深く沈む
折り返しです、結構前の方で
深く沈む 田島圭吾
愛理が机に向かって裏紙に美香についての情報を書いている。彼女の頬には夕日が差し込み、雪のような肌は紅葉していった。
キャビネットの中からパスタを二束取り出し、鍋にお湯を入れる。お湯が沸騰するまで時間があるので、その間に私もベッドに座り同じような作業を行った。対象は専門学校時代の友人だ。
名前は伊草達也。二十歳で煙草をよく吸っていた仲間だ。銘柄は赤マルのソフト。出会い始めは思い出せない。ただ、授業中にくだらない話をよくしていた記憶がある。例えば、この学校で誰が一番かわいいかだとか、どの先生の講義が一番わかりやすいだとか。とはいえ、うちの学校にいる女子は数少なく、同じような外見をしているので結局話はゴールにたどり着かず、それどころかスタートラインにすら踏み出せないでいた。そういえば、最近学校を辞めたんだっけ。彼が学校を辞めてから会う頻度は少なくなったけれど、駅から少し離れた風俗街を歩くとボーイとして呼び込みに興じる姿を何度か見かけたことがある。彼と学校外で遊びに行ったことは、あまりない。唯一、他の友人三人と花火を見に行ったことぐらいだろう。その帰りに達也は飲みすぎで路上に吐瀉物をまき散らしていた。今思えば、ITの専門学校にいるような性格ではなかったな。
そんなことを書き込み、鍋の様子を見るともう少しで沸騰するというところだった。沸騰したお湯に塩を小さじ二杯入れ、麺を入れる。ある程度ほぐし、全体が沈み切ったタイミングでタイマーを十分にセットし、愛理の様子を見に行った。日は完全に沈み、愛理は微かな光で真剣に裏紙と向き合っていた。電気をつけ、冷蔵庫から取り出したお茶を首にあてると、とても面白い悲鳴が聞こえた。
「ちょっと、暴れますよ?」
「開口一番に暴れる宣言は勘弁してほしいかな。お茶とジュース、どっちがいい?」
「…飲めるやつですか?確認しますね」
そんなに部屋が汚かったのだろうか。友人を部屋に招く機会もなかったので気が付かなかった。冷蔵庫の中身を一通り確認した愛理は私に向かってオッケーサインを手で作り、ウーロン茶を取り出した。
「寒いので、氷なしでお願いします」
そういって彼女はまた机に向かい合い、ペンを握り始めた。部屋にはボールペンが紙を叩く音と湯が煮だつ音が響いている。
これ以上書くこともなかったので、ボールペンの筆先を引っ込め、筆箱に戻そうとしたときに、一つ思い出した。
十二月二日の夜、バイトを終えた後眠れなかったので駅の方に向かって散歩をしていた。駅に近づけば近づくほど人が増え、歩くのも少し憂鬱になって比較的静かなエリアに向かっていたはずだ。そうして駅の近く、波止場にたどり着いた。そこには確か、誰かがいたはずだ。波止場にいた人物のことを思い出そうとすると、どうしても記憶に蓋がかかるように何も思い出せなくなる。確か、歩みを進めたのだろうか。一歩ずつ近づいて行って、そして…
ピピピピ…とタイマーが鳴ったので麺をザルに移し、湯切りを行う。二枚の皿に均等になるように盛り付け、オリーブオイルとレモンソースをかける。最後に塩コショウで整え黒コショウをまぶすと、金欠パスタの完成だ。
「おまたせ、何か思い出せた?」
そういいながら組み立て式の机に皿を置くと愛理はトコトコと近づいて床に座る。
「学校の友人は美香だけでした。それでも、どうしても思い出せず…期待に沿えなくてごめんなさい」
シュンとした様子の彼女は少し俯いた。
「愛理ちゃん、こっち見て」
顔を上げた彼女の口にパスタを押し込む。彼女は驚いたようにモゴモゴ言っていたが、あきらめて咀嚼を始めた。
「美味しいですけど、いきなり口に突っ込むのはやめてくれます?喉に詰まったらどうするんですか」
至極当然なお叱りを受けて少し落ち込んだ。彼女に必死に謝り、なんとか許してもらえた頃にはパスタは少し冷めていた。
「あ、でも、少しですけど一二月二日のこと思い出せました」
パスタを口に運びながら彼女は言った。
「話しても、大丈夫です?」
私は首を縦に振り、彼女に二日のことを言うよう促した。
「一二月二日は学校でした。たしか、六限だったと思います。私は帰宅部なので他の生徒よりも早く帰れます。けれどその日はなぜか早く帰れなかったんです」
「理由はわからないの?どんな些細なことでも大丈夫なんだけど…」
「すみませんが、帰りが遅くなった、としかわからないんです。家に着いたのは十一時前だったはずです。そこからなんとなく、散歩をしました。きっと、嫌なことがあったんだと思います。惨めで、憂鬱な、そんな気分だったと思います」
「散歩には、どこに行ったの?もしかして、うちの学校のすぐ近くの波止場?」
「たしか、その近くだったと思います。でも、波の音を聞いた覚えもありませんからきっと、海までは行かなかったんでしょうね」
他人事のように話す彼女は思い出そうと左上を見つめるが、どうしても思い出せないようだ。
「私はこれだけです。あ、美香についてはやっぱりあいまいなままです」
「ありがとう、俺も学校の友達について思い出そうとしたんだけど、ちょっとあいまいなんだよね。それはそうとして、俺も十二月二日のこと少し思い出したよ」
「もしかして、夜に波止場に散歩した…とか?」
「大正解。たぶん、眠れなくて気を紛らわせようとしただけだろうね」
そこで話は終わった。パスタは完全に冷えていた。
自信作ではあるのだが、冷めると美味しくなかった。久しぶりに自炊をしたのに、正直がっかりした。
深く沈む 中西愛理
彼が食器を洗っている間に裏紙に書いてある情報を整理する。花園美香は私の友達で、一七歳。森星学園に通う女子高生で。今は普通科の二年生。頭はいい方ではなく、生粋のアホだ。色々な教え方を試したが、どのアプローチでも学力は上がらなかった。彼女は家も近く、私の家から歩いて十分ほどだ。初めて会ったのは、思い出せないが、確かいじめられてる私を救ってくれたはずだ。髪は茶髪のロング。容姿端麗で、スカウトされたこともあるようだ。だが、やかましい性格で、彼氏はおらず、年中そのことを嘆いていた。私をいじめから救ったにもかかわらず、いじめっ子たちは彼女には関わらないようにしていた。理由は…思い出した。たしか中学の頃いじめっ子のリーダーに重傷を負わせたんだっけ。私は同じ学校ではなかったからそれを聞いたのはいじめっ子たちの話を盗み聞きした時だったが、彼女は本当に強いのだと思った。だから、いじめっ子たちは彼女がいない日を狙って私をいじめに来る。美香が休みの日はいつも気が気ではない。もしまた、彼女がいじめの現場を目撃したら本当に死者が出てしまうだろう。だから私もいじめられていないと嘘をつくしかない。
「どう?あらかた整理できた?」
彼が皿洗いを終えて、椅子に座わる。裏紙を手渡されると、彼はそれを写真に収めた後、まじまじと眺めた。
「美香ちゃんって、なかなか武闘派なんだね」
「なんというか、リミッターが外れてるんですよね、彼女。筋肉が多いわけじゃないんですけど、とにかく力が強い」
彼は微笑みながら裏紙を私に返すと、今度は自分が書いたルーズリーフを写真に収めた。
「見てもいいですか?」
彼は頷きながら私に紙を手渡した。伊草達也、彼の友人なのだろう。学校の友人だったが、学校を辞めて今は夜職だと、書いている。煙草を吸う、喫煙者仲間らしい。
「やっぱり不良だったんですね」
「いや、不良じゃないけど…」
「夜のお仕事してる友達がいて、未成年喫煙、未成年飲酒をしてるなら十分不良だと思いますけど。髪も派手ですし」
そういうと彼は少し拗ねたのか、髪をくるくると指先でいじりながら加熱式煙草を手にとり始めた。
「それ、臭いやつですよね」
「あ、そうだった。気が利かなくてごめんね…外で吸ってくるよ」
そういってベランダのカギに手を伸ばした彼を制止し、部屋で吸わせることにした。加熱式煙草特有の、ひどい臭いが部屋にどんどん充満していく。美味しいのか聞くと、彼は微妙な顔をして、左手で視力検査のわっかのような形を作った。ちょびっと、美味しいらしい。
「それにしてもよくそんな臭い物吸えますね」
「最初は俺も無理だったんだけどね、何回も吐きそうになったし。正直紙煙草のほうが美味しいし、吸いやすいと思うよ」
そういって彼が時計を眺めているすきに加熱式煙草を奪い、ほんの少し吸ってみた。彼の制止を振り切り、二度ほど吸って、ひどくむせた。
「だから言ったじゃん、まずいって。大丈夫?吐きそう?」
「…吐きはしないですけど、ひどい味と臭いですね…こんな苦行を日常的にしてるんですか?」
「当人は苦行じゃないんだけどね。ともかく、愛理ちゃんは吸っちゃいけないよ。まだ、きれいなままでいなきゃ」
「自分自身は棚に置くんですね、まったく説得力がないですよ?」
「だって俺はもう十分に汚れてるからね。世の大人ほどじゃないにしろ、高校生ほどきれいな生き物にはもうなりえないよ」
そういう彼の目は焦燥を孕んでいた。彼をベッドに座らせ、腰に手を当てる。
「圭吾さんは汚い生き物じゃないですよ。肺は汚いし、部屋も汚いですけど、高潔な人間です。私、圭吾さんがいなかったらきっと野垂死んでました。駅で一人で寒い中絶望に浸って、何もできませんでした。圭吾さんが私を救ってくれました。何度も、何度も。だから、落ち込まないでください」
彼にゆっくりと、伝えた。彼は私の言葉を聞いて、少し元気になったようだ。ゆっくりと立ち上がり、風呂場に向かってお湯を貯め始めた。
「ありがとう」
その声にはもう、焦燥感は存在していなかった
この子になら暴れられてもいい




