交換日記
それは、引っ越して三日目の夜だった。
新しい部屋は静かだった。
駅から少し離れていて、窓の外には街灯と空き地しかない。
家具もまだ揃っていない。
段ボールが壁際に積まれている。
僕はその上に腰掛けて、コンビニで買った弁当を食べていた。
そのとき、気づいた。
机の上に、ノートがある。
見覚えがない。
薄い大学ノート。
青い表紙。
端が少し折れている。
前の住人の忘れ物だろうか。
僕は弁当を置いて、ノートを手に取った。
軽い。
表紙を開く。
最初のページに、文字があった。
『はじめまして』
僕は一瞬、息を止めた。
今日の日付が書いてある。
そして、その下に文章。
『あなたは今、この部屋に引っ越してきたばかりですね』
背中に冷たいものが走る。
誰かのいたずら?
でも日付は今日だ。
しかも、インクがまだ新しいみたいに濃い。
僕は次の行を読む。
『夜、コンビニ弁当を食べています』
思わず振り向く。
部屋には僕しかいない。
窓の外も暗いだけ。
心臓が速くなる。
『驚かせてごめんなさい』
僕はノートを閉じかけた。
でも、閉じられなかった。
ページをめくる。
『これは交換日記です』
交換日記。
誰と?
次の行。
『あなたと、私の』
喉が乾く。
僕はノートを机に置いた。
しばらく見つめる。
何かの仕掛けかもしれない。
監視カメラとか。
ドッキリとか。
でも。
この部屋は、今日鍵を受け取ったばかりだ。
管理会社の立ち会いもあった。
誰かが入る隙はない。
僕はノートに手を伸ばした。
最後の行。
『次のページに、あなたの言葉を書いてください』
ペンが挟まっている。
普通のボールペン。
僕はしばらく迷った。
でも、好奇心が勝った。
ノートをめくる。
真っ白なページ。
僕はペンを取った。
そして書いた。
「誰ですか?」
書いた瞬間、インクが乾く前に、
文字が浮かび上がった。
『こんばんは』
僕はペンを落とした。
ガタン、と音が響く。
呼吸が浅くなる。
ノートの文字は増えていく。
『やっと気づいてくれましたね』
手が震える。
ページに触れる。
紙は普通だ。
凹凸もない。
でも確かに、今ここで文字が現れている。
僕は必死に書いた。
「あなたは誰?」
数秒。
返事が出る。
『この部屋にいる人です』
背筋が凍る。
いる?
どこに?
僕は立ち上がる。
クローゼットを開ける。
浴室を見る。
誰もいない。
部屋は空だ。
僕は戻る。
ノートに書く。
「どこにいる?」
すぐに文字。
『あなたの向かい側』
心臓が跳ねる。
机の向かいには、段ボールしかない。
僕はゆっくり視線を上げる。
何もない。
でも。
確かに「向かい」という位置に、空間がある。
誰かが座れる余白。
僕は喉を鳴らした。
「見えない」
少し間。
『そうでしょうね』
僕はページを睨む。
「どういうこと?」
インクが滲む。
『あなたも見えませんから』
意味がわからない。
僕は書く。
「見えてるよ、俺は」
数秒。
返事。
『見えていません』
空気が重くなる。
『あなたは、私からは見えません』
頭が白くなる。
僕は書く。
「何言ってる?」
文字。
『ここに住んでいるのは、私です』
胸が締めつけられる。
『三日前に引っ越してきました』
僕は凍る。
それは。
僕だ。
同じだ。
ノートが続ける。
『でも、あなたは見えない』
指先が冷たい。
『物にも触れていない』
僕は机に手をつく。
感触がある。
あるはずだ。
僕は書く。
「触れてる」
返事。
『触れていません』
『机の上にノートを置いています』
僕はノートを見る。
机の上だ。
そうだ。
でも。
『ペンも、ずっとここにあります』
僕の手にあるペン。
僕はそれを見る。
握っている。
確かに。
でも。
『あなたは、ただ座ってこちらを見ているだけです』
視界が揺れる。
僕は慌てて立ち上がる。
椅子が――
鳴らない。
動いた感触がない。
僕は机を押す。
動かない。
いや。
最初から、動いていない。
僕はノートに書こうとする。
手が震える。
ペン先が紙に触れる。
でも。
インクが出ない。
さっきまで書けていたのに。
ノートに文字が浮かぶ。
『ねえ』
僕は固まる。
『あなたは、誰ですか?』
頭の奥で、何かが崩れる。
僕は必死に思い出そうとする。
引っ越し。
契約。
鍵。
管理会社。
トラック。
荷物。
……荷物?
段ボール。
中身。
何を入れた?
何を運んだ?
僕は振り返る。
壁際の段ボール。
全部、閉じたまま。
開けた記憶がない。
弁当。
食べた。
はずだ。
机を見る。
弁当は、封も開いていない。
冷たいまま。
僕は息を止める。
ノートに文字。
『あなたはずっと』
『ここに座って』
『私を見ています』
世界が遠のく。
僕は自分の手を見る。
輪郭が、少し薄い。
透けている。
机の木目が、指の中に見える。
喉から音が出ない。
ノート。
『怖いです』
胸が裂ける。
『でも、話せてよかった』
視界が滲む。
『あなたが何かはわからないけど』
僕は理解する。
ゆっくりと。
決定的に。
この部屋に引っ越してきたのは、
僕じゃない。
彼女だ。
僕は、
ずっと前から、
ここにいる。
ノート。
『交換日記、続けてもいいですか?』
僕は答えようとする。
でも。
指は紙をすり抜ける。
声も出ない。
世界が薄くなる。
彼女の文字だけが、くっきり残る。
『見えないあなたへ』
『これからも、よろしくね』
ページが閉じられる。
暗闇。
そして僕は、
また、
向かいに座る。
何も触れられないまま、
彼女を見つめ続ける。
ここにいるのに、
いないまま。




