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確定申告地獄

作者: さば缶

 深夜の蛍光灯は血走った瞳のように点滅を繰り返し、薄暗い部屋全体にじとりとした湿度をもたらしていた。

机の中央に鎮座する山積みの書類――売上台帳、仕入台帳、経費精算書、源泉徴収票――その一枚一枚が、まるで腐った皮膚を剥がすような嫌な音を立てて擦れ合っている。

見れば見るほど、吐き気を催すほどの不快感がこびりつき、確定申告という名の魔物が蠢いているのがはっきりとわかった。


 怖気づきそうになる心を押し殺し、俺は重い手つきで「売上」のページを開く。

瞬間、ページの隙間から蛇の脱け殻のようなバランスシートが這い出してきた。

その紙片がずるずると引き伸ばされ、俺の足元へ落ちるまでの間、まるでミミズの群れが床をのたうち回るような不快な音が響く。

目をやれば、貸借対照表の文字が血の刻印のようににじみ出し、資産の部と負債の部が、切り裂かれた傷口のようにいやらしくうねる。

更に深層から飛び出してきた「売掛金」と「未収入金」は血走った眼を向け、俺の鼓動に合わせて脈動しながら睨みつける。


 「頼む……やめてくれ……」

小声でそう漏らすと、売掛金と未収入金は不気味な笑いを含んだかのように触手へ変形し、俺の首へ絡みついてきた。

ぬるりとした感触が皮膚を蝕み、酸のような痛みが広がる。

ここで逃げ出したら、もっと深い闇に呑まれるとわかっているのに、頭の中は計算が雪崩を起こしてまともに整理できない。

渾身の力で鉛筆を握り、必死に数字を書き込もうとするが、どこからか冷たい指先が手を押さえつけるような感触に戦慄が走った。


 「ひっ……」

息がうまくできない。

そんな俺を嘲笑うかのように、経費の分類が濁った泥水のように次々と湧き出る。

「租税公課」「荷造運賃」「水道光熱費」「接待交際費」……文字の端々に膿のような液体がこびりつき、地底から這い上がる怨霊のうめきが同時に聞こえてくる。

項目を間違えれば、あるいは漏らせば、一瞬で破滅へと転がり落ちることは明白。

だというのに、今度は血塗れの領収書とレシートがそれぞれの勘定科目に吸い寄せられるように浮遊し、鋭い爪を立てて俺に迫ってくる。


 「領収書を出せ……書け……すべて書け……」

耳元で囁く冷たい声はまるで亡者の恨み節のようで、その直後、レシートの束がどさりと落ちて机を揺らす。

一枚を拾い上げると、赤黒い液体がふちから垂れ落ち、手に当たった瞬間、生暖かい嫌悪感が肌を犯す。

「株式会社クリムゾン会計 ソフトウェア導入コンサル 300,000円」

「AA興業 クライアント先訪問時の交通費 タクシー代 1,800円」

「有限会社セピア商事 文房具購入 ノート5冊 600円」

どの文字も生々しく脈を打ち、ひとつでも帳簿に書き落としたら、文字通り生きたまま地獄に突き落とすと言わんばかりに獰猛な牙を剥く。


 脳裏が悲鳴を上げる中、さらに巨大な波のように経費の魔物たちが襲いかかる。

「ちゃんと仕分けしろ……すべて忘れずに……」と渦を巻く声が頭の中でビリビリと反響し、新たなレシート群が奴らの触手となって俺の首や腕を掴んでくる。

「株式会社グレイフロント 交際費 取引先接待用フレンチディナー 24,000円」

「株式会社ビターペン 文具代 ボールペン(赤青黒)各10本 3,600円」

「株式会社メトロ通商 交通費 地下鉄B線往復 420円」

一枚一枚に印刷された数字は朽ちた牙のようにギザギザと目を刺し、肩に重りをかけるようにのしかかる。


 突然、ドアを叩き壊すような轟音が響いたかと思うと、真っ赤な液状と化した「控除」の文字が部屋に洪水のように押し寄せてくる。

「医療費控除」「住宅ローン控除」「基礎控除」「配偶者控除」……まるで内臓をぶちまけられたかのような色彩で床を這いずり、ぐちゃぐちゃと嫌な音を立てる。

書類を確認しなければならないとわかっていても、そのあまりにおぞましい煩雑さに脳髄が悲鳴を上げる。

目が回りそうなほど多岐にわたる控除額、そしてどの書類を添付すべきか。

いっそ目を瞑ってしまいたい……だが、そうしたら最後、本当の悪夢が始まる。


 控除内容の書類を調べようと頭をかきむしると、背後からダンボール箱が崩れ落ち、下敷きになりかける。

中から飛び出した大量のレシートがまるで大量の蛆虫のように床を這い回り、俺の足元に貼りついてくる。

「○月○日 ドラッグストアヘルスライフ 医薬品 1,200円」

「△月△日 処方薬局メディカルドア 薬代 580円」

……その文字がうねるたびに、ささやき声で「経費か控除か……どっちにする……」と揺さぶりをかけてくる。

一瞬でも判断を誤れば、税務当局という巨大な断罪者が牙を剥くことは火を見るより明らか。


 意識が混乱し、手が痺れてきた。

一年前に味わった追徴課税の悪夢が脳裏を苛む。

あの時は領収書の金額を一桁記入し間違えただけで、皮膚をはいでいくような罰を受けたのだ。

だが今回の地獄は、あの頃とは比較にならないほど生々しく凶悪だ。

経費科目が粘膜のように融合しながら唸り声を上げ、「支払手数料」「減価償却費」「租税公課」「雑費」「通信費」……ひとつひとつが俺の精神を削ぎ落としていく。


 追い打ちをかけるように、巨大化した「バランスシート」が壁を突き破る勢いでうごめき出した。

肉塊のように隆起した資産と負債が血塗れの塊となり、「純資産」の口が限界まで開いて深い闇を吐き出す。

その闇の中には「貸倒損失」「減損損失」といった腐乱死体じみた文字が狂気のように脈動し、化膿した傷口から膿を垂らすかのごとく現れては消える。

「こんな作業……やってたまるか……」と泣きそうになりながらも、ペンを投げ出したら最後、魔物たちの餌食になるのが目に見えていた。


 「バランスシートを鎮めるんだ……」

そう自分に言い聞かせる。

これを完了させなければ、税務署という地獄の処刑人が俺の存在を消し去るだろう。

どこからか幻聴のように「この貸借差額を説明しろ……」という声が聞こえる。

背筋が凍え、指先から冷や汗が噴き出す中、俺は勢いでペンを握り込んだ。


 机の隅にはまだ薄汚れた領収書が無数に散らばっている。

「オフィスサプライユニオン A4コピー用紙500枚 650円」

「有限会社モーニングトラベル バス代・取材移動費 210円」

「喫茶ブロンズ 来客用コーヒー豆 2,000円」

……どれも些細な金額だが、一歩ミスすれば猛毒となって襲いかかる。

見誤れば経費不備の亡霊に取り憑かれ、再び黒い手が俺の喉元を絞め上げる。


 時計は午前2時を示し、唯一の相棒である電卓さえ、血濡れた瞳で俺を睨んでいるように感じた。

「眠ったら死ぬ」――そんな叫びが頭にこだまする。

ここで目を閉じたら最後、書類たちは俺の意識を食い破り、悪夢の中で永遠に彷徨うだけだ。

追い詰められた俺は、闇雲にペンを走らせながら、一枚一枚の領収書を数字と照合して記帳し、経理ソフトにも入力していく。

全て正確に記入しなければ命はない。


 「終わる……終わらせる……」

虚ろな声が部屋に反響し、どこか奥底で不気味に笑う気配を感じる。

そこへひときわ大きな塊がせり出し、紙面がぬめりと崩れて「固定資産税」の文字が姿を現す。

その文字は他のどれよりも重量感を帯び、まるで断罪の鉄槌のように振り下ろされる。

味方など存在しない。

経費にもならない固定資産税の恐怖が、俺の心をこじ開けようとする。

だが、ここを乗り越えない限り、終わりは来ない。


 意を決し、赤ペンを手に取り、バランスシートの空白に固定資産税を書き込む。

紙が悲鳴を上げてひび割れるような音と共に、黒い液がじわりと広がっていくのを感じた。

あの巨大な口がゆっくりと閉じ、断末魔の声と共に少しずつ静寂が戻ってくる。

戦慄の衝撃に膝が笑いそうになるが、俺は歯を食いしばって崩れ落ちるのをこらえる。


 急いで他の領収書へ手を伸ばし、経費や控除をまとめる。

医療費控除、配偶者控除、細かな条件に誤りがないかを丹念に確かめ、歯を食いしばりながら書類をそろえる。

血と汗と涙と胃液が混ざったような苦しみを味わいつつ、全てをまとめあげたとき、プリンターが甲高い叫び声を上げて書類を吐き出した。

手に取れば、まだ生々しい熱を帯びたその紙には、数字が整然と並んでいる。

あれほど蠢いていた怪物どもは嘘のように静まり返ったまま動かない。


 「終わった……」

頬を伝う液体が汗なのか涙なのかもわからない。

肩を落とした瞬間、背後でパタリと大きな物音がしたが、振り返る気力すら残っていない。

意識の片隅では提出期限が迫っているのを知っている。

もし遅れれば、待ち受けるのはまた別の血塗れの処刑人。

俺は白けた瞳で書類を封筒に詰め、呆然と立ち尽くす。


 そうして封をしながら、自嘲するように思った。

「来年も……これを繰り返すんだよな……」

あの悪魔たちが再び甦り、地獄の入口で待ち構えている光景が脳裏をよぎる。

確定申告という業の深い呪いから逃れる術はない。

無理に逃げようとすれば、税務署の鞭が俺の存在を容赦なく叩き潰すだろう。


 息をのみ、レシートが散乱した床を眺める。

血にまみれた紙片がか細い悲鳴を上げているかのようで、視界が揺れる。

「二度と見たくない……」と心の奥で繰り返すが、その言葉がむなしく反響するだけだった。

やがて薄明かりが差し込み、長かった夜が終わりを告げる。

だが、俺の中ではこの悪夢が決して消えることはないのだろう。


 よろよろと立ち上がり、半ば死んだような足取りで玄関へ向かう。

腕の中の封筒がやけに重いが、これを税務署に差し出さなければ救われないのも事実。

最後に一度、書類の山を振り返ってみたが、そこには言い知れぬ殺気がいまだ漂っている。

俺は引きつった笑みを浮かべ、掠れた声で独り言を呟いた。

「また一年後……きっと……地獄の再来だ……」


 その瞬間、書類の山の奥深くから、何かが嗤うような音が聞こえた。

だが俺は耳をふさいだまま、扉を開けて外へ踏み出す。

生きるための義務を果たしに行く、その足どりは重く、背には冷たい汗がまとわりついていた。

こうして、確定申告という名のスプラッタホラーはひとまず終息を迎える。

しかし、その赤黒い爪痕は俺の精神に深く刻まれ、来年まで腐り続けるのだろう。

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