も読み返す。


 間違いではない。


 彼からのランチのお誘いだった。


 美咲は慎重に返信した。


『ぜひ!楽しみにしています』


 送信。


 その後、彼女はしばらく窓の外を眺めていた。


 小さな公園では、子供たちが楽しそうに走っている。


 風が吹き、街路樹の葉が揺れた。


 何だか、今までの不満が少しだけ小さくなった気がした。


 そして、いつもの日記帳を開いた。


 本日の和歌・その九


 三十路とは

 終わりじゃなくて

 始まりよ

 昨日より今日

 今日より明日へ


 もう一首。


 泣いた日も

 笑った日にも

 意味がある

 私の人生

 私が主役



 終章 令和女流歌人、明日も出勤


 月曜日の朝。


 美咲は目覚まし時計を止めた。


「あと五分……」


 しかし、今日は違った。


 彼女はすぐに起き上がった。


 窓を開けると、気持ちのいい風が吹き込んできた。


 顔を洗い、朝食を食べ、化粧をして、いつもより少し早く家を出た。


 会社に着くと、課長が言った。


「花村さん、例の資料だけど」


「はい。こちらです」


「おお、ありがとう」


 美咲は笑顔で答えた。


「どういたしまして」


 心の中では、もう一首できあがっていた。


 今日もまた

 上司の言葉に

 耳を貸す

 給料日まで

 笑顔で耐えよ


 そして昼休み。


 佐藤からメッセージが届いた。


『今週の土曜日、楽しみにしています』


 美咲はスマートフォンを胸に抱いた。


「うふふ……」


 隣の席の同僚が尋ねた。


「花村さん、何かいいことあった?」


「いえ、別に!」


 顔は真っ赤だった。


 その夜。


 美咲は日記帳の最後のページに、今日の和歌を書き込んだ。


 世の中は

 不満ばかりと

 思えども

 笑える明日が

 待っているかも


 そして、その下に大きく書いた。


『三十歳。まだまだ人生、これからである。』


 さらにページの隅に、小さく付け加えた。


「ただし、月曜日は嫌い。」



 おまけ 美咲の「令和女流・怒りの百首」より


 お題     美咲の一句ならぬ一首

 給料日    給料日 振り込まれたら 夢を見る 家賃とカードが すぐに持ち去る

 残業    残業の 終わりが見えぬ 午後八時 私の人生 誰か定時に

 ダイエット   痩せたいと 誓った夜に ケーキ買う 明日から本気 何度目の春

 SNS     友の旅 高級ホテル 海外へ 私は布団で 世界を巡る

 洗濯     洗濯を したその直後 雨が降る 天気予報よ なぜ教えぬ

 ボーナス   ボーナスよ 来たと思えば 去ってゆく 私の財布に 春はいつ来る

 美容     しわひとつ 見つけて鏡に 問いかける あなたも一緒に 歳を重ねた

 人生     まあいいか そう言える日が 増えてゆく それも大人の 知恵というもの


 おしまい。


 ……と思ったら、翌朝。


 美咲の日記帳に新しい一首が加わった。


 目覚ましを

 五つもかけて

 寝過ごした

 私の本気は

 どこで寝ている


 令和の女流歌人・花村美咲。


 今日も元気に、会社へ向かうのであった。


 完



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