渇きの雨音
――
――渇く。
――ああ……渇く。
……
私は、赤い天鵞絨のベッドの上で、身悶えする。
この、夏の夜。
喉の渇きで……眠れない。
……ああ。
今夜もだ。
……これは、毎夜の事なのだ。
満つる蒼き月が煌々と、まるで陽光の如く闇を照らし尽くす明々とした夜も、
その月光が暗雲の中に閉ざされ、まるで漆黒のベールで覆い尽くされたかの如き暗澹たる夜も、
嵐の如く吹き荒ぶ風が、窓を激しく揺すぶり軋ませる夜も、
夏の虫どもが、草根の中で沸き立つかの如き喧しく騒ぐ夜も、
……夜も、
夜も、
夜も……
……
そういえば……
……今夜は、雨の降る夜だったな。
しとりしとりと、地の泥の中の水溜りに、一滴一滴と、雨粒が落ちる音が聞こえてくる。
この静かな、私ひとりだけが居る寝室の中に……
ひとつ、またひとつと。
……聞こえてくるのだ。
……先程、呼び鈴を鳴らした。
侍女に、飲み物を持ってくるよう命じる合図の、呼び鈴を。
ワインか……
それとも、水か。
……どちらでも良い。
この際……もはや、どちらでも構わん。
早く、持って来い。
……早く、
早く、
早く……
……
ベッドの脇の、燭台に灯る蝋燭の薄明かりが、この暗い寝室の中を仄かに照らし出している。
……象嵌のテーブル、白磁の壷、大理石の天使像に金獅子のレリーフ……
ベッドを囲むそれら燦たる調度品たちが、ちっぽけな蝋燭の灯りによってぼんやりと、まるで暗闇によってその輝きを奪われたかに、その姿を陰影の内に浮かび上がらせている。
……
揺ら揺らと、今にも消え入りそうなその小さな灯火を呆然と、力無く眺めながら……
……私はただ、侍女がドアを叩くのを、待っている。
……
だが何故、こんなにも喉が渇くのか……?
今夜は、何時にも増して。
……渇きが、激しいのだ。
……私の治める領地内で起きている、件の事件で頭を痛めているその、心労のせいであろうか……?
……近頃、村や町に住む民どもが騒いでいるのだ。
『原因不明の病』で、次々と、死ぬ者が増えていると。
私はそれらの村や町に赴いた事も無ければ、実際にその現況を目にした事は無いが。
どうやら話によるところ、その死ぬ者とは、「男」ばかりであるそうだ。
若い男。
年老いた男。
果ては幼い少年や……
更に小さな童までもが、『病』を患い、死んでいくという。
その『病』とは、ある時突然に高熱を発し、立つ事もままならず、まるで死人の如く床に臥せるようになる。
その体は、まるで燃えるかの様に熱くなり……
だがなんと、その病床に在る者が豹変したかに狂いだし、突如として傍に居る者たちへと次々襲い掛かり始め……
そしてその首元に、喰らい付きだすというのだ。
……喰らい付く、というのは比喩ではない。
文字通り、己のその口に生えた歯で以って、人間の体に喰らい付くのだ。
その様は、飢えた獣の様であり。
……そして、血走った眼を剥き、理性も理知も失い……
己の妻や、娘や息子、そして兄弟姉妹に父や母。
赤の他人へだけでなく、自分の愛すべき家族へすら見境も分別も無く襲い掛かるその有様は、まるで古典の奇談の中に著される、生ける死者の様であると……
『病』に冒された者は、暫くそうして夜な夜な村や町の中を徘徊したのち、そして次第に衰弱し、間も無く死んでゆく。
その屍体を調べてみると……
皆漏れ無く、枯れ果てた草木の如く土気色に痩せ細り、そして骨張る程にやつれた頬のその様相は、さながらそれこそ、死者の顔貌の様であるというのだ。
……私の元へ、事の報告をほぼ毎日しに来る執事の男も、その度に青い顔をしている。
『病』に冒されるのが、次は己の番ではないかと、不安で堪らないらしい。
彼だけではない。
庭師の男も、使用人の男も、下人の男も。
私の館に仕える男たちは皆、同じくそうだ。
領内に在る男たちは皆、一様に青い顔をして……
不安の中、毎日を過ごしている様だ。
……
……私は。
私は、そんな話など、信じはしていない。
突如として発狂し、獣か……
ましてや、生ける死者の様に、人間へと喰らい付き始めるなど……
そんな馬鹿げた『病』など、これまで見た事も、聞いた事も無い。
この世にそんな『病』など、あろう筈が無いからな。
そんな奇談じみたものは、お伽話の中だけで十分だ。
私はそんな馬鹿げた話など、信じはしない。
大方……
皆、恐怖の余りに、誇大に語っているのだろう。
怖れの中、民どもの間で噂が一人歩きし、それに次第に面白可笑しく尾ひれ背びれが付くなど、よくある話だ。
私は、実際にこの目で見たもの以外、信じないのだ。
噂や作り話に惑わされ、踊らされるなど、馬鹿げている。
そんなものに係わう程、私は暇ではないのだ。
……
……だが毎日毎日、執事も、侍女たちも……
私の周囲の人間たちがその話ばかりするので、煩わしくて、堪らない。
噂や作り話に惑わされ、踊らされる者たち。
そして絶えず耳に入ってくる、聞くに堪えぬ、馬鹿げた話。
それら全てに、気が休まらず……
……頭が痛くて痛くて、堪らんのだ。
……
……もう一度、身悶えする。
渇きと、頭痛で。
ささくれ立った手と足を、掻き毟る様にのた打つ。
頭の中が腐ったかの様に、重く、痛い。
陰鬱な雨音が殊更に、私の心を沈み込ませる。
そのひと雫ひと雫ごとが、まるでベッドを沼に変えたかの様に、深く深く、私の体をその内へと引きずり込んでいくかに思える。
……見れば。
そのベッドを包む、赤く光沢を放つ豪奢な天鵞絨が、いつの間にかぐしゃぐしゃと掻き乱れていた。
……
……この私を唯一、癒してくれるもの。
この喉と同じく、渇きに苦しむ私の心の、只ひとつの潤いとは。
――あの『女』。
あの、『女』だ。
……彼女こそ……
この私の渇きを、癒してくれるもの。
……
……彼女とは、数ヶ月前のとある夜に、出会った。
今夜の様に、しとりしとりと、雨の降る夜だった。
あの夜。
館で行われた仮面舞踏会の賓客たちの中に、あの『女』は、居た。
……彼女は……
ひと際、美しかった。
黒く、まるで流水かの様に煌く、長い髪。
仮面の奥で光輝く、微かに赤みがかった、大きな瞳。
大きく開かれた、ワインレッドのドレスの胸元から覗く、真珠の様な白い肌。
慎ましやかな唇も艶やかに赤く、そしてそこから発せられる声音はまるで、小鳥の囀りの様で、それは一声で魅了されるかの様に愛らしく……
遠目からでも、彼女のその美しさは、際立っていた。
並び立つ数多くの、奢侈なまで煌びやかに飾り立てた淑女たちですら、彼女の前では霞んで見え……
装飾品など殆どその身に着けていないにも関わらず、彼女は最も、輝いていた。
私がこれまで見てきた女性たちの中でも……彼女は一番に、美しかった。
その容姿と、耳心地の良いその声に引き寄せられ、それまで周囲を囲っていた女性たちを押し退けてまで、私はあの『女』の元へ行き、その手を取った。
……そして、誘ったのだ。
まるで、一瞬にして、欲に負けてしまったかの様に。
まるで、ひと目見て、彼女の魅力に虜にされてしまったかの様に。
彼女は暗にも、まして鰾膠無く嫌とも言わず、そして多少強引に手を引く私を、少しも振り解こうとも、拒絶しようともしなかった。
それどころか嬉しげに微笑み、そして私の誘いの言葉にただひとつ頷いて、私の胸の中にその身を任せ甘える様に、頬を埋めさえしてきた。
そして私は彼女と、一晩の共となり……
そのまま私は、この赤い天鵞絨のベッドの上で、夢へと落ちていったのだ。
……
……忘れられぬ、ひと夜であったものだ。
……
そういえば……
……その夢の中で、奇妙な体験をした。
その時の私の体は、夢の中で、身動きが取れなかった。
手も、足も、顔も。
動かせず、まるでベッドの上に縛り付けられたかの様に、微塵も動けなかったのだ。
それなのに感覚だけははっきりとしていて、それは自分が目覚めているのか、それとも未だ夢の中に居るのか……
どちらか分からない程に、鮮明としていた。
夢か現実かの、そんなおぼろげな中。
……首筋に突然、何かが触れたのだ。
それは、温かく……
そして、濡れていた。
首筋を触れていくそれは、ゆっくりと、そして滑りと……喉笛、頚動脈へと沿って、這ってゆくのだ。
愛撫の様なそれは……
だがしかし、官能的で扇情的なものでは、決して無い。
それは、まるで蛇が私の首を絡め取ろうとせんばかりに、そしてその毒々しい長い舌で品定めされるかの様な……強い不快感と、そして激しい嫌悪感を覚えるものだった。
その時……
ぞくりと、背に寒いものが走る。
夢現に、ゆっくりと目を開けると……
……なんと目の前に、黒く、そして大きな『影』の様なものが居た。
ベッドに仰向けになり、身動きの取れぬままの私の上に、『それ』が跨っているではないか。
暗く、静かな寝室の中。
突然眼前に現れた得体の知れない存在に慄き、私は思わず、悲鳴を上げそうになった。
だがその瞬間。
それを察したのか、なんと『それ』は私の首筋に、突如と喰らい付いてきたのだ。
感覚で分かった。
歯を立てられたと。
鋭く尖った長い牙の様な2本の歯を、私の首へと、深々に突き立ててきたのだと。
……不思議と、痛みは感じなかった。
だが、その代わりに感じたのは……
何かが体の中から吸い出されるかの如き、言い知れぬ様な……奇妙な感覚だった。
……それまで覚えた事の無いその感覚に恐怖し、息が止まりそうになった。
悲鳴を上げそうになった声が出ず、そして相変わらず身動きも取れんままに、辛うじて、嘔吐きしか出なかった。
体が動かず、ベッドの横に吊るしている呼び鈴も鳴らせない。
私の隣で眠っているであろう、『女』の方へと手を伸ばせず、目も向けられない。
……呼吸も満足に出来ず、助けも呼べない、そんな有様のまま。
まるで捕食者に喰われる獲物の様に抵抗出来ず、私はされるがまま、ベッドの上でただ、硬直しているばかりだった。
静かな雨音の中、脇に置かれた燭台の灯火が、揺らり揺らりと揺れ動く様を……
私はただじっと、見つめるより他無かった。
……
……次に気が付いた時。
窓からは、雨上がりの薄明かりが差し込んでいた。
……いつの間にか、朝になっていたのだ。
私は、はっと目を開ける。
……それまで目の前に居た、あの『影』は……
まるで朝の陽光に溶けてしまったかの様に、最早そこから、消え失せていた。
それだけではない。
……横を見ると、共に寝ていた筈の、『女』が居ない。
彼女もいつの間にか、そこ……
私の傍らから、居なくなっていたのだ。
慌てて部屋の中を見回すが。
だが、しかし。
……『女』の姿や形は、どこにも、在りはしなかった。
夜の中で見た恐怖に息も絶え絶えであった私は、額に噴き出ていた汗を拭う。
震える手で恐る恐る、首筋を、手で擦る。
……しかし、鋭く歯を突き立てられた筈であるのに、なんとそこには出血も無いどころか、傷跡すら残っていなかった。
……暗闇の中に見た、あの『影』は……
果たして一体、何であったのか……?
あれは悪夢か幻か、それとも、現実だったのか。
曖昧な意識と朦朧とした思考の中、そのままベッドの上で、暫し呆然としていた。
直後、僅かに喉の渇きを覚える。
兎も角、私は寝室を出ようと、ドアを開けようとした。
……その時、仰天した。
ドアの内鍵が、掛かったままだったからだ。
そんな筈は無かった。
室内に居る者でしか、この鍵は掛けられない。
……『女』が部屋から出て行ったのであれば、この鍵は必ず、開錠されている筈なのだから。
他に出口は無い。
このドアが唯一の、寝室の出入り口だ。
……私は、そのままその場で、立ち尽くした。
まさか。
あの『女』も、夢か、幻であったというのか……?
一体、どこからが夢で、どこからが現実であったのか……
……
だが。
……どちらでも、良い。
彼女と出合い、そして共に過ごしたあの夜は……
私にとっては、忘れ得ぬ、大切な記憶だからだ。
……彼女の、あの愛らしい声。
彼女の、あの美しい黒い髪と、赤い瞳。
……そして、あの白い柔肌の温もりは……
確かにあの夜、私のこの胸の中に、抱いていた。
あの夜からそれきり、彼女の姿を見てはいないが。
それは今でも、私の渇いた心を潤してくれる、只唯一の、癒しなのだ。
……私は、実際にこの目で見たもの以外、信じない。
只一度きりの触れ合いであったが。
数ヶ月前のあの夜から今に至るまで、記憶の中に想い焦がれ続けているが。
しかし、あの姿はこの目に焼き付き、離れる事は無い。
彼女は確かに、私の胸の中に、居たのだから。
……
……
だが……
……喉が……
渇く……
……体が……
熱いのだ……
……
……この渇きは、ワインを飲んでも、水を飲んでも、癒される事は無い。
日に日に、この渇きは、激しくなる一方だ。
……
水溜りを叩く、この雨音が。
窓に流れ落ちる、この雨粒が……
……憎い。
憎くて、堪らんのだ。
すぐそこに、水が在るのに。
しとりしとりと、窓と壁を隔てた泥濘に、水が在るのに。
それを口にするのを、出来ん事が……
……
……侍女は、まだか……
早く、
早く、
……早く、水を、持って、来い。
……
――
――持って来い!
早く。
早く!
――早く!!
……私は、もう一度、呼び鈴を鳴らす。
けたたましく、激しく、力任せに……狂った様に。
終いに、鈴を鳴らす紐が、引き千切れた。
私は苛立ち、それを、床に叩き付ける。
先程から、雨音が激しくなっている様な気がする。
ザアザアと、音が聞こえてくる。
それが更に、私の心を渇かせ、そして逆撫でするのだ。
……熱い。
熱くて、堪らんのだ。
この、夏の夜のせいであろうか?
……渇き、そして……
熱い。
……
……何かが。
何かが……おかしい。
乱れた赤い天鵞絨のベッドから、とうとう力無く身を起こし、そして私は暗い寝室の中を、まるで檻の中の飢えた獣の様に、徘徊する。
……
視線を感じ、足を、止める。
……
……ぼんやりと、白く暗闇の中にその姿を浮かび上がらせている、大理石の天使像が。
……この私を、じっと見ていた。
……
私を見るな。
……
……私を、見るな。
……
……私を……
……
――私を、見るな!!
――
像を、床へと叩き付ける。
……
もの言わぬ、その沈黙する、白い視線。
……
……何故だか……
何故だか……私はそれに、堪え切れなくなったのだ。
……その白い視線が、何故だか、私の心を言いようも無く怯えさせ……
まるで銀の刃の様に深々と抉り、刻み込み……そして烙印の様に、焼き付けてくるのだ。
……
雨音が……
まるで足音の様に、こちらへと迫ってくるのを……感じる。
……
その時だ。
――『コンコン』
……ドアを、叩く音。
「旦那様。お飲み物をお持ちいたしました」
ドア越しに、若い侍女の、声。
「……」
私は応えず、叩かれたドアを、睨みつけていた。
「旦那様。失礼いたします」
ノブが回り、そしてドアが開かれる。
「お待たせいたしまして、大変申し訳ございま――」
寝室に入ってきた侍女が言いかけた。
……そして……
私の顔を、見た時だった。
「……き、きゃああああーっ!!」
突然、彼女が悲鳴を上げた。
……?
……どうした?
どうしたというのだ。
私が彼女へ怪訝に思う、その目の端に。
寝室の隅に据えられた化粧台の、鏡が見えた。
……私の顔が……
一体、どうしたというのだ……?
化粧台の鏡に、目を向ける。
……
……なんだ……
なんだ……?
これは……?
見た途端、私は凍りついた。
……
その鏡に映ったもの。
それは、
死者の如き様相の、
……私の、顔だった。
真っ赤に血走った、両の目。
痩せ細り、骨張る程に、やつれた頬。
土気色に顔色は変色し……
……これはまるで、屍体の様ではないか。
仄暗い寝室の中に灯された、蝋燭の僅かな光に照らし出される、私のその顔。
……それはおおよそ、生者の顔とは思えなかった。
まるで、私は……
……生ける死者……
……
……その時、私は思い出した。
執事から煩わしいまでに、毎日の様に聞かされる……例の、『病』の事を。
……私の顔は……
その『病』に冒された人間の、外的な特徴と、全くもって……
……同じでは、ないか……?
……
私はゆっくりと、侍女へと向き直る。
彼女は声も出ぬまま、がたがたと肩を震わせ、そして足が竦み上がっている様で、恐怖の余りにその場から動けなくなっていた。
当然だ。
……生ける死者と面を真っ向から合わせ、恐れ慄かぬ者など、居る筈も無いからな。
彼女の震える、その手にしている盆の上に乗せた、赤ワインのボトルが零れ落ちそうになっている。
……
……赤いワイン。
……
……赤い……液体……
……
先程から、雨音が激しくなっている様な気がする。
ザアザアと、音が聞こえてくる。
……
だが、この音は。
……
……雨音では、ない……
……
侍女と面を、真っ向から合わせた瞬間。
……はっきりと、今、分かった。
……これは目の前の、
侍女の肉体の中の、
血の流れの音で……あったのだ。
それだけではない。
執事、侍女、庭師、使用人、下人。
……この館中に居る、全ての人間の体内の、血の流れる音が。
いつの間にか、私の耳に……聞こえてきていたのだ。
……
渇く。
渇く。
渇く……
……
若い肉体の中に流れる、温かい……血。
……
それを認識した瞬間。
……はっきりと、今、分かった。
……私は……
ワインでもなく。
水でもなく。
……
……血が……
この血袋たちの……血が。
……血が、欲しいのだと。
……
……
次の瞬間。
私は、侍女の首筋に、喰らい付いていた。
……
……
……渇く。
……ああ……渇く。
――
――チが、ホしい。
――アア……チガ、ホシイ。
【了】
……夏の「熱い」夜に、ご用心。