最良の資産
エヌ氏は投資家だった。それも、なかなかの資産家だった。
ある日、彼が端末の画面をチェックすると、総資産の数字が前日の正確に二倍になっていた。調べると、海の向こうの政治家が発表した奇妙な新政策のせいで、エヌ氏の保有する銘柄に爆発的な買いが殺到したためだとわかった。
そこへ、お抱えのファイナンシャルプランナーがやってきて、興奮気味に言った。
「エヌ氏、大変なチャンスです! この倍になった資産を元手に、さらに大がかりな運用を始めましょう。時代の波に乗り、もっと数字を動かすのです!」
しかし、エヌ氏は冷ややかに首を振った。
「いや、断る。こんなものはただの数字の暴れ馬だ。明日には半額、いやゼロになるかもしれない。投資において最も重要なのは、利益をいかに早く、完璧に『固定化』するかだ。私は固定化の信奉者なのだよ」
「固定化、ですか?」
エヌ氏は強く頷いた。
「そうだ。国家も法律も、電子の数字も、人間の都合で常に流動している。私はそんな不確かなものに命を預けたくない。だが『金』だけは別格だ。人類の歴史が始まって以来、数千年にわたり、いかなる国家の崩壊や天変地異が起きようとも、この山吹色の輝きだけは常に絶対的な価値であり続けた。これこそが真の富の証明であり、完璧な固定化だ」
専門家はエヌ氏の異常なまでの哲学に圧倒され、引き下がった。
一人になったエヌ氏は、すぐに実務に取りかかった。彼はすべての資産を売却して現金化すると、その莫大な資金を使い、本物の金を市場から買えるだけ買い占めた。
彼はそれを、自宅の頑丈な地下倉庫へとすべて運び込ませた。
厳重にロックされた扉の向こうを見つめ、エヌ氏は満足げに微笑んだ。
「これでいい。この重み、この輝き。私の利益は完璧に、ピクリとも動かない状態に固定化された。もう明日の相場に怯える必要もない」
エヌ氏はその夜、久しぶりに枕を高くして熟睡した。
翌朝、枕元のラジオから流れてきた緊急ニュースの音声で、エヌ氏は目を覚ました。
『――科学界からの歴史的な大ニュースです。かねてより研究されていた次世代エネルギー「核融合」の完全な実用化に、本日、国際研究チームが成功しました。これにより世界のエネルギーコストは事実上ゼロとなります』
ベッドの中のエヌ氏は、「ふん、エネルギー株を買っていなくて正解だったな」と他人事のように呟いた。しかし、アナウンサーの次の言葉に、全身の血の気が引いた。
『――さらに、この超高エネルギーにより、かつての「錬金術」が実現しました。原子配列が金と酷似した安価な鉛を組み替え、極めて低コストで大量合成する技術が確立されたのです。これにより金は電子基板の材料として潤沢に供給され、スマートフォンなどの家電も一気に値下がりしそうですね。私たちの生活がますます便利になる、実に耳寄りなニュースでした! ――では、次はお天気です……』
エヌ氏は言葉を失ったまま、這いずるようにして端末へと向かった。引きつった指で、すべての金を売り払うコマンドを入力する。
しかし、画面には真っ赤な警告灯が点滅するばかりだった。世界中の投資家が一斉に同じ行動に出たため、市場は一瞬で大パニックに陥っていた。画面に表示されているのは、残酷な四文字だった。
――『取引停止(買い手不在)』
価格が暴落したのではない。買い手が一人もいないため、1グラムたりとも売ることができないのだ。市場は完全に凍結していた。
エヌ氏は呆然自失のまま、裸足で地下倉庫へと走った。
重い扉を開けると、そこには昨日と変わらぬ、まばゆい山吹色の山が、静かに佇んでいた。
人間の都合などどこ吹く風で、変わらぬ輝きを放つその塊は、エヌ氏の望み通り、もう二度と現金にも数字にも変えられない資産として、完璧に、そして永遠に固定化されていた。




