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五分で読める AI短編小説集

交換日記

作者: アイキカイ
掲載日:2026/02/20

 それは、引っ越して三日目の夜だった。

 新しい部屋は静かだった。

 駅から少し離れていて、窓の外には街灯と空き地しかない。

 家具もまだ揃っていない。

 段ボールが壁際に積まれている。

 僕はその上に腰掛けて、コンビニで買った弁当を食べていた。

 そのとき、気づいた。

 机の上に、ノートがある。

 見覚えがない。

 薄い大学ノート。

 青い表紙。

 端が少し折れている。

 前の住人の忘れ物だろうか。

 僕は弁当を置いて、ノートを手に取った。

 軽い。

 表紙を開く。

 最初のページに、文字があった。

『はじめまして』

 僕は一瞬、息を止めた。

 今日の日付が書いてある。

 そして、その下に文章。

『あなたは今、この部屋に引っ越してきたばかりですね』

 背中に冷たいものが走る。

 誰かのいたずら?

 でも日付は今日だ。

 しかも、インクがまだ新しいみたいに濃い。

 僕は次の行を読む。

『夜、コンビニ弁当を食べています』

 思わず振り向く。

 部屋には僕しかいない。

 窓の外も暗いだけ。

 心臓が速くなる。

『驚かせてごめんなさい』

 僕はノートを閉じかけた。

 でも、閉じられなかった。

 ページをめくる。

『これは交換日記です』

 交換日記。

 誰と?

 次の行。

『あなたと、私の』

 喉が乾く。

 僕はノートを机に置いた。

 しばらく見つめる。

 何かの仕掛けかもしれない。

 監視カメラとか。

 ドッキリとか。

 でも。

 この部屋は、今日鍵を受け取ったばかりだ。

 管理会社の立ち会いもあった。

 誰かが入る隙はない。

 僕はノートに手を伸ばした。

 最後の行。

『次のページに、あなたの言葉を書いてください』

 ペンが挟まっている。

 普通のボールペン。

 僕はしばらく迷った。

 でも、好奇心が勝った。

 ノートをめくる。

 真っ白なページ。

 僕はペンを取った。

 そして書いた。

「誰ですか?」

 書いた瞬間、インクが乾く前に、

 文字が浮かび上がった。

『こんばんは』

 僕はペンを落とした。

 ガタン、と音が響く。

 呼吸が浅くなる。

 ノートの文字は増えていく。

『やっと気づいてくれましたね』

 手が震える。

 ページに触れる。

 紙は普通だ。

 凹凸もない。

 でも確かに、今ここで文字が現れている。

 僕は必死に書いた。

「あなたは誰?」

 数秒。

 返事が出る。

『この部屋にいる人です』

 背筋が凍る。

 いる?

 どこに?

 僕は立ち上がる。

 クローゼットを開ける。

 浴室を見る。

 誰もいない。

 部屋は空だ。

 僕は戻る。

 ノートに書く。

「どこにいる?」

 すぐに文字。

『あなたの向かい側』

 心臓が跳ねる。

 机の向かいには、段ボールしかない。

 僕はゆっくり視線を上げる。

 何もない。

 でも。

 確かに「向かい」という位置に、空間がある。

 誰かが座れる余白。

 僕は喉を鳴らした。

「見えない」

 少し間。

『そうでしょうね』

 僕はページを睨む。

「どういうこと?」

 インクが滲む。

『あなたも見えませんから』

 意味がわからない。

 僕は書く。

「見えてるよ、俺は」

 数秒。

 返事。

『見えていません』

 空気が重くなる。

『あなたは、私からは見えません』

 頭が白くなる。

 僕は書く。

「何言ってる?」

 文字。

『ここに住んでいるのは、私です』

 胸が締めつけられる。

『三日前に引っ越してきました』

 僕は凍る。

 それは。

 僕だ。

 同じだ。

 ノートが続ける。

『でも、あなたは見えない』

 指先が冷たい。

『物にも触れていない』

 僕は机に手をつく。

 感触がある。

 あるはずだ。

 僕は書く。

「触れてる」

 返事。

『触れていません』

『机の上にノートを置いています』

 僕はノートを見る。

 机の上だ。

 そうだ。

 でも。

『ペンも、ずっとここにあります』

 僕の手にあるペン。

 僕はそれを見る。

 握っている。

 確かに。

 でも。

『あなたは、ただ座ってこちらを見ているだけです』

 視界が揺れる。

 僕は慌てて立ち上がる。

 椅子が――

 鳴らない。

 動いた感触がない。

 僕は机を押す。

 動かない。

 いや。

 最初から、動いていない。

 僕はノートに書こうとする。

 手が震える。

 ペン先が紙に触れる。

 でも。

 インクが出ない。

 さっきまで書けていたのに。

 ノートに文字が浮かぶ。

『ねえ』

 僕は固まる。

『あなたは、誰ですか?』

 頭の奥で、何かが崩れる。

 僕は必死に思い出そうとする。

 引っ越し。

 契約。

 鍵。

 管理会社。

 トラック。

 荷物。

 ……荷物?

 段ボール。

 中身。

 何を入れた?

 何を運んだ?

 僕は振り返る。

 壁際の段ボール。

 全部、閉じたまま。

 開けた記憶がない。

 弁当。

 食べた。

 はずだ。

 机を見る。

 弁当は、封も開いていない。

 冷たいまま。

 僕は息を止める。

 ノートに文字。

『あなたはずっと』

『ここに座って』

『私を見ています』

 世界が遠のく。

 僕は自分の手を見る。

 輪郭が、少し薄い。

 透けている。

 机の木目が、指の中に見える。

 喉から音が出ない。

 ノート。

『怖いです』

 胸が裂ける。

『でも、話せてよかった』

 視界が滲む。

『あなたが何かはわからないけど』

 僕は理解する。

 ゆっくりと。

 決定的に。

 この部屋に引っ越してきたのは、

 僕じゃない。

 彼女だ。

 僕は、

 ずっと前から、

 ここにいる。

 ノート。

『交換日記、続けてもいいですか?』

 僕は答えようとする。

 でも。

 指は紙をすり抜ける。

 声も出ない。

 世界が薄くなる。

 彼女の文字だけが、くっきり残る。

『見えないあなたへ』

『これからも、よろしくね』

 ページが閉じられる。

 暗闇。

 そして僕は、

 また、

 向かいに座る。

 何も触れられないまま、

 彼女を見つめ続ける。

 ここにいるのに、

 いないまま。

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