トイレの彼女に消しゴムを
トイレの花子さんとは、学校のトイレに出現する少女の霊体及びそれに伴って発生する現象の総称である。
とある日の放課後。生徒たちの活気にあふれる昼間とは異なり、教室は静寂に包まれていました。そこに差し込む夕日が、もの悲しさを一層強めていました。そんな教室に一人残っている少年がいました。
少年には悩みがあり、今日こそはそれを学校の誰かに相談しようと思い立っていたのですが、いざ学校に着いてみると上手く話せず、決心もつきませんでした。そんなこんなで、こんな時間になっても相談するべきか否かということを悩んでいたのでした。考えが一向にまとまらない少年はすっと席を立つと、教室を出てトイレに行きました。廊下を歩く間も、通り過ぎた教室にも人の姿はありませんでした。
部活動をしている生徒と少年以外は皆帰ってしまい、この校舎には残っていないはずなので、当然、トイレの中には誰もいません。無人で静寂に包まれたには、先ほど感じたもの悲しさから一変して不気味な雰囲気が漂っていました。
少年は用を足す間、考えに耽っていました。
――何か……よく分かんないな。どうでもいいような事は簡単に口に出せるのに、どうして本当に話したい事ほど言いにくいんだろう。どうしてこんなに、僕は意気地無しなんだろう。
用を足し終えても、少年は少しの間便器の前に立ち尽くしていました。そして、帰るのが遅くなってはいけないから、ということを言い訳にして今日は帰ることにしました。
手を洗っている間も少年は考え事をしていました。帰る、と先程決めたばかりにも関わらず、まだ気持ちが揺らいでいるようでした。と、その時、一番奥の個室から物音がしました。今まで気が付かなかったけれど、まだ他に誰かいたようでした。少年は声をかけてみようと思いましたが、声は思うように口から出てくれません。しばらく待ってみても、もう物音一つしません。気のせいだったのだろうか、そう思い再びトイレを後にしようとした時、少年はある話を思い出しました。
トイレの花子さん――夕暮れ時、三階のトイレの一番奥の個室に現れるという幽霊の話。
「花子さん……なの?」
少年がそうつぶやくと、少女の笑い声が響きました。無邪気で、小さいながらもよく聞こえるその声は、やはり一番奥の個室から聞こえてきました。怖くなった少年は急いで逃げようとしましたが、足がすくんで動くことができません。
次第に大きくなる笑い声とともに、個室の扉がゆっくりと開きました。見たくない。見てはいけない。そう思っていても、視線は扉の方へ引き付けられていました。中からは、白いブラウスに赤いスカート、そして長い黒髪の少女が出てきました。
「うわー! で、出た!」
不気味な笑みを浮かべる少女はゆっくりと近づいていきました。想像と違う花子さんの様子。得体の知れない恐怖から少年の背筋は凍りつきました。慌てて逃げ出そうと必死に足を動かしましたが、上手く動かず、尻餅をついてしまいました。手を伸ばせば触れられそうなところまで花子さんは迫っています。
――もう、逃げられない。
「さあ、一緒に遊びましょ」
「えぇ……トイレで遊ぶなんて嫌だよ! つまんないし、男子トイレはいつも汚いって怒られてるもの! さっきだってトイレットペーパーの切れ端が落ちてたし……」
少年は目に涙を浮かべながら、自分でも何を言っているのかよく分からないことを口にしてました。すると、花子さんの動きが突然止まりました。顔からも笑顔が消え、何かをつぶやいています。少年が不思議に思っていると、花子さんの顔が少しずつ赤く染まりました。
「い、いやあぁあ! あんたが名前を呼ぶから思わず出てきちゃったじゃない! ここ男子トイレなのにぃ! 一生の不覚だわ……全部あんたのせいだからね!」
突然目の前で取り乱しだした花子さんに少年は呆気にとられました。今にもこぼれそうだった涙も引っ込んでしまい、残る涙を拭いながら少年は尋ねます。
「本当に花子さんなの?」
「ええ……そうよ」
花子さんはぶっきらぼうに言いました。想像とはだいぶ違っているけれど、目の前にいるのは確かに花子さんだということに、少年は目を輝かせました。
「だったら、僕の願いを叶えてよ!」
「……は?」
先ほどまで怖がっていはずなのに、今は打って変わってとても嬉しそうな様子の少年。そして、「願いを叶える」という馴染みのない言葉が飛び出たことに、今度は花子さんが呆気にとられてしまいました。そんな花子さんを気にも留めず少年は話を続けました。
「願い事って確か一つだけだったよね。あ、そういえば消しゴムを――」
「ちょ、ちょっと待ちなさい。何なのよそれ」
花子さんは彼の話を遮るように言いました。少年は驚き、話を止めました。暫し時が止まり、二人の頭の中にいくつも疑問符が浮かびました。
先に口を開いたのは少年の方でした。
「え? もしかして、花子さんの話知らないの? 三階の――あ、ここは二階だけどね。トイレの一番奥の個室に現れて、消しゴムを七つ渡すと何でも願いをかなえてくれる……ていう」
「な、何よそれ、そんなの聞いてないわよ! 大体どうして消しゴムを渡すのよ! トイレで消しゴムなんて何の役にも立たないじゃない! ていうか七つもいらないわよ!」
花子さんがひとしきり叫び終えて気が付くと、少年の姿は消えていました。彼女は不思議に思い声を掛けてみますが、返事はありません。しばらくして彼女が元の世界に帰ろうとしたとき、少年は両手を握りながら、軽い足取りで戻ってきました。
「どこにいっていたのよ。別に、どうでもいいけど。残念だったわね。あなたの願いは叶えられないわ。だって消しゴムがないもの」
「あるよ。取りに行っていたんだ」
少年が握っていた両手を広げると、そこには丁度七つの消しゴムがありました。
「あんた、学校に七つも消しゴムを持ってきているの?」
「うん」
「変なの」
「変じゃないよ。筆箱を忘れちゃったときに使ったり、忘れちゃった人に貸したりするためだよ」
口を緩ませながら答える少年の言葉に、花子さんは呆れたようにため息をつきました。
「予備と合わせて二つ――多くても三つで十分じゃないの。忘れた人なんて自己責任だわ」
「いや、でも――」
「そもそもあんた、消しゴムを他人に貸したこと、あるの?」
少年は両手の消しゴムに目を落としました。普段から使っているらしいものは幾分か小さくなっており、一つは角が丸く削れていますが、その他の物は削れた角一つなく、さながら新品同様でした。
消しゴムを見つめたままじっと黙っている少年から目を離すと、花子さんは窓を少し開けて外を懐かしむように眺めていました。開かれた窓からはそよ風が吹き込んできます。
「それに、消しゴムがあったところであなたの願いは叶えられないわ。私は元々そういう存在ではないから」
「願い、叶えてくれないの?」
花子さんはただ頷くだけでした。少年は一言、そっか、とだけ呟くと肩を落として廊下に出ていこうとしました。
「ちょっと! 何も言わずに帰るつもり?」
花子さんは立ち去ろうとする少年に向かって問いかけました。少年は背を向けたままで答えました。
「だって、願いを叶えてくれないんでしょ? だったら、もう……」
「私は学校の怪談の最強格なのよ? 会えただけでも少しはありがたく思いなさい! それから、あんたの願いとやらを教えなさいよ」
少年はきょとんとした様子で、とぼとぼと歩いて戻ってきました。
「やっぱり叶えてくれるの?」
「バカね。ただ気になるだけよ」
「そうなんだ……まあいいや。話すけど、笑わない?」
花子さんは真剣な眼差しでうなずきました。少年は小さな笑みをこぼしながら話し始めました。
「僕さ、友達が欲しいんだよね」
「ふーん、あんた友達いないの? それなのにこんな時間まで一人で残ってたの?」
「それは……とにかく、よく分からないんだ。これまで自分から人と距離を縮めたことなんて無いから、どうすれば友達ができるのか分かんないんだよ。優しくしてくれる人はいるけど、それが友達なのかも……親切にすれば一人ぐらいはできるかなって思ってるんだけど……」
花子さんは少年の話を聞きながら、昔の事を思い出していました。それは花子さんが人間だったころの記憶でした。
小さいころから明るく活発だった彼女はクラスの人気者でした。ある年、あまり馴染みのない子と同じクラスになりました。大人しくて、喋ることも笑うことも少ない子でした。花子さんは、その子と仲良くなって笑わせたい、と思うようになりました。自分たちのグループに誘ってみたり、友達にやっているようにいじってみたり、ちょっかいをかけてみたり……。
そんなある日、その子は学校に来なくなってしまいました。心配する彼女の耳に入るクラスメイトの声――不登校、あいつがやった、いじめ――。彼女は、自分でも分からぬうちにいじめの主犯となっていました。それからほどなくして、その子は自ら命を絶ったのです。その日からクラスメイトたちは自らの罪から目を逸らし、彼女一人を悪として冷たく当たるようになりました。
彼女は長く独りの時間を過ごしました。彼女にはもう、以前の明るさはありませんでした。独りでいる間、どうしてこうなってしまったのかをずっと考えていました。気が付いたことは、自分がしたことは何一つ彼女の望みでは無かったのだろう、ということだけでした。
謝りたいけれど、あの子はもういない。ただ、一緒に笑いたかっただけなのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう。
そして、彼女もまた――。
「あの……聞いてる?」
少年の呼びかける声で花子さんは我に返りました。少年は不安げな顔で花子さんの顔を覗き込んでいました。花子さんは少年を押し返しながら答えました。
「え、ええ。聞いてるわ」
「それで、友達が欲しいなって思ったんだ」
少年が話し終えると、沈黙の時間が流れます。その沈黙を破るように花子さんは話し始めました。
「親切にすれば……って、結局自分のためなんじゃないの?」
「いや、そんなつもりじゃ……」
「あんた、期待しすぎよ。大体、あんたの親切は友達でも良い人でもないわ! 周りの人にとっては、ただの都合のいい人でしかないから」
自分があの子にしてしまったこと、自分があの子にするべきだったこと。悲劇を生んだのが自分のための親切心であったことを、花子さんはずっと後悔していました。だからこそ、この少年には自分だけでなく、誰かに心を向けられるようになってほしい。花子さんはそう思っていました。
「今のあんたは、自分が一番大事なのよ。あんたが人と距離を縮められないのは、ただ傷つきたくないだけでしょ? 他人の優しさにも向き合わないで不幸アピールなんて反吐が出るわ! それで私に会ったら私の力を頼りにするなんてね。はっきり言うけど、あんたは卑怯者よ」
「言われなくたって分かってるよ! 僕だって、ちゃんと皆と話したり一緒に笑ったりしたい! でも怖いんだ……。本当の僕が、皆の思うような奴じゃないって知られたら、嫌われるかもしれない……」
少年の目からはいつの間にか涙が溢れていました。自分の思いを伝えたいばかりに思わず口調が強くなってしまったことを、花子さんは少しだけ後悔しました。それでも、花子さんはその態度をやめようとはしませんでした。
「勘違いしているようだけど、友達っていうのは、相手の良い所も悪い所も知っていて、それでも一緒にいたいと思うものなのよ。あなたのように、良い部分だけを見せようとする人は嫌われなかったとしても、本当に好きになっては貰えないわ」
先程の激昂した声とは違い、静かな川のように穏やかな、けれども意思のこもった声で花子さんは訴えました。
しばらくうつむいたまま黙っていた少年は、涙を拭うと花子さんの顔を真っ直ぐに見据えました。
「僕、頑張ってみる。嫌われるのはまだ怖いけど、皆からも自分からも逃げないよ。本当の僕を知っても僕のこと好きになってくれる人、いると思うから」
少年はそう言うと、泣き腫らした目で笑顔を捻り出しました。
花子さんは、その答えに対して何かを納得したように息を吐きました。口元は相変わらず不愛想な様子ですが、目元は幾分か和らいで微笑んでいるようでした。
「そ、だったら話は終わり。もうじき暗くなるし、さっさと出ていきなさいよ」
花子さんの言う通り、窓の外では空が暗くなり始めていました。少年はうなずくと、おもむろに廊下へと歩き出しました。ふと立ち止まると、花子さんの方へ振り返りました。
「ありがとう」
「な、何よ。別に大した事してないわよ。それから……」
花子さんは次第に口ごもると、少年に背を向けました。そして、少しの間をおいて、再び口を開きました。
「ともだち……なってあげてもいいわよ」
花子さんは自分の顔が熱くなるのを感じました。そして、少年からは見えていないと分かりながらも、両手で顔を覆いました。
「ほんとに? あ、幽霊の世界に連れていくとか、永遠にトイレで遊ぶってことじゃ……ないよね?」
「誰がそんな事するのよ。大体、あんたの為じゃないわよ! 願いを叶えられない――怪談が嘘だって思われたくないだけなんだから! ……全く、おかしな話を付け加えたのは誰よ」
少年は口に手を当ててくすくすと笑いました。その後、花子さんに手を小さく振りました。
「じゃあ、バイバイ」
少年はそう言い残して去っていきました。花子さんはその背中を切なげな眼差しで見つめていました。その姿が見えなくなる寸前、少年は何かを思い出したような様子で再び戻ってきました。花子さんは少年を不思議そうに見つめました。少年は花子さんの手を取ると、何かを握らせました。手を開いてみると、そこには新品の消しゴムがありました。
「いらないわよ、バカ!」
「まあまあ、そう言わずに。お礼に、と思ったんだけど……いらないなら、今度会ったときに返してくれればいいよ」
花子さんは嫌々受け取る素振りをしましたが、心の奥では安心していました。少年が自分の願いを叶えるためではなく、彼女のために消しゴムを渡そうとしていることに気が付いたからです。偽りの優しさで隠されていない、本当の少年の心。花子さんはそれを受け取りました。
「それじゃ、またね」
少年はもう一度手を振ると、今度は振り返ることなく去っていきました。
花子さんは手の中の消しゴムをそっと握りしめると、沈む夕陽と共に消えていきました。
伝わりにくかったらごめんなさい。
お疲れさまでした。
ありがとうございました。