1話:夜明けに出立する
ゴーグルを押し上げるとちりちりと砂塵が滲む。身体中に湧き出る汗が不快だ。
就業まであと2年。
それはアウルにとって余命宣告を意味した。
終業のチャイムが響き渡る。作業中の集中が途切れ、あたりは俄かに騒がしくなる。
「作業やめーーーー!」
練習機の電源を落としていないチームに教員の声が飛ぶ。
「今日の教習訓練は以上だ。チームごとに成果物の提出を忘れないように。フリオ、明日には溜め込んだ分の日誌を提出しろよ」
頭をかくフリオの周りでどっと笑い声が起きた。終業後の和やかな空気が流れ始める。
手袋を外し、アウルはそそくさと作業室を飛び出した。
ここイロア国の、鋼鉄地区と呼ばれる地域に群集する、だだっ広い製鉄所の一つをアウルは駆ける。
自転車を取りに戻る時間すら惜しい。
空気中の鉄の匂いを吸い込みながら、教習エリアを抜け、旧職員舎を目指して小走りになる。
目に入る壁はすべて古びているが、脆さとは正反対の分厚い強固さで、建造当時の信頼がうかがえる。
階段を飛ばし、屋上の扉を押し開けると、目当ての人物がそこにいた。
「レダ!」
フェンスに寄り掛かる背の高い少年が、駆けよるアウルにのんびりと手を上げる。
「まさか、来てないよな」
不安げなアウルにレダが噴き出す。
「今日は大丈夫だって、今週なのは間違いないけどまぁ明後日だろ。手違いがあったとしても2日やそこらでいなくなるわけじゃない」
レダの言葉に安心はしたが、気は抜けないままアウルが頷く。何度も手はずを確認してはいるが、計画が実行されるまで気が急いて仕方ない。
「……いよいよだ」
「ああ」
アウルの感慨深い口ぶりに同調して、レダも“外”を眺める。
イロア国の端、鋼鉄地区を囲むどっしりした防壁の向こうに、砂塵に阻まれ霞んだ地平線。
明後日、あれを、超える。
直前になっても実感が追い付かず、代わりに焦燥感がある。
「本当に残るのか、レダは」
「お前と同じ年齢だったら違ったかもな。俺は16でもうリミットだ。それにここ以外も知ってる分、お前よりは諦めもつく」
溜息交じりの、いっそ穏やかとも言えるレダの口調にアウルは頷く。
一年前にイロアの国・鉄鋼地区にやってきたレダは、明らかに異質だった。
ふつうの人間は、生まれてから死ぬまで、国を出るどころか地区を出ることもない。そんな環境のなか、他の国から来たというレダの存在に、アウルたちは当然浮足立った。しかし、他の国の情報は統制されていて一切喋れないというレダに、急速にクラスメートたちは興味を失った。本人の人を拒むような態度のせいもあるだろう、クラスメートたちの性格が悪いとも思わない。
ただ、バカだ。
アウルはそう思っている。
俺はこのままここで死ぬつもりはない。
鉄の匂いと砂埃を吸いながら、同じ色の景色を一生眺め、教わった作業を繰り返し、ただ工場の一部として死んでいくなんて、そんなつまらない人生はない。
2年前、親父さんが亡くなったときに、強く思ったこと。悲しみと喪失感の中で、小さい頃からぼんやりと抱いていた感情が強烈に蘇った。
一つの景色しか見ないでも満足する奴は大勢いる、そっちが賢い生き方だって見方もあるだろう。ただな、それで満足できない奴は、我慢したって死んだまま生きることになる。どうしたって外に惹かれるやつは、一生その夢に呪われてるんだ。
アウルが、浮浪者から聞いた旅の話を嬉々として伝えると、親父さんはものすごい剣幕をして、暮らしていけることがどんなにありがたいことか、と叱った。
イロアの国の外からやってきたユイの親父さんは、この国ではまず見ない時計職人で、旅の話をせがんでも無下に断るばかりだった。
アウルたちにも選択の自由はある。例えば学校でコース選択をすれば他の地区に移ることはできる。実際に実地作業の教習が始まってから、別の地区に移った奴もいる。僕はここでは落ちこぼれだから、もっと適性のあるコースに行こうと思うんだ、とそいつは恥ずかしそうに言った。
他国出身のレダが口を割らないと分かってからもアウルだけは諦めなかった。諦めきれなかったと言う方が正しい。
この灰色と黄土色に煙る街の中で、ここから出る方法をレダだけが知っているのだから。
しつこく接触しているうちに、教室の外では話をするようになった。
編入にあたり特別コースを修了したレダは、既に就職先も決まり2か月後の就業開始を待つばかりで、暇を持て余しているように見える。
どうせ働き始めたら嫌というほど働くんだからと、任意出席の教習に出席することは殆どない。職をあぶれた浮浪者とも関りがあるらしいと、レダの不真面目な態度に大人たちは顔をしかめるが、アウルにとっては憧れの的だった。
国と国を繋ぐ超弩級列車、ラスティング・シャイン<沈まぬ太陽>のチケットを入手できたのも、大人曰く“不良な”レダのおかげだ。先生や町内会の大人たちが知ったら腰を抜かすだろう。
もうあと二日。
緊張と興奮が入り混じってろくに眠れていない。
アウルと妹の家は鉄鋼地区の住居エリアでも外れにある。
一世帯用の住宅で手狭だが、アウルと妹には充分すぎるほどだ。
「……お帰りなさい」
ワンピースを揺らし、一つ下の妹のユイがぱたぱたと駆けてくる。
ユイは白金のショートヘアが似合う、人形のような美少女だ。大きな目と透明感のある肌は、アウルのクラスメートとも、今までに見た誰とも造りから違うような、場違いな印象を与える。空気の悪い場所ではマスクを手放せないユイだが、近所のアンナさんが工面してくれた清浄機のおかげで、家の中では美貌をアウルだけに晒している。
平均的な女子に比べ身体が強くないユイは、アウルとは別の家庭科コースに進学した。料理や洗濯などの業種に従事することを想定したコースだが、元々家事をしていたこともあって優秀な生徒であるようだ。
アウルとユイに血の繋がりはない。元々は行く宛のないユイたち親子を、町内会が親のないアウルの家に居候させていたのが、ユイの父親がアウルを息子のように可愛がり、いつしか家族になっていた。
親父さんが亡くなる前、本物の家族として支え合っていくようにと頼まれた。
兄弟同然に育ってきたのだ。言われなくてもと、アウルは憤慨した。
そんな存在であるユイを置いていくことが、引っかかりにならないと言えば嘘になる。大嘘だ。
親父さんの言葉に対する裏切りというだけではない。アウルにとっても、ユイと離れるということそれ自体が、身を切られるように辛い。今やお互いが唯一の身内なのだ。怖い夢をみた夜、どうしようもなく寂しい夜、ひとつの毛布に包まって眠ることもなくなる。
夢を叶える以上、淋しいなどと甘えたことを抜かすわけにはいかなかった。
ユイのことはアンナさんへお願いするつもりで、手紙にしたためてある。
アウルとユイが小さいころから、近所のアンナ夫妻は彼らの子供同然に可愛がってくれている。気のいいアンナさんは町内会で顔も広く、ユイの面倒ならしっかり見てくれるという確信がある。急にいなくなったアウルを心配するだろうと思うと胸も痛むが、彼女ならユイを不幸にはしないだろう。
この二ヶ月、配布された食料を天日干しにして長期保存できるように加工し、なんとかやり繰りして蓄えた食料。
なけなしの財産。親父さんの遺した頑丈な革のカバンに詰め込み、残りのスペースには水をありったけ。砂漠を行くのに最適な上着と靴をならべる。
ベッドに腰かけてその作業を眺めていたユイが、ポツリと零す。
「アウルは帰ってくるつもりだよね」
ふと思いついたのではなく、ずっと胸にしまっていた言葉を絞り出すように。
アウルの手が止まる。
「……もう、戻ってこない?」
ユイの言葉の重みがアウルの顔を歪める。
もう7年も一緒に暮らしてきて、ユイはアウルのすることに反対したためしがない。急な坂道で2輪車で競争をしようとしたアウルを止めようとして、泣いたことがあるくらいだ。
「…………俺は」
俺の夢だから、俺の勝手だから。
ユイは巻き込めない。
そう言葉にしようと思うのに、喉がつまって何も言えなくなる。
情けなくて顔を見せられなかった。
ユイの声が、決心を揺らがせる。顔を見たら、どうなるか分からなかった。
アウルは背を向けたまま立ち上がって、乱暴に電気を消した。
「……早く、寝ろ」
暗闇の中、ユイがじっとアウルを見つめる気配があったが、頑として無視を続けると、その気配もなくなった。
ラスティング・シャイン<沈まぬ太陽>は、国から国へ大陸を横断する巨大な列車である。先頭から最後尾を見通すことはできず、車両数はゆうに100を超えるという。全長だけでなくその高さ・幅も国内を走る無人の貨物列車とは桁違いで、その途方もないスケールから<移動する都市>とも揶揄される。
区域の管理人以上の階級でないと、ラスティング・シャインに搭乗することはおろか接近すら許されない。
大抵の階級がそうであるように、管理人のクラスも生まれながらに定められたもので、志すことさえできない。管理人というクラスが特殊なのは、他のクラスとの交流が禁じられている点である。
それ故に、殆どの市民は一生関わりも持たないその輝きを、月に一度ばかり眺め、皮肉を込めて<幻の竜>と呼ぶ。
若者たちの間では<竜>に乗ることさえできれば、国を出て今よりもいい暮らしができると噂されているが、実際に乗ったものがどこにもいないため、根も葉もない都市伝説の類だとされている。
アウルはその竜の話をかつて流浪人から聞いたきりだ。
決行当日。
今日の夜、アウルは町を抜け出して、外の世界へ打って出るのだ。
「なんか今日アウル、機嫌よくない?」
なるべく普段通りのテンションで出席したつもりが、そうもいかなかったようだ。目ざとい女子の一言で、にぎやかな集団にぐるりと囲まれてしまった。
「機嫌いいっていうか、そわそわしてんな」
「なんかあるの~今日?」
「お? 何それ、隅に置けませんな~」
「別に、何もないって」
殆ど生まれたときから知っているクラスメートたちだ。鬱陶しいほどのリアクションが、いつか懐かしくなる日が来るかもしれない。そう思うと、ただの放課後なのに離れがたく感じた。
「楽しそうだな」
急にレダが現れて、クラスが静まりかえった。
視線が注がれているのを感じ、アウルは急いでクラスメートたちに手を振る。それでも名残惜しく、怪しまれない程度に肩を叩いて教室を後にする。
水を差してくれなかったら危なかったと、場違いに感謝した。
いつもの屋上に移動して、トーピードカーが高温の溶鉄を運搬していくのを無言で見守る。
見飽きたこの光景も、最後かと思うと無性に寂しさを覚える。
「センチメンタルかよお、夢追い人クン」
いつにもまして胡乱げなレダが、アウルを煽るが、景色に集中するアウルの耳には入っていなかった。
「ついに、今夜だ……」
短い言葉に決意が滲む。振り返るとレダも神妙な顔をしていた。
「全部、感謝してる。ありがとな、レダ」
「ここまでしてやったんだから上手くやれよ」
「うん。元気でな」
言葉少なに最後の挨拶をかわす。
あまりに呆気ないが。その方がらしいと言えばらしい気がした。
「……お前、妹はいいのか」
別れ際に妹と口にされて、これまで必死にユイのことを考えないようにしていた自分に気付く。アウルは苛々と手を振るが、レダは畳みかけた。
「お前のチケット、あれは二人まで使える。書いてあるだろ」
「分かってる!!」
アウルは遮るように声を荒げた。
「ユイはたぶん、ここにいた方が幸せだ」
外には何があるか分からない。
慣れ親しんだここなら、問題なく暮らしていくことができる。
アウルがいなくても。
「俺はどんな目に遭ってもいいけど、ユイは駄目だ」
それだけは嘘偽りのない本心だ。
「……ふーん。妹思いのお兄ちゃんってわけだ」
レダは納得したのか、それ以上追及してこなかった。
軽く儀礼的な握手を交わす。
水分を含んだ眼球をぱちぱち瞬いて、風景を睨みつける。
「……帰ったぞ」
昨日の今日で、今朝も顔を合わせず学校へ出てしまったから、気まずさに声が小さくなる。いつもなら先に帰っていて出迎えてくれるユイの姿がなかった。
「ユイ、怒ってるのか?」
小さな家だが、声が届かないわけもない。ベッド、収納、果ては戸棚まで全てを開けて回るが、ユイの姿はどこにもなかった。
ユイは自分から、遊びに外出したこともない。通学、配給、ルーチンから外れることもなかった。
ざっと背筋が寒くなる。
昨日の会話を最後にしたくなくて、飛び出した。
「どこ行くんだい、血相変えて」
丁度アンナさんに出くわした。
「あの、ユイ見ませんでした」
「さあ、見てないね。喧嘩かい? 珍しいこともあるもんだ」
詳しく聞きたそうなアンナさんに頭を下げ、思いつく限りの場所へ足を運ぶ。
広場。スクリーンの電源は落とされており、人は少ない。
公園。猫の額ほどの広さだが、小さい頃のアウルとユイには鬼ごっこにぴったりだった。
「ユイ、どこにいる?」
クラスメートのフリオが、弟たちを遊ばせている。
「アウル、どうした?」
「フリオ、うちの妹見てないか?」
「アウルの妹、えーっと、マスクの子だよな。お前ら、見たか?」
子どもたちが首を振る。
ふいに思い出したのは、うんと小さい頃忍び込んだ、工場の組みかけの足場だった。足を踏み外しかけたアウルに、二度と来たくないとユイは泣いて、親父さんにこっぴどく叱られたんだった。
街が見下ろせる足場を探す、めちゃくちゃなスピードで自転車を漕いだ。
とっぷり日が暮れて、照明に切り替わる。
思った通り、ユイだ。自転車を打ち捨て、最速で階段を駆け上がる。
「ユイ!」
振り返ったユイは、見たことのない表情をしていた。
細い足場の先で、スカートがはためく。
「危ないから戻ってこいって」
ユイはマスクを放り投げた。音を立てずに闇の中へ消えていく。
「何やって、」
「死んじゃっても、いいんだ」
悲痛な面持ちで、こらえるように俯く。
「アウルと一緒に生きられないなら、……」
瞬間、アウルの足は考える前に動いていた。
不安定な足場だが、全身でユイを引き寄せる。抱きしめる。
驚いたユイの呼吸が耳元で聞こえる。
なんて勘違いをしていたんだ。
自分が失おうとしていたものの大きさに、今更怖くなる。
ユイの華奢な体を抱きしめた。
どくどくとお互いの鼓動を感じるうち、不思議なくらいに落ち着いて、アウルは笑い出したいような気分になった。
ユイの幸せを願うから置いていくなんて、それも勝手な話だった。
二人でいれば、なんだってできそうな気がするのに。
防壁はとっくに閉門していたが、通用口でチケットを見せる。ガタイのいいおっさんが二人を眺めまわし、繋いだ手に力がこもる。おっさんは無言で通路をあけた。通り過ぎようとする二人に、独り言のような声量で呟く。
「後悔するぞ、ガキども」
「ありがとう」ユイが頭を下げる。
「……戻ってきたら大声出せよ。こっちまで聞こえんからな」
そんな言葉を最後に、扉が閉じられる。
生まれ育った町の、国の外の静けさが二人を迎えた。
夜の砂漠には、風の音と星空だけがあった。
アウルとユイは手を取って歩きだした。
踏み出す一歩が砂に沈む。無意識に踏ん張ると一定の深さで足は止まった。そこから踏み出すためにまず足を引き上げる必要がある。砂漠を徒行するため購入したこの靴は、沈みにくいらしいがなにぶん重くてかなわない。一歩で考えるなら大したことのない労力だが、眼前の砂の海を思うと早くも嫌気がさした。
果てが見えない。
今見えている地平線の縁に立ったら、また同じ景色が続いていることだろう。まだ歩き始めたばかりだというのに、辟易する。
振り返るとまだ国の城壁は近くに見えていた。その巨大さから、進んでも進んでも大きさが変わらないようにさえ思える。
さらに夜が明けるにつれ、夜の行進がどれだけマシだったか思い知った。
暑い。
息が苦しくなったので、首回りの布を少し緩めた。日光に焼かれる手が熱い。教えられた通りの装備に身を包んではいるが、どうにも。
日射しに耐えるための厚着が、発汗量がひどい。
それなのに食料も水も限られている。
「こんなの聞いてねえ……」
悪態をつくため口を開くと否応無しに喉が渇く。大声を出す気にもならなかった。
街の中に比べれば清浄な空気だが、その分細かい砂の粒子を含んでいるためユイのマスクは外せなかった。ますます苦しそうに見えるユイに後悔しそうになり、慌てて頭を振る。
食料と水は一週間分、ある。しかしこのまま『竜』が現れないのなら、引き返すしかない。なら実質歩けるのは三日と少しだ。
冷静な部分で計算する。
このチケットに有効期限はない。もし、この機会を逃したとしても次がある。
ユイと一緒に進むと決めてからだろうか。
つらいと思ってはみても、不思議なことに後悔の念は沸いていないのだった。
これが。生まれて初めて、自分で歩いているってことかもしれない。
「っ、」「大丈夫か、」
ユイが足を取られてバランスを崩す。それを助けようとしてアウルも砂に膝を埋めた。「ごめんなさい、足が」震えて力が入らなくて、とは言いたくなくて、迷惑をかけたくなくて咄嗟に口をつぐむ。心配そうにユイを見つめていたアウルが突然笑い出す。
ユイもほどなくしてそれに気づいた。
自分の足ではなく、世界が丸ごと揺れているのだ。
二人で立ち上がり、よろよろと進む。
確信を持っているからか、足は疲労を感じなかった。
やがて、轟音とともに世界を揺らしながら、太陽のように巨大な列車が現れた。