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針を抜く

作者: 宮山悠
掲載日:2026/05/07

これは心の中に刺さった幻想を抜く物語です。

十五歳の頃から、好きなアーティストがいた。

プレイリストは彼の曲で埋め尽くされ、出演したバラエティも、ステージも、インタビューも全部見た。アルバムもすべて買った。


ただ、一度もライブには行かなかった。行けなかった。ライブに行ってしまえば、何万人もの人が、私と同じように彼を愛していることを知ってしまう。その瞬間、彼はもう「私だけの人」ではなくなる気がした。


誰にも、彼を好きだと言ったことはなかった胸の奥の、いちばん深い場所にしまっておきたかった。


恋愛もしたことがない。告白されても、何も感じなかった。いつか私は彼に出会って、彼と一緒になる。そんなことを、本気で人生の目標にしていた。だから周囲には、恋愛に興味がない人間だと思われていた。


彼の性格も、歌も、いつも暗い人生を照らしてくれた。彼は、私が生きている理由そのものだった。十一年間、私の人生の中心にいた。その間に私は高校を卒業し、大学へ進み、ファッションデザイナーになった。


特別やりたいことがあったわけじゃない。ただ、その仕事なら彼に近づける気がした。いつか彼の衣装を作りたい。大勢の前で、彼に私の服を着てほしい。私という存在を知ってほしい。そのためだけに、何着もの服を作った。


彼の曲を聴きながら、布を裁ち、針を動かした。彼の声や旋律が、そのまま私の創作の源になっていた。少しずつ評価もされ始めていた。あと少し頑張れば、届くかもしれない。そう思っていた。けれど、ある日を境に、すべてが変わった。



金曜の夜だった。彼がSNSに投稿した。


婚約しました。

四年前に、大切な人と出会いました。これから先の人生を、彼女と歩いていきたいと思います。


私はしばらく、画面の文字を理解できなかった。薄暗い部屋の中で、スマホの光だけが白く浮いていた。

婚約、大切な人、歩いていく。

その一文字ずつが、ゆっくり胸に落ちてくる。そして突然、足元の地面が抜けたみたいに、身体の内側が落ちていった。息ができなかった。


彼の名前はすぐにトレンドに上がった。

祝福の言葉で溢れていた。

その一方で、「もうファンやめる」「彼女、釣り合ってない」など、そんな声も流れていた。


彼はずっと、完璧に隠していた。そのことが、どうしようもなく苦しかった。少しでも気づける隙があればよかったのに。そうしたら、もっと早く諦められたのに。


その夜、私はベッドの端に座ったまま、一曲ずつプレイリストを消していった。削除ボタンを押すたび、部屋が静かになっていく。怖いほどに静かだった。私の生活には、こんなにも彼の声が溶け込んでいたのだと、そのとき初めて知った。写真も消した。途中で指が止まった。画面の中で、彼が笑っていた。しばらく見つめて、それから消した。何かを、自分の手で埋葬しているみたいだった。


それから私は外へ出なくなった。会社も一週間休んだ。食欲はなく、水だけで生きていた。彼の曲も、映像も、記事も、一切見なくなった。


久しぶりに職場へ戻った日、私は針に糸を通せなかった。何度やっても、指が震えた。以前なら布を見ただけで、「これは彼に似合う」と自然にイメージが浮かんだのに、何も思い浮かばなかった。空っぽだった。創作の源ごと、失ってしまったみたいに。

結局、私は仕事を辞めた。彼を憎んだからじゃない。ただ気づいてしまったのだ。この十一年、私の人生設計は、すべて彼を中心に回っていたのだと。彼が私の服を必要としないなら、私は何を目指して生きればいいのかわからなかった。


このまま死んでしまってもいい。本気でそう思った。


スマホを見るのも嫌で、何日も放置していた。家族や友人から、心配するメッセージが大量に届いていた。でも返す気力がなかった。身体は重く、視線はただ天井を見つめていた。


しばらくして、友人が家に来た。

勝手に冷蔵庫を開け、買ってきた食材で料理を作り始めた。食事を並べ終えると、私の隣に座って言った。

「で、何があったの」

私は仕事を辞めたことを話した。そして、失恋についても。友人は目を丸くした。

「え、失恋?好きな人いたの?全然知らなかった」

少し笑ってから、言った。

「それ、外に出さないと消えないと思う」

彼女はテーブルを指で軽く叩いた。

「書いてみたら?ちゃんと形にできる人でしょ」

「でもそんなの書いたことない」

そう言うと、彼女はあっさり返した。

「じゃあ今、書きなよ。痛くなくなるまで」


夜、私はノートを開いた。最初の一行を書こうとして、ペンが止まった。

『好きだった』

たったそれだけの言葉が、どうしても書けなかった。書いてしまえば、本当に終わってしまう気がした。

それでも無理やり書き始めた。震える字で、何度も消しては書き直した。一行書くたびに記憶が鮮明に蘇り、胸が抉られるように痛んだ。書けば楽になると思っていたのに、むしろ痛みは増していく。夜が明ける頃、ノートは数ページ埋まっていたが、心は前より重くなっていた。


その日から、私は書いては崩れる、を繰り返した。ペンを投げ出して何度もやめようと思った。でもやめると、今度は自分が空っぽで耐えられなかった。文字を並べるのは、針で布を縫うのと同じだった。一針一針、ためらいながら進める。ほどいては縫い、縫ってはほどく。

一ヶ月かけて書き終えたものを、私はサイトに投稿した。誰かに、あの青春を受け止めてほしかったのかもしれない。



貯金も少なく、仕事も辞めていた私は、喫茶店でアルバイトを始めた。

毎日たくさんの客が出入りする中で、一人の男性が目につくようになった。いつもアメリカーノを頼む人だった。窓際の席で、本を読んだり、紙の束に目を通したりしている。口数は少ない。店員に話しかけられても、少し間を置いてから、返事をする。でも、不思議と安心する人だった。倒れた傘立てを黙って直したり、忙しそうにしていると空いたカップを重ねてくれたりする。雨の日には、閉め忘れられた窓をそっと閉めて帰る。目立たない優しさを持った人だった。そしていつも、ひとりだった。誰かと待ち合わせる姿も、電話をしている姿も見たことがない。閉店間際まで残り、ただ窓の外を眺めていることがあった。どこへ帰ればいいのかわからない人みたいに見えた。


ある日、メールが届いた。

小説を出版しませんか、という連絡だった。

驚きで手が震えた。指定された日に打ち合わせへ向かい、会議室の扉を開けた瞬間、私は立ち尽くした。

編集長の席に座っていたのは、あの喫茶店の男性だった。彼は立ち上がった。

少しだけ気まずそうに沈黙してから、手を差し出した。

「……また会いましたね。今度は、ちゃんと自己紹介を」


彼と一緒に原稿を直し、装丁を考え、本を出版した。

その一年は、私にとって色づいていく時間だった。

最初は純粋に仕事の話だけだった。週に一度、編集部で原稿を直す。細かい言葉の選び方、情景の描写、感情の落としどころ。彼は私の文章を、まるで自分のもののように丁寧に扱ってくれた。時には「もう少し、息を吐く余白を残しましょう」と指摘し、時には「ここは漢字よりもひらがなの方がいいのでは」と提案した。


打ち合わせが終わったあと、自然と喫茶店に移動するようになった。彼はいつもアメリカーノ、私は紅茶。最初は仕事の延長だった会話が、だんだん私たちのことに変わっていった。彼の知らない世界の話、私の学生時代、好きな小説、子供の頃の思い出、苦手な食べ物、雨の日の過ごし方。少しずつ、少しずつ。


彼は本当に不器用だった。面白い話をしても、笑う代わりに小さく咳払いをする。並んで歩いていると、急に一歩距離を空けたりする。手を繋ぐどころか、肩が触れるのも避けているように見えた。


ある雨の夜、私は勇気を出して訊いた。

「人付き合い、苦手ですか?」

彼は少し黙ってから、ぼそりと言った。

「昔、壁みたいな人間だって言われたことがあります」

その言い方が、まるで何度も自分に言い聞かせてきたような、慣れた諦めを含んでいて、私は胸が痛くなった。きっと彼も、誰かに傷つけられた経験があるのだと思った。


出版されると、予想以上に反響があった。読者からの手紙やSNSのメッセージが毎日届いた。

「読んで泣いた」「自分の青春を思い出して胸が苦しくなった」——特に、長年誰にも言えなかった片想いを抱えていた人たちからの反応が多かった。「あなたは一人じゃなかった」と、たくさんの人が私の痛みをそっと受け止めてくれているようだった。

書くことで自分の傷が少しずつ薄れていくのを感じた。針を抜いた穴が、完全に塞がるわけではないけれど、誰かに見せても大丈夫なくらいには縫い合わされていくような気がした。


出版されてから一ヶ月後、彼は言った

「もしよければ、恋人になってもらえませんか」

いつものように、まるで申請書を提出するような、真面目で少し硬い言い方だった。けれどその目は、はっきりと不安と期待を湛えていた。私は笑ってしまった。自然と頰が緩むのが自分でもわかった。

「はい。お願いします」

その瞬間、胸のどこかで、十一年前の自分が小さく息を飲むのが聞こえた気がした。でも、私はもう、そちらを振り向かなかった。


恋人になってからも、私たちのペースはゆっくりだった。

映画を観に行っても、手を繋ぐまでに三十分はかかった。初めてキスをしたのは、付き合ってから二ヶ月が過ぎた頃。どちらからともなく、ぎこちなく、照れくさそうに。激しい情熱はなかったけれど、その代わりに、安心が日々積み重なっていった。

私は彼の隣にいると、初めて「失うかもしれない」という恐怖を感じずに済んだ。あのアーティストのことを思い出すたびに胸がざわついていた日々とは、まるで違う穏やかさだった。


やがて季節が巡り、再び冬が深まった頃、彼はプロポーズをした。シンプルな指輪と、いつものように少し緊張した声で。私は頷きながら、涙が溢れるのを止められなかった。嬉しいというより、胸の奥がじんわりと温かくなるような、安堵の涙だった。

彼は、あのアーティストみたいに私の胸を激しく揺らす人ではなかった。ただ、一緒にいるだけで、心が静かに満たされていく人だった。



出版から一年後、小説の映像化が決まった。

打ち合わせの日、私は制作陣や俳優たちと顔を合わせた。そして、主題歌担当として現れた人を見て、息を呑んだ。

あの人だった。十一年間、画面越しにしか見たことのなかった人。

もう平気だと思っていた。でも実際に姿を見た瞬間、胸が苦しくなるほど、ときめいてしまった。


彼がこちらへ歩いてきた。

「はじめまして」

よく通る声。画面越しに何万回も聞いた声が、現実の空気を震わせて私の鼓膜に届いた。

私は一瞬、息が止まった。彼は穏やかに微笑みながら続けた。

「小説、読みました。……すごく痛かったです。 実は僕も、長い片想いをしていたことがあるので」

私は何か言おうとして、でも言葉が出てこなかった。代わりに、熱いものが一気に目の奥に込み上げてきた。彼は少し驚いた顔をして、ティッシュを差し出した。

「大丈夫ですか」

私は頷きながら、ティッシュを受け取った。指先が震えていた。


「……はじめまして」

ようやく、それだけを返した。

全然、はじめましてじゃないのに。目の前にいる彼は、十一年間、私の心の中心にいた人だった。声も、仕草も、微笑み方も、記憶の中のままだった。時間が止まっていたみたいに。胸の奥が、針で抉られるように痛んだ。吐き気すらするほどの、甘くて苦い疼きが一瞬で蘇った。


まだ、好きなんだ……


その事実に、私は自分自身に驚いた。夫の顔が、穏やかな毎日の記憶が、一瞬で遠のいた。十一年前の私が、狂ったように蘇って、私の喉を掻き毟ろうとしているみたいだった。でも、同時にはっきりと思った。もう、私はあの頃の私じゃない。あの頃の私は、彼のすべてを欲しがっていた。今の私は、彼の「全部」はいらない。ただ、こうして少しの時間、言葉を交わせただけで十分だった。痛いけれど、懐かしくて、切なくて、それでも私は今、彼の人生の外側に立っている。


私は深く息を吸って、ゆっくり吐いた。

「大丈夫です。ただ……ようやく、あの頃の自分を、誰かに受け取ってもらえた気がして」

彼はそれを聞いて、柔らかく微笑んだ。

「作品、たくさんの人に届くといいですね」

「そうですね。ありがとうございます」

それだけ言って、彼は去っていった。

その背中を見送りながら、私は胸の内で呟いた。


あなたは、私の世界そのものだった。

もしもっと早く生まれていたら、もしもっと努力していたら、違う人生線のどこかで私たちは出会えていたのだろうか。そんなことを、何度も考えた。

でも、あなたを好きになったからこそ、私は現実を知った。そして、本当に人生を共に歩いてくれる人を、見落とさずに済んだ。

あなたはきっと、一生知らないままだろう。ひとりの女の子の人生を、どれほど変えたのか。

どうか幸せでいてほしい。あなたが弱くなった夜に、隣にいる人を大切にしてほしい。

私の好きは、あなたとは関係なく始まった。私のさよならも、あなたとは関係なく終わる。

ありがとう。この秘密は、胸の奥にしまっておく。

あなたは私の心に刺さった一本の針だった。刺さっている間は、痛みにも気づかなかった。けれど抜けたあとそこから、青春がまるごと零れ落ちた。 



そのとき、スマホが震えた。

『終わった?下で待ってる』

夫からだった。画面に表示された名前を見る。もう、彼の名前ではない。私が帰っていく人の名前だった。


スマホを閉じ、私はエレベーターへ向かった。

一階へ降りると、午後の陽射しがロビーいっぱいに差し込んでいた。夫が両手にアメリカーノを持って立っている。私を見ると、少し笑って言った。

「夕飯何がいい?」

「んー、ハンバーガーかな」

「じゃあ買いに行こっか」


そのとき、夫のシャツの第三ボタンが、取れかけているのに気づいた。あとで縫おう。そう思いながら、私は彼の隣に歩いていく。


針は、まだ心のどこかに残っている。

でももう、痛みは思い出せない。

ただ、青春は長く、あの光だけが今も眩しい。

——そうして私は今、抜いたはずの針で、誰かのボタンを縫っている。



ーーー

「失ったと思っていたものが、実は自分の一部になっていた」ということを書きたくて生まれました。

心に深く刺さった針は、痛みとともに幻想を育て、時に人生の原動力にもなります。しかし、いつかそれを抜かなければ、新しい布を縫うことはできません。

読んでくださった皆様の心にも、まだ抜けていない針が一つや二つあるかもしれません。

その針が、いつか痛みではなく、懐かしい光に変わりますように。


最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます。

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